花讃岐✿ハナサヌキ

宙目ケン

第1部:うどん県

1章:アメリカから来た花家族

             あの橋は、うどんみたいだ。

               レンはそう思う。


 指で両端を摘まんだ1本のメンが、青空をバックにダラ~ンと垂れ下がっているように見える。だが、それは秘境のジャングルにあるような危うい吊り橋ではない。海にかかった立派なコンクリート製の橋であり、基本、A状の主塔が長大なケーブルで道路を吊り上げることで成り立っている。背の高い主塔は等間隔に4つ立ち並び、その二本足の間に伸びた道路は上下二層構造で、上は車、下は列車が通るようになっている。


 蓮は1人、公園のベンチでその様をながめている。うどんのように見えるのは、橋のケーブルだ。乳白色のケーブルが2本、主塔の頂上の両端から長々と垂れ下がって先の主塔の頂上と結ばれており、その長大なU字型のケーブルから数多くのハンガーロープが真下に垂れ下がり、下にある2つの道路を吊り上げている。


 蓮は思う。あの橋はうどんみたいで、海はうどん汁のようだ。そう見えるくらいに、海が小さく感じられる。たぶん、それはこの土地に生まれた人のほとんどが日々ぼんやりと思うことじゃないだろうか。その中には、かつての私のように、いつか外海に出て世界を旅してみたいと思う人も少なくはないだろう。


 そう言えば、あの坊さん、わがご当地ヒーローたる“空海さん”だってそうだ。大昔、彼はこのチッポケな海の向こう側に旅立った。留学僧の1人として中国に渡って仏教を学び、そのついでに当地の製粉技術まで習得して帰国し、この地にメンの食文化を伝えた。


     それが――まぁ、単なる県民神話なのかも知れないけれど――

             『讃岐サヌキうどん』の起源だ。


「イノクマさん、そろそろ始まりますよ」 

 その同僚の声に、蓮は気だるい声を返して公園のベンチから立ち上がった。手にしたドンブリには、さっき役所の職員からタダで振舞われた昼食のうどんが残っている――しかもほぼ手つかずで。公園のすぐ先の海では瀬戸大橋が悠然ユウゼンと横たわっている。


                  *


 ゴールデン・ウィークの最中、瀬戸大橋記念公園では祝日イベントが催されていた。瀬戸大橋は瀬戸内海をはさんで香川県と岡山県を結ぶ橋であり、それは香川側の坂出市の公園での事だった。昼の1時過ぎ、〖流しうどん大会〗が始まろうとしている。


 スタッフ・ジャケット姿の蓮は、イベント企画会社の一社員として音響係を務め、巨大スピーカーの背後で配線作業に追われていた。大型連休とだけあって、家族連れと共に県外からのうどんマニアたちも集まり、参加者は軽く千人を越えていた。

「お譲さん、景気のいい曲、かけまいなー」

 そう声をかけたのは、役所職員のOBだ。

「アンタみたいな若い女性が多いけん、流行りの歌でエエよ。『嵐』とか何とか、そんなんが好きなんやろ」

 そう言ったハンチング帽の年配男性に、蓮はハーイと元気よく答えた。

 だが、まもなくその笑顔はピクピクとひきつる。

〝ジョーダンじゃない。何で私がこんな所にいるのよ〟


                 *


 今日、蓮はここに来るハズではなかった。当初は、小豆島でのツアーイベントの仕事を任されていて、今頃はオリーブを搾油サクユしたり海でセイリングしたり、『エンジェルロード』と呼ばれるビーチで幸せなカップルたちをながめていたりしているハズだった。


        それが、1人の自殺未遂女子のせいで崩れた。


 本来、この瀬戸大橋公園イベントは、後輩女子社員が受け持つ仕事だった。しかし、数週間前、失恋地獄に陥った彼女は、高松市内にある実家マンションの屋上から飛び降り自殺を試みた。

