第10話 甘い罰




 山小屋の周辺は、ディートリヒの配下が囲んでいた。最初からブロイツェンの企みは知れていたのだ。

 どこから現れたのか、彼らはブロイツェンとその仲間を拘束した。

 アンネリーゼ達が城に戻ると、ピートルは既に拘束されていた。

 城の玄関ホール、大階段の下で、アンネリーゼ達と彼らは会すことになった。

「父上!くそぅ!父上を離せ!」

 吠える息子とは対照的に、ブロイツェンは頭を下げたままぴくりともしない。

「父上!父上!」

 国王の命を狙ったのだから、刑は免れない。

 重大な国王への背信行為である。ブロイツェン伯爵には爵位と財産の没収の上で死刑に、一族の者も軽くて幽閉となる大罪だ。

 真っ赤な顔で父を呼ぶピートルを見て、アンネリーゼはディートリヒの袖を引いた。

「どうか…お慈悲を、頂けませんか?」

「では、ブロイツェンにこれをくれてやろう」

 ディートリヒは一度、右手で拳を作った。手の甲を上にした拳を、開きながら裏返すとそこには短刀が握られていた。

 間近で見ていたアンネリーゼは息をのむ。

 木製の柄に黒革の鞘。装飾は一切ない。柄は使い込まれ、脂で黒光りしていた。

 ディートリヒは鞘から短刀を抜く。両刃で剣先は鋭く尖っている。

「息子の前で死ね」

 ディートリヒは短刀を足元に落とし、ブロイツェン伯爵の方へ蹴った。

 短刀はカラカラと乾いた音を立てて回りながら滑っていく。

「ディートリヒ様!なんてことを!」

「アンネリーゼ、お前が慈悲をと言ったのだろう」

 ディートリヒは心底不思議そうにアンネリーゼを見返す。

 アンネリーゼは青ざめた顔でぱくぱくと口を開閉させた。

 すると、ぴくりともしなかったブロイツェンが顔を上げてアンネリーゼを見た。

 ブロイツェンの顔には歪な笑いが浮かんでいた。

「は……は、ははは!ほれ、私の言った通りだろう!その男にひとの心などわからんのだよ!そいつは化け物なんだ」

 アンネリーゼはブロイツェンの鬼気迫る様子に、後ずさる。

 それを支えるディートリヒの手からはぬくもりが伝わってきた。

 静かに彼が話し始める。

「ではお前に問おう、ブロイツェン。お前は、軍の一部と手を組んで、王位を手に入れようとした。そして戦を起こそうとした。そうすれば国は潤うのか?国民は感謝するのか?お前はただ、自分の権威を示したかっただけなのではないか?そこにいるピートルが、王にふさわしくないことはお前も十分わかっておろう。いつまでも坊やのピートル。余の真似をしては、浮かれているピーティ坊や。お前の息子が国の舵を取ることなどできないことはわかりきっているのに、玉座に座らせようとしたのは、息子への愛情か?それとも自分の権勢欲を満たすためか?」

 ブロイツェンは悲鳴のように叫んだ。

「ピートルは優秀な息子です!」

「ああ、そこらじゅうに借金をして回る優秀な息子だ。お前が今回の件を企んだのは、息子の借金で首が回らなくなってきたことも関係がある」

「父上…!そんな、嘘だ!父上はいつも僕の好きなようにって……!」

「嘘ではない。伯爵家の財政は火の車だ。お前の衣装代さえ、払うことがままならぬのだ」

 ディートリヒが言うと、ブロイツェンは力なく項垂れた。

 ピートルは、「嘘だ、嘘だ」と繰り返している。彼の父親はそれを否定できない。

「アンネリーゼ。お前は慈悲と言ったな」

「私は、ピートル様を見ていて悲しくなってしまったのです。彼は憐れです」

「悲しみとはなんだ?アンネリーゼ。ピートルに対して無力なアンネリーゼ、お前自身への憐憫か?他者を救うために、自己を犠牲にすることへの陶酔か?

 そうやって悲しんで見せることが慈悲か?

 ひとは簡単に余に慈悲を求めるが、それは傲慢というのではないか?

