第16話
私はあいつに促され、一旦文の間に戻った。あいつは念入りに廊下を見渡し、誰もいないことを確認して、静かに話し始めた。
「まず、俺達は今日、色んなことを忘れた。そして、何を忘れたかすら、はっきりとは分からない」
まずは前提の確認からだった。私は黙って頷き、あいつの言葉を待った。ふと外に意識を向けると、あれだけやかましかった雨音が少し弱まっている気がした。
「それは、桐の祠に関することだけかと思っていたが、そうではなかった。お前のメモ。あれを全く読めなかったのは、字が汚かったからじゃない。俺達が、字を、忘れたんだ」
そう言うと、あいつは本棚から1冊、本を取り出した。私は、あいつが言った言葉を、頭の中で何度も反芻した。字を、忘れた。だから、知っている筈の字なのに、見覚えがなかった? しかし、私はあまり納得がいかなかった。
「でもさ、それっておかしくない? 私達、ついさっきまでここで、本を読んでたじゃない。字を忘れてるのに、本が読めてたのはおかしいよ」
すると、あいつは私の前に本を広げた。これは「桐の祠」だった。ほら、タイトルも読める。そしてあいつは更にめくっていく。書かれている内容は、さっき読んだ通り。ちゃんと字が読めた。そして、私は首を傾げながらあいつを見やった。
「違うんだ。俺達が読めているのは、昔の字。いわゆる変体仮名だ。俺達は、俺達の時代の字を忘れて、何故か、昔の字が読めるようになっているんだ」
そう言われ、私はハッとした。確かに、目の前にある字は、掛け軸とか古典の教科書とかで何となく見たことのある、ニョロニョロとした字。習字の教室でもこんな字は、扱っていなかったと思う。何で、私はこの字が読めていたのか。それも、言われるまで自分で気付かない程、自然に。
「俺は最初、古文の授業で習った文法とかちゃんと覚えてるもんなんだな、すげえな、って程度に思ってたんだ。その時は、ここに書かれている文字が、昔の字だってことに気付かず。それが、違和感の正体だった。読める筈のない字を、全く疑うことなく、読めてたことが」
私も同じだった。そんなに古文が得意だとは思ってなかったのに、いざ読んでみると、案外読めるものなんだと。少し嬉しかった。でも、それは違った。昔の字が読めるようになっているのと同様に、昔の言葉も、少しずつ、分かるようになっていた。
「つまり、私達は、忘れるだけじゃなく、何かを勝手に覚えていってる?」
そして、あいつは「そうだ」と言った。盲点だった。今まで、自分が何かを忘れている、思い出さなくちゃ、という気でいたけど、その逆には気が付かなかった。自分が、身に覚えのない何かを、勝手に覚えていっている。何かを忘れているということには恐怖を感じたけど、知らない筈のことを知ってしまっているということには、恐怖と別の嫌悪感、気持ち悪さ、不快感を覚えた。
「でも、何で?」
私が問うと、あいつは首を横に振った。これも、永遠の世界の影響なんだろうか。私達は、何かを知って、これから、どこへ向かっていくのだろうか。得体の知れない力が、私達を無意識にどこかへ導こうとしているような感覚を覚えて、私はブルッと体を震わせた。
「ただ分かるのは、俺達が、俺達じゃない何かに変わっていくかもしれないってことだ。これまでの経験を失っていき、新たに見に覚えのない経験や知識を植え付けられていくってことは、俺達がこれまで生きてきた軌跡を、無理やり塗り替えられているようなものだから」
そう告げたあいつの目は、真剣で、悲しみに満ちていた。自分が自分でない何かに変わる。それは、ただ、恐ろしかった。今こうして考えている自分。もしかしたら、考え方や、気持ちとかも、徐々にすり替わっているのかもしれない。自分の心、気持ち、感情を、失いたくない。そう思った時、真っ先に思い浮かんだのが、目の前のあいつの顔だった。
「私達、恋人だよね?」
私はあいつの目をじっと見つめて、はっきりと問い掛けた。私は、多分顔を耳まで真っ赤にしていたと思う。あいつはちょっとびっくりした顔をして、顔を横にそむけた。あいつが照れている時の「いつもの」仕草だった。
「んだよ」
ぶっきらぼうにあいつが返すと、私は、あいつの両腕をがっしりと掴んだ。そしてあいつが目線を私に戻すと、私は真剣に、あいつの目を凝視した。私の意図を知り、あいつは、顔を赤くしながら、答えてくれた。
「そうだよ。ずっと、な」
私は、何を忘れても、この気持ちだけは、絶対に失わない。そう、決意をした。
しばらく、まったりとした時間が流れた。あいつはそっぽを向いたまま、私の方を全然振り向いてくれなくなった。これも、バツが悪い時の「いつもの」あいつだ。心なしか、まだあいつの顔が少し赤らんでいる気がした。逆に、私の顔も何だかほてったままかもしれない。私は、「変わらない」あいつの様子を見て、胸の奥でスッとわだかまりが解けるのを感じた。これからもあいつはあいつだし、私は私、そして、私達はずっと私達であり続ける、と思った。私は、あいつを眺めながら、クスッと思い出し笑いをした。
「そうだ、あーと、忘れてた。……変なこと聞くから」
ふと、あいつが何を思い出したかのように、こちらを振り向いた。いや、体だけこちらに向けて、顔はそっぽを向いていた。
「で、とりあえず持ち物を一旦全部出して、役に立ちそうなものがないかまとめようと思ってたんだ」
そう言って、あいつは鞄から次々と物を取り出していった。筆箱や、ノート、教科書、ガム、財布。私もそれに倣って、メモ帳や教科書といった鞄の中身をどんどん出していった。もちろん、全部は出さない。男に見せたくないものだってある。
「ん?」
私が何となく自分のポッケを探ると、ハンカチやポケットティッシュに加え、封筒が出てきた。これはさっき代志子さんに見せた――
「え?」
私は、その封筒の中身を見て、真っ青になった。
そこに書かれているのは、私達の、名前、だと思う。
だけど、やっぱり、読むことは、出来なかった。
それだけなら仕方ないのだけど、問題は、「思い出せない」ことだった。
私は、恐怖で、絶望で、震えながら、「あいつ」に、すがるように、言った。
「そういえば、私達の、あ、はは。あのさ、名前、忘れ、ちゃった。どう、しよう」
一旦弱まっていた雨音が、また激しくなっていくのが聞こえた。
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