超日本プロレス血風録

あるてみす

I Won't Do What You Tell Me

 超日本プロレスとは、創立二十五周年を迎えた団体である。

 所属レスラーは総勢十八人、そのうちの二人がフリーだ。

 平成三年に設立された当初は所属レスラーの数は少なく、アメリカの団体で世界王座とヘビー級王座を獲得した“拳豪”武藏原厳生むさしばらいわおと、老舗の団体で三度に渡ってヘビー級王座防衛を果たした“テクニカル・メカニック”小倉定利こくらさだとしの二枚看板で成り立っていた。

 あらゆるプロレス団体がそうであるように、超日本プロレスも順風満帆とはいかなかった。設立当初の経営者と武藏原の方針が合わず、武藏原が怒りのあまりに試合を放棄しかけたこともある。スポンサーとの折り合いを付けるために芸能人をリングに上げて試合を行ったところ、ファンから大ブーイングを浴びたこともある。武藏原と小倉の抗争がメインだったため、大会となれば二人の試合ばかりになってしまい、飽きられたこともある。鳴り物入りで呼び込んだ外人レスラーがリングの外でトラブルを起こしたばかりか、一試合もせずに帰国してしまったこともある。プロレスが下火になって総合格闘技が台頭していた時代には、有力なレスラーが退団して総合格闘技に転向してしまったこともある。昭和の金銭感覚で経営していたために経営不振に陥り、倒産しかけたこともある。

 それでも、超日本プロレスは生き延びてきた。それはひとえに、プロレスへの愛と情熱があるからだ。沈没しかけた超日本プロレスを再浮上させるべく、小倉貞利は経営のノウハウを一から学んで社長に就任し、武藏原はこれまでの経歴をフルに活用して営業に回りながら、未来の超日本プロレスを支える若手レスラーの育成にも尽力し、受けるためにはどんな試合もした。その甲斐あって、年明けのドーム公演では観客動員数が五万人を超え、ファンの裾野も広がり、右肩上がりである。

 今のところは、だが。



 青天の霹靂だった。

 ヒールユニット、悪の秘密結社のリーダーである“暗黒総統”大上剣児おおがみけんじが他の団体へと移籍すると言ったからだ。改まった席でもなんでもなく、トレーニング後の雑談の最中にぽろっと漏らした。大上以外の全員が面食らっていると、大上はへらっと笑った。

「というわけだから、次の試合で俺を追放してくれよな!」

「ちょ、おい、ちょっと待ってやゴルァアアアアアアッ!」

 動揺しすぎて試合用のスイッチが入ってしまったのか、“ハードコア・ジャンキー”残忍はマスクも脱がずに大上に詰め寄る。

「いつのまに入門テスト受けてきやがった! どこのだ! アメリカかメヒコか! でなきゃUKか!」

「前者ですよ」

 大上は残忍を押しやると、汗がたっぷりと染みたTシャツを脱ぎ捨てる。二十七歳になったが、体の仕上がりは抜群で筋肉の付き方に過不足がない。アメリカの団体に移籍するとなると、これからは筋肉を増量するトレーニングに切り替えていくのだろう。

「大上君、社長には言ったの?」

 “摩天楼の荒鷲”アギラが不安げに問い掛けてきたので、大上は頷く。

「それはもちろん。いきなり移籍したり独立したりすると、一昔前みたいにぐっちゃぐちゃの抗争になっちゃいますからね」

「Uの遺伝子が蘇りそうなことを言うな」

 “バンカー・バスター”KOMATSUが渋い顔をした。元々色黒なのだが、最近日に焼けたせいでより肌の色が濃くなっている。

「移籍するのは大上の勝手だが、そうなると抗争の流れが変わってきちまうなぁ……。どうしたもんかな」

「とりあえず、俺が大上にケンカを吹っ掛けるべきか、大上に吹っかけてもらうかを決めてもらわないと」

 “神速の疾風”野々村速斗が、煩わしげに大上を見やる。

「だがよぉ、まず最初にやるべきことは、さっさと引き上げることじゃねぇか?」

 “ラテンの狂鳥”ファルコが苦笑したので、レスラー達は身支度を整えた。練習生に掃除をさせるにしても、まずは道場を空けなければならない。今後の展開について社長と話し合うにしても、汗みずくの格好では締まりがない。

