第4話 江戸の街

 路地の真ん中に溝が掘ってあり、木の蓋がしてある。どうやらこれが生活用水を流す用水路別名「どぶ」だと思った。その両側に一間半ほどの間口の長屋が並んでいる。その真ん中に井戸があった。俺が知ってる知識ではこの井戸は本当の井戸では無く、水道の水を溜めておく井戸と学校で習った。さきに小さな声で訊いてみると、やはりその通りと答えてくれた。

 井戸を越えて歩いて行くと数軒先に潜戸というか小さな門があり、表から見るとここが長屋の入り口で、表の通りに出ると坂崎同心とさきは左に曲がり、歩いて行く。どうやらここは裏通りらしい。すると先程の長屋は「裏長屋」となるのかと思う。

 坂崎同心は三軒ほど先の「めし」と書かれた店に入って行った。さきと俺も続いて中に入る。ちなみに「めし」と書かれているのに気がついたのは、大分後で、この時はまさかこれが、仮名だとは思わなかった。

 店の中は意外に明るい。それもそのはずで、天井に明かり取りの窓が開かれていた。店は土間が少しありその上が座敷になっており、そこに各人が盆や膳を前にして食事をしていた。俺が時代劇で知ってる居酒屋や一膳飯屋とはかなり様子が違う。

 椅子やテーブルは無い。さきに尋ねたら、この時代は無いそうだ。早くても天保にならないと登場しないそうだ。各人は畳に直接、盆や膳を置いている。これも後でさきに尋ねたら、畳そのものが敷物なので、そういう感覚なのだと言うことだった。だから座布団も普通はしないのだそうだ。

 坂崎同心の顔を見ると、店の主が表情を変え

「旦那、どうぞ何時もの奥へ」

 そう言うので坂崎同心も

「親父、悪いな」

 それだけを言うと奥の仕切られた一角に座り込んだ。そこは衝立がしてあり、ちょっとした密談には持ってこいだと感じた。

 そこの床の間を背にして坂崎同心は座った。さきも何も言わなかったが、俺はこの時身分というものを強く意識した。

 そうなのだ、こう言った何気ない場所でも武士の坂崎同心は当然のごとく上座に座る。この事こそが身分階級があるという事なんだと理解した。

 「おう、座れよ、こうすけ」

 不意に声を掛けられ、我に返って、慌てて坂崎同心の向かいに座る。果たしてここが俺が座るべき場所なのかは自信なかった。

 三人が座ると坂崎同心は店の調理場の方に向かって「見つくろってくれ」

 それだけを言う。メニューというものが無いのだろうかと考えてると、さきが

「この時代は、朝飯ですからこのようなのが普通なのです。光彩さんが居た時代とは食糧事情も違いますから」

 そうなのだ、そんなことも俺は忘れていた。こんな事ならもっと日本史を勉強しておけば良かった。

「まあ、そんな緊張するな。改めて自己紹介しよう。ワシは南町奉行所定町廻り同心、坂崎行幸之進だ。この時代の組織の江戸駐在員の一人だ」

「え、じゃあ坂崎さんは俺らの時代の人で、ここに派遣されているのですか?」

 俺は思っていた疑問をぶつけて見た

「とんでもない、ワシはこの時代の人間じゃ。『訓練センター』で研修を受けたがな」

「じゃあ、未来の事とかも習ったのですか?」

「まあ、おおよそだがな。そんなの知っていてもワシの人生にはほとんど関係ないからな。所詮幕府はもうそんなに長くないのは内側にいる人間には良く判る」

 そこまで言った時に膳に載せられて料理が運ばれて来た。

「おう、ご苦労さん」

 持って来てくれた若い人(のちに若い衆『わかいし」』と呼ぶと知った)にねぎらいの声を掛けて僅かばかりの小銭を握らせた

「いつもすいません」若い衆が何度も頭を下げて下がって行く。

「おう、熱いうちに食べようぜ」

「はい、戴きます」

 箸は割り箸だった。この頃には既にあったのだ。

 膳に載ってきた内容は、ご飯、味噌汁、里芋と葱の煮物、納豆、沢庵、だ。ご飯は丼に山盛りによそってある。こんなに食べられるだろうか?

