竜の腹の中
「うぅ……」
「リシュナ~、リシュナ~っ!!」
「……う、……うるさい、です」
誰ですか……。さっきから人の顔をべちべちと叩いてくる不届き者は。
しかも……、何やらぐっしょりと濡れたかのような不快感に苛まれているというか、ぐにゃぐにゃとしたこの柔らかな感触は……、何?
心なしか振動にも似た気配も感じられるし……、私は一体、今、……どうなっているの?
「ど、どうすればいいんだ……。リシュナ、起きない。おれ、怖い」
「いやぁ、これは気絶してるだけだと思うんだけどなぁ……。お~い、リシュナ!! リ~シュ~ナ~!! 早く起きねぇと、スカート捲りするぞぉ~!! ――うぎゃっ!!」
「ディル君……、教育的指導のお時間です」
「痛ひゃいぃぃいいいいっ!! 痛ひゃっ、りひゅなぁぁぁぁあっ!!」
全く……、私の覚醒が遅いからと好き勝手で低レベルな事を。
むしろ、ディル君のお馬鹿な発言のせいで一気に目を覚ました私は、遠慮なくそのぷにぷにのお子様ほっぺを左右に引っ張って差し上げた。
「……って、あれ? ディル、君?」
「ふぁ、ふぁぃ……」
「……ティア君と、オルフェ君?」
「おはようございます、レディ。ご気分は如何ですか?」
「中々起きなくて……、心配、した」
……くる~り。見知った顔をそれぞれにじっと見つめた後、周囲を取り巻いている赤っぽい壁のような景色を見た。何だろう、ねっとりとした気配と……、足元は、ふにょふにょとした、やっぱり赤色に似た柔らかい感触が。
遥か頭上高くからは、ドクン、ドクン……、と、何かが力強く脈打つ音が響いてくる。
「ひとつ、お聞きします。ここは、どこ、ですか……?」
「「「竜の腹の中」」」
「……すみませんが、それに至る前後を詳しく」
努めて冷静に、冷静に、それでなくても痛い喉をこれ以上傷つけないように、尋ねる。
何故、竜のお腹の中に自分が移動しているのか。その竜は、一体どこのどんな竜なのか。
そして、一番大事な事がひとつ。……お子様達、何故、こんな所にいるんですかっ。
グランヴァリア王宮で部屋を与えられているはずのお子様吸血鬼達を冷ややかに睨んであげれば、三人ともしょぼ~んとした気配でその場に座り込んでしまった。
「父ちゃんのとこに、行こうと思って……」
「わたしも、……父上のところに」
「おれも……」
「……それは、自分達の中で、答えを出したから、ですか?」
この子達は、まだまだ幼い。一度反省して、償いを始めると誓ったとはいえ、……親と再会したのだ。故郷に帰りたい。元の暮らしに戻りたい。そう思うのが普通のはずだ。
フェガリオお兄様が作ってくれた可愛い服に付いたドロドロ粘液のような存在をあえて無視し、私はお子様達の返答を待った。
「人間の世界で学んだ事を、父ちゃん達に話したんだ……。で、話がこじれて、それじゃ駄目だって、怒られて……」
「諭されました……。レディ達の考えは、あくまで理想論だと。その生き方では、次期領主となる器にはなれない、と」
「おれ達は、人間とは、違うから……。生きる場所の掟に従うのが、当然らしい」
「そう、ですか……」
それに納得したから、帰ろうと決意したのか……。
この子達がそれを選ぶのなら、……選んだのなら。
俯き、手のひらをきつく握り締めた私は、奇妙な感情を覚えた。
最初は、家族や村の人達の仇だと、憎んでいたのに……、今も、その思いは心の片隅で息を潜めているはずなのに。
「わかりました……。今は、大人しく貴方達を親御さんの許に帰す事を、承諾、します」
「「「え?」」」
「……幼い時は、家族と一緒にいたいと思う気持ちが強くて、当たり前です。でも」
「え? り、リシュナ~? 何言ってんだ?」
「レディ? どうしたのですか? ……あ」
「リシュナ……、泣いてる、のか?」
違う。足場や周りの景色がシュール過ぎて、吐き気がするだけです……。
そう伝えたいのに、私は顔も上げられずにお子様達から距離を取り、背を向けてしまう。
「泣いてなんか、……いません。突然の事態に対する思考を水面下で酷使しているだけです」
「う~ん、でも、なんか元気ないぞ~? ……父ちゃん達と同じ感じがする」
