[Local]BEATLESS-L3

山本アヒコ

[Local]

「ふう……」

 水江イツナはずっと曲げていた腰を伸ばし、立ち上がると拳で腰を叩いた。

 立っているがイツナの腰は少し曲がっている。まだ足腰に異常は無いが、それでも寄る年波には逆らえない。日に日に疲労が抜けにくくなる自分に、イツナは知らずしわが多くなった顔を歪めていた。

 足元には青い葉を茂らせた野菜がある。耕された畑にはいくつもの畝が真っ直ぐ並行に並んでいて、そこには野菜が並んでいた。葉の形が違うものもある。一つの畑で複数の野菜を栽培しているのだ。

 不機嫌そうにむっつりとした顔で野菜を見下ろしていると、背後から声が聞こえた。

「イツナさん。帰りました」

 それは若い女性だった。髪の毛は黒く、肩に届かない長さ。服装は飾り気の無いジーンズに、Tシャツの上にベージュのカーディガンという、若い女性にしてはあまりに飾り気の無い格好だった。

 似合っていないのは服装だけでは無い。両手に女性が持つには不釣合いなほどの荷物をぶら下げている。特大のトートバッグには、溢れそうなほど荷物が詰め込まれていた。入りきらず覗いている品物は、複数の大きなペットボトル。そのラベルには、しょうゆ、酢、みりん等の調味料の名前がある。他には塩や砂糖の袋、さらには何キロにもなる米袋もバッグの中に入っていた。

 イツナはさらに幾分か口を歪めて振り返る。

「イツナさん。作業は私がしますと言いましたが?」

「ふん。まだまだ私は動けるよ。何もしなかったら、それこそ動けなくなるさ」

 イツナのそんな言葉に表情を歪めることもなく、女性は微笑む。

「そうですか。無理をしないようにしてください」

「心配するようなことはないよ」

 突き放す口調にも、女性の表情は変化しない。

「作業は終わりましたか?」

「いいや。まだだよ」

「では、荷物を置いてきましたら手伝いますね」

 女性は両手の荷物の重さを苦にした様子も無く、軽い足取りでふらつく事なくイツナの自宅へと向かう。畑は自宅のすぐ前にあった。

 イツナは歩いていく背中に口を開きかけ、閉じる。

 女性に「手伝わなくていいよ」と言いかけたのだが、途中でやめたのだ。

 知らずため息が漏れた。両手に重い荷物を若い女性に持たせるのは気が引ける。それは普通の感覚だろう。だがそれは、相手が人間ならばだ。

 先ほどの女性は一つ十キロ以上もあるバッグを、片手で楽々持ち運べるように見える体格ではない。腰は細く、両腕も筋肉が盛り上がっていることも無い。しかし、女性はあの程度の荷物を苦にすることは絶対にないのだ。

 彼女の名前は《コノハナ》という。これは日本神話に出てくる木花咲耶姫から名づけられたものだ。しかしその名前は本当の名前ではない。正式名称は《DR3865-hA》だ。彼女は人間ではなく、ミームフレーム社のhIEだった。


   ***


 イツナとコノハナは畑での農作業を終えると、自宅へ戻る。一戸建ての家の中は明かりがついていないため暗い。人の気配もない。ここはイツナとコノハナ、一人と一体だけが住人なのだ。

 無言でイツナは玄関で靴を脱ぐ。段差を上ろうと足を上げたとき、軽い痛みがして顔をしかめた。すでに年齢が七十近い彼女の体は、節々で不具合を訴える。それを気力で抑え込み、段差を乗り越えた。

 昔はこの程度の高さは苦にしなかった。そう考えてしまったイツナは唇を曲げる。過去を思うのは駄目だ。そこには懐かしさよりも暗い痛みしか無い。

 廊下を歩くイツナの背後では、コノハナが脱いだ彼女の靴をきれいに揃えていた。それをイツナが振り返ることは無い。


 長く響く金属音。イツナは仏壇の鈴、金属製のお椀のような仏具を鳴らすと、手を合わせた。

 仏壇には二つの位牌と写真があり、その前に小さな茶碗に盛られた白米と小皿の煮物が供えられている。写真は六十歳ぐらいの白髪の男性と、二十歳すぎ程の男性だった。それはイツナの夫と息子である。

 しばらく手を合わせた後、イツナは仏壇の前を離れた。仏壇が置かれているのは十畳ほどの畳敷きの部屋だ。縁側に接していて、開けられた障子の向こうに庭の様子が見える。季節は春の盛りを過ぎ、初夏を向かえようとしているので庭の木々は緑の葉を多く茂らせていた。

 イツナは部屋の中央に置かれた木製の低いテーブルへ着席する。座布団へ正座すると、コノハナがお盆へ昼食を乗せて持ってきた。それを座ったイツナの前に並べる。

 湯気をたてる白米に味噌汁、そして複数の野菜が入った煮物だ。煮物は少し大きめの皿に入っていて、イツナ一人では食べきれないかもしれない。これは今日の夕食にも出るからだった。

