第40話「フィンランド・ユヴァスキュラ(11)」
苦しいのか、ときおり息を切らしながら、それでも老人は、何かに突き動かされるように語り続けた。
「穴の向こうにあるのは、ディアーボがやってきたと思われる魔の世界だ、もっとも実際にそれを見た者はいない、正確には、向こうへ行って、無事に戻ってきた者はないということだが」
俺は無言のまま画面の先の老人を見ている。
「どこに繋がっているのか、何があるのか、生きて帰れるのか、それがわからない場所でも行くという人間は、君たちが考える以上にこの世界に多勢いる、
ある種の中毒者のようにその類のリスクを追い求めてやまないという人間もいるし、目先の大金がどうしても必要だという者も、私に命じられれば地獄へでも喜んで出向くという者も、ほとんど数かぎりなく存在する、
そういう者たちを集めて調査隊を組むことは造作もないことだった、そして魔界への玄関口とおぼしき場所は世界各地に点在した、それらの部隊を組成しては、各地の大穴へ、何度も送り込んだよ」
頭の中に、樹海の洞窟の縦穴のイメージが浮かぶ。この老人は、あの縦穴のことも知っているのだろうか。いったいどれだけの人間たちが、老人の指示のもと、どこまで続くか知れない大穴に飛び込んでいったのだろう。
「だが、戻ってこなかった、誰ひとりだ、もちろん無事戻ることなど初めから期待してはいなかったがね、連中に持たせた最先端の映像機材、考えうるどんな過酷な状況でも機能するはずのそれらの機材からも、何ひとつ情報は送られてこなかった、
特定のメンバーに装着させたワイヤーは深海探査船に使われるものと同じ強度を誇る特注品だったが、地上で待つスタッフがいつ切れたのか気づかないほど静かに、何の異変も見せずに、切断されていたそうだ、
だがそれはそのまま、穴の向こうの世界の存在の証明になったわけだ、我々の常識ではまったく説明の及ばない何かが確実にそこに在るという、そのあかしなのだよ」
あんたは行ったのか、素直に疑問に思ったことを、俺は聞いた。
「私は行かなかった、行けなかった、老いと持病からドクターに止められてね、あと二十歳若ければ、と思ったものだ、
いや、正直なことを話せば、非常に恥ずかしいことだがね、怖いのだよ、先ほどの話と矛盾するようだが、怖いのだ、自分を小虫のように感じさせられる絶望の世界を望みながら、いざ実際にその世界に飛び込むとなると、どうしても恐怖が先行してしまう、
それに、現実的に考えれば、私ぐらいの体力では穴を降下する心的な圧力にさえ耐えられないかもしれない、私は肉体的な点から見れば、その程度の弱者にすぎないわけだからね」
言葉を切り、一拍おいてから、だからだ、と老人は続けた。
「だから、君たちが、行ってくるのだ」
ふざけるな、俺は、俺たちはそんなものに興味なんかない、
俺は反射的にそう言っていた。本心とは微妙にズレている気がした。あまりに身勝手な老人の論理と物の言い方に反発を覚えたのは確かだった。だが行きたくない、と感じたわけではなかった。
老人に答えたのと同時に、巨大な右腕を持つ鎧の怪物が頭をよぎった。あの怪物は、奈落のような樹海の縦穴から繋がる異界の砂漠で、いまも、人外の大群を相手に暴れているのだろうか。
鎧の怪物の手に抱かれながら感じた説明のできない奇妙な安息感を思い出したとき、そこから連想したのか、同じく怪物の手のひらに包まれていたゼンのことが浮かんだ。
俺は廊下側の壁の小窓のほうを見た。ゼンなら何と言うだろう。老人の語るこの話は、壁の向こうに立つゼンにも、聞こえているのだろうか。
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