 幸い、そばの給水タンクで整備中だった水道局員たちが取り押さえたのだが、どういうワケか彼女は彼らに満面の笑みを見せてあいさつした後に屋上の手すりに上ったらしい。

 蓮もそういった事情を知っていて、それにはただアキれるだけだった。つまりは最初から自殺する気なんてなく、ただ誰かに甘えたかっただけなんだ。まったく、あのアホが。

 その自殺未遂女子は今、市内の心療内科に入院してサイコセラピー中。

 そのため、この瀬戸大橋記念公園でのイベントに蓮が代役で回されてきたのだった。


                  *


 市長による号令と共に、流しうどん大会が始まった。水の回廊と呼ばれる公園の目抜き通りで行われ、大型トラックの荷台の上から何本も継ぎ足した片割れの竹の上に大量のうどんが流し込まれた。竹の水路は全長百m程あり、それを挟んで大半が家族連れの参加者が箸でうどんをつつく。


 緩やかに流れる冷水にマッシロなメンが流れてゆく様は、とても清々しい。音響係の蓮は機材のそばの長机に1人で座っていた。そばの巨大スピーカーからは例の自殺未遂女子が選曲した爽やかなJポップが流れている。だが、蓮の耳には流しうどんのように、ただツルツルと通り過ぎてゆくだけだ。

 ああ、こんな五月の昼下がりにはシャーデーの甘い歌声がピッタリなのに…。トラックの荷台では地元の名物製麺所の職人たちが次々とうどんを流し、参加者たちはそれを口の中にツルツルと吸い込む。

 蓮はそんな微笑ましい光景を白い目で見つめる。彼女は生まれも育ちも高松だが、幼少時からうどんとは無縁。メンもの順位は、1位パスタ、2位ラーメン、3位そうめんで、後のものはどうでも良い。とにかく彼女は、うどんの良き友ではなかった。


 最後のメンが母に抱かれた赤ちゃんの両手ですくい上げられ、流しうどん大会が終わった。蓮は、企画会社のスタッフや自治体職員に混じって後片づけを始めた。


 そのうち外国人観光客のグループが近くにやって来た。地元のツーリスト会社のスタッフ数人が先導していて、1人の中年女子ガイドがあれこれ説明している。

 商売柄、蓮は彼女と顔見知りだったが、毎回会うたびにイライラさせられた。今日もまた、そのガイドはカタカナ英語で決まり文句を言い、質問も受けつけていない様子だった。

 今回ばかりは無視しようと思ったが、そのに耐え切れなくなった。蓮は掃除を手早く済ませ、その一行の元に駆け寄った。あら、レンちゃん、また来てくれたのね。カタカナ女子ガイドは、蓮を見るなりそう言い、他のスタッフも笑顔で歓迎した。

「皆さん、はじめまして。何かご質問があれば、私もお答えします」

 蓮がそう流暢な英語で言うと、外国人観光客たちの目が一斉に輝いた。しばらく、うどん店巡りや瀬戸内アート祭やこんぴらさんについての質問が飛び交い、それに彼女は1つずつ丁寧に答えていった。

 今年だけでこういう飛び入り参加は5度目。最近では他社の社員ながらパート給与を出そうかと真剣に打診されるほど、彼女はこのツアー会社に気に入られていた。


                 *


                猪熊蓮イノクマレン


 彼女は大学進学の際、故郷の香川を離れ、東京で暮らした。それから大学2年の時、アメリカ・カリフォルニア州にあるUCLAへ大学留学した。

 4年後、東京の大学を休学したままそこを卒業し、地元LAにある雑誌社に就職してOL生活を送った。そういったワケで、英語はペラペラだった。

 だが、4年を経て高松市にある実家に戻った。そして27才で市内のイベント企画会社、『XYZ』に入社し、イベント・プランナーの職に就いた。

 その翌年、共働きだった両親が実家を引き払って徳島県の吉野川近くの山村に移住。以来、5年間、高松市内のマンションで1人暮らしを送っていた。2つ年上で2人の子持ちの銀行員の兄がいるが、彼女の方は結婚の予定もなかった。


