第10話
「え?」
棚の物色を続けていると、吾朗がこちらへ振り返った。私が「どったの?」と声を掛けると、吾朗はキョトンとした顔で辺りを見渡した。
「いや、何か笑い声が?」
しかしこの部屋には私達二人しかいないようで、近くに代志子さんが来ているわけでもなさそうだった。二人で沈黙していると、かすかに風がふすまを揺らす音が聞こえた。この家は洋館なのに和室や和風の書斎があって、しかも和室の中にシャンデリアがあったり、統一感を感じないなあ、と思った。しかしこの和洋折衷な感じが、あまりに「昔っぽく」ないおかげで、私は吾朗のタイムスリップ説を棄却できている。
「確かに聞こえたんだけどなあ……さっきと似た感じの女性の」
吾朗はそう言うと、渋々と物色に戻った。そういえば吾朗はお墓でも何か聞いたと言っていた気がする。……もしかしてお墓で悪いものに憑かれたんじゃないだろうか、と思うと私はぶるっと体を震わせた。
「気のせい気のせいー! ほら、何かこの辺りについて手掛かりになりそうなもの探す! 亥馬野がなくなっちゃったなんて私は信じないからね!」
私は自分を元気付けるためにも、明るい口調で吾朗を励ました。もっとも、信じる信じない以前に、私達が目の当たりにした光景は揺るぎのない現実なのだけど。日の出に照らされた、亥馬岳を囲む大森林。私達が住んでいた筈の亥馬野は、見る影もなかった。
「あ、これ何かさっきのと関係あるんじゃね?」
現実から目を背けるように、本を手に取るでもなくボーッと棚を眺めていると、大きな本を抱えた吾朗がこちらに歩いてきた。さっきの本、というのは「桐の祠」と書かれていたあの本だろう。
「ほら、『伊那倭の伝』って書いてある。伊那倭ってさっきの本に出てきた亀の神様か何かだろ?」
ほほう、確かに「伊那倭の伝」と読める。さっきから吾朗ばっかり「当たり」を引いていてずるいぞ、と思ったけど、それは私がどんよりとした気分を引きずってちょくちょくサボっているせいだと思った。
伊那倭の伝
男 名を 伊那倭と言ふ
いとけなくして 父 母 別れけり
妹あり 名を 八千代と言ふ
妹 病にて 朝夕さへも 打ち眠る
男を慕ひて いめに見ゆ
「何か、関係なさそうだな? 神様というか普通の人っぽい。さっきのおばさんも伊那倭って言ってたし、この地域に良くある名前とか?」
読み始めるとすぐに、吾朗は「外れ」だと言わんばかりに溜息をついた。しかし、私はその「いめ」という文字に目を釘付けにされていた。
「ね、でもその『いめ』ってもしかして『亥馬』のことじゃない?」
私達の街、亥馬野。それが作品に現れたからといってどうというわけではない。それでも、今の私達にとって、亥馬野に関するどんな些細な情報も見逃すわけには行かなかった。しかしそんな私を見て、吾朗は呆れたように否定した。
「いめって古文では『夢』って意味だって習ったじゃん。ここは多分、兄の夢を見ていたってことでしょ」
そう言われてみればそうだった。私も古文は得意な方ではないが、答えを聞いてしまうと何となくそんな気がして読めてしまう。でも、吾朗って私よりも古文が苦手だったような。そんなことを考えていると、吾朗が再び本に目を落とし始めたので私も追って読み進めた。
男 巳子にまうで 粟を物す 麦を物す
妹 其れを給ひて 生ふ
或りし日 巳回の君 官 従へて 男 捕らふ
縛りて ひがごとをいましめむ
「ね、ねえ吾朗! 巳子! 巳子って書いてある!」
私が興奮して吾朗の腕を揺さぶると、吾朗も驚いた顔でこちらを見て頷いた。巳子市は亥馬野市の隣町だ。今度は間違いないと思った。更に先を読み進めようとして、吾朗と私はピタリと動きを止めた。
「物すって何だっけ?」
吾朗に合わせて、私も頭を捻った。確か古文の授業で出てきた。する、とか食べる、とかオールマイティな動詞だったような。でも捕らえられて僻事をうんぬん、という下りからして、……分かった!
「ここでは盗むって意味じゃない?」
伊那倭って人は多分、妹さんに食べさせるために盗みを働いていたんだ。だってご両親いないんでしょ? すると巳回の君って人の部下達に捕まっちゃったんだ。僻事っていうのは盗みのこと。盗みの罰を受けるって話だ、と私は理解した。何だ、私だって読めるじゃないか、と我ながら思った。やっぱり授業は聞いておくものだな。
「なるほどな、乙カイ……ミエ……? の君っていうのは何か有名な人なのかな」
おいおい、乙と巳は別の字だぞ、というツッコミが喉元まで出掛かったが、私も巳回の読み方が分からなかったし黙っておくことにした。さて、泥棒がバレて捕まった伊那倭さんはどうなることやら。
男 願ひて 申す
巳回のながむ歌 意を問ひて 男 答へむとす
巳回 是に従ひて ながむ
きりさめの やみてしのぶる ゆふぐれは
ぬれしころもの かわくまもなし
男 答ふ
「じゃあこれは、罰を受ける前にチャンスをもらったってことね。巳回って人の詠んだ歌の意味を当てられたら許してもらう、って感じだと思う」
今度は私が意訳すると、吾朗も「そうだな」と同意をした。古文の授業はお爺ちゃん先生のかすれ声が眠気を助長して、いっつも睡魔との戦いになる。だけどほら、こうして実際に読んでみると何だか暗号解読をしている気分になってくるじゃない。とそこで、吾朗のページを捲る手が止まった。何だか自分でこの歌の意味を当てようとしているようだった。
「単に霧雨で服が……」
と私が言いかけたところで、吾朗が「ストップ!」と制止を掛ける。最後まで自分で考えたいんだろうな、と私は思った。しばらくの沈黙の後、吾朗がページをめくる音が部屋に響いた。
桐と言ふ娘いまそかりけり
病みてその身を果つ
偲ぶれど 偲ぶれど
あふるる涙に 袖も乾かず
巳回 思し驚きて 男 許す
「何これ……ズルくない?」
私は率直な感想を述べた。つまりはこういうことだろうか。文字通り解釈すると、助詞とかは私もまだよく分からないのでその辺を適当に訳せば「霧雨が止んで切ない夕暮れには濡れた服も乾かないぞ」という感じだと思うのだけど、実際は「桐という女性が病んで亡くなって偲んでいる夕暮れには涙で濡れた袖が乾かないぞ」という意味だっていうこと? こんな問題を出す巳回って人もひどいけど、それを伊那倭って人は見抜いて即答して許されちゃったって、もう何でもありじゃないか。
男 巳回の名を給ひ 星を読みて占ふ
あらたなる占手のしるし 山を越ゆ
巳回伊那倭の高き聞こえ 知らぬ者なし
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