選ばれた女

伊藤一六四(いとうひろし)

選ばれた女

 地下鉄のドアがばあっと開かれ、会社帰りの人々が疲れた首を乗せてホームに雪崩れ込んでくる。

「なんば、なんばです。毎度ご乗車ありがとうございます。降りる方を先にお通し願います。この電車はなかもず行きです」

 下車する人の流れが途切れてから、私は左肩にかけた黒いショルダーバッグを右手で握り締めて、緊張の面持ちで乗り込み、入口のすぐ左側の席に腰掛ける。

 私まだ2回生なのに何でリクルートスーツなんか着なきゃ行けないんだろ。おかっぱにスーツなんて余計似合わないよぉ。自分でも身についていないのが分かっちゃって、余計に他の乗客の目が気になる。

 バッグの端を握っていた右手を解き、白い手袋を取っててのひらを見てみると、汗がにじんでいる。指先が震えてもいる。この電車、冷房効いてないんじゃないの。それに空気もやたら薄く感じる。すう、はあ、と意識的に深呼吸してみるが、苦しい。苦しい。何か胸に鉄球みたいなものが埋め込まれているみたい。

「大国町、大国町です。四つ橋線は、お乗り換えです」

 電車は次の駅に停まり、私の目の前に立っていた中年のリーマンの一帯が降りていったので、向かい側の席が見通せるようになる。

 二十代後半の男と、私と同世代の女のカップルが座っている。

 電車が再び走り出す。

 男は黒いTシャツに皮のズボン、髪を肩まで伸ばしていてやや脱色気味。両手の指に高そうな銀色のアクセを何個もつけ、右手を傍らの彼女の右肩にかけて、ずっと何かを耳許で囁いている。

 その彼女。ぱっちりとした大きな瞳。高い鼻。艶っぽい唇。メイクで完璧に整えられた白い肌。タイトなキャミソールから溢れんばかりの肉感的な肢体。つやつやと光る栗色の長い髪が、なまめかしくうごめく彼の指にもてあそばれている。

 彼女を一見して、私は言い様のない不快感を覚えてしまう。同世代で、何でここまで立場が違うんだろう。私はこんなに他人の目を気にして卑屈になって座っているというのに、彼女は何であんな堂々と悦に入った態度で恋人とイチャついてるんだろう。

 良く見ると……のめり込んでいるのは彼だけのようで、彼女の仕種には何処か、軽くあしらうような余裕が感じられる。表情一つ見ても、彼の方は目を細めてとろとろの笑顔を浮かべているというのに、彼女の目は至って冷静に周囲を走っている。

 その視線を、不意に私はまともに受け止めてしまう。

「動物園前、動物園前。堺筋線、阪堺線は、お乗り換えです」

 私たちの間を何人も乗降客が行き過ぎていくというのに、彼女も私も、視線を互いから一切逸らそうとしない。

 電車が再び走り出す。

 彼女の視線が、微かに動く。目を細めて顎先を軽く突き出し、口元を少しだけ上げる。私を見下しているかのようだ。

 そしてそれは、次に私に降って来た彼女の眼光で確信に変わった。

 口にした訳ではない。が、私の統覚ははっきりと彼女の心の声を聞いた。則ち、

『私は、選ばれた女』

 そして、

『あなたは、選ばれなかった女』

 全身に寒気を覚え、次いで胸の奥からはげしい憤怒ふんぬの情が沸き起こって来る。耳朶じだは紅潮し、指は震え、からからに乾いた唇を食いちぎるくらいに強く噛み締める。

 決心がついた。

 膝に置いたショルダーバッグのファスナーを開け、アレの入ったマニキュアの空瓶を手に取ってスーツの袖の中に隠す。

「天王寺、天王寺。谷町線、JR線、近鉄線、上町線は、お乗り換えです」

 電車が停まる。

 前のカップル二人は、降りる気配すら見せない。女はいつしか、あんたみたいな女、相手にしないでやるわ、と言わんばかりに私から視線を外している。

 私は袖に隠し持った瓶の蓋を、右手一本で器用に開ける。

 それを足下に、音を立てないようにそっと置くと、周囲に気配を悟られないような急ぎ足で電車を降りる。

 改札口に向かう人の波の中で立ち止まり、電車の方を振り返ると、ドアが閉まり、ゆっくりと天王寺駅を出発して行く。

 ふう。

 それにしても菊地くん。

 こんな実験、女の子の私にやらせないでよね。

 あの瓶の中に入っているのは、彼がオリジナルで調合した新種の毒ガスの濃縮液なのだ。気化すると空気より質量が軽いから、多分あっという間に車中に蔓延してしまう。似たようなものを、確か化学兵器で使われたことがあるって聞いたけど、ええっとどこの国だっけ。

 人の流れが途切れ途切れになってから、私も改札口に向かう。

 次の昭和町駅に着くまでに、あの車中はどんな状況になってるんだろう。

 そしてあの女は……

 乾いた笑いを浮かべながら、思わず口にする。

「選ばれた女の、最愛の男との、死地への旅」

 ちょっと羨ましかったりして。

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