アーサー・ホルムウッドの夢
さいとし
夢
アーサー・ホルムウッドの夢の門は、緑色の薬酒によって開かれる。平均して6杯。前後の感覚を失い、椅子に寄りかかっているのか、あるいは寝台に伏しているのかも判断できない彼は、口腔を満たす酒精と苔を思わせる甘苦い香りを手繰る。記憶の扉が軋みを立てるのを聞いている。
夢の入り口は奇妙なほど明るい林の中だった。露出を上げすぎた写真のように、全ての影が消え失せている。夢の光を遮る瞼はなく、アーサーは梢から差し込む光に、剣の苦痛を感じた。
後悔の味だ、と一歩離れた場所で自分がつぶやいている。後悔を愉しんでいる。枝を踏み折って歩く音が聞こえる。湿気った枝と下生えを踏む、誰かが立てる音だ。ルーシー。眩しすぎて姿が見えない。影が消え失せている。木漏れ日が全身を貫く。
酩酊と覚醒と、より深い酩酊の間を浮き沈みするたびに、アーサーの意識は無数に切り分けられていった。一人はワイン数杯程度の酔い加減で懐かしいウエストサイドの石畳を歩き、また一人は腐臭のする軟泥の底に葬られて虫や魚に啄まれるままに数百年を過ごした。
何もない暗闇の中で玉葱の皮のように存在をはぎ取られていくもの。砂埃の中で見えない標的に銃口を向けようとするもの。筋道だった映像はほとんどなく、混沌に呑まれた意識は融合と分裂と消滅を繰り返す。
肉体が浅い呼吸を繰り返し、神経を灼く薬の作用に悶える十数分は、混沌の中で何倍にも引き延ばされた。苦痛、快楽、獣性、理性の混合物はやがて、漏斗に注がれたように渦巻き、収斂を始める。その勢いのまま、真直ぐに記憶の底を目指した。赤い実を加えた鳥が飛ぶ。実は熟して崩れかけている。苔桃の実だ。
なぜ、とアーサーの頑な理性が問いかける。なぜ、なぜ、と。問いかけることをやめれば、兵士ではなく兵器になる。そう教えたのは誰だったか。教授ではない。ヘルシング教授が教えたのは、信じることだった。闘いを前にして心を揺らさないための技術だった。
なぜ、なぜ。いつの間にか光は失せ、居心地の良い闇がアーサーを取り巻いていた。人の火に曝されたことのない、海のような深みを持つ森だ。岩も木々も湿った苔に覆われている。トランシルバニアの腹の中だ。あのドラキュラを追いつめた最果ての土地だ。アーサーはあの日から、何度も問い続けていた。なぜ、俺たちはあいつを、千年を生きる化け物を殺すことが出来たのか。
アーサーは森の中を進む。数年前、あの怪物を追いつめようと、黄昏の光の中を走った、闘いの記憶の中を。しかし、光は遠く届かず、時間は既に怪物の味方だ。妄想と記憶が入り交じっている。アーサーの問いだけが、彼自身の悪夢の方向を定め、一つの筋書きを進ませる。
手には鋼鉄の感触があった。ウィンチェスター。銃身がじっとりと濡れている。樫の銃床も湿り、あり得ない早さで朽ちていく。アーサーの身体もまた、朽ちていくようだ。森に消化されていくようだ。
銃。そうだ、銃だ。なぜあの怪物は、あの男は銃を使わなかった。あいつは文明の味を渇望していた。だからルーシーに牙を立てたはずだ。ルーシー、ウェンステラ、西洋の光に。千年を東欧の城で過ごし、知の飢えと喉の渇きに耐えかねた伯爵が、しかし銃を取ることはなかった。
夢の歩みは唐突に終わった。アーサーの前には、一匹の巨大な狼が居た。艶のない黒い体毛。戦闘的な黒だ。体躯は牛よりも大きい。生臭い息と、濡れた毛皮の据えた匂いが吹き付ける。その匂いは獣のものでありながら、確かに森の匂いと似ていた。
ドミトリ号から走り去った黒犬だ。伯爵の化生の一つだ。アーサーは腐りかけたライフルを真直ぐに構えた。黒犬の額に照準を合わせた。
犬の瞳には理性があった。未来を理解し、見通す知性があった。決戦の日も、確かにアーサーは知性と理性を伯爵の瞳の中に観た。古い、黴の生えかけた歴史の澱を纏いつつも、その目は曇ってはいなかったはずだ。
森の底、アーサーの記憶の底で、アーサーと伯爵は対峙した。なぜ、なぜ、とあアーサーが問いかける。分たれた意識がそれぞれに解釈をささやく。しかし、そのどれもが最も冷静な一人のアーサーに否定される。所詮、全て薬酒に溺れた自分が吐き出した記憶の木霊に過ぎないと。
やがて、黒犬は物音一つ立てずに身を返し、深い森のさらに深みへと帰っていった。アーサーの意味のある意識もそこで途切れた。続くのは薬に耽溺したときに味わういつもの嵐だった。意志を翻弄するテンペストだった。無数のモニュメントがアーサーの魂にぶつかり、砕き、無限と刹那の間へと無作為にばらまいた。灰色の霧に喰われ、砂岩に刻まれた異形の神々への犠牲に供せられた。一瞬の死と、長い苦痛を何度も体験した。混乱と恐慌のうちに永劫の時間が過ぎ去り、ようやく苦痛も安堵もない、ただ何も無い深い眠りが与えられた。
アーサー・ホルムウッドの夢 さいとし @Cythocy
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