夢追い人は夢も恋も捨てられない

秋保千代子

『望みが欲しい』

01. 出逢い、はじまり

 眩しい一閃。

 これだけで、魔物はふたつに切り裂かれ、風のなかに消えていった。


 それを見とどけたら、急に体中から力がぬけて、倖奈ゆきなはその場にくずおれた。


 耳をうつのは、逃げまどう人の声と、ときの声。

 東の川にかかる石造りの橋の上は、まっくろな魔物と人が入り乱れている。そこから都の中心へとむかっていく大通りも、同じ様相。その中で、いくつもの白刃がきらめく。

 だが、川岸では、騒動とはまったく関わらずに、赤いサツキと紫色のカキツバタが咲いていた。通りの両脇に並ぶ町屋の前には、緑の生垣がのびる。

 空を向けば、夏に向かっていく日差し。

 目の前に、白い手袋におおわれた手が差しのべられる。


「お嬢ちゃん、しっかりしてくれよ」


 瞬いて、声の主を見上げた。


 身に纏うのは、濃紺の肋骨服と長袴スラックス、革靴。皇国陸軍の軍服だ。

 袖章が示す階級は大尉。襟では徽章が一つ、輝いている。だが、その所属を示す肩章は付けられていない。

 差しのべられたのと逆の手には、抜き放たれた軍刀が握られている。

 中肉中背の男。陽の光を背に受けているから、制帽の陰になった顔はよく見えない。


 誰だろう、ともう一度瞬いた。

 相手の口の端があがる。


「立てよ」


 すこし高めの声とともに、差しのべられた手が揺れる。そこに自らの右手をかけると、ぐいっと引き上げられた。

 その勢いで、二尺袖と女袴の裾が、しずかに広がって、ふわりと止まる。


「あ、ありがとう……」

「どういたしまして」


 その、ふっと笑った人の背後に、ぬうっと黒い影が伸びてきた。

 倖奈が、魔物、と叫ぶよりはやく彼は振り向いて、手にした軍刀で両断する。


 溜め息をこぼす。

 先ほど魔物を切り裂いた一閃の正体は、この刃らしい。

 喰われそうになっていた自分を助けてくれたのだ、と理解して、改めて真っすぐ背を伸ばした。

 それから、男に向かって、腰を折る。


「ありがとうございます」


 ああ、とうなずいて。

「悠長にしてないで、逃げたほうがいいんじゃないかな?」

 彼は言った。

「ここは戦場だぞ」

 また刃が翻って、小さな黒い靄が斬られていく。


 そうだ、と頷きかえす。


 怒号はまだ響く。湧き出た魔物を退治するためにやってきた、軍人たちがあげる声だ。

 ただ、先ほどより逃げる人の声は減ったな、と思った。川沿いにサツキの花の合間を逃げたか、葉桜の並ぶ石畳の通りを走っていったか。

 さらに見回せば、濃紺の軍服しか見えない。


 一緒に此処ここに来たはずの書生姿は、見当たらない。

――また、はぐれちゃった。

「常盤に泰誠、どこに行っちゃったんだろう……」


 魔物を消しとばす力を持った彼らと、ただ立ち尽くすだけの自分。

 戦いの中に身を投じられる彼らを羨ましいと思うのと同時に、これでは『役立たず』と評されるのは仕方ない、と唇を噛む。


 その前で、男がまだ白刃を閃かせながら、口を開いた。


「……連れを捜しているのか? おまえ、迷子か」

「違うもん」


 むっと唇を尖らせる。相手は吹きだした。


「迷子だろ。一人で街を歩けないようなお子様がウロウロするな」

「わたし、十八です」


 つい口にしたら、振り向かれて。

「……嘘だろう?」

 愕然と呟いた顔が、ようやく見えた。


 するどい輪郭。吊り上がった眉に三白眼。うすい唇。

 ずっとずっとの男性だ。

 どこをとってもフワフワと頼りない、倖奈とは異なる存在。ちくり、胸の底がうずく。


「ちゃんと戸籍にも書いてあります。元禄二一八年生まれって」


 実際の年齢より幼く見える。それはよく分かっている。


 同じ年ごろの女子よりも背が低い。顔も手も小さくて、なのに瞳だけが大きくて、それが幼さをいやます。

 少しでも落ち着いて見えるようにと選んだ、くすんだ紫の着物は今日も役に立たない。

 頭をふると、緑の黒髪にはほどとおい、うすい色のおさげ髪が揺れた。


 だけど、今は年齢を間違われたことよりも大事なことがある。


「わたしは『かんなぎ』なの。魔物から逃げちゃいけないの。戦わなきゃいけないの」


 木々や稲を薙ぎ倒す風や波とも違い、家屋を焼き尽くす炎とも違う。ただ人間だけを正確に狙い喰らっていく存在。それが魔物だ。

 そして、不思議な力でもって魔物を祓うことを求められるのが『かんなぎ』だ。倖奈はその一人と認められているのだ。

 だから、たとえ『役立たず』といわれても、逃げ出すことはできない。


「だから、前線に出て戦うって?」


 頷く。


 そして、そばの生け垣に手を伸ばした。

 腰ほどの高さの木々は、瑞々しい葉を茂らせていて、その隙間には萎んだ花びらがある。そのひとつを摘まみあげる。唇を寄せる。

 ふわりと、ツツジは開いた。

 季節を逆戻りさせたような、鮮やかさで。


 両手で花を包んだまま、目を丸くする男を見上げる。


「……だめ?」

「さあな」


 笑われた。


「魔物は、花を嫌うっていうからな」


 さらにもう一度、黒い靄の塊が飛んでくる。

 人を傷つけて、死に追いやることもある、この国に住まう人々の敵。

 魔物だ。


 それをまた、彼は一振りで斬りすてた。

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