 イツナは無言で箸を取り、食事を始める。白米は粒が立ち文句が無い炊き方だ。味噌汁は辛くも無く薄くも無い、ちょうど良い濃さ。煮物もしょうゆベースだが、野菜の甘みが感じられる。そんな高級料亭までは無理だが、大衆食堂と同じほどの料理だというのに、イツナの顔は厳しい。まるで修行中の僧侶のように、ただ無言で食事をする。

 部屋は静かだ。とはいってもテレビジョンの画面には国営放送のドラマが表示され、外からは木々の葉が風で擦れ合う音や、野鳥の声が聞こえる。しかしイツナの纏う雰囲気が、まるで部屋を無音の世界にしているように見えた。

 食事を終えてイツナが箸を置くと、コノハナが緑茶をいれた湯飲みを持ってきた。

「どうぞ」

 微笑みながら湯飲みを置くコノハナを見ることもなく、イツナは無言で湯飲みを口へ運ぶ。熱いお茶が好みのイツナに合った温度。高い茶葉ではないが適切な手順で淹れられたお茶は、十分なおいしさのはずだ。しかしイツナの眉間には年齢によるしわでは無いしわが薄く刻まれ、それをコノハナは微笑んで見ている。

 光景としては二人。しかし、心を持つのは一人だけなのだ。


 狭い浴槽の中でイツナは天井をぼうっと見上げる。浴槽に貯められた湯からのぼる蒸気で白くかすむ。

 無意識に手は最近よく痛むひざを撫でていた。病院で診察してもらうと、老化によるものだと診断された。処方された貼り薬を使用しているが、改善することはないだろうと、イツナ自身も諦めている。二十一世紀の終わりが近くなっても、老化による悩みから人類は解き放たれていない。

 実際には、老化による体力の衰えや病気を防ぐ方法はある。機械化だ。生物である肉体を機械にしてしまえばいいのだ。ただしその手術費用は高額だ。病気や事故によって肉体や臓器を機械化する場合は、保険に加入していれば費用補助がされる。しかしそうではなく、まだ健康で生活に支障が無い状態の肉体を機械化する場合は保険の適用外だ。不可能とまでではないが、一般人がその費用を負担するのは難しい金額である。

 また人工心臓や人口肺、義手に義足といったものは一般的だが、全身を機械化するというのは一般人の感覚では、まだ忌避される存在だった。全身機械化された人間は、軍や民間軍事会社の兵士がほとんどである。

 それはおそらく、失った体を埋め合わせることと、体を根本から『作り替える』ことへの拒否反応なのだろう。または《hIE》とほぼ同じ存在となることを恐れているのか。

 イツナの唇がへの字に曲がる。このまま歳を重ねて体が自由に動かなくなれば、共に暮らしているhIE《コノハナ》に介護される未来を思い浮かべたからだ。

 そうなれば今のように一人で風呂に入ることもできない。コノハナに入浴の世話をされ、さらには食事に着替え、排泄まで手を借りることになるだろう。

 眉間に深いしわができる。それと同時に、なぜ自分はこんなにもあのhIEの助けを借りることが腹立たしいのだろう、そうイツナは自問する。

 西暦2080年を過ぎた現在、hIEは日本だけでなく世界各地の様々な場所で使用されている。病院や老人介護施設ではすでに人間よりhIEのほうが多いぐらいだ。イツナの知り合いの何人かは、hIEがいる老人介護施設へ入居している。ときおり来るメールや音声通話では特に問題は無い様子で、あのhIEはいい人だ、そう言う者もいるほどだ。それほどまでにhIEの行動制御クラウドは完成されている。

 浴室の外から物音がした。

「イツナさん。大丈夫ですか?」

 コノハナが脱衣所から曇りガラスのドア越しに、イツナを見ていた。

 そこでイツナは自分がずいぶん長湯をしていたことに気付く。

「ああ。もう出るよ」

「そうですか。何も無くてよかったです」

 コノハナの声は本当に心配し、安心した様子だ。それに思わず感謝を言おうとして、口を中途半端に開けた状態で止まる。

 相手はhIEだ。心配そうな声を出しているが、そこに感情は存在しない。コノハナをそう振る舞わせているのは、hIEを制御するプログラムでしかなかった。サービス用クラウド内の適切な『振る舞い』が、コノハナに『相手を心配している振る舞い』をさせているに過ぎない。

 だというのに、イツナのこの胸の苛立ちは何なのだろう。自分を思いやってくれた機械に感謝の言葉を言わなかっただけで。

 離れていくコノハナの姿が曇りガラスの向こうに消えた。


   ***


「は? hIE?」

 イツナは通話モードの携帯用端末に向かって、意表を突かれた様子で声を発した。

「そう。母さんと父さんへのプレゼント。もう歳だろ? いろいろ大変だろうと思ってさ」

 遠く離れた場所にいる息子の声は明るい。思わずイツナはため息をついた。

「だってhIEなんて、ひとつ自動車ぐらいの値段がするじゃない。そんな金があんたあるの?」

 息子は社会人になってまだ数年だ。それに高収入な職業でもない。そんな人間が数百万円もするhIEをプレゼントするなんて、イツナには信じられなった。

「それなんだけどさ母さん。すごく安く買えたんだよ。在庫処分で、なんと七十万円。さすがに十年ローンだけど、お得だろ」

「それでも十分高いじゃないの!」

 思わず叫んでいた。イツナは再びため息をつく。


 それから一週間ほどすると、イツナのもとへトラックがやってきた。イツナが玄関で受け取り証明にサインをすると、宅配業者の制服を着た人間が大きな段ボールを運び込む。一つは一辺が五十センチほどの物。そしてもう一つは、人と同じ大きさ程の物。それを玄関に運び込んだ宅配業者たちは、すぐにトラックへ乗り込んで走り去った。