「え?」
私の前にひょいっと回り込んできたディル君が、背伸びをして私の腰にしがみついた。
どうしてなんだろう……。この子達と一緒にいると、子供の小悪魔さに翻弄されるようで、心配そうに見上げてくるその顔が、存在が、可愛らしいと、愛しく思えると……。
憎んでいた相手に、情が芽生えた。端的に言えばそういう話なのだと、自分でもわかっている。
人間の世界で一緒に住み始め、寝起きを共にし、一緒にお兄様達の手伝いをしたり、一緒に出掛けたり、喧嘩したり……。
(離れていかれる事が……、どうしようもなく、辛い、なんて)
一緒に暮らせば、時間を共有していけば、皆家族になれる。
レゼルお兄様が楽しそうに話してくれた事を思い出す。
お子様吸血鬼達と人間の世界で暮らし始めてから、早……、三ヶ月程。
隣国の襲撃で心に深い傷を負った私は、身近な人達に依存してしまっているのかもしれない。
情を覚えた相手が、遠くに行かない事を……、願ってしまっている。
「れ、レディ、泣かないでください……っ」
「リシュナ、苦しいのかっ? 具合が、悪いのかっ?」
「い、医者だ!! 医者を呼んでくりゃ治る……、って、あぁあああっ!! 竜の腹ん中だった~!!」
オロオロとしているお子様吸血鬼達に囲まれ、私は徐々に崩れ落ちていく。
ぬるりとした足元の感触が膝に触れる。
「リシュナ~……、うぅっ、ど、どうにかして、外に出ねぇとっ」
「とは言っても……、わたし達もぺろっと丸飲みされてどうにか生きてるだけの存在ですけどね」
「でも……、この竜は、俺達を消化してない。転がっていた食い物の類は溶けて下に飲み込まれていったのに」
この子達は、人を気遣って悩める程に……、優しくなった。
膝を着いた私の頬を包む小さな手が温かい。リシュナと呼んでくれる音が、嬉しくて仕方がない。
ディル君達の気遣いが嬉しくて……、私はやがて、ようやく顔をあげる事が出来た。
「もう、大丈夫です……。ディル君達の考えはわかりましたから、次はここから出る方法を探しましょう」
多分ここは……、天獅竜の中、だと思う。
オルフェ君のお父さんと一緒にいた時に感じた、凄まじい殺気。
私へと大口を開けたのは間違いなく、あの天獅竜だったから……。
「あ、あのなっ、リシュナ!!」
「ディル君、ティア君、オルフェ君、探索開始です」
ぴょんぴょんと足場の悪い所で飛び跳ねて何かを言おうとしているディル君を遮り、私は広すぎる竜の腹の中を歩き回る事にした。
オルフェ君が言っていた通り、粘液のようにどろりとした足場を歩いていても、靴が溶ける気配はない。頭上からもポトポトと同じような液体が降ってくるけど、これも問題なし。
鼻を摘みたくなるような異臭もしないし、悪条件は足場の不安定さぐらい。
けれど、歩みを進めている最中に腹の中が激しく揺れ動き、私達は顔面から粘液……、多分、胃液の水溜りに突っ込んでしまった。
「けほっ……、うぅ、ぐっしょり……、です」
「ぷはぁあっ、……多分、竜が暴れてるんだろうなぁ。なぁ? チビ」
「ミュィ~……」
「つまり、戦闘中というわけですね……。ちょっと行動に支障が出そうですが……」
「慣れれば、まぁ、何とかなる……」
「はぁ……、外に出て、シャワーを浴びて着替えたいですよ。まったく」
「ミュィ~、ミュィッ、ミュィッ」
……手を繋ぎ直しながら歩き始めて数十秒後。
私は恐る恐るディル君の方に視線を落とした。
揺れを不快に思う愚痴を吐きつつも、ディル君の周囲には何もない。
今度は、ティア君とオルフェ君の方を確認してみる。こちらも……、何も、なし。
気のせいだったのだろうか……。何か動物の鳴き声に似た音を耳にしたような気がしたのだけど。
可愛らしくて、耳に心地良い……、何かの声が。
「ディル君……、さっき、チビと言ってませんでしたか?」
「うん? 言ったぞ?」
「チビって、誰の事ですか……?」
「そいつ」
「……そい、つ?」
私と綱でいる手とは逆の方で指差したディル君の示す先を追っていくと……。
「ミュィッ!!」
「――っ!?」
私の頭の上から顔を出した何かが、べったりと顔にはりついてきた!!
