『好物』

矢口晃

第1話

「疲れたあ……」

 そう言いながら私は自宅のソファーの上にどっかりと腰を下した。金曜の夜は、やっと一週間の労務から解放された安心感と引き換えに、その間の疲れが一気に体にのしかかってくる。私は帰宅途中のコンビニで買ってきた袋から大好きな餃子を二皿取り出して、重たい腰をようやく持ち上げながらそれをレンジにかけた。レンジの中では橙色の光に照らされた餃子たちが、息を吹き返すように温かくなっているのが手に取るように分かった。

もともと料理が好きだった私は、OLになりたての頃はまめに自分のために食事を作っていた。しかし年々仕事が忙しくなるにつれ家で作るのが面倒になり、最近はもっぱら外食とコンビニ弁当に偏ってきている。

 餃子がレンジを出るまでの間に、私は小皿に醤油をたらし、そこに大量のおろしニンニクを加えた。一週間の疲れをいやすもの。それは私にとって、この大量のニンニク以外には考えられなかった。本当は毎日でも食べたいのだが、やはりそこは二十八歳の独身女性である。ニンニク臭をぷんぷんさせながら人前に出るなんて、絶対に考えられないことだった。だからニンニクを食べられるのは、必然的に土日を挟む週末だけということになる。だから私は金曜の夜には、ここぞとばかりに好き放題ニンニクを食べるのだ。これが私にとって、最高のストレス解消法なのである。

 会社では嫌なことばかりだ。あんな会社辞めてやると思ったことも過去に数えきれないくらいある。仕事は潰しても潰しても後から増えるばかりだし、一個でも数字の打ち間違いがあれば先輩に散々なじられる。営業課のフロアからは毎日上司が部下を叱る怒鳴り声がこだましてくるし、電話は一日中リンリンリンリン鳴って頭痛すら起こしそうになる。おまけにいい男はいない、いても別の課の女とできている、部下はちんたら役立たず、一体何のために苦労しているのだかわかりゃしない。毎日イライラしているせいか、最近目立って肌も荒れてきてしまった。

 そんな私を立ち直らせてくれるのは、週末のこのニンニクだけである。これを何も気にせず口にできるこの時間が、私にとってこの上のない至福の時だ。

 電子レンジがピーピー鳴って、温めが完了したことを私に知らせた。私はさっきよりいくぶん身動きの軽くなった体を浮かせてレンジに近づき、中の餃子と数分ぶりに対面した。餃子はプスプス音を立てて、熱々に温まっていた。私はやけどをしないように布きんを使いながら、醤油を用意してある机のところまで二皿の餃子を急いで運んだ。

 熱く伸びやすくなっている外側のラップを、指先を使って器用にはがした後、いよいよプラスチック容器の蓋を外した。中から立ち上る蒸気とともに顔の前に広がるニンニクの香り。容器の底には餃子の皮の間を洩れたうまみたっぷりの肉汁が、きらきらと輝きを放っている。

 これでこそ金曜の夜だ。そう思いながら、私は餃子の一切れを醤油皿に移し、たっぷりとニンニク醤油を絡ませた後、ふうふう息を吹きかけながら餃子の皮にかぶりついた。やわらかな歯触りの後、ニンニクとニラと、香ばしく炒められたひき肉の香りが口いっぱいに広がった。私は舌の上にほろほろと噛み切った餃子を転がしながら、いい匂いが鼻を抜けていく感覚を堪能した。もちろん餃子にはビールと昔から相場が決まっている。私は片手によく冷えた缶ビールを飲みながら、次々に餃子を平らげて行った。

 一皿目をあっという間に食べ終わってしまった私は、ふた皿目に取りかかる前に、醤油皿の中に新たに卸しニンニクと醤油を投入した。そしてさっきと同じ手順で丁寧に外側のラップを外し、容器の蓋を取った。

 餃子の本番は、実はここからなのである。一皿目を食べているうちに食べごろの熱さにまで冷めているこの二皿目こそ、本当の意味で餃子のおいしさを堪能できる瞬間なのである。一皿目をキンキンに熱くするのは、蓋を取った時、それと同時に香りの立ち昇る感動を味わうためだ。それに対して少しぬるい二皿目は、餃子の味と真正面から向き合う絶好の時なのである。

 私はきちんと焦げ目を上に並んだ餃子の一番端の一切れを箸で摘みあげると、先ほどニンニクを足しておいた醤油皿の中にゆっくりとつけた。そして醤油皿の上で餃子をくるくると回しながら、皮全体にニンニク醤油が絡まっていく様子を観察した。この光景は、いつ見ても口の中に唾液が広がってくる。私はすっかりニンニク醤油を身にまとった餃子をおもむろに口元に近づけると、前歯で餃子を半分に噛み切った。

 何とも言えない、皮の弾力と具の歯ごたえ。何種類もの香辛料が効いた風味。私は餃子を発明した人は電球を発明したエジソンより偉いと思う。

 何度か咀嚼して程よくばらけた餃子を、冷たいビールがいの中へ流し込む。それを何度も繰り返す。二皿目の餃子をようやく四つ目まで食べ終わった頃には、そろそろ私の胃から脳の満腹中枢へ満足信号が送られ始めているようだった。