 “ギーク・ボーイ”鬼無里克己きなさかつみは、一連の出来事を傍観していた。鬼無里も悪の秘密結社の一員なので、大上が抜けた後も悪の秘密結社を盛り上げていく方法を捻り出さなければならないが、なんとなく気が入らなかった。理由は色々とあるが、最も大きな理由は魔法少女ミラクルかれんだった。子供の頃に好きだったアニメが配信されているので、それが見たくて見たくて仕方なかった。しかし、これから筋トレをしなければ、理想の筋肉から遠ざかってしまう。だが、魔法少女ミラクルかれんは見たい。配信終了後にはブルーレイBOX化されるだろうし、もちろん初回特典付きのものを買うつもりではいるのだが、それはそれだ。

 となれば、ああするしかない。



 スマートフォンを目の前に置き、イヤホンを指す。

 それから、ひたすらエアロバイクを漕いだ。小さな画面の中では、魔法少女に変身して宇宙怪獣と戦うことが定められた少女、伊集院かれんが魔法少女姿で奮闘していた。絵柄が可愛くて演出もポップなのだが、いかんせんストーリーがえげつなくて毒々しい。だがそれがいい、と内心で漏らしながら、鬼無里はひたすら足を酷使した。

 下半身が細すぎる、とトレーナーからも先輩レスラー達からもよく言われる。上半身の筋肉は良い感じになってきたし、自分としては下半身もちゃんと鍛えているつもりだったが、つもりでしかなかったようだ。

 トレーニングメニューを相談しないとなぁ、食事の内容も考え直さないと、などと考えつつ、鬼無里はアニメを一時停止させた。イヤホンを抜いたところで、声を掛けられた。

「鬼無里君、なんか久し振りだね」

 声の主は鬼無里の胸どころか腰までしか背のない、ひどく小柄な女性だった。アギラこと鷲尾明良の妻、鷲尾未羽わしおみうだった。

「未羽さん、お久し振りです」

 鬼無里はタオルで汗を拭ってから、挨拶を返した。アギラと未羽もまた、このジムの利用者だからだ。超日本プロレスの道場から程近いことと、トレーニング器具の品揃えがいいからでもある。だが、未羽の下腹部は丸く膨らんでいるので、今は筋トレが出来る状態ではない。

「ほら、ここのジムってマタニティヨガもやるでしょ? だから、その申し込みをしにきたの」

「ああ、そういえばそうでしたね」

 思い出してみれば、受付に張り紙があった。鬼無里は納得した。

「で、鬼無里君は筋トレだね」

「いつも通りですけどね。未羽さん、マジカルかれんって知っています?」

「あー、知ってる知ってる。あれでしょ、怪獣と戦うやつ!」

「で、今、それが配信されているんですよ」

 ほら、と鬼無里がスマートフォンを見せると、未羽は身を乗り出してきた。

「あ、本当だ。知らなかったなー。え、もう十三話までやっちゃったの?」

「有料会員になると、過去に配信された話も見られますけど」

「うーん、そこまでするのはちょっとなぁ。でも、ありがとう!」

 筋トレ頑張ってね、と未羽はにこやかに手を振ってから、トレーニングルームを後にした。鬼無里も手を振り返したが、無性に恥ずかしくなったのですぐにやめた。それからシャワーを浴びた後、帰路を辿った。超日本プロレスの宿舎から出てアパートで独り暮らしをしているので、夕食を見繕ってから帰宅した。

 狭い部屋だが、自分だけの世界がある。



 大上剣児が離脱するとなれば、一悶着起こすのがプロレスだ。

 悪の秘密結社だけでなく超日本プロレス全体を巻き込んでの一大抗争にしよう、と言い出したのは社長の小倉定利ではなく、“拳豪”武藏原厳生だった。武藏原はベテランレスラーで構成されたヒールユニット、ブレン・テンのリーダーであり、ブレン・テンと悪の秘密結社は幾度となく構想を繰り広げてきたので、ぶつかり合わないわけがない。