「……どうしよう」

「とりあえず開けてみるしかないな」

 廊下に立ち段ボールを見下ろしていたイツナとその夫は、厳重に梱包しているテープを剥がした。先に開けたのは、正立方体の段ボールだ。中身を見た二人は、意表を突かれた様子で瞬きすると、お互いに顔を見合わせた。

「こりゃあ……何だ?」

 困惑した様子で夫は中身を取り出す。それはきれいに畳まれ、透明なビニールで梱包された女物の服だった。一着だけでなく数着あり、ブラウスにスカート、ワンピースなどだ。

「こんな物まで……」

 イツナが手に取ったのは、女性用の下着だ。ブラジャーとショーツのセットが複数ある。さらにはストッキングや靴下も。それを全部取り出したため、狭い廊下は女性用のもので埋められていた。

「なんでこんなに女性用の物が? 私へじゃないみたいだし」

 入っていた服や下着は、全て若い人向けのデザインだ。明るい色使いの服や下着は、すでに五十半ばの年齢であるイツナには向かない。さらにはサイズが小さすぎた。いくらかふくよかな体形のイツナでは、どの服も下着も着るのは無理だった。

「もしかして、こっち用じゃないか?」

「こっちって、まさかhIEの?」

 イツナは思わず顔を顰めてしまった。

 男性がいかなる目的であれ、女性型のhIEを所持するのは多くの人間がいい顔をしない。なぜならhIEは性的サービスも可能だからだ。

 そういったhIEを誰もが持てるわけではない。十八歳未満の人間は、性的行為のできるhIEを所持することはできなかった。逆に言えば、十八歳以上の人間ならば、hIEに性的サービスをさせる事は違法では無いということだ。

 それでも世間の目は、そういった男性に厳しい目を向ける。機械の女性をそう扱うとうことは、実際の女性にもそういう事を求めるのだ、と。

 hIEの主な使用目的は、家事手伝いだ。食事や掃除、買い物といった生活を補助してくれるもの。性的サービスでは無くそのためにhIEを購入する人間がほとんどだ。しかし家事手伝いのためにhIEを購入したとしても、男性が女性型hIEを購入することは白い目で見られることが多い。そういった男性を、ステレオタイプな女性像を相手に求める男だ、そういった印象を持つ女性が一定数いるからだ。

 イツナもそういった女性の一人だった。自分の言う事をなんでも聞くhIEを買う男など気持ち悪い、彼女はそう思っている。

「開けてみるか」

 衝撃を受けているイツナの様子に気付かず、夫は無造作に長方形の段ボールを開ける。長さは百七十センチ、幅は五十センチほどだろう。開けると白い衝撃吸収剤しか見えなかった。それはまるで白い棺桶。夫は蓋を開けるようにして衝撃吸収剤を取り除く。

「うおっ!」

 見た瞬間、夫は顔を素早く後ろへ引き、そのせいでバランスを崩し廊下へ尻を打ち付けた。勢いあまって後頭部を壁へぶつける。

「あー、おどろいた。死体かと思ったよ」

 夫が額の汗を袖でぬぐう動作をして、ふうと息を吐く。イツナも段ボールの中を覗き込んだ。

 そこには黒い髪と白い肌をした女性型hIEが、目を閉じて寝ていた。両手は体の横に沿うように真っ直ぐ伸ばされ、体と箱の間を白い衝撃吸収剤で隙間無く埋められていて、ひどく窮屈そうに見えた。

 衝撃吸収剤が花だったなら、本当に棺桶みたいだ。イツナはそう思った。


「あ、届いたんだ」

「届いたんだじゃないよ! まったくあんな物送りつけて!」

 イツナは怒りをこめて携帯端末に向けて言うが、息子は面白そうに笑うだけだ。

「はあ、ちゃんと詳しくあのhIEについて教えなさいよ」

「この前のは、母さんが俺がhIE買ったって言ったら怒って、まともに話を聞いてくれなかったんじゃないか」

 息子がうんざりしたように言うが、イツナはそれをまるで聞いていないかのように振る舞う。そういう人間だとよく知っている息子は、ため息混じりに説明を始めた。

「あのhIEは前も言ったけど、在庫処分品なんだよ。倉庫の奥に眠ってた、何年も前の型落ち品なんだ」

 当初販売されたhIEの外見は、製品ごとにおそろいのものだった。バリエーションはあっても、決められたカタログにある外見以外は認められない。それはhIEによるなりすまし犯罪などを取り締まるためだった。