                  *


 蓮はそのまま、他社のツアーガイド兼通訳をボランティアで務める事にした。自社の仕事は先の流しうどんイベントで終了であり、現場の同僚にケータイを入れて仕事終わりを確認し合った。そうして大勢を先導し、瀬戸大橋記念公園内を歩いた。20人ほどのツアー客の大半が台湾や中国の出身者だが、蓮はゆっくりと発音のいい英語を話すので多くの理解を得られた。それは、彼女にとっても素晴らしい時間となった。


 英語で長く会話すると心地よい解放感が生まれる。自分ではない自分がポンポン飛び出してくるようになる。胸の奥で眠っていた、もう1人の自分――LA時代の陽気なカリフォルニア・ガール――が呼び覚まされるのだ。

 瀬戸大橋記念館にタワー、日本庭園など様々なスポットを歩き、観光客とゆかいな会話を楽しんだ。

 そんな中、蓮とは逆にがいた。展望台に上がって橋をながめている最中、蓮はフイに話しかけられた。


          「こにちわ、ワタヂ、ツーリスト、ちがう」


 そう言ったのは、40代後半くらいの白人男性だった。外国人ツアー客の中、アジア系以外の人は他に、共に巨大なバックパックを背負った北欧出身の老夫婦だけだった。


          「ワタヂ、オーキッド。イェルォスィク」

            「私はレンです。


 彼女は彼に教えるように明瞭な日本語でそう返し、握手した。男は英語に切り替えて自己紹介した。2人はそのまま色々と話した。

 先週、短期滞在するため家族と共にアメリカから日本に来たばかりだと言う。3ヶ月、休暇と仕事を兼ねて過ごすそうで、すでに近くの坂出市内のマンションで暮らしているそうだ。何でも、この公園に親子で遊びに来ると、ちょうど外国人のツアーグループがバスで大勢やって来たので混ぜてもらったのだという。


 蓮の目に男の第一印象はハンサムかつダンディ。顔立ちは古き良きアメリカン・タフガイで、あのレーガン元大統領をぐっと優しくした感じ。そのため、頭にかぶった登山用のブリマーハットが、よく似合っていた。ラフなポロシャツにスラックス姿。白人にしては小柄で、背は同じくらい――蓮は女ながらに170㎝をゆうに超え、中学、高校とバスケ部の主将を務めていた。

 そのうち展望台にもう1人、白人が現れた。スケッチブックを手にしたブルネット・ヘアの女の子だ。オーキッドが言う。


  「私の娘、ローズマリーだ。ローズ、彼女はレン。観光ツアーのガイドさんだ」

           「ハイ、レン、ローズマリーです」


 蓮は、はじめましてと微笑み、握手を交わした。ミントグリーンの花柄ワンピ姿で、年は10代半ばくらいだが、スリムかつ長身――パパよりも5㎝くらい高い程だった。

 ローズマリーの第一印象は清楚。フランス娘のように線の細い顔つきで耳に真珠らしいイヤリングをつけている。腰までストレートに伸びた茶髪は日暮れの湖の水面を思わせるような光沢に満ちていた。蓮は、彼女の手にしたスケッチブックに目がいった。