「試合形式はロイヤルランブルかランバージャックか、ってところだが、まあロイヤルランブルだろうな」

 次の遠征先に向かうバスの中で、“吸血鬼”ブラッド・ブラッドリーが言った。その隣の席でタブレットでブラウザゲームに没頭していた鬼無里は、イヤホンを外す。

「で、勝ち残った奴が悪の秘密結社の次のリーダーになるってやつですね。ニューリーダー争いにしてはあっさりしすぎな気もしますが」

「王座戦と絡められたらガッツリ盛り上げられるんだろうが、生憎、うちの大将はヘビー級王座を奪われちまったッスからねぇ」

 残忍、もとい、素顔の須賀忍が大上を見やった。前の座席に座っていた大上は肩を竦め、苦笑する。

「それを言われると厳しいですね」

「話の流れとしては、俺らが謀反を起こすってことでいいんだな?」

 “猛牛”牛島実うしじまみのるが問うてきたので、ブラッドが答える。

「そうそう。で、あとはまあいつもの感じで」

「欲を言えば、大上さんとは一対一で試合してみたいんスけどね。つうか、もっと空中殺法を見たかったんスけど、使用頻度が低いんスよ。それが勿体ないっつーか」

 忍が不満がると、大上はやりづらそうに長髪を乱す。試合の時は一括りに結んでいるのだが、バスの中では解いている。

「俺がムーンサルトを決めたって、シノブちゃんは切り返しちゃうだろうが。場外だろうがなんだろうが」

「ドラゴン・ラナもどきの完成度を上げるためには、練習台が必要なんスよ」

 忍の言葉に、一番後ろの座席に座っていたKOMATSUが嘆息した。

「道理で、最近はレッグシザースで投げられると思ったよ」

「コマッさんはスピアーで突っ込んできてくれるんで、掴みやすいんスよ。これからもよろしくお願いしますね」

 忍がにやにやすると、KOMATSUは舌打ちする。

「手の内が解った以上、次の試合じゃそうはいかないからな」

「先輩の最終的な目標ってなんなんです?」

 鬼無里が尋ねると、忍はにっと笑う。

「そりゃもう、ラ・ミスティカだろ!」

「ああ、そいつぁいいねぇ。シノブちゃんの体格だと、相手がデカけりゃデカいほど見栄えが良くなるってもんよ」

 出来るようになったら切り返してやるけどねぇ、とけらけらと笑ったのはファルコだった。以前はベビーフェイスだったが、ヒールターンしたのでこちら側のバスに乗っている。

「で、俺が離脱するって話はまだ外部には漏れていないですよね? 自分でもエゴサしてみたんですけど、ツイートもニュースも一件も引っ掛からなかったんで、当日までは隠し通して下さいね」

 大上がしれっと言ったので、ブラッドが苦笑する。

「そりゃ、お前は腹が決まっているからそれでいいんだろうけど、もうちょっとこう、言い方ってのがあるだろ?」

「アメリカでコケて出戻ってきたら、散々虚仮にして下さいね」

「いや、だからさぁ……」

 ブラッドが窘めようとすると、一番前の席に陣取っていた武藏原が振り返った。

「いいんじゃねぇのか、それで。テンションの持って生き方が違うだけだ。お前らはユニットの内部抗争が肝だろうが、大上はそうじゃねぇんだ。――――ノノと決着付けるんだな?」

 試合の時と何ら変わらぬ鋭い眼光で、武藏原は大上を捉える。大上は浮ついた表情を収め、トップレスラーの顔になる。

「そうです。今の俺とノノは実力差がほとんどないけど、俺が超日を離れた後はどうなるか解りません。俺だって、まだまだ上を目指すつもりです。ノノは色んな意味でいいライバルでしたけど、良すぎたんですよ。いつのまにか、どっちも技も力も寄せていくようになっちゃって、タッグを組んでいた時みたいなギラギラしたものも失せていくような気がして。だから、このままじゃ俺もノノも行き止まると思ったんです」

「だから、今、離脱するのか」

「……はい」

 大上は膝の間で指を組み、深く頷いた。しばしの間、バスの中は静まり返っていた。大上が超日本プロレスに嫌気が差したわけでもなく、同僚達を疎んでいるわけでもないことは、皆、知っていた。だが、離脱した理由については深く聞かなかった。聞こうとしなかった、聞きたくなかった、といった方が正しい。そうすることで、

