第25話「フィンランド・ロヴァニエミ(5)
老人は名前を名乗らなかった。小屋のドアを叩いた俺たちをただ黙って見下ろし、入れとも言わずに、背を向けて室内のテーブルについた。彼がドアを閉めなかったことから、俺たちはひとまず中へ入ることを許されたと判断し、土足のまま小屋に上がり込んだ。
年季の入った毛皮のベストを着た老人の目には、すべてを見透かすような鋭さがあった。嫌な感じはしなかった。よそ者をうとましそうに眺める視線ではなかったからだ。だが当たり前ながら、俺たちを歓迎する友好的な眼差しではもちろんない。
突っ立っているゼンと俺に、老人はあごでイスを示した。顔を見合わせてから、俺たちは手前のイスに腰を下ろす。彼はそれを確認して席を立ち、すぐ脇の、キッチン台のような場所へ行って湯を沸かし始めた。
小屋には調度と呼べるものは何ひとつない。イスは切り出した丸太をカットしただけと思われる簡素なものだし、テーブルも、白木の板を張り合わせて適当に作られたシンプルな品だ。森に籠もる猟師の小屋にありそうな、熊の毛皮のカーペットや大鹿の剥製などは見当たらない。
ただ、使い込まれた銃身の長い猟銃が一本、無造作に壁に立てかけてある。
それをじっと見つめるゼンに、カップを両手に戻ってきた老人が、はじめて、口を開いた。野太く小さな声で、俺にはよく聞き取れなかった。
「ああ、ボクも、銃が好きだ」
ゼンが、俺にもわかるようひと言ずつ区切って英語でそう答えた。老人は表情をまったく変えずに頷き、ゼンと俺の前にカップを置いた。コーヒーの香りが、俺の中の緊張を和らげる。
老人は向かいのイスに座ると、ゼンではなく俺を射抜くような目で見つめ、日本人か……と、喋るというよりひとり言を呟くように英語で言った。俺は黙ったまま、一度だけ頷いた。
「お前たちの用は、あの、二人の日本人か?」
俺が英語を話せないことに配慮してか、老人は今度は非常にゆっくりはっきりと、シンプルな英語でそう聞いた。彼の言葉が頭の中で日本語に訳されると同時に、ケンジと、アイリの顔が浮かんだ。
その瞬間、目の前の年老いた男がすべての黒幕に思えて、無意識のうちに、俺は彼に飛びかかろうとした。
それを制するように、ゼンが、俺の肩に手を置く。その手が俺を我に返らせる。
ゼンは老人に答える。
「二人は、この彼の、友達なんだ」
老人は、友達、と英語で呟いた後、ゼンと俺を交互に見た。お前たちの関係は? と言いたいらしい。
俺は答えに窮した。英語でどう伝えればいいのか、ということにではない。ゼンと俺の関係は、いびつで、不可解で、俺自身にもよくわかってない。自分が言語化できないことを、日本語であれ英語であれ、他人に伝えるのは難しい。俺は助けを求めるようにゼンを見る。
ゼンは小さく頷いてから、老人のほうを向き、俺の肩を軽く一度叩き、子どものような笑みを浮かべて言った。
「彼はボクの、ベストフレンドだよ」
そう聞くと、老人は目を大きく開いて再び俺たちをまじまじと見た。
そして、下を向き、くくくと声をもらした。やがてぶるぶると両肩を揺らし、しまいには声を上げて、豪快に笑い始めた。
何がそんなに愉快なのか、俺にはまったくわからない。隣に座るゼンは、笑みを浮かべたまま、まだ勧められてもいないカップに手を伸ばし、コーヒーをすすり出した。
老人の笑い声が、小屋と、静寂に包まれた針葉樹の森に響いている。
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