「ローズは絵を描くのが好きでね」

 パパのオーキッドがそう言う。

「ずっとこの公園で海や橋の絵を描いていたんだ。ローズは17才で、私にはもう1人、ジャスミンという13才の娘もいる。ところで、ローズ、ジャスはまだあそこで?」

 ローズは、アキれ顔でそれにうなずいた。

 そこで、蓮はピンときた。

「オーキッドというアナタの名前は、花のランを意味するものでしょうか?」

 彼は「Yes I am」と返す。

「という事は、皆さん、花の名前を持ってるんですね」

 その彼女の指摘に、父娘2人はそろってうなずき、オーキッドが言う。

「私の家族名はフラウリーなんだ。スペルも花とほぼ同じ、F、L、O、W、E、R、I、E。だから、私の家では代々子供に花の名前がつけられるんだ」

 蓮は目を丸めて言う。

「私のレンという名前も、実は花の名前なのよ」

 フラウリー家の2人はそろって、「REALLY!!!」と声を上げた。

 そんなこんなで、3人はすっかり打ち解けた。蓮はツアーが終わったら、近くのカフェで一休みしないかと尋ね、彼らは喜んでその誘いに乗った。


                 *


 その前に、もう1人の娘を迎えに行った。

 フラウリー父娘に導かれ、蓮は瀬戸大橋を目の前にした緑地公園に足を踏み入れた。芝生のアチコチに橋の建設に関わった様々な重機がアートオブジェのように展示されてある。

 公園の一角で若い5~6人の10代の女子が楽しそうにカラダを弾ませていた。そして、その前で1人の白人少女がベンチに座り、エレキギターを弾きながら歌っていた。

 蓮は、彼女がジャスミンなんだろうと思う。

 第一印象は、ロックなギターガール。

 長いブロンドを頭の上でツインテールにした髪型はウサギの耳のように可愛いが、ガイコツのプリントTシャツに破れかぶれのクラッシュ・ジーンズという姿だった。

 オーキッドが彼女に、「Hey, Jas, C'm Back!」と大きな声を上げた。

「Just a Minute!」

 彼女はそう反して、歌い続けた。蓮は父娘と共に若い女子たちに混じって聴いた。


 ハッキリ言って、歌も演奏も上手かった。蓮は一気に引き込まれた。ケイティ・ペリーが時々歌うようなロック調のバラードで、とても聴き心地が良い。何よりも、少女とは思えない迫力のハスキーボイスがすごい。悪魔版ハローキティのステッカーを貼ったアンプから流れ出るギター音も素晴らしくメロディアス。細く小柄な体で大きなワインレッドのエレキを弾く姿は、ライフルを構えた戦士のように勇猛に見える。


 演奏が終わると、女子組はワーッと拍手して百円玉をギターケースの中に入れて帰って行った。ジャスミンは、1人1人に「アリガトー」と日本語でお礼を言った。

「ご覧の通り、ジャスはずっとここでビジネスしてたんだ」

 オーキッドはそう言って、蓮にロック娘を紹介した。 

 蓮は握手を求めたが、ジャスミンは流し目を送って片方に吊り上げたクチビルの端をチっと鳴らした。まぁ、それが彼女流のあいさつなんだろう。


 目が笑えるくらいに垂れていて、ツインテールのブロンドは目にまぶしいほど鮮やか、肌は透き通るほどにマッシロ。だが、しゃべり方や仕草は少年そのもので、ローズとはオモシロいくらいに対照的だった。その姉が、これからカフェに行かないかと誘うと、ジャスミンは、OKと言った。

 そして自身のギターケースの中のお金を指差して、これ、幾らくらいなの?と蓮に聞いた。ハッキリ言ってけっこうな額だった。硬貨は山積みになり、千円札も数多くあった。蓮は下唇を少し突き出して言う。

「たぶん3万円くらいじゃない。つまり、だいたい3百USドルね」

 ジャスミンは「ワオ、iTunesでいっぱい曲が買える!」と満面の笑みを見せる。

「日本人ってジミ・ヘンドリックスが好きなのね。『パープル・ヘイズ』のリフを弾くだけでオジサンたちが大喜びして、写真を撮りながら札をどんどん投げ込んでくれたの。日本人ってサイコー。優しくてリッチで、その上ロックも愛してるなんて」