大上との距離感を保とうとしていたのだ。しかし、“拳豪”は違っていた。妙なわだかまりを作らないために、するべきことをした。

「それ、離脱後にインタビューで話せよ。俺らの胸の内に収めておくには、ちょっと重すぎるんだよ」

 ブラッドが大上を小突くと、鬼無里はスマートフォンを操作した。

「さっきの話は録音しておいたので、原稿に起こすなら使ってくださいね、大上さん」

「お前、有能すぎるっつーかさすがに怖ぇよ」

 残忍に呆れられるが、鬼無里は音声ファイルを大上のアドレスに送信した。

「保存しておいて損はありませんよ」

「……気持ちだけもらっておく」

 大上はスマートフォンを見、半笑いになった。それから、鬼無里はブラウザゲームに意識を戻したが、あまり気が入らなかった。鬼無里の一つ年上である大上剣児は、超日本プロレスにおいてもプロレス業界全体においてもケツの青い若造だ。それなのに、トップレスラーが成り上がれたのは、当人の才能もさることながらライバルに恵まれたからだ。プロレスは一人では出来ない。相手のレスラーとの相性が良くなければ、実力を発揮出来ない。だから、同い年でほぼ同じ経歴でありながらも、ヒールとベビーフェイスとして激突していた大上と野々村はこの上なく恵まれていたのだ。

 だが、自分はどうだろう。鬼無里は美少女達が躍る液晶画面から目を外した。団体の最年少であり、悪の秘密結社でも下っ端扱いで、ジョバーに成り下がっているが、そこに甘んじているつもりはない。試合に勝ってタイトルも獲り、団体からプッシュされるような位置付けになりたいとは思っている。しかし、何かが足りない。経験も技術は当然として、それ以外にも何かがあるはずだ。

 だが、それが見出せない。



 上半期のリーグ戦の結果は、一回戦負けに終わった。

 かつては鬼無里と同等かそれ以上のジョバーだった残忍は準決勝まで勝ち上がったが、惜しくも敗退した。対戦相手はアギラで、ルチャの技を存分にぶつけ合っていた。残忍のロープワークは日を追うごとに切れ味が増していて、サードロープを使った場外へのムーンサルトの角度は怖気立つほど鋭かった。それを受けるアギラも絶妙で、残忍が出したくても出せずにいる大技、ラ・ミスティカを決めてみせた。人工衛星レッグシザースからの旋回式腕固め、なのだが、ルチャリブレの本場でも滅多に出ない大技が出たことで客席は大いに沸いた。アギラに対する声援もさることながら、残忍への声援も大きかった。

 少し前までは、羨ましいと思うだけで終わっていた。先輩もやっとブレイクしたんだなぁ、と安堵すら覚えていたのだが、複雑なものが込み上がってくる。

 ノンタイトルマッチの試合を終えて控室に戻ってきた鬼無里は、両手に巻いたバンテージを外した。きつく締めつけていたのに、汗やら何やらで緩んでしまうのはいつものことだ。“へヴィメタル”虎徹こてつからチョップを何度も浴びせられた胸が赤黒くなり、熱を持ってずきずきと痛んでいる。練習生が作ってくれた氷袋を当ててアイシングをすると、痛みは紛れたが、心中の疼きは収まらない。

「鬼無里、余計なことを考えていただろ。ドロップキックの角度がいい加減だったからな。それが解らないとでも思ったのかよ」

 試合後のインタビューを終えて戻ってきた虎徹が、荒っぽい言葉を吐いた。いつもは気のない返事をしてやり過ごせるのだが、今日はなんだかそんな気分になれなかった。かといって、口を滑らせれば試合の続きになってしまう。答えあぐねて押し黙っていると、虎徹は水を呷ってから言った。

「お前、向いてねぇんじゃねぇのか。プロレスに」

 これまで、師匠である武藏原にも他のレスラーからも言われてきた言葉だった。その都度、そんなことないですよ、と言い返してきた。今回もそうするべきだったのだが。

「――――かもしれませんね」

 中身がすっかり溶けた氷袋を握り締め、鬼無里は口角を歪める。

「大上さんが抜けたら、悪の秘密結社のリーダーになるのはブラッドさんしかいないでしょう。てか、ロイヤルランブルでリーダー争いをするとしても、どうせ俺はさっさと落とされちまう。惰性でユニットに入れてもらっているだけであって、俺がいてもいなくてもなんにも変わりはしない。先輩もどんどん上に行く。牛島さんはどのユニットにいようが立ち位置がブレない。ブラッドさんはそこにいるだけで華がある。でも、俺はなんなんでしょう」