「ひとは傲慢で愚かで、余はふと思うのだ。何もかも壊してしまえば、さぞ清々しいのではないかと」

 ディートリヒの緑色の瞳の向こうに、赤い炎が見える。

 彼が歩んできた道は決して容易くない。ディートリヒはよい王だった。良い王であらんとしてきたのだろう。

 アンネリーゼが、周囲との軋轢に耐えてきたように、いやもっと重いものを押し付けられていたに違いない。白蛇公、血ぬられた玉座、それは真実なのだ。国を治めるということは、決してきれいごとでは成り立たない。

 しかし、ディートリヒが王でなければ、今のこの国はなかった。

 そして、アンネリーゼと真夜中の図書室で出会うこともなかったのだ。

「……では、私を壊して下さい」

 ディートリヒはアンネリーゼに何かの役割を求めなかった。いい子でいることも、己に正直であることも求めなかった。

 ありのままであることの意味を、アンネリーゼは測りかねていた。ありのままという言葉に見え隠れする、己を取り巻く他者の存在。他者なくしては己が知覚できないのであれば、他者の存在なしに存在しえない自己は、ありのまま、すなわちその存在自体を知覚することができないということになる。

 ディートリヒだけが、アンネリーゼにアンネリーゼそのものを与える。ディートリヒはアンネリーゼを求めない。奪いもしない。

 ディートリヒによって、すべての外殻は取り払われ、むき出しにされた部分さえ、ディートリヒに破壊される。

 アンネリーゼは、ずっと、そうしして壊されることを願っていたのだ。

 もし、ディートリヒが何かをめちゃくちゃにしたいのならば、アンネリーゼこそがふさわしい。

 アンネリーゼは彼に捧げられるべくして、ここにあるのだ。






 ディートリヒの配下の者たちが―――彼らを影とディートリヒは呼んでいた―――ブロイツェン親子を地下へと連れていく。この城の地下には地下牢がある。古くは敵兵の拷問に使われた部屋もあるのだ。ディートリヒはアンネリーゼの願いを聞き入れてくれた、ということなのか。

 ディートリヒはアンネリーゼに手を伸ばした。アンネリーゼは震える手を、その手に重ねた。

「アンネリーゼ、余の悦び」

 先ほどの修羅場が嘘だったように、ディートリヒは穏やかな表情をしている。

 そのことがどこか恐ろしい。けれど、アンネリーゼは逃げようとは思わない。

「放せとは言わぬのか?」

「言いません。もう、あなたから決して逃げたりしません」

 ブロイツェン伯爵の言った通り、ディートリヒとアンネリーゼには相容れぬ境界のようなものがある。

 ブロイツェンはディートリヒを恐れた。アンネリーゼはディートリヒに恋をした。どちらも破滅するのかもしれない。

 アンネリーゼとブロイツェンの異なる点は、アンネリーゼは破滅を甘受するということだ。

 彼女は他の誰でもない、ディートリヒという運命に身を任せることを選んだ。

「何をされても構わぬと?」

 今更試すようなことをディートリヒが言うのはなぜだろう。

 アンネリーゼは拒絶を感じ、眉を曇らせる。

「最初から、私はあなたのものだった筈です。そうでしょう?」

 ディートリヒは無言で、アンネリーゼを抱き上げた。

 まるで重さがないように軽々と抱えたまま、ディートリヒは階段を昇り始める。

 階段には絨毯が敷いてある。それにしてもディートリヒの歩調は抱いたアンネリーゼに優しかった。

 次第に視界が高くなる。ところどころ石がむき出しになった無骨なこの城は、寒さを防ぐ役割もあって、壁には幾つものタペストリーがかかっている。

 ユニコーンを従えた乙女、天使と戯れる乙女、泉で精霊と遊ぶ乙女……厚く織られたタペストリーは、それぞれが素晴らしい芸術品だった。




 主寝室の暖炉には赤々と火が燃えていた。

 カーテンに覆われた寝台を見て、アンネリーゼは昨夜のことを思い出す。

 寝台に下ろされ、小さく肩を震わせたアンネリーゼの首筋を、ディートリヒは人差し指でなぞった。

「怖いのか?」

 アンネリーゼは自問する。嵐のようにアンネリーゼを奪った彼を、しかし、アンネリーゼは恐れてはいない。

 アンネリーゼは首を横に振った。

「アンネリーゼ、私を悦ばせたいなら、何でも素直に言ってみることだ。お前の体に聞くよりも、お前のその唇から聞きたい」

 ディートリヒの顔に銀糸がさらりと落ちかかる。

 アンネリーゼは手を伸ばし、ディートリヒの髪を横へ払った。

 そして、彼の肩へ手を滑らせ、そっと抱きしめた。

「……アンネリーゼ?」

 ディートリヒの声は美しい。低くアンネリーゼの胸の奥底を揺らす。

「こうしているだけで、私がどれだけ幸福を感じているか、ディートリヒ様にわかるでしょうか?」

 ディートリヒが消えてしまうかと思った。あの恐怖に比べれば、今まで経験したどんなことも耐えられる。

「あなたが私に触れることが怖いと感じることもあります。あなたの手が触れると、それだけで私はどうにかなってしまう。自分が自分じゃなくなってしまう。それが怖くて堪らないのです。でも、もしあなたが私を求めてくれるのなら、私は全力を尽くしたいのです。力不足は重々承知してますが」

