12章:ふたまたチャラ男が失ったもの

 彼女に入れる必要はなかった。彼女がソレを入れてくれたからだ。ベッドシーツに全裸で仰向けになったツバキの上に、ローズマリーがいる。ひらひらしたマッシロのワンピをつけたまま、彼にまたがっている。ローズは堅くなった彼のペニスをしぼるように握ると、ゆっくり時間をかけて自分の中にはめ込んだ。


           それが2人の初めての瞬間だった。


 ツバキが思った以上に、中はタイトでウェット。真下から見上げる彼の目に、彼女はおそろしく大きく見える。祖母がロシア人だというローズの身長はまだ伸びていて、睡眠中によく骨がバキバキ鳴るそうだ。まるで自由の女神だと彼は思う――王冠をかぶってタイマツを掲げれば完ぺきなNYの女神像だ。


 ローズマリーは、ワンピをひらひらさせながら腰をゆらゆら揺らす。自由の女神の騎乗位キジョウイ、その上体は遥か上空にまで伸び上がり、顔は雲の中に隠れているようだ。乱れる長いブラウンの髪にシーツを固く握り締める手。そして痛みを隠そうと無理やり作る笑顔。彼女の中の熱い苦悶クモンは、ペニスを通って彼のカラダの中に染み込み、甘い快感となる。ローズは、またがったまま腰を動かす。自らの感じやすい例のスポットを見つけようと挿入したペニスをあちこち動かす。


 だが――いつまでも彼の息子に迷路をさまよわせては気の毒だと思ったのか――そのうち円を描くように腰をグラインドし、スポットに導こうとする。その様は極めてエロティックだ。たまらずツバキは下からペニスを突き上げた。

 本能がキバをむき、腰の動きがどん欲にエスカレートする。

 互いのカラダが激しくぶつかり合い、パンパンパンと乾いた音が響く。ローズはワンピースをはぎとるように脱いで全裸になった。

 いくら長身でもまだ17才。そのカラダは幼く、スラリと伸びた手足もどこか貧弱だ。彼の上でロデオのカウボーイのように揺れているが、全身の骨は今にもポキポキと折れてしまいそうだ。ツバキが突き終えると、彼女は叫び声を上げて彼の胸元に倒れた。

 彼が口づけて聞く。

「大丈夫?」

 彼女は全身で荒々しく呼吸をしながら言う。

「バカね、なぜやめたのよ」


                  * 


 時計の針を戻すと、この日、ツバキは取引先のホームセンターに花をオロすため地元の観音寺カンオンジから坂出サカイデ市に車でやってきた。そして、昼過ぎにそれが終わると市内に住むローズマリーにメールを入れた。

 これから近所で会えないか。

 彼女はそれを了解し、前に海で描いた絵が完成したので彼に見せたいと返信。そこで彼が車で彼女のマンションまで迎えに行き、その後、市郊外の公園で散歩した。


 8月の昼の太陽は激しく、セミの鳴き声も凄まじかった。若い2人もさすがにバテかけた頃、ツバキが休憩場所を見つけた。それは公園脇に立つ古ぼけたビジネスホテルだった。だが、豊かな緑に囲まれ、真夏の熱気で蜃気楼シンキロウのようにユラユラとゆがむその外観はどこかロマンチックでもあった。

