虚妄の家 第3話 奈落
「ほな、参りまひょ。」
深娜月は僕の腕を取り、ぐいっと引くと、艶やかに悠然と笑んだ。
彼女と出会った昔日を思い起こしていた僕は、はっとして我に返り彼女を顧みた。そしてとくに行く当てもないままに僕たちは寄り添い歩きだした。
彼女に導かれて、何処をどう歩いていたのかよく覚えいない。が、いつの間にか僕たちは、あの古い屋敷の大きな門前にたどり着いていた。
「此処は?」
深娜月は何も語らず、にやりと意味有りげな薄笑いを浮かべると、中へ入るわけでもなく、屋敷の前を足早に通り過ぎて行った。僕は慌てて彼女の後を追いながら、ちょいっと天(そら)を見上げた。
天は雲に覆われ、星は出ていない。が、雲の切れ間から三日月だけは慎ましげに顔を出していた。光を淡く地に落とした月は、光を雲に籠もらせて、天を鈍く光らせていた。
慎ましい月影なのに、それが妙に背筋を冷たく凍りつかせるような、どす黒い気味の悪さを醸し出しているように感じた。
その翌日。
午後二時の強い日差しの中、僕は学校の帰宅路を急いでいた。
日差しに輝いて白く揺らめくアスファルトは、暑さをより一層引き出す。
ただでさえ、朝早くからの講義でうんざりしていたというのに、この蒸し暑い気怠さである。当然のことながら僕の足取りは重い。ちょっと歩みを止めて、滝のように流れ出ずる額の汗を手の甲で拭いながら、目映く白金に輝いている日輪を仰いだ。
「まだまだ今日は暑くなるな。」
僕はそう呟くと、ぼぅっとした頭を軽く叩きながら再び歩み出した。
少し歩いて、はっとしたような顔で、また立ち止まった。何げなく回りを見回した。
「此処は?」
また、あの古い屋敷の前だった。
ーーーなぜ?
僕は頭を傾げながら、その屋敷に背を向けかけた時、
「裕柾。」
僕の背後で深娜月の声がした。僕は驚いて振り向いた。
屋敷の門の前に、彼女が立っていた。
彼女は薄く笑って、左手で古びた大きな門を押す。ギギッという古い音をたてながら門は開いた。深娜月はその中へすぅっと空気のように姿を消した。
僕は誘われるように門へと近づいた。そのまま門を押し開けて、吸い込まれるように中へ入った。
長い長い石畳の階段(きざはし)を見上げる。そこには既に深娜月の姿はなかった。
階段を上りきり、前方を見つめた。湿った土の香がつんと僕の鼻を刺激する。青蘚たる苔や羊歯の生す路を踏み締めながら、深娜月の姿を求めて、家の玄関へとゆっくり歩を進めた。
玄関の戸を開けると、そこは昼間だというのに暗闇が渦を巻き、ひっそり閑と静寂が奏でられていた。人の住む気配の一切が感じられない、そういう空間だった。
外から差し込む、やわい日差しすらも僕には薄暗く冷たいものに感じられていた。
「すみません。失礼します。」
返事は無く、かわりに寂滅と鋭く突き刺すような空気が僕を打つ。
僕は誘われるようにふらふらりと中へ上がった。
『裕柾はん・・・こっちゃ』
ふと、深娜月の線の細い綺麗な声が幻のように脳裡に響き、僕は振り向いた。
ーーー誰も住んでいない?随分古い家だが・・・
僕は再び前を向き直り彼女の姿を求めるように一室に入っていった。
暫く格天井を見上げた後、僕は足元に視線を落とした。そして僕の足元に漆の剥げかかった薄い朱の木箱があるのを見つけた。
その中には、一枚の写真(縁が朽ち始め、セピアに色褪せた、酷く古びている)が入っていた。
そこには軍服を着た僕に瓜二つの若い男が写っていたのである。そして、その裏には「晞光・二十」と書かれていた。
ーーー晞光?
