これから先何年経ってもずっと続いていく話


 ちょうど同じころ、サユコの家に帰っていたカケヤも、そのニュースを知った。

 今朝の一件は、まだ引きずったまま。スーツも脱がず、ソファにぐったりとだらしなく座り、テレビの明かりをぼんやりと眺めていた、その時だ。


 「SENKIが……結婚……?」


 主婦層向けの、何の変哲もない芸能ニュース。別段贔屓にしている芸能人もいないので、カケヤにとってはすごくどうでもいいコーナー……の、はずだった。

 

 「う、うぅん……? ん……?」


 (センキ……? 誰だっけ、この人。僕の知り合い? いや、こんな人僕は知らない……はず……)


 真っ黒でパーマ気味の髪が特徴的な、目つきの鋭いミュージシャンだ。テレビの紹介によると、現在中高生の間で絶大な人気を誇る「ジュエル•ジェイル」というロックバンドの、ギター&ボーカルらしい。

 確かにバンドの名前くらいは、どこかで聞いたことがあるような気がした。しかしメンバーの顔や名前までは知らないし、曲もろくに聞いたことがない。カケヤのこれまでの人生13年間において、何の接点もない遠い世界の人間である、はずなのだが……。

 

 「何で引っかかるんだろう……? なんっ、えっ? せ、センキって誰だ!? 知らない人なのに、僕の、中の、何かが……ううぅっ!」


 苦しいのは胸の奥だった。悲しみに似た暗い感情が、心臓を包みこもうとしている。むず痒ささえ感じていたが、乳房……もとい肉体が邪魔をして、どうあがいても心臓まで手は届かない。


 「はぁっ、はぁっ……! 熱い、苦しいっ! 今までにないくらいに、サユコお姉さんの体が、激しく、反応してるっ……! 抑えきれない記憶がっ、はぁ、ハァ、あっ、溢れてくるっ!」


 そのセンキという男のことは、体が覚えていた。

 

 代浜サユコの体に残った記憶が、抵抗を続けるカケヤの精神に劇薬のように注ぎ込まれている。映像が、激しくフラッシュバックしている。


 「あああっ、あの人の、んうっ、上でぇっ、僕が、揺れてっ、い、嫌だっ!! ぼ、ぼくに゛、わ、私の中にっ、入ってるっ、入ってくるぅっ! や、やめてっ、胸っ、僕、男なのにっ、サユコお姉さんじゃないっの、にっ!! 欲しい、愛してっ、もっと、ほ、欲しいのっ……!!」


 悲鳴と共に叫び、苦しみ、もがき、のたうち回った後、カケヤは自らの体を抱いてうずくまった。


 「ふぅーっ……、ふぅーっ……!」


 確実な呼吸で気持ちを落ち着け、波が引いていくのを待っている。体温の上昇は火照りを通り越し、もはや病体の域だった。

 これ以上錯乱状態が続くと、精神や人格に影響を及ぼしかねない。カケヤという人間の、何か大切なものが壊れてしまうだろう。しかし無情にも、その第2波は迫っていた。


 悲壮。


 「……」


 ぽろぽろ、と。

 最初に出たのは、声ではなく涙だった。


 「だめっ……。あっ、嫌っ、待って」


 体に暑苦しく纏わり付く布が、とても邪魔な物に感じた。両手にぐっと力を入れ、引き裂くように服を剥いでいく。脱いだ服を

床に散らかし、最後に黒いストッキングをソファへ放ると、カケヤは紫色の下着だけの姿になった。


 「何処に行くの……? どうして私じゃダメなの……? ま、待って、あと少し、待って! 今度は、必ず、あなたの子どもをっ、あ、赤ちゃんをっ、ちゃんと、頑張るからっ……! お願い、行かないでっ!! 何も言わずに、ここにいてっ!! いやっ、嫌ぁっ!!」


 あの日の想い出だ。

 この広い部屋に一人で住むことになった、あの日。時間切れだと、お前に価値はなくなったと、告げられたあの日。現実を受け入れられず、冷たく重い玄関の扉の前で何時間も泣き喚いた、あの日。


 亡霊か、それとも幻覚か。カケヤは虚空に向かって必死に叫んだ。


 「置いていかないでっ!!! 私を、独りにしないでっ!!! こっ、このままじゃ、私っ……!!」


 ……と、その言葉を遮る物があった。顔を上げたカケヤの目線の先にあったのは、姿見鏡だ。鏡は、現在の彼女の姿をはっきりと映し出している。

 

 「……」


 (サユコお姉さんが泣いてる……。ち、違うっ、僕だ! これは僕なんだっ! ぼ、僕は何をやってるんだ……!?)


