第19話「現在地・不明(3)」

 聞くだけで発狂しそうになる不快な叫び声とともに、腐乱した追跡者が、鎧の怪物に襲いかかる。


 俺も、ゼンすらも反応できないほどのスピードだった。追跡者のすぐ後方には、超高層ビルのような巨大なバケモノまで迫っている。


 その非現実的な光景を、俺はその場から逃げることもできず、ただ眺めていた。恐怖をはじめとする、緊張を誘うあらゆる感情が限界近くまで高まり、そのためかまるで時間が止まったかのように視界内の映像がスローモーションで流れた。樹海の街でマフィアからロケットランチャーを撃たれたときの感覚に似ていた。


 俺の十数メートル前方に立つ鎧の怪物に、前脚が触れるほど異形の追跡者が迫る。そのとき、追跡者の腐敗してぐじゃぐじゃになった頭部らしきものが初めて見えた。腐りきってぼろぼろになったどす黒い皮膚がカーテンのように頭部全体を隠していて、それが、飛びかかる際わずかにめくれて下の部位が覗けた。人の顔ほどもありそうな大きな目玉が、1つや2つではなく、10近くも付いている。強烈な吐き気がこみ上げる。


 追跡者の前脚が体に届くその直前、鎧の怪物は異常な太さの右腕を振り下ろした。巨人のハンマーのようなその腕が、恐ろしい速さで飛びかかる追跡者を上回る速度で地面に叩きつけられる。追跡者の肢体はほとんど跡形もなく潰れ、こぶしが届く前に凄まじい風圧で千切れた、無数の眼球が蠢く腐った頭の一部だけがかなり離れた砂の大地へ吹き飛びべとりと落ちた。鎧の怪物のちょうど死角で、残った眼球がこちらを向いていて俺は思わず目を背けた。


 怪物は敵の頭部の残骸を振り返ることなく、潰れた肢体をまたいで数歩進み、すぐそこまで迫った巨大なバケモノを見上げている。迎え撃つつもりなのだろうか。ヤツがいくら鬼神でも、天を突く巨塔じみたあのバケモノ相手ではどうしようもない。


 ゼンは腰だめの姿勢で固まったままで、俺は、逃げろというあの鎧の怪物の忠告もほとんど忘れて棒立ちになっている。現実感のない悪夢のような光景を目の当たりにしながら、奇妙なことに、鎧の怪物の身を案じたりしている。


 ふと、あることに気づいた。


 地面に勢いよく落下して完全に沈黙していた追跡者の頭部の残骸が、小刻みに震えている。


 残骸は大地の砂に血の跡を残しながらわずかずつ動いて、ある距離までくると一気に、猛スピードで飛ぶようにして潰れた肢体にのめり込んだ。ほぼ同時に、ぺしゃんこになった肢体の表面がブクブクと波打ち、強力な装置で空気を送られた風船人形のように、一瞬にして元どおり再生した。そして恐ろしく機敏な動きで後方に向き直り、鎧の怪物の無防備な背めがけて跳んだ。気配を察して振り向いた怪物の頭部に、再生した追跡者の肢体が覆いかぶさる。


 追跡者の4本の脚はまるで軟体動物のように変質して、怪物の首から上に巻きついた。視界を封じられた怪物は太さと長さのまったく異なる両腕でそれぞれ敵の四肢を掴んで引き裂く。だが次の瞬間には驚異的な再生力で潰された箇所が完全に元に戻る。


 4本の脚で巻かれた怪物の頭部から、不穏な煙が立ち上り出した。すぐ目の前に迫った巨大なバケモノの信じがたい悪臭が辺りを覆い尽くしたにもかかわらず、その煙からも、異質の、強烈に不快な臭いがした。毒だ、と直感的に思った。同時に、鎧の怪物のものだろう、恐ろしく低いうなり声が耳に届いた。腐乱した追跡者の毒が、怪物の頭部を焼いているに違いない。


 怪物は自らの顔を覆う敵の四肢を狂ったように掴んでは引き裂く。だがわずかに残った四肢が破り捨てられた肉片を呼び寄せてくっつき、その間にも毒が怪物の頭部を冒す。そして巨大なバケモノが、怪物を襲える距離まで迫った。


 バケモノがわずかに速度を落とす。それ単体で数十メートルの長さがある気味の悪い前脚の1本を大地から浮かせる。その脚をギリギリと限界まで筋肉をしならせる音が聞こえてきそうなほど緊張させ、視界を奪われ頭部を毒に冒されてもがく鎧の怪物めがけて、恐ろしい速さで振った。


 次に起こったことはよく覚えてない。体が、勝手に動いていた。


 俺は鎧の怪物に何の情もない。黒いディアーボから救ってくれたとも思っていない。ディアーボも鎧のアイツも同じだ。俺たちとは棲む世界の違う、異形の怪物。


 そのはずだった。なのに俺の足は、危機に瀕した鎧の怪物に向かって、駆け出していた。


 それは駆ける、などというレベルではなかった。


 文字どおり、俺は光の速さで、跳んだ。樹海の洞穴の奥底でいつまでも消えない風圧を耳に残しながら俺をかすめて現れた鎧の怪物、そのスピードを超越する速さで、俺は跳躍した。