 なお続けようとするアンネリーゼの口を、ディートリヒは自分の唇で塞いだ。

「んっ…!わ、私は真剣に……あの本も、後から」

「男を悦ばせる本?読んだのか?」

「よっ、読みました…。修練は致しておりませんが、内容は十分に理解したと」

 そこでまた口づけられる。

「ふぅ…んっ…!ちゃ、ちゃんと、話を聞いて下さい!私はあなたを悦ばせるために、できるだけ頑張ろうと」

 今度の口づけは、長く、深くアンネリーゼの息を奪った。

 口づけがほどけると、アンネリーゼは真っ赤な顔で、はあはあと息をした。

「それ以上かわいいことを言うと、本当にお前を貪りたくなってしまう」

「っ……。耐えてみせます!けれども、殺人や食人行為は、例え国王と言えど許されないと思うので、決して、公にはならぬよう気をつけて下さいね!」

 ディートリヒは、手で口元を覆った。そのまま顔を伏せる。

 美しい銀髪が彼の顔を覆い隠してしまって、表情はわからない。

「ど、どうか、なさいましたか」

 心配と緊張とで泣き出しそうなアンネリーゼの前で、ディートリヒはおかしくてたまらないというように声を上げて笑い出した。




「こんなに笑ったのは初めてだ」

 どうにか笑いを収めたディートリヒは、アンネリーゼに向かって言う。

「よく聞け、アンネリーゼ。お前が未熟なのはわかりきっている。未熟だからこその男の悦ばせ方もある。

 いいか、これから私がお前にすることで、お前が感じたことを総て言葉にするんだ。どんな小さな変化も見落とさず、私に伝えてごらん」

 ディートリヒの指がドレスにかかる。

 ドレスはアンネリーゼからすると、どこをどう外せば脱げるのかわからない。それをディートリヒは事もなげに脱がせる。

「どうだ?」

「ど、どうしてそんなに女性の服を脱がすのが上手なのですか?」

「女性の服ではない、アンネリーゼの服だからだ」

 コルセットの紐をほどき、アンネリーゼはシュミーズだけになる。

「続けて」

「は、恥ずかしいです。私の貧相な体をお見せするのは恥ずかしいですから、その辺でおやめになって頂けると」

「では私も脱ごう」

 ディートリヒはアンネリーゼにのしかかったまま、服を脱いでいく。

 上半身が露わになると、アンネリーゼは思わず顔を隠した。

 ディートリヒの体には見事な筋肉がついていた。これぞ神の造形とも言うべきか。

 ほっそりと優美に見えるディートリヒだが、アンネリーゼを抱えた様子などからは、十分に発達した肉体を持っているとは推察された。しかし、間近にすると、筋肉の確かな質量に圧倒されてしまう。

「とっても、美しいです……」

 アンネリーゼは、ディートリヒに言いつけられたまま、素直に感想を口にした。

 アンネリーゼのシュミーズの肩ひもにディートリヒの手がかかる。

 そろそろと紐が下ろされ、アンネリーゼはぎゅっと目をつぶる。

「お前は美しい、アンネリーゼ」

 肌と肌が触れ合う。

「は、恥ずかしい、のです、あなたの触れたところが、どこもかしこも熱くて」

「力を抜いて、お前はただ感じていればい」

「あの本の内容が、思い、出せなくなりそう、なのです」

「あんな本、忘れていい。お前は私のことだけ考え、私がしたことだけ覚えていればいいんだ」

「それではまるで」

 それではまるで、虜にされてしまう。

 ディートリヒの激情をぶつけられた庭園での出来事とはまるで違う。

 ディートリヒは、細やかにアンネリーゼを愛撫した。最初は、緊張していたアンネリーゼが、ともすれば眠気を感じてしまうほど、アンネリーゼの体を温めほぐし、自分の手に馴らしていった。