 しかしそれは2068年に法律が変更され、hIEの外見が登録制となった。そのおかげでhIEの見た目はほぼ自由に変更できるようになる。

「そうなったらさ、みんな自分好みのhIEを買うようになるよね。で、それまで作ってた見た目が同じhIEは売れなくなる。その売れ残ったhIEのひとつが『それ』なんだよ。だからすごく安く買えたんだ」

「ということは、あのhIEは中古なの?」

「中古じゃない。未使用品だから、新古品ってところかな」

 未使用品という言葉に、イツナは唇を歪める。彼女の中にある、性的サービスをするhIEというイメージがそういう表情をさせた。

「あんたまさか……あのhIEで変なことしてないだろうね」

「そんなのしてるわけ無いだろ!」

 息子が叫ぶと、イツナの背後から夫の声が聞こえた。

「こりゃすごい」

 イツナは顔だけを後ろへ向けた。そこでは食卓に見知らぬ女性が料理を配膳する姿があった。並べられる料理を見て、胡坐で座る夫が感心したつぶやきを漏らす。

「この魚は、まるでフランス料理みたいだな」

「はい。フランス料理の調理法で作りました。調味料が無いので全く同じ味ではありませんが。口に合うといいのですが」

 女性が微笑む。肩ほどの黒い髪と整った容貌。彼女は人間ではない。機械の肉体を人口皮膚で覆い、人の振る舞いを収集して作り上げられた行動制御プログラムで動く心無き《hIE》だ。

 外見は人間と同じだ。動きも表情も、言われなければhIEには思えない。

 若く美しい女性型のhIEに微笑みかけられて鼻の下をのばしている夫を、イツナは冷ややかな目で睨む。それに気付いた夫はだらしなく緩んでいた表情を真顔にし、わざとらしく「うん」とせきをした。


   ***


 イツナはコノハナが運転するピックアップトラックの助手席に座っていた。前時代的に言うなら、軽トラと呼ばれる車種だ。しかし現在では石油燃料を使用する内燃機関を搭載した自動車はほとんど存在しなくなっている。自動車は多くが電気自動車に入れ替わっていた。イツナが乗っているのも電気自動車のため、外見が同じでも軽トラではない。カテゴリは自動車なのだ。

 電気モーターで走る車は静かだ。電気自動車が製造された当初は安全対策として、スピーカーからエンジン音に似せた音を走行中は流すように決められていた。しかし今では障害物検知機能が発達し、まず衝突事故が発生しなくなったためその機能は削除されている。

 車内は無言だ。むっつりと黙り込んだイツナは、目を細めてじっと前方を睨みつけるようにしていた。コノハナは自然な表情でハンドルとアクセルを操作する。

 今では自動車は全自動運転が普通だ。しかしそれが可能なのは、インフラ整備が整った道路だけである。イツナが暮らす山に囲まれた田舎などは、アスファルトやそれに準じたもので舗装された道路が無く、地面むき出しの場所が多い。そうなると風雨によって道路が陥没することもある。そうなった場合自動運転では対処できない場合があるので、そういう道路ではマニュアル操作のほうが良いのだ。またそれ以前に、田舎では自動運転のルートを送信する設備が無いので、そもそも自動運転が不可能な場所が多い。

 一時間ほど走ると山間から抜け出て、広い平野部に出た。建物の数も増えてくる。しかしそれより広く数も多いのが、畑と田んぼだ。建物は広がる田園風景の中に点在している。工場らしきものと、多くのトラックが並ぶ貨物集積基地も目に付いた。

「着きましたよ」

「そうかい」

 イツナたちがやってきたのは、この地域の青果市場だった。駐車場にはイツナが乗ってきたのと同じようなピックアップトラックや、コンテナ型トラックが多い。ここを利用するのは同じ農家や、農作物を運搬する業者がほとんどだからだ。

 車から降りたコノハナは、荷台から台車を地面へ下ろした。その上に同じく荷台に積んでいた段ボールを三個重ねる。中身はイツナの畑で収穫した野菜だ。一箱で数キログラムはあるはずだが、細身の体つきであるコノハナは軽々とそれを扱う。hIEだからこそできる芸当だ。

 コノハナの作業を感情の無い目で見ていたイツナは、周囲の光景へ視線を変えた。同じようにトラックの荷台から荷物を下ろしている姿が見える。中年や老人の姿が多い。農業従事者の高齢化は、前世紀からの課題だ。

「おじいさん。私が運びます」

「おお、そうかい」

 顔がしわに覆われた高齢の男性が運ぼうとした荷物を、二十代らしき男性が抱える。それに老人は嬉しそうに笑顔を浮かべた。

 その光景を見ていたイツナは無表情だ。微笑ましい光景だが、もしかするとあの若い男性はhIEかもしれないからだった。

 高齢化と人手不足に悩まされる農業従事者の救世主がhIEだ。hIEは疲れることも、文句を言うこともなく過酷な農作業をこなす。農作物の収穫作業というのは無理な姿勢が多く、腰を痛めている人間は多いのだが、機械であるhIEにはそんな心配は無い。

 農業で使用されるhIEの数は右肩上がりだった。大きな農作地を持つ農家では、複数のhIEを購入することが少なくない。hIEは一体で数百万円もするが、農業機械も高額なものだ。人力よりも簡単に早く作業するための農業機械だが、それを購入するよりhIEを使った『人力』のほうがコストがかからないこともあるからだった。

