第110話・遠雷とのこと
うっすらと暗闇が夜の森の天井を包み込んでいる。
「はぁ……はぁ……」
魔術師の少年は、大蜘蛛を険しい目で見据える。
彼の簡易ステータスに表示されているHPとMPのゲージは赤色になっており、あと一度の大ダメージで死んでしまうほどの状態であった。
「くそっ……MPもあと少し……魔法もあと一回しか使えない」
ここで回復魔法を使うべきか、それとも最後の賭けとして攻撃魔法を使うべきか……。
「[Lnvfgyyx]」
解読不能の言葉を発した大蜘蛛の口から激しい炎の玉が発出される。
「うわっ!」
少年は間一髪その攻撃を避けたが、大蜘蛛は即座に糸を吐き、少年の動きを封じる。
「く、くそ……」
ジタバタと動いたところで、彼の低いSTRでは強力な糸を切ることはできない。
彼に残っているのは、じわじわと殺される運命だけだった。
「シュルルルル」
大蜘蛛の動きが一瞬だけ鈍る……。
「[Wygzz]」
声が聞こえたと同時に、大蜘蛛の身体が一閃し、真っ二つに切り裂かれた。
それを見た少年は、助かったと安堵の表情を浮かべる。
「た、助かった」
モンスターからの攻撃は時間が経てば自動的に解除され、芋虫のように動けばその場から離れることも可能だ。
つまりはあたらしいモンスターがポップされる前に、その場から離れればいい。
ふと少年の目の前に女性の足が現れた。
ゆっくりと上を見上げていくと、そこには『紫式部』という色の法衣をまとった魔女の姿があった。
「ひとつ聞いていいかしら?」
女性の澄んだ声に、少年はドキマギとする。
「……な、なんですか?」
「ゲームで人が殺せるとして、実際に人が殺せるとしたらどうだと思う?」
「はぁ? なに言ってんだあんた? ゲームなんだから人が殺せるわけねぇだろ?」
しごく当然のことだと少年は目の前の女性を嘲り笑った。
そんな危険な事が本当にできるとしたらすぐに噂が広まって、VRギアの製造を禁止されているからだ。
すでに日本だけでも二百万台、全世界に販売された台数は一千万台に近付こうとしている[セーフティーロング]製のVRギアは、人の脳波を感知して、手を動かせない障害を持った人でもプレイできる、いわゆるB・M・Iを利用した設計となっている。
そのため機械から人体への悪影響がないよう、製作の段階で厳しいチェックを繰り返してきた。だからこそ、ここまで売上を広めており、さらにVRMMORPGの人気に助長しているのである。
「そうね、普通はそう思うのが関の山でしょう」
魔女は不気味な笑みを浮かべ、少年を見下ろす。
その手には白濁色のストックが握られており、その先でズンと少年の背中を貫いた。
「ガハァッ?」
少年のHPが一気に0となる。
「[Gxzzm Cyivnlnif」」
ストックがジワリ、じわりと白から血の色へと染まっていく。
「聞こえてないだろうけど、このVRギアにはねぇ呪いがかけられているのよ。どんな呪いかって? いいわ教えてあげる」
魔女は嬌笑をあげる。
空に登っていく光の粒子を罵るように、ケラケラと歪んだ魔女の笑い声は、人の命を罵声する。
「さぁさぁおいでなさいな人の業っ! 業の
魔女の表情は闇で翳りだす。
「ようこそ……闇魔女たちの
と魔女の声だけが響く暗闇の中で、その声の色は
街路樹が紅葉の彩りを微かに見せ始めた秋は九月下旬のころ、涼しい風は開けっ放しの窓に入っては、カーテンを押すようにふくらませていた。
「ほら
部屋の主である少年の母親が、彼を起こそうと部屋へと入る。
「まったく部屋も散らかってるし、窓も開けっ放し、すこしは片付けなさいよ」
そう愚痴をこぼしながら部屋を見渡していくと、母親の視界にベッドと、その上で眠る息子の姿が入り込んだ。
「ほら廣斗、起きなさい。もう七時になるわよ」
母親は息子の肩を揺さぶる。
が、まるで泥人形のように寝ているのか、息子は反応を見せない。
「まったくVRゲームでもしてたのかしら? 頭に着けっ放しじゃない」
母親の声は苛立ちに変わる。
「ほら、起きなさい。いい加減に……」
ふと違和感を覚える。
部屋に入ってから今の今まで『自分の口からの音』しか聞こえていない。
静かに寝息を立てていても、耳を立てればその音がかすかに聞こえる。しかし、聞こえてくるのは母親の声だけ。
「ちょ、ちょっと? 廣斗……? ねぇ、ちょっと?」
息子の体を激しく揺さぶったが、反応はまったくと言ってない。
「う、うそでしょ? ねぇ? 起きなさいっ!」
母親はVRギアを息子の頭から取り外し、彼の『死化粧』を見た。
目はカッと見開いており、瞳孔は白く濁っている。
なにも語らないその双眸はジッと、ただただ一点だけを凝視するように天井を仰いていた。
「いやぁああああああああっ!」
母親の震えた悲鳴が、主を失った部屋の中で響き渡った。
言葉を発さぬ少年が身に着けていたVRギアのモニターには、
『Afxizjf wz Qnkhwjyvf zl myveqfcc Anwihfc』
という緋色の文字が滲み、波のように揺れて表示されていた。
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