 ツバキが、あそこで少し休まないかと聞くと、ローズは、あれはホテルじゃないのと返した。彼は落ち着き払って言う。

「一度、君とはああいう場所で将来について真剣にしたいって思ってたんだ」

 それに彼女はツンと尖った鼻でフンと笑う。

「もうこの暑さには耐えられないわ。エアコンがある場所なら、どこにでも行きたい」

「OK、じゃ、あそこで決まりだ」

「ちょっと待って。本当にディスカッションしたいだけなの?」

「ローズ、俺はディスカッションよりを好む男だ」

 そこで彼女は珍しく怒って、「一体何が言いたいの!」

「I want you」

 彼はおどけた顔で言う。

「I need you, I love you」

 彼女は子供のように笑った。

「アナタ、本気なの?」

 彼は自分自身を哀れむような顔つきで、不幸な事にと言う。

「君を愛さずにはいられない」

「ラヴェンダーガールはどうなの?アナタにはもう1人、ガールフレンドがいるんでしょ」

「そんな事は関係ない。今、俺は君が欲しいんだ」

 ツバキは真顔でそう言い切った。そこで彼女は木陰で日傘をたたみ、腕組みをして彼の目をのぞきこんだ。

            丘の上で2人は見つめあった。


 ツバキの耳から巨大な滝の轟音ゴウオンのように鳴り響いていたセミしぐれが完全に消えた。彼の中で、彼女以外に何も存在しなくなる。長身のローズは上から目線で彼を見続けた。無表情だが、その目だけは全てを見透かすような光を放っていた。彼はただ純真に――まるでただ早く友達と遊びたいがためだけに家の窓辺にたたずみ、外の雨が止むのをジっと待っている少年のように――彼女の気分が晴れることをひたすら欲していた。

「Getta Hell out of here」

 そう言って、彼女は腕組みをほどいた。

「分かった。あなたが行きたい所に、ついてゆくわ」

 思わずツバキは飛び上がった。猛烈な日差しが注ぐ芝生の上でアッチコチ、発情したカンガルーのように飛び跳ねた。


                  *


 事の後、2人はホテルのシャワーを交互に使った。ローズマリーはツバキに見せるために自分の絵を持ってきていたのだが、照れくさいので自分がシャワーを浴びる間にツバキに1人で見て欲しいと頼んだ。先に彼がバスルームに入り、手早く体を洗った。そして出ると、ローズが彼にウィンクして中に入った。シングルハーフのベッドの上には彼女の絵が3枚並んでいて、さっそく彼は見てみる。

 どれも水彩画であり、以前2人で行った海の絵が描かれていた。

 1つは、ツバキが浜辺に突き刺したサーフボードの横で笑って立っているものだ。もう1つは岩場の大きな潮溜まりの中で2人が並んで仰向けに浮かんでいるもの。タイマーモードでデジカメ撮りした写真を元に描いたのだろう。


 最後の1枚は彼がサーフィンしているもので、山脈に囲まれた入り江の海の中に小さく描かれていた。

 ツバキが1番に心魅かれたのは、その最後の絵だった。ホテルの窓から入る夕陽を当ててベッドの上でじっくり見る。彼の目に、それは印象画と重なった。園芸家の彼の父は花や庭園を描いた西洋絵画を家のアチコチに飾っていたので、彼は日ごろからモネやセザンヌの複製画を見ていた。それらと同じように、ローズの海の絵も彼女の心象風景をそのまま映し出しているようだ。


 山々はクリア・グリーンで晴れやかに描かれ、対照的に瀬戸の海は暗い緑色でぬりつぶされている。全体的に見ると、ユニークなイラストのようにも見える。海の水平線はやわらかく上にカーブし、下にある入り江の海岸線は楕円を成して下にカーブしている。

 そのため、海がコップに溢れるほどに注がれた緑茶のようにも見える。一方で海に浮かぶサーファーは、自然という器の中で優しく守られているようだ。いつも海に対し畏敬の念を抱いている彼には、その可愛らしい海のイメージがとても斬新に見えた。


 ローズがバスルームから出てきた。ミントグリーンのバスローブを巻き、タオルで長い茶髪をぬぐいながら近づいてくる。

「どう、気に入った?」

 ツバキはベッドにある画用紙の1枚、浜辺に立つ彼自身の絵をかざして言う。

「Not Bad」

 次に潮溜まりに浮かぶ2人の絵をかざす。

「Pretty Good」

 そして、最後に海の絵を手にとって前にかざす。

「FANTASTIC!」

 ローズは笑い、ベッドに座って彼の肩に手を回す。

「俺、あんまり絵の事は分からないんだけどさ。ただ、2つの事だけは分かる。1つは、君がこの絵を描くのに、相当の時間をかけたって事。もう1つは、君がこの絵の中に入り込んでいたって事だ」 彼は、真顔で彼女を見つめる。


