読み切り集:一週間世界

夕涼みに麦茶

一週間世界

 とある田舎町の山林にて、幼虫時代を終えたセミの子が地面から這い出てきました。初めて見る緑鮮やかな景色、初めて触れる澄んだ空気。セミの子は、外の世界に興味津々。不安なんてどこ吹く風、早速大人の体になって自由に飛び回ろうと、木に近付いていきます。すると、空からふらふらと降りてきたセミのおじさんが、セミの子の前に着地しました。

「やあ坊や…いや、これから一人前の大人になる君に坊やは失礼だな。」

セミの子の頭を撫でながら、おじさんは豪快に笑って見せてくれました。

「おじさん、こんにちは。ねえ、外の世界はどういう所なの?ここみたいに綺麗な色をしているの?僕たち以外にどんな生き物が暮らしているの?」

セミの子は自分で見るのも待ちきれずに、あれやこれやとおじさんに質問を投げかけます。興奮止まないセミの子を見て、おじさんは再びわっはっはと大笑い。

「そう焦るな若者。今おじさんの口から聞くのは簡単だが、それが必ずしも正しいとは限らない。それにこれから自分の羽で見て回れるのに先に中身を知ってしまったらつまらないだろう?自分の目でしっかりと確かめてきなさい。」

再びおじさんに頭を撫でられて、セミの子は、答えが聞けないのは残念だけどおじさんの言葉も一理あると渋々納得しました。それからおじさんに促されて木に登ることになったのですが、おじさんとの別れ際にセミの子は一つの提案をします。

「おじさん、僕が外の世界を一回りしてきてここに戻ってきたら、一緒に冒険しようよ!」

一瞬おじさんは悲しそうな顔になりましたが、すぐに笑顔を作り、喜んで首を縦に振ってくれました。

「君が皮を脱いで大人になるのが太陽の日の朝。それから月の日、火の日、水の日、木の日、金の日、土の日と太陽の浮き沈みと共に日にちが過ぎて行く。そしてまた七回目の日の出と共に太陽の日が戻ってくる。次の太陽の日にここで会おう。おじさんの子が外に出ている頃だから、子供のセミが目印だ。」

セミの子は、大きく頷き、おじさんに大きな声で挨拶をして、木を登っていきました。おじさんとの再会を楽しみにしながら、セミの子は大人の体になる準備を始めます。木にしがみつき、もぞもぞと皮を脱ぎます。何時間も経って、ようやくセミの子は一人前のセミの姿になれました。かつての自分の姿を象った抜け殻を見て、少し寂しい気持ちになったものの、それ以上に外の世界への期待感が膨れ上がります。白い体が茶色を帯び、ようやく体が慣れてきた頃、セミの子…いえ、セミの若者は、羽をゆっくりと、次第に速く羽ばたかせ、歓喜の声を上げながら宙を舞い、空へと飛んでいきました。ふと見下ろした木の根元には、眠っているおじさんが見えました。

「行ってきます!」

遠くて聞こえない声をかけて、セミの若者は木々を移りながら広い広い外の世界の冒険を始めました。


 月の日、木々を伝って林を飛び回っていたセミの若者は、はしゃぎ疲れて一休みに樹液を吸っていました。するとそこに別のセミが飛んできて、声をかけてきました。

「こんにちは。あなたも大人になったばかり?」

現れたのは、可愛らしい顔立ちのメスのセミでした。その顔がセミの若者の好みと一致して、セミの若者は彼女に一目惚れをしてしまいました。顔を赤くして俯いて何も話せずにいると、それに気付いたメスのセミは笑いながら彼の頬を突いて来ました。

「照れちゃって可愛いなぁ。」

ニコニコしながら頬をいじくりまわす彼女の顔をちらっと見るたびに、セミの若者の胸は高鳴りました。恥ずかしさに耐えかねて、セミの若者は覚えたての鳴き声を披露し始めました。突然始まった鳴き声に、メスのセミはびっくりしましたが、目を閉じて彼の声に耳を傾け、静かにその一声一声に聞き入っていました。鳴き声が終わり、若者の喉はすっかりカラカラ。樹液を勢いよく飲んで、喉の渇きを潤します。ふと彼女の方に視線を向けると、彼女は恍惚の表情を浮かべていました。彼女は、若者の手を取り、潤んだ瞳で彼の目を見つめてきます。その様子に若者の胸は更に高鳴り、二人は無言のまま、一夜を共にしました。