 バケモノの巨大で鋭利な爪を備えた前脚が迫る、そのほんのわずか直前に、俺は鎧の怪物の背に肩でぶつかり、そのままヤツに覆いかぶさる形で前方へ倒れ込んだ。俺の背のすぐ後ろでバケモノの爪が空を切るのがはっきりと感じられた。


 生きた心地がしなかったが、体は自然に次の行動に移った。うつ伏せに倒れた怪物の頭部に巻きつく腐乱した四肢、その中央にある、人の顔ほどもある眼球の1つを、俺の爪先が踏み抜いた。人間の肉体など瞬時に破壊する毒があるかもしれない、などとは思わなかった。一心不乱に、この敵を破壊するにはどうすればいいか、それだけを考えていた気がする。鎧の怪物を攻撃するこの腐乱したバケモノを、俺は敵だと判断したのだった。


 眼球を潰されて、敵は、ひるんだ。凄まじい叫び声を轟かせ、標的を替えてすぐさま俺めがけ前脚を伸ばす。考えられるかぎりの不快な音を集めて重ね合わせたような耐えがたい悲鳴を間近で聞かされ、俺の全身が、瞬間的に固まった。迫る攻撃を、回避できない、と思った。死を覚悟したわけではなかったが、俺は反射的に目を閉じた。


 だがいつまで経っても、襲われた感覚がなかった。


 恐るおそる目を開けると、敵の前脚は、俺に向けられたまま宙で止まっていた。


 立ち上がった鎧の怪物の左腕が、その脚を掴んで止めていた。怪物の首から上を覆っていた肢体は引き剥がされ、無数の眼球が蠢く頭部は完全に潰されている。頭部が本体なのだろう、再生する気配はない。


 そして、元々異様な太さと長さを誇っていた怪物の右腕が、さらに膨張し長く伸びて、別の前脚を振り下ろそうと構えたバケモノの蛇腹を突き破っていた。穴の空いた蛇腹からはコールタールのようなどろどろの血らしきものがひっきりなしに垂れ、真下の砂地は油田かヘドロの池のようになっている。


 腹の中央を貫かれたバケモノの体は、腐敗した頭部を含む巨大な上半身を支えきれず、鎧の怪物がその異常な太さの右腕を引き抜くと同時に、ゆっくりと上部が後方にのけぞり、根元にくさびを打たれ斧で削られた大木のように、少しずつ加速し、やがて倒れた。砂漠全体が、一度だけ大きく揺れ、しばらく小刻みに震え続けた。


 その振動が収まった頃、鎧の怪物が、俺を振り返った。ゆったりとした歩調で、目の前まで近づいてきた。


 俺はヤツを見上げた。倒されたバケモノどもほどではないにしろ、ゆうに俺の数倍はある。体長5メートルはあった黒いディアーボよりも、わずかだがさらに大きい。


 これまで遭遇した怪物の中では、もっとも人間に近い姿をしている。だが人外の存在であることは疑いようがない。


 鎧の怪物は俺を見下ろしたまま、何も喋らない。敵の毒に冒されて上げたうなり声を除いて、俺はまだ一度もヤツの声を聞いてない。それなのに、……お前たちは逃げろ……俺は確かにそう聞いた気がした。


 この怪物はいったい何者なのだろうか。


 バケモノの死骸が転がり悪臭が満ちる異常で未知の空間であるのに、沈黙の中互いに向き合っていると、不思議なことに妙な安らぎを覚えた。懐かしさ、と言っていいかもしれない。この怪物のことはずっと昔から知っている……驚いたことに、俺はそんな感覚を抱いた。


 なあ、あんたは誰なんだ、俺のこと、前から知って……


 そう聞きかけたとき、足元の大地が、再び震え出した。


 蛇腹を破壊されて倒れたバケモノが息を吹き返したのかと緊張する俺をなだめるようにして、鎧の怪物がゆっくりと後方を振り返った。その視線の遥か先には、ついさっき、ゼンが俺に背を向けて眺めていたあの巨大な2つの砂丘がそびえている。


 その砂丘を視界に捉えて、俺は目を疑った。


 砂丘の間から、左右から、さらにその後方から、地平線を埋め尽くすほどの無数の何かが、こちらに向かってくるのが見えた。


 百や二百ではなかった。千でも収まりそうにない、バケモノの大群……背後からも不穏な振動を感じて、振り向くと、同様にこちらへ押し寄せる人外の群れが目に飛び込んできた。


 今度こそ逃げ場はない。


 鎧の怪物が現れてから固まったままだったゼンは、背筋を伸ばしたいつもの立ち姿になり、それらの大群を眺めている。目は虚ろで、顔に表情がない。何を考えているのか、ここからでは読み取れない。


 砂丘の向こうから迫りくるバケモノの群れをしばらく見つめていた鎧の怪物が、やがてそれらに背を見せ、俺のほうへ向き直った。間近で向き合っても、顔まで覆うカブトの奥にある、その目を確認することはできない。


 四方からバケモノが迫る絶望的な状況……にもかかわらず、ヤツが俺に向けるその視線が、心配いらない、と言っているように感じた。


 俺は自分が狂い始めているのではないか、ふとそう思った。


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