 我に帰ったと同時に、サユコの記憶の断片は、また波が引いていくように消えていった。

 平穏が少しだけ返ってきた。今度こそしっかりと気持ちを落ち着けようと、大きく息を吸ったカケヤだったが、そのボロボロに痛んだ女の体は、さらなる問題を連れてきてしまった。


 「あっ……、かっ、声が、い、息がっ……!?」


 (み、水……? 水だっ! かっ、体の中の水分が、足りないっ! 渇く、渇くっ……!!)


 続けて二度も泣いた。それにより疲れきった肉体は、まず何より先に水分を欲していた。


 「はぁ、はぁ……。み、水ぅ……」


 力無く壁によりかかりながら、ふらふらとキッチンの方へと赴き、とにかく水分を探した。

 シンクの水道まではまだ遠い。冷蔵庫の中の水の方が近いだろう。冷蔵庫にたどり着くには、あと3歩ほど進まなければ……と、歩き出そうとしたところで、ふと、カケヤは自分のそばにあるガラス戸の棚に気がついた。


 (こ、この中、ジュースのビンがいっぱいだ……! これ多分、僕が一昨日飲ませてもらった、ぶどうジュースのビン……だよな……? と、とにかく、のどを潤したいっ!!)


 事態は一刻を争う。

 カケヤはぶどうジュースだと勘違いしたまま、ワインセラーの戸を開け、寝かせてあるボトルを一本引き抜いた。


 * *


 数時間後。

 場所は、やまあらし公園の横にある道。


 「じゃあな、カケヤ。また明日」

 「うんっ、また明日ね。ぶよくん」


 友達(と言ってもカケヤの友達だが)に手を振り、サユコは帰り道を歩いていた。

 真っ赤な紅葉の絨毯が敷かれた、夕暮れの小道。その道を歩きながら浴びる秋の風はとても心地良く、無意識のうちに鼻歌を歌ってしまうほどだった。


 (あら……? この歌は、あの人の……)


 人気バンド「ジュエル•ジェイル」の、曲の一節。サユコはこの一節を気に入っていた。


 「ううん、忘れなきゃ。別の人と結婚しちゃったんだから。あの人との思い出がなくなっても、私はもう辛くないし」


 学生服の胸のあたりを撫で、優しく微笑む。


 「ふふっ。さて、カケヤくんはどうしてるかしら」


 不思議と気分が良いので、少し回り道をして帰ることにした。といっても、この脇道から公園の中を通って帰るルートに変更しただけではあるが。数日ぶりに、二人が初めて出会った場所である、やまあらし公園の中へ……。


 「えっ……?」


 時間帯によっては賑わうこともあるこの公園だが、暗くなり始め肌寒いせいもあってか、現在遊具で遊んでいる子どもは一人もいない。散歩してる人やデート中のカップルなども今日はおらず、サユコと「もう一人」を除いて、やまあらし公園には誰もいなかった。

 

 「嘘……。まさか、あそこにいるのって……」


 しかし、その「もう一人」がサユコにとっては問題だった。

 鉄棒のそばに立っている、一人の女。こちらには背を向け、羽織っているコートをちょうど脱ごうとしていた。

 

 その仕草や後ろ姿、サユコは全部知っている。まさかではなく確実に彼女……ではなく、彼だ。


 「カケヤくんっ!?」

 「ふぇ……?」


 暖かそうなコートをぱさっと脱ぎ落とし、振り返った。


 「なっ、か、カケヤくんっ!? カケヤくんよね!?」

 「あ……。僕ぅ……? サユコ……お姉さん……?」

 「ど、どうしてここにいるの!? ここで何をやっているの!? な、なんで、その、し、下着しか身につけてないのっ!!?」

 「んぅ? 何……?」


 キレの悪い返事をしながら、とろんとした瞳で見つめ返している。様子が明らかにおかしい。


 「まっ、まずは服を着てっ!! 風邪を引いてしまうわっ! ほら、そのコートを早くっ!」

 「むん……? これぇ? えへへ、やぁ~だ」

 「な、何? カケヤくん、どうしちゃったの……!?」

 「ぜぇんぜん、寒くないしぃ~。むしろ、体がポカポカしててね、暑いくらいなんだよぉ? だからぁ、裸になっちゃっても平気ぃ~」

 「だめっ、落ち着いてっ!! んっ、この匂い……。まさかあなた、お酒を飲んだの……?」

 「お酒じゃないよ~。のどが渇いてたからね、ぶどうジュースを飲んだの~」

 「間違えて飲んだのね、きっと。とにかく気分が落ち着くまで、どこかで休みましょ? ねっ?」

 