 火の日、メスのセミはお腹をさすりながらセミの若者に笑顔を見せました。

「私とあなたの子供、ちゃんと産んでくるからね。」

若者は、照れくさそうに頷き、彼女と抱擁を交わしてまた旅立っていきました。

「お土産を持ってまたここに来るよ。」

妻とのひと時の別れを惜しんで大きく鳴き、若者は林を抜けようと木々を伝って飛んでいきました。

 しばらくして、水が流れる音が聞こえてきました。音の方に飛んで行くと、いつの間にか林が途切れて、田園風景の中に綺麗な川の流れがありました。水の中に落ちないように注意しながら小石の上に降りて、川を覗くと、小さな魚がこちらを覗き返してきました。

「こんにちは。あなたは何という生き物ですか?」

若者が興味津々に問いかけると、ぶっきらぼうに小魚は返してきました。

「なんだお前?まずはお前から名乗るのが礼儀じゃねえのか?」

これは失礼と、若者は簡単な自己紹介をしました。川であまり見かけない虫が珍しいのか、小魚はまじまじと若者を見つめていました。じっと見つめられて若者は照れくさくなって、顔を俯いてしまいました。その様子にようやく視線を逸らし、小魚も簡単に自己紹介をしてくれました。

「俺はメダカ。しがないただの川魚だ。」

メダカがそうしたように、セミの若者も彼の顔や体をじっくりと観察し始めました。自分とは異なる体の形や模様、自分のものと見比べながら一人感心していました。彼の視線に耐えかねたメダカは、歯痒そうに体をくねらせて水面に波紋を作り、自分の姿が見えないようにしてしまいました。

「もういいだろ…。そうジロジロ見られたら恥ずかしくてたまらねえ。」

乱暴そうな口調とは裏腹に可愛い一面もあるものだと、若者は思わず笑ってしまいました。気を悪くしたメダカは、ムスッと口をつぐみ、そっぽを向いてしまいます。セミの若者は慌てて謝り、お詫びに自慢の鳴き声を披露しました。その声を聞いて、メダカは馴染みのあることに気付きます。林の向こうから賑やかに聞こえてくる歌の正体はセミという生き物の鳴き声だったのだと。鳴き声が終わり、メダカは大きく拍手と言わんばかりにバシャバシャと水飛沫を上げてくれました。

「そうか、お前達の声だったんだな。また一つ利口になったぜ、ありがとな。」

「こちらこそ。メダカさんのように水の中に暮らす生き物もいたんですね。勉強になりました。」

二人笑顔になり、それから少しばかり雑談を交えて、セミの若者は再び冒険に戻ることにしました。去り際、メダカが若者に注意を呼びかけます。

「お前は外に出たばかりだから知らないだろうが、人間という巨大な生き物には気をつけろ。連中は、俺達魚だけでなく、水辺の昆虫たちも捕まえて、檻に入れてどこかへ連れ去ってしまう恐ろしい生き物だ。見つかればお前もその標的にされかねない。道中注意しな。」

一体どんな生き物なのか、若者は想像をしてみました。巨大な生き物というと、林の中で見かけた羽の生えた口の長い生き物や丸い耳に茶色がかった体の四足歩行の生き物、林の中で見かけたものばかりが浮かびますが、彼らは誰も生き物を閉じ込める檻を持っていませんでした。不意に、彼らのいる地面が暗くなりました。夜になるには早すぎると辺りを見回すと、メダカが震えながら声をかけてきました。

「声を出さずにゆっくりと上を見ろ…。そいつが人間だ。」

言われて、暗さの正体が生き物の影だと気付いた若者は、声を殺して恐る恐る空を見上げました。小さな川の対岸に、大きな二足歩行の生き物が佇んでいました。足の向きからして対岸の向こうを見ているようです。