 一口、味噌汁を飲んで見る。旨い! かつお節の味も旨いのだが、味噌自体の味が濃いのだ。塩分がきつめだがその分旨味も強い。具は葱が入っている。

「やっぱり根深汁は旨うござんすねえ」

「うん、ワシはこれが好物だから冬が来るのが待ち遠しいわい」

 二人の会話を訊いて、そうか、この時代は季節によって食べられるものが違っていたんだと思いだした。

「おう、こうすけ、その里芋食べてみろ。お前さんの時代と味が違うから」

 そう言われて、里芋を摘んで口に入れてみると、これが驚いた。まず粘りが違う。そして土の味がする。そうか芋は土の中で育つのだと思い起こさせてくれる味で、しかも一緒に煮た葱の甘みを吸い取り、自然な甘みなのだ。根深汁もそうだったが、この時代の野菜はこんなにも味が濃かったのかと俺は思った。これからも江戸に来る楽しみが出来たと思った。

 納豆には辛子が付いている。匂いを嗅ぐとかなりキツイ。俺は納豆の匂いは平気なので、辛子と醤油を入れてかき回す。大豆も大きい、俺らの時代なら「超大粒納豆」と表示されると思った。

 やはりこれも味が濃い。ご飯に良く合う。この御飯も、俺達の時代のより風味が強い! 御飯に匂いがあると初めて知った。この匂いも懐かしい感じがした。それに沢庵も匂いがキツイし、味も俺らの時代のより塩気が強い。人工的な甘みはほとんど無く、固く保存食品というのが良く判った。

 江戸時代での初めての食事は俺にカルチャーショックを与えてくれた。食べながら坂崎同心はこの時代の色々なことを俺に教えてくれた。

「ワシを呼ぶ時はこっちでは“坂崎の旦那”かさん付けで良い」

 そう言われて今後は坂崎の旦那か坂崎さん、と呼ぶことにした。


 勘定は坂崎の旦那が払ってくれた。もっとも店主は遠慮して中々受け取らなかったが、これについてはこの時は何も思わなかった。後で定町廻りの同心の中には「袖の下」と呼ばれる賄賂を始め「飲み食いは当然」という風潮があったそうだ。

「じゃあ、浮世絵を買いに行くか、さき、やはり芝に行くのか?」

「そうですね。それが良ござんしょう。なんせ店が多いので二三軒回れば今回のものは買えると思うのでござんすよ」

「そうか、じゃワシも見回りのついでに一緒に行ってやる」

 そう云うことで、俺とさきと坂崎の旦那の三人で芝に向けて歩くことになった。

「ところで、ここはどこなのですか?」

 俺は江戸での現在位置を尋ねた。すると坂崎の旦那は

「ここは神田竪大工町だ。これから日本橋を渡って芝神明まで行くのさ。わけはない」

 神田なのか、神田竪大工町って確か……今の神田駅のあたりじゃ無かったかな? ならば駅でいうと、神田、東京、有楽町、新橋、浜松町と歩く訳か、このぐらいは歩けるが、この時代はどこかに行くには歩くしかないから大変だと思った。

 俺は雪駄に裸足。さきも下駄に裸足だ。この当時は庶民は裸足が普通だったらしい。だが坂崎の旦那は黒い足袋を履いている。何故、黒い足袋を履いてるのか今度尋ねてみようと思った。

 俺がそんなことを思っているうちに、広い道に出た。幅が十五メートルほどありそうな道だった。もしかしてこれが東海道なのか? 

「ほら、あそこが日本橋でござんすよ」

 さきに言われて見た日本橋は思ったより小さくて、木で出来た粗末な橋だった。浮世絵とは大分違うと感じた。

 日本橋は江戸一番の繁華街と習ったが街はモノトーン一色な感じで、歩いている人の背は低く貧弱で、俺が想像していた江戸とはかなり違っていた。いい天気で青い空が俺の居た時代とは比べ物にならない程澄んで眩しかった。 

 だが、段々とこの世界に目が慣れて来るというか見慣れて来ると、この江戸の街もそれなりに見えて来る。例えば、何を売っているのかは瞬時に判断がつかないが、商店には紺色の幕が掛かっていて、その色がこの江戸では目立つし、恐らく今で言う特売なのだろう、紅白の幕が掛かった店もある。それらは何か懐かしい。

 三人で歩いているのだが、現代のように並んで歩くということはない。先頭に坂崎同心。その後ろに俺、そしてやや遅れて、さきが歩いている。これは今のように男女が並んで歩くということはしないということだ。最もこの時代でも坂本龍馬は婦人と並んで歩いたと本で読んだ。

 武士や町人でも一定以上の人間が出歩く時は必ず伴の者を連れて歩くのが常識で、一人で歩くことは無かったのだという。だから坂崎同心は同心としての仕事中である為、一人で歩いている訳だし、俺やさきはその後をついて行くという訳だ。

 これが夜なら、恐らく俺が提灯を持って先頭を歩いていたかも知れない。なんせ江戸の夜は真っ暗で灯りが無ければ歩けない。

 日本橋を渡る。右手に富士山が見えた。左側は魚河岸だ。この時代は日本橋にあったのだ。江戸のどこからでも富士山が見えたそうだが、日本橋の上で富士山が見えるというのも素敵だと思う。坂崎同心は先頭を歩きながら、俺に色々な事を教えてくれた。