 アンネリーゼの体から力が抜けてから、ディートリヒは、アンネリーゼの体に眠る快楽を呼び起こしていった。

 彼女が驚くほど、彼女の体のそこここには快楽が眠っていた。

 指の股や、脇、臍、尻の切れあがったくぼみ、ひかがみやくるぶし。アンネリーゼが普段何気なく動かしていた部位が、ディートリヒの手で、快楽の受容器へと変貌を遂げる。

 彼の指が触れるだけで、アンネリーゼは咽び泣き、唇が吸えば蕩けた喘ぎを零した。

「そこは、そこはだめですっ!触れては…!」

 制止しようにも体の力は抜けきっている。

 やすやすと開かれると、アンネリーゼの喉がひくりと鳴った。

「昨夜は痛んだだろう?無理をさせた」

「指は…おやめになって……あぁっ!」

「なぜ?怖いのか?確かに私はお前を傷つけた。そのせいかな?赤く腫れて、こんなに濡れている」

「ぬ、抜いて、抜いて下さい…っ!ひぅ…ん……」

「教えておくれアンネリーゼ、私がお前に与えているのは?痛み?それとも?」

「わからな、わからない…で…す……、あぁっん…!はぁっ……」

「それとも?」

「いいです…っ、頭が、真っ白く……」

「もっと早く?深く?」

「どちらも…!たくさん、して、くださっ…あぁっ……」

 息も絶え絶えなアンネリーゼは、それでもディートリヒに言われたことを果たそうと、懸命に感じていることを言葉にした。

 ディートリヒの触れるところからは強烈な快感が湧きあがって、アンネリーゼは飲み込まれてしまう。

 大海に浮かべられた小舟のように、自分では為すすべもない。与えられる快感に錐揉みにされ、体裁もなく貪欲に先を求めてしまう。

 ぬるま湯のような愛撫はもどかしい。

 ディートリヒにこじ開けられた場所は再び彼で満たされることを望んでいる。

「ま、待って下さい、ディートリヒ様。大切なこと……」

 アンネリーゼは必死に体をずらして、ディートリヒに向き直った。

 ディートリヒは彼女の上から四肢を抑えるようにのしかかっていたから、まさに獣の顎の下から抜け出すような心地だ。

 ディートリヒはアンネリーゼを止めなかったが、

「逃げるのか?」

「違います!」

 快楽に溺れ、むやみに空気を取り入れようとした喉が痛む。それでもアンネリーゼはやはり、彼に言われたことを遵守しようと試みた。

「今、わかったんです。昨夜、どうして嫌じゃなかったのか。体をつなげることは、ただ生殖や快楽のためだけではないのですね。私の体をあなたが埋めて、私はあなたの一番近くにしてもらえる。私の一番深いところをあなたが満たしてくれる。私はあなたが欲しいんです。い、痛かったですけど、怖くも、ありましたけど、でも、あなたでいっぱいにされて、私はとても嬉しかった……」

「アンネリーゼ、もういい」

「え?ディートリヒ様?」

 再びアンネリーゼはディートリヒの体の下にされる。じっと見下ろされる、ディートリヒの目に、かつてない欲望の色を見てとって、アンネリーゼは言葉を失った。

 ディートリヒはアンネリーゼをその視線で貫きながら、両手を彼女に這わせた。彼女の形を確かめるように、くまなく手を這わせ、脚を開かせ、とうとう腰を引き寄せた。

「ふぁっ……!」

 入ってくる。少しずつ、待ち望んでいたものが。ディートリヒそのものが、アンネリーゼの中に入ってくる。

 これ以上ないほど引き延ばされて、アンネリーゼはかろうじてディートリヒを受け入れる。痛みはある。圧迫感で、自分が内側から潰されるように感じる。内部のひだは、飲み込んだディートリヒに狂喜している。痺れるような、疼くような、その向こうに、途方もない快楽の渦がある。

 繋がっているのは体だが、触れあっているのは心だ。

「はぁっ…ぁっ……大きく、て、ふか、深い…の……うれ、嬉しい……です……」

「……もう、黙っていい」

 ディートリヒは今までの穏やかさを忘れたように、アンネリーゼを翻弄した。

 頂点を迎え、墜落する。その度にディートリヒにすくい上げられ、また昇り詰める。幾度となく絶頂を迎えさせられる。

 アンネリーゼは、いつディートリヒが果てたのかもわからない。だが、体の奥で、ディートリヒを受け止めた熱が膨らんでいくのを感じる。

 ずっと、アンネリーゼを抱くディートリヒの目の奥の炎は冷たく燃えていた。過ぎる快感に朦朧となる意識の中で、ディートリヒの意識が自分に強く集中していることを肌で感じる。それがなければ、とっくに気を失っていただろう。

 貪られる、というのはこういうことか、とアンネリーゼは己の身で知った。






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