 テレビの上にかけた時計を見ると、夜の十時を少し回ったところだった。私は皿の上に残った二個の餃子を手早く口の中に放り込んでしまうと、テーブルの上に散乱した容器やラップを、コンビニでもらったレジ袋の中に次々に放り込んで行った。それからテーブルの上の油汚れを台布きんで拭き取り、後は漫然とテレビを点けて残ったビールをちびちび飲んでいた。

 その時だ。突然、私の携帯の着信音がけたたましく出した。番号を見ると、それは同僚の由紀子からの電話だと分かった。

「もしもし」

 いつものようにそう言って電話にでた向こうからは、複数の人たちの賑やかに談笑する声が聞こえて来た。

「もしもし、雅美?」

 やや遅れて、由紀子が私にそう問いかけた。

「うん、そうだよ。どしたの、急に?」

「あのね、今会社の人たちと飲み会やってるんだけど、雅美今から出て来らんない?」

 由紀子はすでに幾分か酒に酔っているらしく、その声はいつもより甲高く私の耳に響いた。私は思わず携帯を耳から少し離しながら、

「ごめん。今日はやめとくわ」

 とぶっきらぼうに言った。

 すると由紀子は、

「ええー。どうしてえ?」

 と、酔った時によくする甘えたような声を出した。

「ごめんね。もう、家に着いちゃったし」

 私がそう言うと、由紀子はまた語尾を長く伸ばしながら、意外な言葉を口にした。

「ええー。だって、立花さんも来てるんだよ」

「え? 立花さん?」

 私は思わず息を飲んだ。同じ会社の別のフロアーにいる、背が高くて長髪の似合う私の憧れの男性、それが立花さんだったからだ。

 でもハンサムで仕事もできるあの人のことだから、きっと付き合っている人がいるに違いないと思っていたのに、その人が今会社の飲み会に来ていると言う。

 私の動揺を知ってか知らずか、由紀子はからみつくような声でなおも私に話し続けた。

「残念だなあ。立花さん、雅美のことすっごく気にしてるのになあ」

「えっ……それって、本当?」

「本当だよう」

 由紀子の酔ってくねくねした腰つきまでが私には目に浮かぶようだった。

「雅美と会って話がしたいって、さっき私のところに本人からそう言って来たんだから」

 それを聞いて、私は居ても立ってもいられなくなった私は、「行く。どこにいるの」

 と携帯を力強く両手で握り閉めたまま、体はすでにソファーから立ちあがっていた。

「来る? 本当? よかったあ。じゃあ、場所はねえ……」

 私は由紀子たちがいるというそのバーの名前と場所を詳しく彼女から聞き出した。話が終わると、

「よし。了解」

 と言い残し素早く携帯を閉じ、化粧を直そうと鏡台に向った時だ。

 鏡の中に映った自分の顔を見ながら、私は今更になって重大なことを思い出してしまった。

 私の胃の中には、さっき食べたばかりの餃子が、十二個も収まっているのだった。それに加えて醤油にたっぷりと溶かした卸しニンニクも、今頃胃袋の中で恐ろしい悪臭を醸しているに違いない。

 私は恐る恐る、自分の口の前に両手をあてて、手のひらで口と鼻とを包み込むようにしながら、ゆっくりと口から息を吐いてみた。すると、予想した通りの香ばしい匂いが、鼻に通ってくるのが自分でもよく分かった。

 なんということだ。私はすっかり目の前が真っ白になってしまった。

 憧れの立花さんと仲良しになれる、千載一遇のチャンス。今日行けば、もしかすると私はあの会社一の美男子と付き合えるようになるかも知れない。

 それだというのに。私は今、思わず顔を背けたくなるような悪臭を、ぷんぷんと口から臭わしているのだ。こんな状態で会いに行ったら、さすがの立花さんも一瞬で私への興味は褪せるだろう。

 でも行かなければ、結果的に私から立花さんを振ったのと同じようなことになる。

 さっきまでのバラ色の至福の時間が、今は色あせた灰色の時間に変わっているのを私は感じた。そしてもう一度ゆっくりと携帯電話を手に取ると、着信履歴から一番上にあった由紀子に電話をかけ直した。

 数回のコールの後、すっとんだ由紀子の声が私の耳元に帰ってきた。

「もしもしい? 雅美い? 今どこにいるのお?」

 私は怒りのせいか悲しみのせいか、ぶるぶる震える手にしっかりと携帯を握りしめながら、静かな口調で由紀子に言った。

「由紀子。ごめん。やっぱり、今日私行けないわ」

「ええ? どうして?」

 受話器を通じて見える由紀子の大げさな八の字眉に、私はパンチをめり込ませたかった。

「ごめんね。今日は、ちょっとまずいんだ」

「まずい?」

 そう言った後、由紀子が後ろを振り返って誰かと合図しあっているような気配を私は感じた。その相手が、私には立花さんであるような気がしてならなかった。

 その後の由紀子の一言で、私は全ての終りを悟った。

「まずいって……そうか、彼氏の家にお泊まりか」

「――バカ! 違うよ」

 私が言い終わらない内に、「キャハハハハ」という無遠慮な笑い声を私の耳に残したながら、電話はそのまま切れてしまった。

 途方もない虚無感のどん底に、私を置き去りにして。

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『好物』 矢口晃 @yaguti

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