「お前も捕まったり、踏みつけられたりしないうちに早く行けよ。いいな?」

その言葉を残して、メダカは大慌てでその場から去っていきました。若者は、初めは恐怖のあまり体を硬直させていましたが、影が移動を始めたのをきっかけに一目散に林に近い高木に逃げていきました。こちらに気付いたのか、人間はセミの若者の方をじっと見つめてきました。セミの若者は、見つかるまいと木の葉の影に身を隠して彼がいなくなるのをひたすらに待ちました。夕暮れにその場から人間がいなくなるまでセミの若者はじっとしていました。幸い檻を持っていなかったので捕まる心配はしていなかったのですが、メダカの言いつけを守り、用心することにしました。結局その日はその場で一晩を過ごすことにしました。恐怖はいつの間にか刺激的なものに出会えた興奮に変わり、若者は明日の冒険に胸を躍らせるのでした。


 水の日、人間達に注意しながら、灰色の地面の両端に生えた木々を移動して旅を進めるセミの若者。人間の親子連れで賑わう公園の片隅で一休みしていました。子供達が親とじゃれている姿を見て、自分も故郷に帰って子供が外に出てきたら一緒に遊んだり冒険に出たりしたいと、まだ見ぬわが子に思いを馳せるセミの若者でした。周りのセミが鳴き声を上げる中、見つからないように静かに彼らを見続けていると、背の低い木の枝に綺麗な目と羽の昆虫が飛んできました。

「こんにちは。今日も暑いね。」

「こんにちは。僕はセミです。あなたは何という生き物ですか?」

綺麗な目をくりくりと動かして、昆虫は笑顔で答えてくれました。

「私はトンボ。普段は川沿いを飛んでいるんだけど、今日は遠出の気分だからここに来たの。」

トンボは羽を動かして楽しそうに話します。トンボの綺麗な色も気になりましたが、遠出という言葉に興味を持ったセミの若者は、行き先について聞いてみました。

「遠出って言うと、あなたの羽では行けない場所なのですか?」

「ええ、そうよ。人間達が大勢で暮らす集落。空気は美味しくないのだけど、観光にはもってこいの場所よ。」

昨日初めて遭遇した恐ろしい人間。目の前で賑やかに親子の時間を過ごす人間。そんな人間達が大勢で暮らす空間。危険と思いつつも、若者は冒険心に満ち溢れ、自分も連れていって欲しいとトンボにお願いしました。トンボはこれに快諾し、もうすぐ時間だからと、セミの若者をどこかに先導しました。トンボが連れて来た所は、公園前のバス停。勿論セミの若者は、ここで何をするのか分かっていません。

「向こう側を見ていて。硬い体の大きな生き物が人を乗せて走ってくるから。」

言われたとおり、トンボの指す方向を見ていると、遠くからこちらに向かってくる四角型で不思議な模様の巨大な何かが見えてきました。その何かは、二匹が掴まっている縦に長い棒の前に止まり、側面の口が開くと、中から人間がぞろぞろ出てきました。

「これで私たちも移動するよ。」

トンボの後に続いて、バスの後ろにしがみつくセミの若者。程なくして、バスはゆっくりと走り出し、徐々に速さを増していきました。

「すごい!速い速い!」

興奮するセミの若者を見て、トンボは自慢げに首を動かします。

「でしょう?私達みたいに休み休み移動はするものの、一回の移動距離が恐ろしく長いのよ。この速さなら、この世界をあっという間に一周できるんじゃないかと思うわ。」

自分の所有物でもないのに得意げに語るトンボ。そんなトンボの言葉を信じてか、セミの若者もまた、この硬質な体の奇妙な生き物に興味を持ち始めました。道中、しきりにトンボに質問をします。

「この生き物って不思議だよね。まず人間を体の中に入れてまた外に出すっていうのが不思議。食べているわけじゃないのかな?」

「こうやって、内側を覗ける部分があるし、消化されている様子も無いから、人間の移動の為に彼らを受け入れているのかも。人間の集落では、似たような種族があちこちを走り回っているから、人間と寄り添って暮らしている部類なのでしょうね。ほら、後ろについてきているでしょう?あれも多分同じ種よ。」