 そうして、ロック少女は屈んで手を伸ばし、上空から急降下したタカが川の中のマスを足でつかまえるように、ギターケースの中の札束と硬貨を両手でギュっとつかみあげた。





                  ✿




 瀬戸大橋公園近くの美術館、その中にあるカフェは瀬戸内海と一体になっていた。全面張りのガラス窓が店内を囲み、海と橋と島々の大パノラマが一望できた。


 館内で30分ほど季節の展覧会を観た後、蓮とフラウリー家は、カフェの一角に落ち着いた。ラテや焼きたてパンなどを口にしながら、会話を楽しむ。

 オーキッドはブラックコーヒーをすするだけだが、2人の娘は食欲旺盛オウセイ。ローズマリーはソーセージ入りのフランスパンをぱくぱく食べ、ジャスミンはイチゴのスムージーやバニラアイスに夢中になった。


 蓮はUCLAでの大学生活やLAでの暮らしぶりについて気さくに話した。一方のオーキッドも身の上話を聞かせた。

 彼ら一家はアメリカ、ユタ州のソルトレイク・シティー出身。

 オーキッドは建築家で、日本のジャポニズム建築を勉強するために来日したと言う。母校の大学から留学助成金も出たので、費用はかなり浮いたそうだ。普通そういう制度は学生時代に利用するものだが、卒業後も保留しておく事ができ、さらに妻や子供ができた場合は家族分の渡航費用が出る特典もあり、オーキッドはそれを利用したのだった。

 日本語を少し話せるのは、大学在学中に第二言語として専攻していたからで、学生時代に京都旅行した事もあるという。

 香川県に来た理由は友人の勧めからで、その人は数年前、『瀬戸内芸術祭』に来て、直島のアートオブジェや建築物に魅了されたのだそうだ。滞在先を坂出市にしたのは、県の中央に位置し、県内での移動に適していたからだと言う。


「そう言えば、奥様は今日、こちらには来てないのね」

 会話を続ける中、蓮は何気にそう訊いた。

 すると、フラウリー一家はそろって口ごもった。オーキッドが1つ咳払いをして言う。


   「実は、私の妻はってしまったんだ。数ヶ月前


 蓮は両目を見開いて、口元を手で押さえた。

「Oh, I am very SORRY...」

「No no, it's OK」

 オーキッドは自然な表情で笑い、コーヒーカップを手にする。蓮はベリーベリー・ソーリーと言ってうつむき、平手でホッペを叩かれているように顔を揺すった。ジャスミンがいたずらっぽい目つきで言う。

「レンも、あわてるとリスみたいになるね」

 それに、ローズマリーがヘイと言って、妹に恐い顔を向ける。

 蓮はジャスミンに、リス?と返す。

「ジャスには時々、日本人がリスみたいに見えるらしいんだ」

 パパが笑って言う。

「日本の人たちは、時々とてもクイックに動くだろ。空港や銀行のカウンターとかスーパーのレジとかでね。きっとお客さんへの気遣キヅカいから速やかに動いているんだろうけど、ジャスにはそれがオモシロく見えるんだよ」

 その言葉を受け、ジャスミンは樹上のリスが周囲を警戒するような身振りをした。パパが、ジャス!と声を上げたが、蓮がそれを制した。


「ジャスミン、私にもそれ分かる。LAに住んでた時、遠くからでも一目で日本人だって分かる事がしょっちゅうあったわ。それも、リスみたいにチョコチョコ動いていたからかも知れないわね。考えれば、私たち日本人とリスには、けっこう共通点があるわ。だって、動きが速くて小柄で協調性がある。それに何と言っても、キュートでしょ」


 蓮はそう言うと菓子パンに手を伸ばし、突き出した前歯でそれをカジカジしてみせた。それにはオーキッドもローズも無邪気に笑ったが、言い出した末娘だけはクチビルをチっと鳴らすだけだった。


                 *

                 

 カフェの全面張りガラスの向こうで、海に日が落ち始めた。海面と瀬戸大橋が淡いオレンジ色に包まれ、穏やかな瀬戸の海がなお優しげな表情になってゆく。


 蓮とフラウリー家のテーブル席には、ホノかな灯りを放つランタンがあった。コーヒーメーカーにも似たその照明器具は、雪のようにマッシロだった――全てが塩で作られているのだ。