「んん~っ!!」
真っ暗になった視界に慄く私と、ディル君達の笑う声。
大慌てではりついている何かを引き剥がそうとする前に、その感触は遠のいて行ってしまった。
オルフェ君が、両手に何か……、白くてどっしりとした生き物のような存在を抱えている。
前足の辺りが獅子のようにもっふりとしており、見かけは小さな竜のようにも見える……、これは。
「……お手」
「ミュィ~!!」
私が右手を差し出しそう呟くと、美しいキラキラとした青玉の双眸を抱く謎の生き物が、素直に顎先を乗せてきた。でも……、お手は、顎の事じゃありませんよ。
純白の体躯に特殊な紋様が入った……、竜に似た生き物。
うっとりと顔を私の手のひらに擦り付けてくるこの子は、一体、何?
「いつからいたんですか……? この子」
「最初っからだぜ? おれ達が秘密の抜け道を使ってガルシュアナ地方に戻ってからすぐ……、なんか、あっという間に飲み込まれたんだけどよ。その時に、弱ってるそいつを見つけたんだ」
弱っている? でも、私を見つめながらキラキラと瞳を輝かせている幼い生き物は、やけに元気そうな声をあげているけれど……。
オルフェ君の腕の中から飛び出すと、幼い生き物は居場所を見つけたように私の胸へと飛びついてくる。
「ミュイッ、ミュイィ~!!」
「私は、……貴方の飼い主じゃありませんよ?」
「ミュイッ!! ミュィ~!!」
「なんか……、飼い主だ~!! って、言い張ってる感じに見えるなぁ」
「本当ですねぇ。具合の方も、リシュナが落ちてきてから、目に見えて良くなってますし」
「一目惚れ……、か?」
一体どういう理屈なのか……。
飼い主か、はたまた母親を求めての事なのか、ともかく、幼い生き物は私の腕の中へと収まり、心地良さそうに鳴き続ける。
この子も、天獅竜に飲み込まれてしまった犠牲者なのだろうか?
でも、全然怯えの気配がないというか、私の腕の中からキョロキョロと周囲を観察している。
「あ……。ところで、結局ディル君達は王宮を抜け出して来たんですよね? 誰にも、何も言わずに、ですか?」
「何も、言わずに、来た……」
「すぐに戻ってくる気だったしなぁ」
「……? すぐに、って、ディル君、どういう」
気になる台詞を掬い上げようとした、その時。
再び天獅竜の腹の中が激しく揺れ動き、怒声のような咆哮が内側に響いてきた。
恐らく、外部……、ヴァネルディオさん達からの攻撃を受けているのだろう。
致命傷と深い傷になるような攻撃だけは避けてほしいとお願いしていたけれど……、状況次第では、それも難しくなる。
またまたぐっちゃりと対面した胃液の水溜りで、この時初めて、幼い生き物が不安げな声を漏らした。
「ミュィ~……、ミュイ~……」
「うっ……、だ、大丈夫、ですよ。貴方も一緒に、必ず、外に出してあげます」
「痛たた……。でもよぉ、リシュナぁ……、ぶっちゃけ、出口なんかないと思うぜ、ここ」
「レディが落ちてくる前まで、わたし達も散々探しましたからね……」
「出口……、見つからない」
胃液まみれというシュールな状態で顔を見合わせ、となると……、と、頭上を見上げる。
天獅竜が倒れでもして横になってくれれば体勢が変わり、走って口元まで行く事は出来るだろう。
けれど、今の状態ではどんなにジャンプしても、上には行けない。
下……、は、ディル君の話だと、食物の類は胃から先に吸い込まれていくものの、自分達のような生きているものは除外されているらしく、出口には行けないそうだ。
力技でいくのなら……、天獅竜の腹を突き破って脱出。
「……流石にそれは怖いですね」
自分で呟いて、自分でブルッとしてしまった。
「でもな、でもな!! リシュナ!! この胃の中から、別のとこに行けるんだよ!! 出口じゃねぇけど、男が一人、ぐ~すか寝てるんだ!!」
「……はい?」
ディル君が示した指先の向こうには、天獅竜の胃壁くらいしか見えなかった。
けれど……、お子様吸血鬼達が走り寄ったその先で、私が見たものは。
「ほら!! ここ!! ここ!! 触るとドアみたいになってるんだぞ~!!」
「触らなければ扉の存在自体わからないんですよ、これ」
「中、入れる……」
カパッ!! と、呆気なく胃壁の一部が扉のように開かれてしまった。
何で、何で……。
「生き物の中に部屋があるんですか……」
「ミュィ~!」
常識という概念が総崩れを起こしそうで、くらりと私は目まいを覚えてしまう。
天獅竜の中に部屋があるなんて、そんな事は協力者の人も言わなかった。
でも、部屋がある以上、その先を調べずに無視するのは駄目だろう。
溜息の後、私は意を決してお子様吸血鬼達の後に続くのだった。
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