きしむ玉手箱

うたがわ きしみ(詩河 軋)

第1話『“ロ”の領域』

ニューロシアの忍者サイボーグに成り下がっていた俺に、アンダーチベットのハイパー密教僧は低い声でこう告げた。


「たった今、マカロニから空洞が奪われた」

「……?」


禅問答にも似た物言いに当惑する俺。

密教僧は表情ひとつ変えずに続ける。

「マカロニが抱える『0』の領域だ」


――数瞬後、掴みかけた閃きが逃げ出すのを恐れるようにおずおずと答えた。


「“ロ”か……マカロニの空洞……マカロニが抱えるゼロ。それは本来、奪えるような実体がないものだ。だが、『マカ【ロ】ニ』の“ロ“なら簡単に奪える」


密教僧はそれには応えず、じっと黙ったまま

ここではないどこか遠くを見透かすように

ただ目を細めた。

当たらずとも遠からずといったところか……


「しかしそれがたった今、目の前で奪われたというのはいったい……」


黒曜石に似た黒光りする石畳の上、間抜けに響いた俺の問いかけは、大伽藍の天井と壁とを埋め尽くす電子機器の忙しない明滅に吸い込まれていった。


夜空に瞬く数多の星々を彷彿させるその景観に、来訪者は寺院の中にもうひとつの宇宙の存在を実感するという。


俺はその巨大な地下宇宙の穹窿部に吸い寄せられるように視線を漂わせ、ひときわ輝きを放つ青白い電子パネルを見つめた。


ーー瞬間、世界が、宇宙が震えた。


……っ!?

……そんなーー!?

『宇宙』と……目があった、だと?


刻の墓標参りに訪れる刻視(ときみ)の修験者たちが戯言のように繰り返してきたもうひとつの宇宙説ーーアナザーユニヴァースーー狂信者が作り出した都市伝説のようなものだろうと侮蔑し、懐疑的でさえいた俺が今まさにそれを実感している。


そしてこの実感は恐らく間違ってはいない。

 “宇宙は実際、今、「ここ」で作られているのだ”


なるほど……元ネオヴァチカン市国の枢機卿だったはずの男が、突然ハイパー密教僧ジュゼッペ・バルバロッサになって登場してもなんの不思議もないわけだ。


密教僧は口の端をほんの少し歪めてみせた。

ひょっとすると、笑っているのかもしれない。


――つまり、俺たちこそ、立った今、何がしかに切り取られた“ロ”そのものだったというわけだ。


そう、今“これを書いている”もしくは、“読んでいる”『あんた』に――


どうりで、俺にはなんの記憶も意図も感情もないはずだ。サイボーグだからじゃない。

そんなもの初めからなかったからだ。


そもそもこの三文SFは、なんの意味も、中身も、脈絡もない“マカロニ小説”だった。

そして俺たちはそのエキストラ。

なにも語られてない垂れ流しの宇宙の一部――


言ってみれば、俺たちが生きているこの空間


――つまり“ロ”が、冒頭で誰かに切り取られ、読まれ、奪われたってわけだ。


あんた、よくも意味もない空洞を奪ってくれたな。俺たちには、この先も、後もない。この切り取られた“ロ”の宇宙にずっと閉じ込められたまま漂い続けるしかない。


意味もない宇宙から意味もない中身を切り取り、意味もなく閉じ込めて、何が楽しい?


大方、Hi-LINEで誰かに張り付けて送ったり、

S.noteあたりにアップしたり、有象無象のろくでもないサイトに投稿したりするつもりだろう。


まあいい、俺たちにははなっから選択肢なんてないんだからな。

だが、俺たちがすっぽ抜けたあとの三文SF? 言ってみれば……マカニ? マカニ小説? そいつらはどうなる?


いや、どうでもいいか。“ロ”があろうとなかろうと、俺たちは平等に意味がない。


密教僧がまた、口の端をほんの少し歪めてみせた。

いや、ひょっとすると、泣いているのかもしれない。しょせん意味はないが。

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