振り落とされないようにゆっくりと振り返ると、後続車が視界に映りました。確かにこちらの種類よりも体が小さいのですが、内部には人間が二人こちらを向いて笑っていました。

「本当だ…。人間のこと怖くないのかな?」

「怖かったら中に入れて運ぶなんてしないでしょ。本人に話が聞ければ良いのだけど、無口なのよね…。」

試しに後ろの車に若者は声をかけてみましたが、こちらには一切目もくれず、バスと衝突しないように適度な距離を保っているだけでした。機械的な動きに、若者は違和感を感じるばかり。

「この生き物って…本当に生き物なのかな?なんというか、生気を感じられない…。」

「…生き物よ。う、動いているから生き物なのよ…。」

頑なに否定するトンボ。しかし、二人とも命を持たない動く何かの可能性で頭がいっぱいになり、それ以上の詮索はやめることにしました。夕暮れになる頃、止まったバス停で二人はバスを離れました。急いで物陰に逃げて、トンボは改めてセミの若者に観光地を紹介し始めました。

「ようこそ!ここが人間の住む町。どう?大きいでしょう?」

ビルとビルの合間の影から町を見渡すと、灰色の木が多く並び立ち、大きな山のような建物が連なり、なにより人間達が数え切れないほど歩き回っていました。

「これが人間の集落…。」

最初にトンボが言っていたように空気は美味しくなかったものの、故郷では見られなかった迫力のある光景に、セミの若者は言葉を失っていました。

「今日のところは近くの水辺で一休みしましょう。観光と帰郷は明日ね。」

慣れた様子で飛んで行くトンボの後についていくと、無機質に包まれた町の一角に緑溢れる公園がありました。近くの川は、故郷のそれよりも濁っており、公園の木々もすすけたような汚れがあって、埃っぽいものが葉っぱにかかっていました。

「食べ物もあまり美味しくないと思うけど、今日明日限りだから我慢してね。」

捕まえた小虫をむしゃむしゃと頬張るトンボ。セミの若者も諦めて汚れた木の樹液をすすることに。案の定、味はお世辞にも良いとは言えませんでしたが、別の木に止まるセミを見つけて、この環境で生きるセミもいることを知り、樹液の味や寝床に恵まれていた自分は幸せ者だったと身をもって実感するのでした。そして、あまりよく寝付けなかったものの、貴重な体験をさせてくれた人間の集落と、ここに連れてきてくれた変な生き物やトンボに感謝するのでした。


 木の日、日の出と共にトンボに起こされたセミの若者は、彼女に連れられて人の少ない朝の町を散歩することになりました。昨日の数え切れないほどの人間の群集がまるで嘘のように、町には昼間の喧騒が無く、穏やかなひと時が訪れていました。公園から川沿いの道を進みながら、セミの若者は周囲の景色を見て改めて不思議に思いました。小さな橋の下を流れる水は飲み水にできないような濁りがあり、遠方に見える建物の煙突からは灰色の煙がモクモクと空を汚しています。昨日は気付かなかった、道路を走る車のお尻からも息苦しさを与えるガスが絶えず噴出しているようで、車が横切るたびに若者は顔を歪ませていました。

「人間達は、こんなに息苦しい環境でも生きていけるんだから、生命力の強い生き物なんだね。」

「そうね。やっぱり体の大きさの違いもあるのかしらね。」

人間への興味と町の環境の不満を駄弁りながら先を行く二匹。人間達が活動を始めた頃、トンボは大きな鉄塔の下で止まりました。

「さぁ、ここを上りましょう。」

ゆっくりと落ちないように少しずつ、途中に休みながら二匹はどんどん上を目指して飛んでいきました。塔のてっぺんに到達すると、街中とは別の息苦しさがありましたが、眼下には絶景が広がっていました。周囲を囲んでいた背の高い無機質な壁も外に出てきた人間達の群れも、全て自分達の足元。規則的に並び動くそれらは、芸術的な美しさがあるように思えました。セミの若者は、この町の神様にでもなったような気分で、元気に鳴き始めました。彼の上機嫌につられてトンボもまた、彼の歌に合わせて羽と頭を動かします。陽気に人間集落の穴場での時間を過ごして、二匹はバス停に戻り、来た時と同じ要領で故郷に帰っていきました。