「何よりディテールがすごい。海から山からすごく細かい所まで丁寧に描かれてる。それはプロ・サーファーでも同じ事なんだ。皆んなそれぞれのルーティン・ワークがあって、海に入るんだけどさ。才能のあるサーファーほど、そのルーティンがすごく細かいんだ。波をパドリングしてボードに乗ってサーフィンしてワイプアウトする。すごい奴らは、ほとんど1秒ごとにそういった一連の動きをコントロールしてる。

 それと同じように、ローズの絵も細かくて完成度が高い。それは、とてもタフで忍耐強い事だ。俺はそれがどんな分野でも、プロの1番の条件だと思う。だからさ。くどいようだけど、君は画家になった方がいいんじゃないかって思うんだ」


 ローズは笑ってベッドに仰向けに倒れた。そして言う。


「ほめてもらって嬉しいんだけど、私はやっぱり医療の道に進みたいの。大学で勉強して、ゆくゆくは国際的な医師ボランティアの団体に入りたいのよ。『国境なき医師団』って知ってる? 私の夢はその一員になる事よ。ねぇツバキにはサーフィン以外に何か目標はないの?」

「何て言うか。俺はローズみたいには生きられないんだ。現実的なタイプじゃないし。かといって夢を純粋に追いかけてるワケでもなくて…」

 ツバキはため息をついて、彼女の洗い髪にそっと指を入れた。

「サーフィンするのも、単なる現実逃避なのかも知れない。そもそも波っていうのは、実はこの世で1番、非現実的なものなんだ。

 ローズ、知ってる。地球と月の引力って綱引きみたいに海を引っ張り合ってんだよ。それで引き潮や満ち潮といった波が生まれる。だから、どんな波もその2つの星の中間点、そのはざま、そのものすごいエネルギーがぶつかり合う場所で生まれるんだ。波に乗っかってるサーファーってのは皆んな、そこを目指すんだよ。星と星の間なんていうワケの分からない場所にね。だから皆んな異次元で遊んでる宇宙人みたいなもんなんだよ」


 ローズはベッドから離れ、ソファの椅子に座った。


「ツバキは、この世をより良い場所にしたいって思った事はないの? 私は医者になって、そうしたいと思う。だから、絵描きになってもしょうがない。だって、それじゃ何も変えられないもの」

「そんな事はない」

 ツバキはサーフィンの絵の画用紙を手にする。

「この絵は俺を変えた。俺の心を変えたよ。この絵の中の海はとても優しい。優しく俺を包み込んでいる。だから、次にサーフィンする時、俺はもっと海に感謝するだろう。波にキックされても腹を立てないかも知れない。サーファーにとって、そういうクールなマインドはとても大切なことだ。

 確かにアーティストは世界を変えない。だけど、人の心は変えられる。絵描きだってそうだ。それこそが、世界が変わるための第一歩となるもんじゃないだろうか。とにかく、サーフィンみたいな子供の遊びとは違うもんだよ」

「そんな事はない」

 今度はローズが言う。

「アナタのサーフィンも私を変えた。私の絵を変えたよ。今まで、私はこの絵の海のように生き生きとした色を描く事は出来なかった。アナタのサーフィンを見てエキサイトしなければ、そんな色は出なかったハズよ。

 スポーツは人に力を与える。きっとアナタのサーフィンは多くの人を元気にさせられるものだと思う。それだって立派な世界への貢献じゃない。この世界をより良い場所にする力になってるのよ」

 ローズはソファからベッドに戻って、彼の手を握りブルーの瞳で彼を見つめた。

「ローズ、俺がさっき公園で言ったこと覚えてる?」

 彼は彼女の肩を優しく抱く。


「俺は、ディスカッションよりもパッションを好む男だ」

 ローズのミントグリーンのバスローブがバナナの皮のようにサクサクとむかれた。彼女は何も抵抗しなかった。まもなく、ベッドシーツから3枚の絵が滑り落ちた。






                 ✿




 

