45度の世界

こま鳥

45度の世界


 三、二、一。


 冷えた空気の部屋の中。静かすぎるそこで規則的に響く音を追って脳内カウント。ゼロになった瞬間訪れるのは君。


「律! おはよう起きて!」


 ドアが勢いよく開いたら毎朝のセリフ。大きな声で。大好きな笑顔で。

 真冬用の羽毛布団にくるまって寝たふりをするわたしを、いつもの手順で起こす。カーテンを開いて窓を開けて換気。布団にくるまっていても感じる冷気。それから寒さの嫌いなわたしに喝を入れるように羽毛布団をひっぺがす。聴覚に全神経を集中させていたわたしに暗闇からいきなりの光。朝日。でもそれ以上に眩しい君の笑顔。


「おはよ! 律」


 覚醒するのを拒絶する重いまぶたの隙間から見える君。


「起きて起きて! 雪が積もってる!」


 君みたく雪で嬉しくなれるわたしじゃないけど、嬉しそうにしている君は好きだから、二度寝を欲する脳とまだ力の入らない体に鞭入れて目覚める。


「おはよ!」


 寝ぼけ眼ながらなんとか君に焦点を合わせたわたしに強くハグをしてから、着替えさせるべく抱き起こす。


「……ぉぁぉぅ…」


 滑舌イマイチ。発声イマイチ。音量もイマイチ。それでもしたい一日の始まりのあいさつ。慣れもせずはにかみながら照れる君が見たいから。


「律外見て! 雪積もってるよ!」


 箪笥を開けて、中からしわを伸ばされてきれいに畳まれたわたしの制服の白シャツと灰色のセーターを一枚取り出しながら君が言う。わたしはベッドに座りながら開かないまぶたの代わりに右手の指の感覚だけでパジャマのボタンを一番上から外していく。


「おばさんが下ではちみつ湯用意するって言ってたから早く行かないと冷めちゃうよ!」


 はちみつゆ。なんだか甘くてやわらかいその単語はやけに君に似合ってる。

 二つのことを同時進行できない寝起きの脳は、そんなことを思うと指の動きが止まる。


「早くはやく!」


 雪が嬉しいのか、はちみつゆが冷めてしまうからか、君は急いでわたしに駆け寄って、止まった指の先にあるボタンをつたなく外していく。


「寒い? なんか下に着る?」


 全てのボタンを外すと尋ねてくる。開いたパジャマの隙間から素肌に触れる冷気に少しだけ身震いした。自分が寒がりなのは知っているから素直に頷くと、君はわたしのひざの上にシャツとセーターを置いて箪笥の元に素早く駆け寄り、慣れた風に左上の引き出しを開けて、中から遠赤外線という白い薄手のインナーを取り出してそしてわたしのひざ下に戻ってきた。


「律、腕抜いて」


 パジャマを着替えさせようと君は肩まで脱がせてわたしにそう言う。のろりと袖から右腕を抜くと、君は手際よく残りの左腕からもう片方の袖を抜いた。それからインナーに頭をすぽりと入れて君は器用に両腕を袖に通していく。裾をお腹までしっかり着せると、今度はパジャマと逆の要領でシャツを着せていった。灰色のセーターも手早に着せて整えると、立ち上がって壁に掛けてあるハンガーから濃紺のブレザーとプリーツスカートを持ってくる。


「律りつ、立って」


 わたしの目尻にくちびるを寄せながら言う君に従って、鈍い動作で腰を上げる。わたしの左腕を握って支えている君に体重を傾けて、右手でズボンを腰から落とす。すとんと足元に絡まるそのズボンを上体を屈げてつかみぞんざいにベッドへ放り、空になったその手で君が差し出すプリーツスカートを受け取ると、また屈んで足を通す。腰まで上げると君は持っているブレザーをベッドの上に置いて、わたしを覆うように後ろに回り、スカートのホックに手を掛けた。インナーとシャツをきちんと入れてホックをはめてチャックを上げる。まくり上がっていたセーターを直したらわたしをまたベッドに座らせる。


「律、右足あげて」


 言われる通りに五十度ほどあげると、君はシャツやセーターと共に出していたらしい紺色のハイソックスを素足のわたしにはかせていった。左足も同様にはかせていく。


「終わりっ! 早く下行こっ! おばさん待ってる!」


 明るい顔でブレザーをつかんでわたしに行こうと促した。わたしはだいぶ開いてきたまぶたをもう一度だけ閉じて長くまばたきしてから、腰を上げて、置いて行かれないようにと君の横に並んだ。