 氷袋を握り締めすぎてビニールが破れ、生温い水が滴る。

「ああっ、くっそぉ、訳解んねぇ……」

 今まで、こんな気持ちになったことはなかった。負けても次で巻き返せばいい、とすぐに切り替えられたのに、悔しくて悔しくて悔しくて顔が上げられない。大上が出世するのが面白くないからか、残忍が高みに上るのが面白くないからか、それとも。

「武藏原さんなら、ここでお前をぶん殴るんだろうが」

 虎徹は鬼無里の頭に冷水を掛けてから、髪をぐしゃっと乱してきた。父親が息子にするような仕草だった。

「俺はそういうキャラじゃねぇから、この辺で勘弁しておいてやる。あと、愚痴を零すなら相手を選べ。正規軍に弱みをぶちまけてどうする。なんだったら、次の試合でいじってやろうか」

「あ、それはそれでいいかもしれませんね」

「だったら、覚悟しておけ。試合後に泣き言吐くような甘ったれたクソガキだって煽りに煽ってやる」

 さっさと着替えろ、と虎徹は鬼無里の背中を平手で引っぱたいてから、シャワールームに向かっていった。チョップとは異なる痛みに辟易しつつ、鬼無里も着替えとタオルを抱えて体を洗い流しに行った。だが、汗は流れても心中の淀みは消えなかった。

 何が悔しい。何が面白くない。



 地方巡業を終えても、釈然としなかった。

 合同練習とトレーニングを済ませても、水溜りが出来るほど汗を流しても、筋肉をいじめ抜いても、好きなアニメを見ても、ゲームをプレイしても、どこか上の空だった。自分が何をしたいのかが見えそうで見えないのが歯痒いが、かといってその苛立ちを先輩達にぶつけるわけにもいかないので、鬼無里は悶々としたまま過ごしていた。

 オフに遊びに行こうかな、またガルパンでも見ようかな、だけどな、と考えながら、鬼無里はトレーニング後にジムに向かった。書店の店頭にはプロレス雑誌の最新号が陳列され、大上剣児の移籍について大々的に報じていた。前回の試合後に大上自身が公表したからだ。だから、これからは悪の秘密結社の次のリーダーを決めるための内部抗争が始まるのだが、どうにも気が入らない。成り上がれるチャンスだが、しかし。

「鬼無里さん、ですよね?」

 ジムの入り口に差し掛かったところで、声を掛けられた。知り合いじゃないな、知らない声だ、だったら超日のファンかな、と思いつつ振り返ると――――若い女性が立っていた。地味というよりも堅実な服装で、濃いブルーのジャケットにストライプのブラウス、ロングスカートにパンプスを身に着けていた。アクセサリーは付けておらず、長い黒髪を後頭部で一纏めにしていて、メガネを掛けていた。身長は鬼無里の胸の高さ程度で、女性としては少し高めだ。

「ええ、まあ」

 プライベートだけどまともに対応しないと炎上するからなぁ、と鬼無里が彼女に向き直ると、女性は強張った顔で吐き捨てた。

「死んで下さい」

「え、あ」

 大上さんのファンかな、でも、大上さんにケンカ吹っ掛けるのはこれからなんだけどな、だけど俺は童貞だから女の人に恨まれる節はないし、ストーカーかなぁ、だとしてもリアクションに困るんだけど、と鬼無里が答えに迷っていると、彼女はトートバッグから封筒を取り出して地面に叩き付けた。

「あの」

「あんたなんかに二度と会いませんから!」

 彼女は声を裏返し気味に怒鳴ってから、小走りに去っていった。

「……そりゃどうも」

 鬼無里は変な笑いを浮かべた。それはこっちのセリフだ。だが、何を捨てていったのかは気になるので、封筒を拾ってみた。宛名はなく、封もされていない。中に入っていたのは便箋ではなく、数枚の写真だった。それを目にした途端、鬼無里は硬直した。

 父親と不倫相手、そして不倫相手の娘が写っていた。

 それが、先程の彼女だった。

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