 TVとは恐ろしい。スマホやSNS全盛の現代でもその絶大な影響力は衰えることなく、時に人の人生にダメージを加え、さらに完全に破滅させることさえある。

 ツバキは身をもって、それを知る事となった。あるTV番組。そのたった1回のオンエアが、彼に悪夢をもたらした。その放映後、たった1週間で、彼はずっと故郷で築き上げてきたもののほぼ全てを奪われてしまったのだ。


『うどん県キマイナ』。

 香川県と岡山県限定で放映されるTV番組の中に、こういう名前のグルメ旅行番組があった。地方枠とはいえ、進行役の女子アナがぶっとびキャラだったり、金曜日夜のプライム・タイム放映だったりで、両県ともにNHKの朝ドラ並みの視聴率を弾き出していた。

 先週、その番組に地元アイドルが登場した。

 ユーチューブのビデオ日記によってネット界で旋風を巻き起こしたアメリカ人姉妹、ローズマリーとジャスミンだ。2人は岡山県の倉敷で陶芸や凧揚タコアげや独楽コマ回しなどのジャポニズム体験をし、TVの前の視聴者はそんなアメリカン・ガールズの奮闘振りを大いに楽しんだ。


 それだけなら問題はなかった。全く何の問題もなかった。ただ、その中で進行役の女子アナがある質問をしなければ。そして、妹のジャスミンがアレコレ口出ししていなければ。またはTV放送における個人情報保護原則の元、編集でそのやり取りがカットされていれば、何の問題も起こらなかった。

 だが実際はそうならなかった。番組中、女子アナはローズに、地元出身のカレシについて聞いた。それによって以下の3点がTVで公になった。


          ローズのカレシは香川県出身者である事。

      出会いは高松市で行われたアメリカ海軍の歓迎イベントでの事。

        そして、そのカレシがサーファーであるという事。


 しかし、これだけなら決定打にはならなかった。知人友人が見ても、もしかしてあいつ、いやまさか…の域に止まっていただろう。だが、事態は先に進んだ。番組のエンドロール中、アイドル姉妹は夕焼けの瀬戸大橋をバックに笑顔でカメラに手を振った。まさにその時、ジャスミンが、こう叫んだのだ。


            「How are You, TSUBAKI!」


 当のツバキはバイト先のダイヴァーショップで働いていたため、放送を見ていなかった。幸運にも、彼のナースの恋人であるシノブも病院で夜勤に励んでいた。

 しかし、彼女にはエリカという名の妹がいて、家でその番組をしっかりと見ていた。

 そういったワケで翌朝、夜勤明けのシノブが家に帰ると、寝ぼけまなこのエリカが2階部屋からドタバタと玄関に駆けつける事態になった――エリカと同じように、それに気づいた地元の知人は後にツバキが知るだけでも7人いた。

 噂は3日の内に、地域全体に知れ渡る事となった。TVとは時に恐ろしい。それが小さな田舎町であれば、なおさらだ。


 ツバキがそれを知ったのは、大瀬家での食卓の後だった。彼の白谷家とシノブの大瀬家は毎月、どちらかの家に集まって夕食を交わす。それは、例のグルメ旅行番組の放映日の2日後の事だった。シノブは、それまでずっと沈黙を守っていた。

 そうして、いつものように食後に2人で自室に入った時、彼女は始めた。

 

              戦闘を開始したのだ。


「ねぇツバキ、『うどん県キマイナ』ってTV番組知っとる? 香川と岡山で流れとる地方番組やけど」

 ツバキはのんきな顔つきで返す。

「何それ、俺あんまTV見んけんなぁ」

 そこで彼女は勝利を確信した。この男は事態について間違いなく何1つとして知っていない。であれば、いきなり急所を突けば、ほぼ確実にうろたえるだろう。長年の病院勤めで人間関係豊富な彼女には、それが充分に分かっていた。