「さあ、運びましょう」

 荷物を全て台車に載せたコノハナが明るい声で言う。それにイツナは答えなかった。


 青果市場は活気があった。職員たちが様々な野菜と果物を、ベルトコンベア上で餞別したり、箱詰めを行っている。作物によって自動化されている場所が違う。ある作物は選別から梱包まで完全に機械よって行われているが、あの果物は選別から箱詰めまでほぼ手動でやっている。

「よろしくお願いします」

 イツナとコノハナは選別作業を行う一画にいた。コノハナが農作物が入った段ボールを職員に渡し、イツナはペーパーディスプレイに必要事項を記入する。農作物をいくつ、誰が納入しに来たかという証明のためだ。これはコノハナたちhIEにはできない、人間の仕事だった。

 この記入作業をするようになってイツナはもうすぐ十年になる。その前は夫がこの作業をしていた。そのころはイツナも笑顔で夫とコノハナと共に、この青果市場へ農作物を運んでいた。

 ディスプレイ上の記入シートを見ていたイツナの目が、ある項目を見て鋭くなる。それは農作物の値段だった。

「前より安いんだね」

「はい。今年は豊作ですので」

 イツナはディスプレイを覗き込んでいた顔だけを動かし、上目遣いで正面にいる職員を睨んだ。その視線は普通の人間なら表情を崩すほどの迫力だった。しかし、職員の微笑が崩れることは無かった。

 イツナは聞こえないほど小さく舌打ちをする。目の前の職員がhIEだったからだ。この職員だけではない。この青果市場で働く職員の半分は《hIE》だった。


 農作物を納入し終わったイツナとコノハナは、餞別場の横にある建物に来ていた。ここは先ほどの場所とは違う活気に満ちている。建物の入り口の上には『大安売り!』という大きなホログラムが投影され、建物の中からは陽気な、けれどどこかチープな音楽が聞こえていた。

 ここは青果市場に併設された卸売り販売所だった。小売業者に納入するのではなく、農家の人間が直接農作物を販売している。そのため値段が安い。

 野菜が積まれている売り場にはホログラムが浮かび『ブランド野菜がおどろきの安さ』と購買意欲を誘う。妙齢の女性たちがそれぞれの農作物を品定めしては、腕に下げた買い物かごへ入れていく。

 現代の農業は、工場農業と伝統農業に分けられる。工場農業とは、その名前の通り、工場で完全管理して農作物を栽培することだ。それは飼料や肥料、日照などすべてを計画的に管理して収穫までの行程を行う、というものである。それに対して伝統農業とは、収穫まで作物の育成具合を見ながらそれに対応する、というものだった。イツナがやっているのは後者の伝統農業だった。

 工場農業はそれまでやっていた伝統農業とは違い、安定された品質の作物を大量に栽培できるという利点がある。完全に生育管理された作物は、安全性という面では完璧だ。大きさも栄養素も均一だった。ただデメリットとして、法律的には、工場農業による作物は工業製品とみなされるため、工業製品として基準や規格を取得することができるが、その一方で、この製造工程をきちんと管理しなくてはならない義務も負うのだ。もしこれに違反、および不具合があれば最悪裁判になる。

 しかし工場農業による作物は、値段という面で伝統農業作物よりかなり有利だった。そのため多くの農家は、工場農業へと舵を切る。だがそれを良しとしなかったいくらかの農家は、伝統農業とその作物を守るため知恵を絞った。その農家の多くは、工場農業に適さない作物を栽培する者たちだった。

 その結果として『伝統農業作物のブランド化の推進』がはじまった。市場に流れる作物の多くが工場農業作物になると同時に、伝統農業作物はそれだけで『高級品』へと移行したのだった。

 ブランドというものは、それだけで吸引力がある。高級レストランなどでは伝統農業作物を使用する。実際に味も数段上でもあるから、それは妥当だった。

 ただ伝統農業というのは、生産者によって味の優劣がかなり広いものだ。例えばこの販売所で売られている野菜の多くは伝統農業作物でも、市販の工場農業作物と味がそれほど違わないものがある。それでも『ブランド』の力で人は集まるのだ。高額だから良いものであり、それが安い値段で売られているという事実に購買意欲を刺激される。

 安いブランド作物を求めて、離れた地域の住民がこの販売所へやって来る。売られているのが傷や大きさ不足で市場に流すことができない二級品のブランド作物でも。

 イツナはこの販売所で農作物を販売はしていない。夫との会話が思い出された。「いい野菜を作ろう」その言葉にイツナは頷いたのだ。そのころ幼い息子は、横で笑っていた。


 イツナがこの田舎へ引越したのは、息子が小学生になる前だった。

 最初に夫から田舎で農業をしようと言われたときは迷った。しかし説得され、資料を集めて調べていくうちに、イツナもその気になったのだ。

 少子高齢化、そして晩婚化が進む現在、三十代半ばで子供を産んだイツナは、まだ早いほうだった。やはり出産や育児などで女性の職業復帰は難しく、hIEの普及で託児所や保育所があっても費用負担だけはどうしても無くならない。そのためイツナは新しい職場も見つからず、年齢も四十ほどというのもあり、田舎で農業をする決意をしたのだった。