* * *




 電気を消した部屋の中で、光るデジタル時計を見ると二二時五四分を指していた。

 目の前で壮絶な展開を繰り広げるレンタル映画は少なくてもあと三十分は終わりそうにない。

 学校から帰って来て夕飯を済ませてお風呂も入ってパジャマに着替えて。それから君の部屋へ行くのはもう当たり前のこと。君の家はわたしと隣り同士だけど、それでも十一時少し前には家に帰る。親に言われたわけでもないけれど、それくらいになると急激に睡魔が襲ってくるから自分で決めた、これも当たり前のこと。


「帰る?」


 わたしを足の間に座らせてベッドに背もたれている君が、視線に気付いたのかそう聞いてきた。

 時計が五五分に変わった。

 わたしは頷く。


「んー…」


 君は曖昧に唸るとDVDのリモコンを取り停止ボタンを押した。テレビの電源も切るとブツリと言いながら真っ黒になる画面。

 後ろから伸びてくる君の両腕。抱きしめられる。


「もーちょっとだけ…律」


 わたしの肩に顔をうずめて君。

 甘えてくれるのなら大歓迎。


「…も少しだけ…」


 わたしの所在ない左腕を一緒に抱きしめて闇に溶けていきそうに静かに。


 わたしの左腕は飾り物でしかない。


 わたしよりも君が一番よく知っていること。


「だいすき」


 わたしの耳元で愛を謳う。

 平凡な一般高校生。視界は四十五度。世界のすべてを知らない。


「律、りつ」


 わたしは知っている。汚いまでに君を好きなことを。

 わたしは知っている。君のそれは恋じゃないことも。


「律だいすき」


 ねぇ、下らない未来の話をしよう。

 いつか離れ離れになる二人の話、B級映画のクサいセリフを織り交ぜながら。わたしの君依存をにおわせながら。最高に下らない未来の話をしよう。


「りつ、キスしてい?」


 こめかみに。頬に。耳に。首筋に。鎖骨に。ちりちり痛い。

 君を振り向いて、鼻の頭にくちびるを寄せる。

 君を好きで、君が好きで、つなぎ止める方法はこれしか知らない。


「りつだいすき…」


 君は知らない気付いてない。広い世界の四十五度しか見えていないことを。浅ましいわたしが君の視界を塞いでいることを。知らないからこそわたしを見てくれる。


「だいすき律。あいしてる」


 そんな酷い言葉を吐かないで。

 そんな怖い嘘を吐かないで。

 いつか撤回されてしまう想い。それでも欲しい。

 矛盾とジレンマと焦燥感。

 君が欲しいとねだる心は報われない。

 君がいないと何もできない甘ったれ。何もしようとしない甘ったれ。君中心のわたしの世界で自己中心的でなんかいられない。


「ゆずる……すき…」


 想いを声にしたら全部伝わるっていうなら、声が枯れるまで言い続けるから。


「すき……」


 この想いよりも壊れたわたしの左腕の方が気にかかる君。それを知っていて何も言わないどころか君の良心に見せびらかしているわたし。

 罪の意識を負って。わたしと一緒に。

 依存してるのはわたしだけ。好きなのはわたしの方だけ。


「好き、りつー…」


 君はわたしの左腕に罪悪感をもっているだけ。君は狭い世界で倒錯しているだけ。

 勘違いの嘘で塗り潰して。


「ウソじゃないよ」


 押し殺した吐息のような言葉。

 君が言ったの。それともわたしの願望なの。


「勘違いなんかじゃないよ」


 強くなった腕の力に君だと知る。


「律の左腕に罪悪感ないわけじゃないけど、そんな理由で律のこと好きなわけじゃないよ」


 たとえこの左腕を銃で打ち抜かれようがナイフで切り刻まれようが反応しないわたし。ただただ赤が流れる。そうしたのは君だという事実。


「好きなんだよ」


 君のわたしに対するそれが勘違いだというわたしが勘違いなの。


「律が好きなんだよ」


 強くて強い君の腕の中。信じてきた現実が崩されていく。


「わかってよ…」



 ああ。

 ああ。

 この左腕は動かない。感覚もない。ただの飾り物。

 この左腕を君が撫でる。感覚はない。君の愛で物。

 でもまだ生きている左腕。


「ゆずるがすきぃ…」


 ああ。

 ああ。

 君の視界は四十五度。



 ああ。

 ああ、お願い。

 今だけは、どうかわたしの君でいて。







 時計が二三時一分を刻んだ。


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