    「なぁ、アンタ、最近、


 ツバキは、えっ!と声を上げた。

 しかも、それは彼女の部屋中に響き渡るような大声だった。

「え、ガイジン、誰それ?」

 彼は精一杯とぼけた顔で言った。

 それに、彼女は静かにため息をついた。今、一瞬で恋人の秘められた急所を思い切り突いたということが、いやというほど分かったからだ。

 シノブはスマホを手にしてユーチューブを開き、今香川で人気沸騰中のアイドル姉妹のページにジャンプした。小さな画面の中、長いブルネットの髪の少女が現れた。彼女は、自身の通う国際スクールの教室で、色んな生徒にインタビューしていた。


 ツバキは完全に混乱した。ローズが一体、なぜそんな事をしているのか、それに、なぜシノブがその動画の女を自分の彼女だと突き止められたのか。それがまったく分からず、うろたえた。

 ローズと会うのはいつも地元から遠く離れた場所だったし、2人のつき合いは親にも誰にも話した事はない。ばかな。こんな事、ありえるワケがない。

「アンタ、どうやら、この子らが今すごい事になってんの知らんようやな?」

 シノブはそう言って、うろたえる彼に全てを説明した。

 アメリカから坂出市に引っ越してきたフラウリー姉妹。その2人が今、県内でアイドル並みの人気者になり、最近地元TV局制作の旅行番組に出演したという事を教えた。

 その放映Vはすでにユーチューブにアップされていて、彼女はそれもツバキに見せた。スマホをタッチ操作し、その姉のカレシがツバキだと分かる姉妹の言葉だけを拾って見せた。そして最後に、妹のこの言葉を彼に聞かせた。


         「姉とサーフボーイ。今のところ、キスは2回」


 室内は重い静寂に包まれた。シノブはデスクチェアに座って背を向けたまま言った。

「黙っとらんで何か言いなよ」

 彼は何も言い返せなかった。黙り込むこと以外、一体何ができるというのだろう。まさか、ローズがそんな事になっているとは思ってもみなかった。何もかもが急に起こった事で、どう対処していいか、さっぱり分からなかった。

「正直に言うて、キスはしたん?」

 そこで彼はようやく覚悟を決めた。デスクチェアに座る彼女の正面に立ち、唇をかんで頭を下げた。

「シノブ、すまなかった。今まで隠してて本当にすまなかった」

 彼女はうつむいた。スマホの画面に涙が落ち始めた。

「正直に言うて。あの子とキスしたん?」

 彼はそれにうなずいた。彼女は言う。それ以上の事は? 彼はため息をついて言う。「した。本当にすまない」

 そう言ってカラダを寄せると、彼女は叫んだ。

「出て行け!」その声は部屋中に響き渡った。

「出て行け、バカ!」

 彼女は机にあったガラスの花瓶をふりはらった。それは大きな音を立てて床の上でバラバラに砕けた。瓶に生けられていたランは、今日ツバキが父の花畑から摘んできたものだった。ガラスの破片に紛れた花びらは、彼の目にひどく無残に見えた。

「本当にすまなかった」


 彼は頭を下げて部屋を出た。そのとたん、泣き声が弾け飛んだ。ビックリする程の大声だった。聞くだけで頭が破裂しそうな程にキンキンした痛々しい泣き声だった。

 そして、それは夕食後の大瀬家の居間にも届いた。ツバキがその前の廊下に差し掛かると、長男のヒロちゃんとエリカが出てきた。後ろに見える両親や祖父母も、何があったのかと顔色を変えていた。エリカは目に涙をためながら怒りに震えていて、ヒロちゃんも戸惑っていた。

「ツバキちゃん、一体どうしたんや?」

 そこでまた、ツバキは覚悟を固めた。大瀬家の全員をさっと見渡して言う。

「皆さん、すみません。俺は他に女を作っていました。それでシノブをひどく悲しませる事になりました。本当に、本当にすみませんでした」

 彼は一呼吸置いて深々と頭を下げた。そうして、逃げるように大瀬家を後にした。


 