 工場農業は大規模な工場または農地で行わなければ利益が少ない。そのため初期投資が大量に必要なため、個人でやるのはかなり難しい。逆に伝統農業なら小規模でも可能だ。

 伝統農業は従事者の減少もあり、産地では新しい人間を求めていた。地方自治体から援助金が出る場所もあり、また最初の数年は地元の人間や専門家が講師として指導してくれる場所もある。そこを選んでイツナたち家族は移り住んだ。

 それまで農業を経験したことも無かったため、最初はかなり大変だった。早朝から起きて作業をする生活リズムに慣れるまで、数年の時間がかかった。しかし努力と慣れの結果、イツナと夫はそれなりに農家としてやっていけるようになる。

 初めてできた農作物を青果市場へ納入したときの事はよく覚えていた。夫が農作物を運び、イツナは息子の手を引いている。初めて来た青果市場が珍しく、落ち着かない様子で顔を動かす息子がどこかに走って行きそうで心配だった。


 あのとき一緒にいた夫と息子の姿はない。いるのは息子の購入したhIEだけだ。

 イツナはコノハナが持つ買い物カゴへ、無造作に商品を放り込む。コノハナはもう片方の手に折りたたんだ台車を抱えているが、まったく重そうにしていない。袋詰めにされたジャガイモや大根、タマネギなどがカゴへ次々と入れられるが、hIEであるコノハナの姿勢は全く崩れない。カゴの重さを感じさせず平然と歩く。

 会話も無く、にぎやかな販売所をイツナたちは周回するのだった。


「あら。イツナさん」

 駐車場でコノハナが荷物を車の荷台へ積むのを待っていると、そう声をかけられた。振り向くと、そこにはイツナと同じぐらいの年齢の女性がいた。短い髪にパーマをかけ、紫と赤色に染めている。

「杉原さんか」

 女性はイツナの近所に住む人間だった。近所といっても一キロ以上離れているが。イツナの住む場所は地域でもかなり奥地なのだ。

「あんたも野菜を持ってきたのかい?」

「いいや。今日はおでかけだよ」

 杉原はそう笑うと顔を足元へ向ける。イツナも目を向けると、足にしがみついて隠れるように、幼い女の子が立っていた。髪の毛を頭の頂点で結んでいる。

「お孫さんか」

「ああ。こっちへ家族で遊びに来てるんだ。嫁に行った娘の子供さ」

 イツナは杉原に娘が二人いることを思い出す。二人ともすでに結婚していて地元にいないことも。

「連休だからね。もう一人の娘が嫁いだ先は遠いから、あまり返ってこないけど、こっちはちょくちょく帰ってくるんだよ」

 嬉しそうに杉原は孫の頭を撫でる。それに反応せず、孫はじっとイツナの顔を見つめていた。親指をくわえながら。

 自分も息子が生きていれば、このぐらいの孫がいたのだろうか。そう思ってしまい、表情が歪む。それを悟られないように、イツナは顔を下に向けた。

「イツナさん。荷物全部積み終わりました」

「あら。あなた、たしかコノハナさんでしたっけ?」

 コノハナの姿を杉原が目にとめた。コノハナは微笑んで杉原を見る。

「はい、そうです。あなたは杉原リエさんですね。その女の子は誰ですか?」

「初めて会うんだったかね。この子は私の孫で、アオイっていうんだよ。ホラ、あいさつしてごらん」

 杉原が後ろに隠れていたアオイを前に出す。アオイはうつむき気味で、手を後ろに組んでおしりを左右に振るような可愛らしい仕草をしながら、小さい声で言った。

「しろはま……アオイ、です」

 コノハナはしゃがんで目線をアオイと合わせると、満面の笑顔で頭を撫でた。

「よく言えました。私の名前はコノハナです」

「コノハナ……」

「はい、そうです」

 幼い子供と若い女性と、それを笑顔で見守る老女。それは微笑ましい一場面。しかしイツナにはそれが空虚に感じられた。

 それは自分にもう家族といえる者がいないことへの僻みか。それとも人ではない《hIE》が、まるで人らしく人の営みの中に存在している事への違和感なのか。

 かつてはイツナにも同じ、心休まる暖かい家族との営みがあった。しかし現在イツナに残っているのは、息子が購入したhIEとの生活。血のつながりも、心の交流も存在しない、機械仕掛けの『人の営み』でしかない。

「コノハナ、行くよ!」

 苛立った声で言うと、イツナは車のドアを乱暴に開けて座席へ座った。コノハナはアオイに手を小さく振って別れる。

 自動車のモーターに電力が供給され、低い音が聞こえた。コノハナはハンドルを握り、ギアをRにする。ゆっくりと方向を変えると、ギアをDに変更すれば滑らかに発進させた。

「バイバーイ」

 車の後ろを映すバックモニターに、手を振るアオイと杉原の姿があった。

「可愛い子供さんでしたね」

 コノハナは、『幼い子供に微笑ましさを覚える振る舞い』として微笑んでいる。それは心優しい人間なら正しい振る舞いだろう。しかしそれをイツナに見せるのは、正しい振る舞いだったのだろうか。