 そう言ってサユコが手を引こうとした瞬間、カケヤは急にむすっとした表情になり、手を振り払って暴れた。


 「いぃっ、嫌だぁっ! ぼくっ、僕はっ、ここで、子どもたちの温もりを感じたいっ!!」

 「えっ……!?」


 サユコから離れたカケヤは、二本の脚で鉄棒の柱をがっちり挟みこんだ。そして、物欲しそうな目で太く大きいその柱を見つめ、胸や太ももを艶やかに擦り付け始めた。


 「んっ、ふふ……。さっき、ここで、ね? んっ、こ、子どもたちが、遊んでてねっ……? だからぁ、ここには、あぁっ、ま、まだっ、あっ、あの子たちの、手の温もり、が、残ってるっ……!」

 「か、カケヤくんっ」

 「こうしてる、とっ、心の中の、しゃ、寂しいのが消えてっ、サユコお姉さんの体、んひっ、き、気持ち良く、なるっ……!」

 「うんっ、分かるっ! その気持ちも分かってるっ! だって、今のあなたはっ、あなたがやってることはっ……」

 

 今度は、無理矢理手を引くのではなく、後ろから包み込むように彼女の全身を抱きしめた。


 「数日前までの私っ……! 『キモババア』っ……!」


 「……!?」


 カケヤは動きを止め、背中にぎゅっと抱きついている男の子の方を向いた。

 

 「サユコ……お姉さん……?」

 「ごめんねっ……? ごめんなさい、カケヤくんっ……! そんなキモババアの体をあなたに押しつけて、本当にごめんっ……!」

 「さ、サユコお姉さぁぁあんっ!!」

 「きゃっ、か、カケヤくんっ!?」


 女も、男の子に抱きつき返した。身長差はあるものの、その男女のハグはしっかりとお互いの体を掴み、決して離そうとはしなかった。


 「うぅっ、ぐすっ……き、『キモババア』なんかじゃないっ! サユコさんは……サユコお姉さんはっ、とっても綺麗で、優しいお姉さんですっ!」

 「うんっ、ありがとう……! カケヤくんは、こんな私にも優しくしてくれるのね……」

 「僕、サユコお姉さんのこと、全部分かった……! 今まで何が辛くて、寂しくて、こんなに苦しんでいたのかを、全部っ! この、あなたの体に教えてもらったっ!」

 「ええ、嬉しいっ……。誰も理解してくれなかったから、すごく嬉しいわ……!」

 「さ、サユコお姉さんの体は、子どもが好きでっ! 思わず興奮してしまうくらい、とにかく大好きでっ! だから、僕に対してもあんなに優しかったんですかっ!? ぼ、僕が子どもだからっ!?」

 「ううん、違うっ! あなたは特別なの! 私、カケヤくんが好きっ! この体も、その精神も、みんな、全部、大好きなのっ! あなたが子どもだからじゃなくて、一人の男性としてっ!!」

 「ぼ、僕も好きですっ! 大人と子どもだからって……ずっとそうやって考えてたけど、でもっ、あなたを嫌いにはなれなかった……! 僕、本当はサユコお姉さんのことが好きなんだって、それで気付いたんですっ! でも、こんなに好きな人に、もうあんな辛い思いはしてほしくない……! あなたはきっと、僕と入れ替わったことを楽しんでくれてるからっ! だ、だから、体が元に戻っていいのかどうか、僕にはもう分からないんですっ!」

 「ふ、ふふっ。本当にっ……もう、優しすぎ……よ……」

 「家族にも会いたいっ! 元の体に戻りたいっ! でも僕がそうすると、またサユコお姉さんが辛い気持ちにっ……!」

 「いいのっ! もう、いいの……! あなたみたいな人を、裏切っちゃだめだって、私もやっと分かった……! これはあなたの体だもの。ちゃんと返さなきゃ、ね……」

 「サユコ……お姉さん……?」

 「すごく楽しかった……! まるで天国にいるような時間だったわ。ふふっ、感謝してるわ」

 「な、何を言って」

 「うんっ、頭の傷は治ってる。ちょっと痛いけど、泣かないでね……」

 「ま、待って! サユコお姉さんっ!」 

 「これで、あなたと私の関係は……終わり。さようなら、カケヤくんっ……!」



 ガツンッ。



 * * *


 それから数日後。


 * * *

 