写真を握り締めたまま、ゆっくりと部屋を見回し、正面の格子戸に目を留めた。
そこへ手を伸ばし、引き開けた。
途端、鋭い光が眩く僕の脳裡を焦がした。
眼を伏せがちにして駱駝色に色褪せた竹縁に立つ。
寂静と云う中で、風に揺らされる竹の葉ずれの音と筒のたたき合うカランカランという音だけが耳に残った。
土中に埋もれかかった涸れた池と伸び放題の雑草・・・。荒寥としたとした庭は永いこと此の家に主の居なかったことを告げていた。寂を見つめる風の音が簫々と低く唸り、茫々とした草々を揺らしてゆく。翠葉は擦れ合い、ひそやかな鈴の音を創った。竹縁から三丈程の距離に崖。多分、真下にはあの深い掘り。
『裕柾・・・』
二度目の深娜月の聲に僕はハッとして、振り返った。
ーーー風向きが変わった。
刹那、僕は眼前に繰り広げられている惨劇に身を凍りつかせていた。
もう一人の白い軍服を着た僕が深娜月の首を絞めている。彼女は必死に足掻き、その震える手を、僕の身体を掴もうとするが如く虚空へと延ばしていた。
「止めろ!!」
僕はくわっと眼(まなこ)を見開き、一声叫んでもう一人の僕の腕を取り押さえようとした。
しかし、僕の身体は幻を掴むかのように彼らの身体を擦り抜け、前のめりに転んだ。
ーーー掴めない・・・?
彼の腕を掴むことができなかった。まるで幻影の如く・・・彼らに僕の此の手が触れることは許されなかった。
ーーー此レハ過去ノ幻影。
深那月の聲だった。
僕はなす術もないままに、その場で膝をついて茫然としていた。
深娜月の口から泡が吹き出した時。
「止めろォォォ・・・!!」
僕は頭を抱え込むと、かすれたような声で狂ったように遠く深く絶叫し、その場に崩れ込んだ。
冷たい汗が滝のように全身の汗腺から一気に溢れだしていた。
僕の瞳孔は針のように細くなり、心の臓は破裂せんとばかりに激しく高鳴る。
暗闇が脳裡を襲い、気は次第に遠のいていった。
しかし、地獄の光景だけは尚も脳裡で踊る。
何時からか、幼き頃に母のあたたかくふくよかな唇から添い寝で聞いたような子守歌が、やさしく切なく僕の脳裏に蘇っていた。
それは滲むように切なく深く風に乗り、永遠(とわ)の祈りを天に映していた。
ーーー奈落への道標(みちしるべ)。
彼女を絞め殺したもう一人の僕は彼女の骸(気絶しているだけなのかもしれぬが)を一旦、堅く抱き締めると、堀の中へそれを投げ捨てた。
ーーー何処よりも深く深く、碧淀に沈んで行く。
ーーーここは底無しの掘。一度沈むともう二度とは浮かび上がらない、呪いの堀。
あとには、寂寥の中に水沫の音だけが遠く永く尾を引いて虚空に木霊していた。
いつしか白蛇が僕の身体に巻き付き、そして消えていった。
僕は閉じていた眼をカッと見開き、張り詰め緊張した面持ちで、ハッとし上半身を起こした。
眼前には深娜月が居た。
彼女はたおやかに微笑むと僕を挑発するかのように僕の首に白いやわらかな腕(かいな)を絡ませてきたのである。
彼女はそのまま、桜色の柔らかい唇を僕の首筋に押し付けて来た。
僕は真っ赤に充血しているであろう眼で、彼女の顔容(かんばせ)を睨みつけるように鋭く厳しく見据えた。彼女の悩ましげな白梅のうなじが僕の瞳を捕らえ、胸に焔を燭してゆく。
「うちは一度、あんたに殺されたんどすぇ。」
そう彼女は耳元で囁いた。やわらかな中に冷たく光る重い声。
僕は彼女の眼を見てゾッとした。冷えた眼底に空気を凍りつかせる程の異様な気迫が張り詰めていたのである。
そしてそれは僕の精神を強烈に縛り込んだのだった。
彼女は薄く笑った。そしてその白い腕を僕の身体に絡ませた。
次の瞬間、傀儡のように魂抜けしていた僕は操られるままに彼女の身を抱きしめていたのである。
何処かで、多分本能の部分で僕を止める声がした気がする。
しかし、どうなってもよいと、このまま彼女の手で殺されても良いと、僕は思っていた。
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