 イツナとコノハナはすでに十年以上生活を共にしている。しかしそこには『心の交流』など存在しない。人同士の心の擦り合わせによる『行動の最適化』はなされない。

 hIEは行動制御プログラムによって振る舞う。コノハナはミームフレーム社の超高度AI《ヒギンズ》による最先端制御言語AASCによって制御されている。それは常時更新されているが、開発されて間もない。それでも問題行動はまず起きないが、それは大多数の人間の振る舞いの平均値でしかないのだ。

 イツナの心と《AASC》の精度は、どこに適正値があるのだろうか。


   ***


 息子の死を伝えられたのは、病院からの通信だった。端末に表示された病院名は聞いたことも無いものだったため、イツナは最初意味がわからなかった。

 イツナと夫は呆然と病院の霊安室に横たわる息子を見ている。顔はまるで寝ているかのように穏やかに見えた。しかしその瞳が開かれることは無く、声も呼吸音も聞こえない。震える指で触ると、冷たかった。

 死因は刃物による殺傷。顔に傷は無いが、体に十数ヶ所の刺し傷がある。それはシーツに隠されて見えない。

 イツナの息子は、会社の同僚に刺されたのだ。原因は痴情のもつれ。最近付き合いだした女性が、同僚の元恋人だった。同僚は元恋人に未練があり、復縁を迫っていた。それで息子を逆恨みのすえ、殺害したのだ。

 病院で息子の遺体を見てからの記憶は曖昧だ。たしか病院で葬儀会社の人間に話しかけられた気がする。たしか「この度はご愁傷様です。こんな時に何ですが、ご葬儀はどういたしましょう?」などと言われた気がするが、イツナは何も覚えていない。

 まるで夢の中にいるように数日が過ぎた。自宅ではいつの間にか葬儀の準備が完了し、息子の会社の人間や友達が集まっている。田舎の特徴として、近所の住民たちが葬儀の手伝いをしてくれていた。その中に《コノハナ》の姿もあった。

《AASC》には、人の葬儀の場での振る舞いも存在していた。hIEはどんな場所でも人間の振る舞いをできるように目指して開発されているのだから、それは当たり前の事だった。

 ただ動き回っている葬儀会社のスタッフのなかに、hIEは一体も無い。人の死を扱う場所において、死なず心を持たないhIEは忌避される。hIEを使用している葬儀会社でも、おそらく受付業務程度にしか使用しないだろう。

 息子の友人たちや、近所の住民は目に涙を浮かべている。葬儀会社のスタッフでさえも神妙な顔をしている。ではhIEであるコノハナはどうなのか。

 コノハナは、この葬儀という場にふさわしい振る舞いとして、沈痛な表情を見せていた。この場にいる、人の死を悼む誰とも共通する表情を。


   ***


 イツナは仏壇の鈴を鳴らし、手を合わせる。

 夫は十年ほど前、息子が死んでから数年後に亡くなった。医療技術が進歩した現在でも、治療が難しい病気は多くある。

 食卓に皿を置く音がした。振り返るとコノハナがいつものように食事を用意していた。

 イツナは最初人と同じように、コノハナへ仏壇に手を合わせさせていた。しかしすぐにその無意味さ、空虚さを知り、そして死者を冒涜しているかのように感じてやめさせる。hIEに死者を悼む心は存在しない。


 息子が死んだとしても、コノハナを購入したときのローンは残っていた。手放すことも可能だったが、夫婦はそれを良しとしなかった。なにしろ息子が年老いた両親のために購入してくれたプレゼントだったのだから。

 コノハナのローンは数年前に完済している。息子の保険金で払うことができたが、その金に手をつけることは心情的に嫌だった。保険金は今も銀行口座に眠っている。

「どうぞ。食べてください」

 イツナは座るとコノハナの手料理を食べる。AASCはクラウドから調理法をhIE《コノハナ》へ送信し、その通りにコノハナは調理を行う。クラウドに保存された調理法は、レストランのシェフとかわらない。ただコノハナには味覚センサーが無いので、細かい味付けの変更はできない。データと同じ分量の調味料を使用するだけだ。

 作られる料理は、栄養素を考えられた、高齢者向けの味付けになっている。好みを言えばそれが健康を損なう量の塩分や油分だったとしても、hIEはその通りに作る。hIEは人の要望を叶えるためのツールだからだ。