 瀬戸大橋のある坂出市はかつて塩田で栄え、今も日本全国の2割以上の塩を生産し、最近は町おこしの一環として様々な商業施設に塩のオブジェを置いていた。

 蓮も仕事柄、目の前のランタンが塩の特注品だと知っていた。この数年は坂出に限らず、香川は県をあげて地元PRを全国的に押し進めていた。


           〖うどん県、それだけじゃない〗


 これをキャッチコピーに、県出身のイケメン俳優などのサポートの元、うどんや瀬戸の島々のアートを積極的に売り込んでいた。もちろん、イベント企画会社に勤める蓮も日々それに携わっていた。そして、彼女がフラウリー家に接近したのは、そういう思惑があっての事でもあった。

 話が一段落すると、蓮はオーキッドに名刺を渡した。私はイベント・プランナーで、地元自治体のために仕事をする事もある。そう切り出した。

 それは主に広報の仕事であり、最近、外国人観光客を増やすためにPRヴィデオを作る計画を立てていた。


      そこで、フラウリー家をと思っている。


 3ヶ月の坂出での生活ぶりをレポートさせてもらい、日々のナマの声を聞かせてほしい。もちろん、正直な意見でいいし、企画が通れば取材料も出す。

 蓮はそう言ってみたものの、ムリなお願いだとも分かっていた。何しろ来日したばかりで右も左も分からない一家が、そんな面倒くさい事に協力してくれるとは思えない。


 しかし、それはカンタンに通った。一言も交わさずうなずき合うだけで父娘そろって同意したのだ。オーキッドは楽しそうだと言い、ローズマリーは「リアリティー・ドラマみたいね」と笑い、ジャスミンは「日本で歌手デビューできるかも」と言って不敵な笑みを浮かべた。蓮はお礼を言い、さっそく休み明けに会社の企画会議にかける事を伝えた。


                 *


 4人が美術館を出たのは、すっかり日が暮れた頃だった。庭園から見える瀬戸大橋は、祝日限定のライトアップ中だった。蓮はフラウリー家の3人と庭園の長いパッセージで立ち止まり、それをながめた。


 等間隔に並ぶ4つの主塔は淡くブルーに染まり、その間をつなぐケーブルロープも電飾でキラキラと輝いていた。夜空に弧を描いて吊り下がったロマンチックな光の帯。

 だが、それは蓮の目にまだうどんだった。

 金粉キンプンをぬったメンが、夜空にビヨ~ンと垂れ下がっているようにしか見えない。しかし、横を見るとユタ州からはるばるやって来た一家の誰もが感動ぎみに目を細めていた。


 普通こういう場合、県民の1人として故郷に誇りを覚えたりするのだろう。

 そう蓮は思う。

 けれど、私には全然そうは思えない。

 きっとそう思える人は故郷にあるものを、自分のものであるかのように思えるのだろう。故郷というものを自分自身のように愛せるのだろう。

 私にはそういう事ができない。

 しかもそういう距離感が故郷に限らず、人間関係全般にまで及んでいたりする。ダメな事だとは分かっているけど、どうしょうもない。だけど……と彼女は五月の甘い夜風をふ~っと吸い込む。


 今日は本当にスペシャルな1日になった。遠い国からやって来た一家と、ステキな時間を送れたし、思いつきのムチャぶり商談もカンタンに通ってしまった。

 そう言えば、そもそも私は今日、小豆島ツアーに行っているハズだった。あの飛び降り自殺を試みた同僚、あの甘えたれのバカ。あのサイコセラピー中の半病人。あの子がいたからこそ、こんなにハッピーな1日になったとも言えるんだ。