 金の日、太陽が真上で輝く頃に故郷の公園に帰ってきた二匹。トンボは、観光のお土産にと、人間集落で拾ったという小さな青色のビーズをセミの若者にプレゼントしました。若者は、妻に良い土産ができたと大喜び。トンボと再会を約束して握手を交わし、最初の林を目指して飛んでいきました。人間世界の話や色々な生き物の話、早く彼女に聞かせてあげたいと、セミの若者はビーズを手に勢いよく進んでいきます。夕暮れ時になると、見覚えのある川が見えてきたのでそこで一休みをすることに。川沿いを飛んでいると、川から声をかけられました。地面に降りて川を覗くと、数日前にここで出会ったメダカが寄ってきました。

「よう、お前さん無事だったか。あの後どうなったのか心配してたんだぜ?」

「よく言うよ。先に逃げていったくせに!」

冗談を交えて二匹で大笑いして、再会を喜び合いました。それからメダカに自分の冒険の途中報告をして、メダカを大いに驚かせました。

「そんなに水が汚いんじゃ、俺達は住めないかもしれないな。もっとも、頼まれてもごめんだがね。」

こちらに帰ってきて美味しい空気や澄んだ水に触れて、改めてセミの若者は自分の育った環境が恵まれていることを理解しました。

「環境もそうだけど、食べ物にも困りそうだからね。」

公園や道路の両脇には樹液を吸える木がありましたが、それ以上に灰色で硬質な肌の木があちこちに生えていて、その木からは樹液が吸えずに、散歩中にしばしば喉が渇いたのを思い出しました。

「食い物は大事だよな。たとえそこに住めたとしても、獲物は水同様に何かに毒されて汚れているんじゃねえかな。」

「水の中に入ったメダカさんもね。」

互いの近況報告をし合い、気付けば夜も更けていました。楽しい時間を過ごした二匹は、また会うことを約束して、それぞれ寝床を見つけにその場を去りました。セミの若者は、近くの木にしがみつき、初めて人間にあったときのことを思い出しながら、ビーズを落とさないように眠りに就きました。


 土の日、林を進むセミの若者は、体に違和感を覚えていました。初めは人間集落の空気のせいだと思っていたのですが、それならば滞在中に体調を崩すはずと考えを改めました。謎の不調に耐えながらも、無事に妻と出会った場所に戻ってきたセミの若者。辺りを見回しますが、妻はどこにもいませんでした。

「そういえば、いつ戻るか言ってなかったなぁ。」

どうしたものかと困っていると、不意に両目をふさがれてしまいました。慌てた若者は、もがきながらしきりに鳴き声を発しました。と、目を隠した誰かが笑い声を上げたので、若者は落ち着きを取り戻しました。手をどけて後ろを振り向くと、そこには妻が笑顔で佇んでいました。

「びっくりするじゃないか、まったく。」

「ふふ、冒険から戻ってきた割には臆病なところがあるのね。」

おどける妻の額を小突いて、お土産のビーズを渡すと、その美しさに妻は大満足。若者の頬に口づけし、甘えるように彼に抱きつきました。

「私達の子供、ここの近くで産んだわ。周囲の安全も確認したからきっと大丈夫よ。」

「ありがとう。僕達の子供が外に出てくるのが楽しみだね。」

妻の頭を優しく撫でて、若者は妻を労わりました。妻も心地良さそうに目を閉じて、その感触を楽しむのでした。しばらく、夫婦の時間を静かに過ごした若者は、羽を広げて再びどこかへ行く準備を始めました。

「これから、外に出て最初に色々教えてくれたセミのおじさんに会わないといけないから行ってくるね。すぐに戻ってくるから、その時に紹介するよ。」

「…早く戻ってきてね。」

何故か寂しそうな顔になる妻の頭をもう一度撫でて、若者は大きく羽ばたいていきました。その翌日に、妻が見せた顔の意味を知ることになるとは、この時は微塵も思っていませんでした。