 

 「……」


 正真正銘、男子中学生のカケヤだ。精神も肉体も、全て男。

 彼は今、自分の部屋の学習机に向かい、何やら必死に難しい問題を解いている。おそらく次回のテストの範囲だろうか。


 「ねぇ、お兄ちゃん」


 向こう側にいる、妹のハスミの声だ。一つの部屋をカーテンのしきりで二分割にしているので、間に壁やドアなどはなく、白いカーテンにハスミの影が映っている。


 「んっ? どうかした?」

 「あっ、勉強中にごめんねっ!」

 「いいよ、もうすぐ終わるところだったし。それで、用件は何?」

 「家庭教師のお姉さん、来てるよ。入ってもらっていい?」

 「うん、頼むよ。……ところで、ハスミはそのお姉さんに会ったことがあるはずなんだけど、覚えてない?」

 「えっ、そうなの? うーん、覚えてないかも……」

 「そっか。まぁ、いいか」

 「じゃあ、私はジュンゴたちと公園行ってくるね。 家庭教師のお姉さんとの勉強、頑張ってね! お兄ちゃんっ!」

 「うん。みんなも気をつけて行ってきなよ」

 「はーいっ!」


 バタン、ドタドタドタ……。


 ハスミが去り、ほんの少しの静寂の後、今度はカチャリと小さな音を立て、誰かが部屋へと入ってきた。


 「カケヤくんっ。入るわよ?」

 「どうぞ。今日も来てくれたんですね」

 

 すすっとカーテンを開け、家庭教師のお姉さんが、カケヤの生活スペースへと入ってきた。


 「サユコお姉さん」

 「ふふっ、こんにちは」


 代浜サユコ。精神も肉体も成人女性。キモババアはもう辞め、現在は早原カケヤ専属の家庭教師をしている。


 二人の関係は、残念ながら終わらなかった。元に戻った後、サユコはもう会わない方がいいと拒否したが、カケヤはなんとかサユコを説得し、結局こんな形に落ち着いたのだった。

 

 「あっ、そのスーツは……」

 「ええ。カケヤくんも着たことあるわよね。慣れないスカートやハイヒールに苦労してたっけ」

 「な、なんだか恥ずかしいです」

 「うふふっ」

 

 サユコは静かにカーテンを閉め、カケヤの部屋のベッドに腰掛けた。

 

 「でも、本当にこれでよかったの? 私なんかを家庭教師にして」

 「またその話を……。もう何度も、これでいいって言ってるじゃないですか」

 「ごめんね。まだ信じられないの。これからずっと、毎日あなたに会えるなんて」

 「中学高校の6年間、ちゃんと僕の家庭教師をしてもらいますっ! そして大学に進学したら……その時は二人で一緒にっ」

 「ふふっ、気が早いわよ。でも、私も頑張らないといけないわね。あなたに勉強を教えられるように」

 「いえ、サユコお姉さんがそこにいてくれるだけで、僕はやる気が出てくるから、別に何もしてもらわなくても……」

 「だーめ。私も努力しなくちゃ。これが、私にとっての幸せでもあるんだから」

 「は、はいっ!」


 カケヤは再び机に向かい、問題の続きのページを開いた。やはり、サユコがそばにいてくれていることを意識すると、俄然やる気が出てくる。


 「答えは-2、と。……よしっ! サユコお姉さん、一区切りつきました」

 「あら、早いわね。じゃあ休憩にする?」

 「はい。あっ、きょ、今日も、よろしくお願いしますっ!」

 「ええ、私からもお願いします……。声や音が、隣に聞こえたりしないかしら」

 「大丈夫ですっ。ハスミたちは公園に遊びに行ってるので」

 「そう。それじゃあ……」


 サユコは立ち上がり、伊達眼鏡を外した。「休憩」には、邪魔なものだ。続いて邪魔なスーツやスカートを脱ぎ、一枚ずつゆっくりと身軽になっていった。そして……。


 「これで最後。私の体、どうかしら……?」

 

 いつもと同じ、言葉を。

 

 「すごく、綺麗です……!」

 「ふふっ、今日も褒めてくれてありがとう」 

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29歳のおままごと 蔵入ミキサ @oimodepupupu

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