                  ✿





 事はツバキが思った以上に悪く進んだ――いや、遥かに悪く進んでいった。最初、彼はすぐにでも謝る機会が得られるだろうと思っていた。もう一度やり直すチャンスが巡ってくるだろうと思っていた。

 だが、現実は違った。シノブは有給休暇を取り、3日後には親友たちと北海道旅行に行ってしまった。その前日、彼にこんなメールが届いた。


〖すべてを忘れるために、少し故郷を離れます。どうか私の事は忘れてください。それも出来るだけ早く。私がアナタにして欲しい事は、それだけです。どうか私には近づかないで下さい。私はもう、あんな気持ちにはなりたくありません。決してもう2度と〗


 それを読んで、彼も終わりを受け入れた。つき合っている間は、シノブが大らかな恋を望んでいるように思っていた。お互いに束縛せず、他に好きな人ができたら爽やかに別れられるような、そんな仲だと思っていた。だが、実際、シノブは一途に自分を愛していた。自分が思っている以上に愛してくれていた。俺の愛なんかじゃ全然足りないくらいに。彼女を失ってみて初めてそれに気づかされた。


 家族の間にも亀裂が走った。ツバキの父、清造は夏祭りを前にした懇談会のため地域の集会ホールに行く事があった。そこでは例年通り、酒屋蔵元の主人で市議会議員でもある大瀬さんが会長となって、話し合いが進められた。

 だが、そこで清造は大瀬さんから全く口を聞いてもらえなかった。20年来のつき合いでそんな事は一度もなかった。大瀬さんの取り巻きからも冷たくされ、懇談会では村八分にあったと言う。

 ツバキの母も、同様だった。この20年、大瀬夫人が営む美容室から花の注文を受けていたが、今週は断りの電話を受けた。

 そういった事から、ツバキは家の中でも孤立する事になった。父も母も彼の浮気を言語道断だと非難し、他にも小さな事を取り上げてはキツク当たった。そのうち、彼の方も嫌気がさして父の花畑や母の花屋での手伝いを止めた。


 友人の間でも同じような事が起こった。月に一度は大勢の地元の若者が集まっての飲み会があり、いつものようにツバキにも声がかかった。皆んな、彼がシノブと別れた事を知っていて励まし会をしたいと言う。

 だが、ツバキの幼馴染の親友が彼に会いに来て忠告した。

「アイツらは嘘をついている。仲間内ではTVで大々的にフタマタが暴露されたツバキをいい笑いものにしていて、飲み会に行けばきっと集中攻撃にあうだろう」

 さらに親友はこうも言った。


「それにしても、何でよりによって、。何で外人なんかと浮気したんや。まだ、地元や隣町の女やったら気持ちも分かるし、回りもそう怒らんかったやろう。けど、外人の女なら話は別や。シノブの身になって考えてみぃ。もし、あの子が白人の男と浮気してたら、お前、どう思う?」

 ツバキはそれに逆ギレした。

「お前、今自分が何言うてるか分かっとるんか。何で外人が問題になるんや。地元だろうが白人だろうが黒人だろうが同じ人間やろうが」

「そらそうやけど、そんな正論突きつけても、現実は何も変わらんぞ。実際問題、外人やなかったら、シノブちゃんも皆んなも、お前を見る目は全然違ったハズや。それはお前も充分に分かっとることやろ」

 それ以降、ツバキはその親友とさえ口を聞かなくなった。


 大瀬家の長男、ヒロちゃんもまた同類だった。彼は、日ごろからツバキに自身が勤める地元工場の技術者にならないかと持ちかけていた。

 そこでツバキはその面接も兼ねて会いに行く事にした。心の広いヒロちゃんならシノブとの一件について事情くらいは聞いてくれるだろう。そう思って、ツバキは工場側と取り交わした日時に現場に行った。