 太陽の日、セミの若者は酷く体調が悪くなっていました。体が言うことを聞かずに何度も落ちてしまいそうになりながらも、自分が外に出てきた木の根元まで降りていきました。あれから日が経ったせいか、残しておいた抜け殻は既になくなっていました。代わりに、その近くには新しいセミのものがいくつか残っていました。

「おじさん、来ていないのかな。そういえば、おじさんに会ったのも太陽の日だったんだよね。」

フラフラになりながら、辺りを歩く若者。しかし、おじさんの姿も目印と言っていた子供の姿も、どこにもありませんでした。おじさんは約束を忘れてしまったのだろうか。疲れた体を休めるために、木の根元に寄りかかっていると、近くでひそひそと声が聞こえてきました。声のした方をこっそり覗くと、二匹のアリが話をしていました。

「今日も食料が見つからないね。」

「向こうの担当はここ数日連続で大物を見つけてきているから、僕らもまた大物を見つけないとな。」

どうやら二匹は食料調達係のようです。自分には関係の無い話だと、聞くのを辞めようとしていた若者でしたが、次の言葉に思わず耳を疑ってしまいました。

「大物といえば、七日ほど前になるか。この近くででかい羽虫の死骸を見つけたんだよな。」

「ああ、近くの地面に穴が開いていたあそこな。あれは食べ応えがあったよな。あれってセミっていう生き物らしいよ。食料としては十分だと女王様も喜んでおられたよ。」

セミの若者は顔を青ざめて、ゆっくりとその場を離れました。頭の中に、嫌な事実がこだまし続けます。

(七日ほど前というと、僕が外に出てきた頃。その近くにいたということは、間違いなくそれはおじさんだ。旅立つ際、おじさんが木の根元で休んでいるのが見えた。じゃあ、あの時におじさんはもう…?)

こぼれる涙を拭おうとせず、若者は、その場でひたすら鳴き続けました。その声も段々枯れて弱々しくなり、体中に疲労を抱えた若者は、近くの木にもたれかかりました。そこでようやく自分の異変の正体に気付きます。

(ああそうか。おじさんは時間が迫っていたから、約束をした時悲しい顔をしたんだ。彼女も期限のこと知ってたのかな。言ってくれればよかったのに…みんなずるいや。)

「彼女に、彼女に会いに行かないと。」

心と体の痛みに耐えながら、若者は再び羽ばたこうと羽を広げます。と、近くの地面からセミの子が這い出てきました。セミの子は、しばらく初めての世界に目を輝かせていましたが、若者に気付くと彼の方に歩み寄ってきました。若者は、心配をかけまいと木に寄りかかって元気に声をかけました。

「やあ坊や…いや、これから一人前の大人になる君に坊やは失礼だな。」

「おじさん、こんにちは。ねえ、外の世界はどういう所なの?ここみたいに綺麗な色をしているの?僕たち以外にどんな生き物が暮らしているの?」

おじさんがしてくれたように、若者はセミの子に一つ一つ言葉をかけて、セミの子の巣立ちを見送りました。ただ一つだけ、再会の約束だけは、どうしてもできませんでした。今の自分のように悲しい気持ちになって欲しくなかったからでした。セミの子が成虫になり、遠くに飛んでいったのを見届けて、若者は最後の力を振り絞り、思いっきり空に羽ばたいていきました。最後の時を彼女と共にするために。


 月の日、若者は片足が動かなくなってしまったものの、なんとか妻の元に戻る事ができました。契りを交わしたその場所に、妻はビーズを抱えて横たわっていました。

「今…帰ったよ。」

おぼつかない足で妻に近付き、並んで横になった若者は、目を閉じた妻の頭をゆっくり撫でて、抱きしめました。

「遅くなって…ごめんね。」

涙を流しながら妻の頬に口づけをして、静かに最後の歌を口ずさみ始めました。声が聞こえたのか、彼の腕に妻の手が触れ、優しく擦ってくれました。

 こうして、若者の旅は静かな鎮魂歌と共に終わりを迎えたのでした。

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