 しかしイツナは料理に何も注文をつけない。味は申し分ないはずだ。もしかしたら好みと違うものもあるかもしれない。だが、イツナは無言でただ箸を動かす。

 そういえば、とイツナはコノハナを見て思い出す。息子の葬儀で泣いていた恋人は、コノハナと少し顔が似ていたな、と。

「ばか息子が……」

 思わず口元に微笑が浮かんだ。そこで視線を感じて顔を上げると、微笑むコノハナの顔が目に入った。

「久しぶりにイツナさんの笑顔を見た気がします」

 イツナはそれで憮然とした表情に戻った。


 昼から夕方になるころ、今日の農作業を終えて家に戻ってくると、携帯型機器が通話サービスの着信を告げた。

「もしもし」

「水江イツナさんでしょうか。お世話になっております、ミームフレームです」

 ミームフレーム社はhIEの制御言語AASCを開発した超高度AI《ヒギンズ》を持つ企業だ。コノハナの製作メーカーでもある。

「ああ、どうも」

「はい。それでですね、そちらのhIEに不具合などありませんか? 動作に遅れが出たり、物を落としたりバランスを崩してこけたりだとか」

「そういうのは無いね」

 イツナは家事をしているコノハナをちらりと見る。

 イツナの家は今では珍しい木材の使用された一戸建てだ。もともとここに建っていた古い民家をリフォームしている。そんな古きよき時代の面影がある室内に、あまり似合わないものが置いてあった。

 部屋の片隅にあるのは、黒い立方体だ。表面は強化プラスチックで覆われている。小さいLEDが光を点滅させていた。

 これはhIEとクラウドをつなぎ、AASCによって制御するための通信機器だった。田舎のなかでもこの場所は僻地になるため、hIEを使用するためのインフラ整備が遅れているので、ミームフレーム社から貸し出されている。これは通常のAASCを使用しない《コノハナ》のための《クローンAASCサーバー》でもあった。


   ***


 現在から少し前、イツナのもとにミームフレーム社からとある提案があった。

「特殊地域用AASCって、何かねそりゃ?」

 通信機器の向こう側の社員に、イツナは理解不能といった言葉を返した。

「そう難しいことではなく、言ってみれば『田舎用hIE』の実験です」

 hIEの振る舞いは、無数の人間の振る舞いの集積だ。しかしその振る舞いは、どうしても偏りができてしまう。人口密集地での方がどうしてもデータが採取しやすく、また需要も多いのでそちらへ偏ってしまうのだ。

 しかし人口過疎地域でもhIEの需要はある。そこでのサービスをおざなりにする訳にはいかない。そこでミームフレーム社は最近AASCを開発したこともあり、そういった人口過疎地域や、インフラ設備の整っていない場所の『振る舞い』のデータ収集に乗り出したのだ。

「つまりはですね、そちらの田舎のほうでは道路が整備されていない場所も多いでしょう」

「そうだね。家のまわりは土がむき出しのままだね」

「それに田舎ともなれば道だけでなく、畑や田んぼ、川や山といった場所に行くことも多いはずですよね。そういう場所のデータが欲しいのです」

 hIEは山や川でも活動できるように製作されている。それでも集められたデータは実験用のもので、実際の地域で収集されたものではない。川の流れの速さや川幅に川底の状態、山の土質や斜面の角度といったものには統一性は無い。

 コノハナにしても、実は農作業をしているのはほとんどがイツナなのだ。

 hIEは工業農業に使用するのが向いている。しかし伝統農業をやるのは難しい。工場のように水平に計算された床と、数ミリ単位で調整され並べられた場所に農作物があるわけではないのだ。斜面に植える作物もある。また種まきも手作業でやれば、毎年同じ場所にできるという事も無い。工場農業のようにただ工程を守り水や肥料やるだけでは伝統農業は不可能だ。

 なのでコノハナがやっているのは指示された水やりと草抜き、収穫の手伝いなどでしかない。コノハナはイツナにとって仕事上では荷物運び程度の存在だった。

「それは面倒そうだね」

「いえいえ。わたくしどもが貸し出す機械を自宅に設置してもらえばそれでいいのです。何も面倒なことはありませんよ」

「それならいいよ」

「ありがとうございます」

 後日、直接ミームフレーム社の人間が機器を設置しにやってきた。それから一年以上経過したが、イツナはコノハナに変化があったようには思えなかった。


   ***


 イツナは通話を終えると、夕食の準備をするコノハナの後姿を見る。

 エプロン姿で包丁をリズミカルに動かす。その服装は地味なシャツにパンツ。これはイツナが買い与えたものだ。若い女性の外見には似合っていない。

 コノハナは息子がイツナのために購入したツールだ。そこには息子の思いが込められているが、hIEの振る舞いに感情は一切存在しない。

 料理を作ってくれる。荷物を運んでくれる。洗濯をしてくれる。それはどれもが感謝すべきことだ。hIEのこの行動は、息子がイツナにしてあげたいと思う事と同等である。hIEは人を補助するツール、できない事をかわりに行ってくれるもの。


 しかし、息子はもういない。hIEに思いを仮託する存在である息子がいなくなった状態では、コノハナの行動は全てAASCによる機械制御でしかないのだ。

 行動としては同じだ。イツナを助ける。その主体である『心』はどこにもない。あるのは道具としての存在意義。


「今日はイツナさんの好きなものを作りました」

 息子が死ぬまでの数年間で蓄積されたデータが、コノハナにそう言わせる。

 hIE《コノハナ》の振る舞いは、どこかの誰かの振る舞いであり、誰かがするであろう振る舞いだ。

 今ここでイツナへ向けられた優しい言葉は、いつか息子がイツナに向けたであろう言葉なのかもしれなかった。

 hIEへ心を託すことはできる。しかしhIEに心は無い。

 hIEの言葉は、AASCの中で完結する。

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