 蓮はアメリカ人一家を見る。依然、3人の父娘は距離を置いて立ち、無言でライトアップされた瀬戸大橋をながめている。

 蓮は、彼らに少しの違和感を覚えた。これまで半日接してきたが、家族仲は決して良いものではなかった。唯一、ローズマリーだけが積極的に話しかけ家族全員をつなぐ磁石のような役割を担っていたが、妹も父もどこかいつも上の空だった。


 特にオーキッドはたびたび物思いに沈む事があり、1人雲の上でふわふわと漂っているような雰囲気があった。蓮は、他人である自分と一緒にいるからなのかと思うが、それがこの家族の自然体のようにも感じられる。

 それは、ギクシャクというよりチグハグだった。

 何か、森の中で全然種類の違う動物たち――例えばゴリラと孔雀とトラのような組み合わせ――が、どういうワケか偶然出くわしてしまい気まずい思いをしているかのようだった。

 それでも、多かれ少なかれアメリカ人とはそういうものだと彼女は思う。

 1人1人、個が立っていながらも、いざという時には助け合える。それは蓮にとって日本の家族に見られるような同族的な愛情よりも共感できるものであり、この一家にますます親密感を覚えるようになった。


                  *


 日暮れ時、美術館の庭園を歩く中、彼らは塩のランタンが灯る花壇を見物した。

 5月に咲いたばかりの白い芍薬シャクヤクが並び、ローズマリーはそれらをスケッチブックにデッサンしてはデジカメで撮影した。

 蓮から日本名の〝シャクヤク〟という言葉を知ると、とても美しい響きだと言って目を輝かせた。

「そう言えば」

 彼女は爽やかな笑みと共に言う。

「先にレンは、レンが花の名前だと言ったけど、英語では何ていう花なの?」

 蓮は、少し冷えてきた潮風に揺られる髪をとかしながら言う。

「レンという漢字には『ハス』という読み方もあって、それが花の名前になるの。英語では〝LOTUS FLOWER〟ね」


        次の瞬間、3人はオドロキの表情と共に固まった。

    まるで呪いにでもかかったように奇妙な態でピタリと動かなくなった。


 オーキッドは猛烈な風にあおられたかのように上体を後ろにそらし、ローズマリーはミントグリーンのワンピをひらひらさせながら腰に両手を当てて、ジャスミンはバービー人形のように首を傾げて固まり、吊り上げた口角をピクピクさせた。

夜の闇の中から、数匹の犬たちが戦争を始める前の進軍ラッパのように勇ましく鳴いているのが聞こえてくる。

 やがて、娘2人は気を取り直したが、父だけは違った。ブリマーハットをかぶったカウボーイは、ボーゼンとしたまま蓮をじっと見続けた。


            蓮はそれに


 大きく見開かれた目にはどこか邪悪な力があり、その中心に自分がどんどん引っ張られてゆくように思える。

 その瞳は薄茶色で――彼女はその色の瞳がアメリカでは〝ヘイゼル〟と呼ばれている事を思い出した――白目の余白がない程にふくらんでいた。

 そのヘイゼル・アイには疑いようのない純真さがあった。しかし、そこには異様な冷たさが感じられ、殺人者が誰かを殺す直前に見せるような目つきを思い起こさせた。

 蓮は蛇にニラまれたカエルのように動けなくなった。

 ただ心臓の音だけが激しく響いていた。突然、大きな地震にあい、これ以上大きくならないよう祈る事しかできない時のように、唯一その音だけが自分を飲み込もうとする邪悪な力に抵抗していた。


             「HEY DADDY----!!!」


 ローズがそう大声を上げた。それで、オーキッドは階段のステップを1つ踏み外したかのように片脚をガクリとさせた。我に返った彼が笑って言う。

「いや、何でもないんだ。私たちには、ちょっとした偶然でね」 

 フイに、蓮の手がグイっと引っ張られた。

 次の瞬間、目の前にヘイゼル色の瞳が迫り、彼女はロナルド・レーガンのビッグハグを受けた。彼は満面の笑みで言う。


            「LOTUS, See you Again」

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