「こうすけ、何でワシら同心が足袋を履いてるか判るか?」

「いいえ、そうですね、足が汚れないようにですか?」

 判らないので適当に答えると

「馬鹿、そうじゃない。これはお上から決められているのだ。雪駄もそうだ。それにこの着物だって、お前らが着ているのとは縫い方が違う。捕物などで充分に動けるように縫ってあるのだ」

 同心の着物にそんな秘密があるとは知らなかった。俺は坂崎同心に

「これから行く芝には浮世絵を売ってる店があるのですか?」

 実際の江戸のことは何も知らないので、尋ねると、坂崎同心は笑いながら

「そうさな、芝神明から大門(だいもん)までは絵草紙屋が軒を連ねているよ。それに各店で扱ってる絵草紙や錦絵に違いがあるからな。懇意な版元とかあるから、さきなんぞはそこらを回って上手く買いよるわい」

 そうか、今でいうと神田や神保町の本屋街みたいなものか、と納得する。

 日本橋を渡ると右側に色々な立て札が立っている。さきが寄って来て小さく「高札場」ですよと教えてくれた。そう言えば時代劇で見た事があった。

「ここから京橋までの間が江戸のお前らが言う、メインストリートと呼ぶところだな」

 坂崎同心もそう教えてくれた。そう思って見ると、確かに両側の店も風格がある感じがする。そう言えば、日本橋を渡る手前の三越もとい越後屋を見るのを忘れてしまった。三井の大元なので楽しみにしていたのだ。帰りは必ず見ておこう。

 途中で、さきがもう一度俺に並んで、この左側の大鋸町には広重が住んでいると教えてくれた。何だか、それだけでも歌川広重という人物を身近に感じる。ちなみに安藤広重というのは間違いで、安藤は武士としての苗字で、絵師としては歌川広重が正しいのだ。広重は「東海道五十三次」の絵でも有名だ。これも訓練センターで教わったことだ。

 やがて京橋に差し掛かる。俺の時代はこの橋も高速道路の下になってしまっている。さきや坂崎同心によるとこの京橋と先程渡った日本橋が江戸での一番格式のある橋だという。

 京橋を渡ると、今なら花の銀座なのだが、この頃の銀座は道の両側に店が立ち並んでいるが、僅かに街外れ的な感じが漂っている。少し歩くと尾張町の交差点になるが、坂崎同心によると、正式には『尾張町跡地』といって今は尾張町ではないそうだ。何故俺の時代でも「尾張町の交差点」と呼ぶのだろうか? 少し疑問に思った。

 ここまで人通りは多い。さすが百万都市だと感心をする。俺の背が高いので、通行人は一度は俺を見るが、それだけだ。ほとんど関心を持たずにすれ違って行く。まあ、そうだろうな、都市に住む人々は昔も今も情報量が多い。それはこの時代でも同じで、この時代の人にとって江戸は「生き馬の目を抜く」街なのだからだ。


 やがて新橋を渡る。俺はちょっと感激している。というのは新橋は通勤で毎日のように通過しているが、本当の新橋という橋を渡ったのは初めてだった。

 そう言えば、俺の好きだった噺家の志ん朝が落語「黄金餅」という噺の中で貧乏な葬式をやることになり、遺体を長屋の仲間で麻布の寺に運ぶくだりで、その道順を言う言い立てがあった。

「下谷の山崎町を出まして、上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっすぐに、筋違(すじかい)御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀(ほんしろがね)町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村(あざぶぜっこうかまなしむら)の木蓮寺へ来たときは、みんな疲れた」

 と言い立てるセリフで、この新橋も登場する。『そうか、あいつらはここを右に行ったのか』と思う。出来れば俺もそのうち歩いて見たかった。

 坂崎同心が「この橋は『芝口橋』とも言うから覚えておけよ」と教えてくれた。もうそろそろだと言う。

「ほら、あれだ、軒を連ねているだろう」

 坂崎同心に言われその方向を見ると、間口二軒余りの店が確かに連なっている。その店のどれもが、店頭に竹バサミと呼ばれる一種のクリップのような竹製で出来た止め具で軒先に浮世絵を吊るしていた。

 下の棚には絵草紙と呼ばれる本が置いてある。俺は最初の店から順番に見て行った。ほとんどは初めて見る絵ばかりだったが、中には知ってる絵もあったので、さきに尋ねると

「今日は自分のは買わないでござんすよ。お楽しみにするなら最後でござんすね」

 そうなのだ、観光で来ている訳ではなかったと思い直した。

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