第2話 植物学者



 こぽりこぽりと水の音が耳元を掠める。瞼の裏が淡い色に染まっている。僕は頬の上に落ちた水玉を、手のひらで無造作に拭った。

 とても懐かしい夢を見た。学校を卒業後、僕らの進路はまるっきり分かれてしまった。彼は現在、第一層でキャリア持ちとして国家公務員をしている。僕の方と言えば、持病のぜんそくが悪化してしまい、第一層で働くことを諦めた。現在は第五層の農耕・自然エリアで植物学者のようなことをしている。

 ……ここは一体どこだ。目を薄く開けて上半身を少し起こせば下がミシリと唸った。そうだ、昨夜はアサガオの変異体について夜通し調べものをしていたのだ。いつのまにか僕はソファの上で眠ってしまったらしい。床に分厚い辞典がずり落ちていた。大きすぎる窓から漏れ出す太陽の光が眩しい。

「……あー、今何時だ」

 僕と同じくソファに転がる目覚まし時計を見やれば、午前六時を回ったところだった。

 秒針が時間を刻む音を聞き、太陽の光が僕の肌をじわりじわりと焦がしていくような感覚を味わいながら目を瞑っていること数分。眠気がゆっくりと襲ってくる。

 今日は何をする予定だっただろうか、何かをする予定だったからきっとこんな時間に起きたわけで、でも何だったっけ……。覚えていないということは大したことではないということなのか。そういうことなのかな、と僕は横にあるクッションに顔を押し付けた。

 しかし、ふっと頭の中にその言葉が舞い戻ってきて、かけていた毛布を蹴散らす勢いで飛び起きる。

「――イガアザミ!」

 頭を思いっきり頭上の棚にぶつけて声にならない声で叫ぶ。

 小さなフラスコに入った窮屈そうな観葉植物の蔦が僕の眼前に垂れた。頭がじんじんと鈍い痛みを持つ。

「――ようやく起きたか」

 横から馴染みのある声が聞こえて僕は思わずぎょっとしてしまう。いや、何でこの声が今聞こえるんだ。その声の主は僕の育てている植物の葉を突っついたり引っ張ったりと、何とも生産性のないことをしながら緩慢に僕に視線を合わせる。

「相変わらず仙人みたいな生活しやがって。いくら連絡しても端末は相変わらず繋がらねえし」

「……不法侵入で警察に突き出すぞ」

 僕は痛みを持つ頭を押さえながら、声の主、吉野を睨んだ。

 彼が勝手にここに入ってくるのも、腹立たしいことにそう珍しいことでは無い。僕らは旧知の仲であるし、何せ彼は表の植木鉢の下に鍵が隠してあるのを知っているのだから。

 勘弁してくれよ、と昔から何一つ変わらない軽薄そうな笑みを見せる彼に舌打ちしそうになる。

 先月、地上の環境が地下と変わらなくなったとの報道が大々的になされた。大気組成、気候、気温、全ての条件が人間の暮らす環境として適している、との報道を見て僕は何もなしに喜んだ。まさか僕が生きているうちに地上へ出ることが叶うとは思ってもいなかったのだ。

 政府は地上の調査をここ一年内にするとの方針を固めた。地上へ行く際に、様々な知識がある者、例えば海洋学、生物学、土壌学といった知識を持つ者を同伴して調査に出向くとし、僕は植物学の知識を持つものとして同伴を許可されたのだ。

 他の者は“S”のIDを持つ生粋のエリートたちで、ほとんどは第一層で研究職に就いている。そう考えれば第五層と言う辺鄙な場所で研究を続ける僕はかなりイレギュラーな存在だと思う。

 そのことは置いておいて、僕は調査へ同伴することが許可された。調査は二日後のはずで、今日の午後に調査の下準備と最終の打ち合わせのために第一層に赴くつもりだったのだが、どうして吉野がここに居るのだろうか。来るとするならば午後だろう。僕も午後に迎えに来てくれると助かる、と連絡したはずなのだけれど。

「半休貰ってこっち来たんだよ。まあ一応親友じゃん、俺たちって? たまにはゆっくりおしゃべりしながら過ごすのもいいかなーって」

「へえそうなんだ」

「怒んなって! まあ確かにこんな朝早くに来ちゃって迷惑かなとか思ったけど、そこは親友だから。春樹だって俺に会えなくて寂しかっただろ? この胸に飛び込んでおいで!」

 吉野が華麗にウィンクを飛ばしながら、僕に何の恥ずかしげもなくそのセリフを言った。そして胸をとんとんと叩き、腕を大きく広げる。その薄っぺらい胸でよく言えるな、僕も人のことは言えないのだけれど。僕はげっそりとした顔でため息を吐く。

「……それ以上喋ったらアルコールランプで口炙る」

 机のそれをちらりと見ながら吉野に言えば、冗談が通じねえやつだなとでも言いたげな目で首を縦に振った。

「シャワー浴びて着替えてくる。……机の上の物は何もいじるなよ」

 部屋の中心にどしりと腰を据えているのは黒の大きな机だ。そこには色鉛筆や絵の具、図鑑や紙、はたまたマッチや植物の種が入った試験官、食べかけのチョコレートなど様々なものが乱雑に置いてある。

 ここは母屋とは少し離れた場所にある温室である。もともとここは「箱庭計画」を提唱した生物学者鈴本春一、――僕の何十代か前の先祖の人の物で、僕の代まで増改築を繰り返しながら脈々と受け継がれてきたものだと聞いた。現在は使う人もいないので好きに使わせてもらっている。

 全面ほぼ全てがガラス張りで、内部は割と広い造りとなっている。しかし水槽で育てられている草花や水路、机のおかげでかなり狭苦しくなっているのだ。これについては吉野からも「まるで前時代にあったジャングルみたいにごちゃごちゃしてるな!」と言われている。これについては否定しない。

 僕は生い茂る植物の間をかき分けながら出口の方へ向かった。吉野とは言えば、ちゃっかりとソファの方に移動し腰を下ろしていた。足を組んで小憎たらしい顔で手を振っている。その顔にグーでパンチをお見舞いしてやりたくなる。

 僕は半ば諦め、がちゃりと立てつけの悪い扉を開ける。

 外に出れば新鮮な朝の空気が僕を出迎えた。所かまわず生えた雑草が顔を出した。この庭は広すぎて、僕だけでは手入れなど出来そうにないのだ。ちくちくとした刺すような痛みを感じながら、僕は母屋まで続くけもの道を緩慢とした足取りで歩む。このけもの道も僕が毎日、温室と母屋を行き来するために出来た道だ。そろそろ手入れをすることを考えなければならないなあ、と思っているうちに玄関の前に着いた。


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