 だが、彼は出てこなかった。

 同僚によると、仕事に追われ面談が出来ないと言う。彼にはそれで充分だった。それだけで全てを理解した。きっとそれはヒロちゃんの意思ではない。彼個人は会って話くらいしてもいいと思っているハズだ。けれど、そうさせない何かがあった。それは地元の名家、大瀬家の面目だとかこの町での世間体だとか、そういうものだ。


 バイト先も例外ではなかった。夏になると、ツバキは近所の浜のダイヴァーズ・ショップで働いている。そこのバイト仲間やサーフ仲間、また小さな頃からサーフィンを指導してくれた店長も、彼の浮気を知っていた。彼らは皆、陰口を言ったり、よそよそしく振舞ったりした。人気TV番組の放映に噂好きの田舎町の空気が混じりあうことで、それは芸能人並みのスキャンダルに発展していた。


        そして、ツバキは故郷の町で1人ぼっちになった。


 それもほんの1週間のうちに。事の発端はローズマリーにあった。彼女がTVで自分についてしゃべりさえしなければ…。彼はそう悔やんだが、ローズには一切伝えなかった。当然、全ての責任は自分自身にあるからだ。2人の女とつきあったのは、他ならぬ彼自身が望んでやった事なのだ。


 そういった一連の事態を経て、ツバキは自分が今、どんな場所に住んでいるのかを理解した。

 21世紀もとっくに10年が過ぎたというのに、そこは依然小さく凝り固まった場所だった。たった一度の過ちでその人を判断し、償いのチャンスさえ与えない。自分の体面ばかりを気にして平気で仲間はずれをし、さらにはごく自然な事のように外人差別がある場所。それが自分の生まれ故郷なのだ。そんな怒りやアキラメが、彼の心に満ちていった。


 だが、それは若者らしい極端な見方でもあった。実際、ツバキがもっと積極的に根気強く周囲の人たちに謝罪していれば――もちろん時間はかかっただろうが――事態は好転していたかも知れない。シノブでさえ、また彼に振り向いていた可能性もある。彼自身もそれが分かっていたが、あえてそうしなかった。

 なぜなら、プライドがそれを許さなかったからだ。そして、彼はそれが決してごう慢な自尊感情ではないと思った。


 この1週間のゴタゴタを経て、最も痛切にクリアになったものがある。

 それは彼だった。

 もうとっくの昔から、ここは自分のいるべき場所ではなかった。

 彼はそう考えた。

 それなのに、俺はずっとその真実に目をつむっていた。自らの意思に背きながら、この田舎町の温かな幸福にうずもれていた。

 その偽りこそが、この1週間の仕打ちの引き金になったものに違いない。地元の人たちに許しを請えば、またその自らの影に本当の自分自身がスッポリと包み込まれることになるだろう。偽りの自分に戻る事になるだろう。そして俺のプライドはずたずたに切り裂かれ、一生、自分を恥じ続ける事にもなるだろう。だから俺は今、何もしなくていいのだ。彼は一連の事態をそう締めくくった。


                 *


 だが、そうなってからも、ツバキには地元に1つだけ自分の居場所があった。

 海だ。

 家業やダイヴァーズ・ショップでのバイトを辞めた彼にできる事は、サーフィンだけだった。真っ青な波は、孤独な彼を受け入れた。

 セクシーな白人娘につられて3年来の恋人を裏切ろうが、迷惑をかけた人たちに謝ってなかろうが、両親を無視して食っちゃ寝するだけの日々を送ろうが、そんな事にお構いなく海はツバキを受け入れてくれた。真夏の海は、いつも変わらず全力で抱きしめてくれた。

 ツバキは毎日サーフィンに出かけた。それだけにいつになく熱中できた。そんな事は高校生の時以来だった。そのうち、彼は1つの波乗りテクニックを決める事ができた。


               エアリアル。


 大波のトップエッジでボードごと飛び上がり、空中で百八十度ターンを決める技。この1年もの間、失われていたそれを、ようやく取り戻す事ができたのだった。

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