第8話
「お待たせ致しました」
戻ってきた女性を見ると、お盆の上に何やら墨で文字の書かれた古びた和紙を乗せていることに気付いた。それはとても達筆そうな字で書かれていたけど、読めそうで読めなかった。
「私の名前でございます。代志子、と申します」
よしこ、と名乗るその女性は、とても嬉しそうな笑顔をこちらに向けた。私はあっけに取られつつも、礼儀正しそうな女性が何故こちらの自己紹介に名を名乗り返さなかったのか気付き、慌てて聞き返した。
「え? あ? わざわざご用意して下さったんですか?」
代志子さんは返事をする代わりに、上品に頷いた。しかしつい先程「字が読めない」と言っていたのにどういうことだろうか? 読めないけど書ける、ということはないと思うけど。
「伊那倭様がしたためて下さったものでございます。『名を字で示されたならば、こちらも字で示すのが礼節だ』とおっしゃっておりまして。旭日静稀様と海野吾朗様が字をお見せして下さったので、まさにこのような時のためにと思い至りまして」
いなわ様? というのはここの主人か誰かだろうか? 「したためて下さった」っていうのはよく分からないけど「ご用意してくれた」ってことかな? 墨はとっくに乾いていて和紙もかなり劣化しているようだったから、随分昔に用意してくれたのかもしれない、と私は思った。そして自分も様付けされているのが少しむず痒かったので、両手を広げて大げさに遠慮した。
「いえいえ、ご丁寧に! それに私達は呼び捨てで構いません! 私は静稀、こっちは吾朗でお願いします!」
そう言うと、今までじっと代志子さんを観察していた吾朗が難色を示してきた。
「いや、まあ、海野でお願いします」
吾朗はあまり自分の名前が好きではなかった。私が吾朗と呼び始めた時も、恥ずかしいからやめろだの何だのと言っていたことを思い出した。ずっと呼んでいたら拒否しなくなったので、てっきり慣れたのかと思っていた。呼びやすくていいと思うんだけどなあ。
(あれ……?)
この字、最初は読めなかったけど、読みが代志子って聞いたからか何となく分かってきた。この「犬」みたいな「尤」みたいな字は、多分「代」だ。じゃあ、この「え」みたいな「之」みたいな字が、きっと「志」だな。そして筆記体の「z」みたいな「j」みたいなこの字は、「子」だ。「代志子」で「よしこ」だな、うん。ちゃんと読めた。さすが習字をやっていただけはある。私はこれでも初段だもん、と自分で自分を褒めてあげた。それにしてもこの癖のある字、どこかで見たことがあるような気がした。
「それでは静稀様、海野様、とお呼び致します。さて、この辺りでお迷いになっていらしたとかで」
やっと本題に入ることが出来る、と思い私は身を乗り出した。吾朗はというとまだ何か探っているような目で、代志子さんを見ながらチラチラと部屋を伺っているようにも見えた。何を考えているのかさっぱり分からない吾朗を放っておいて、私達だけで話を進めようと思った。
「はい、そうなんですよ~、もう何から話せばいいのか」
すると代志子さんは私の苦労を感じ取ってくれたかのように、同情のこもった声で「はあー、そうですか、それは不運にございましたね」と慰めてくれた。これだ、これが大人の対応だ。吾朗も見習って私を労うべきだ、と思った。そんな風に感心をしていると、代志子さんはまたもや奇特なことを言い出した。
「お二人共、身をやつすにはたいそうお若くに見えますが、旅のお方なのでしょうか?」
旅のお方。ゲームか時代劇だろうか。そんなことを日常生活で聞かれるとは思っていなかった。いや、最早この状況は日常とは程遠いのかもしれない。私は何が起きてももう驚かない覚悟で、真摯に話を続けていった。
「いえ、ちょっと占いで、何と言いますか、お参り! お参りです。お参りをしようと思っていたのですが、いつの間にか変な景色になってしまいまして、というか、えーと」
朝からおまじないだの肝試しだののために山を登った、なんて言ったら不審がられてしまうと思い、話し出してから微妙に内容を修正してしまった。我ながら支離滅裂なことを言っているな、と思ったけど、代志子さんは相変わらず心配そうな表情で状況を察そうと努力してくれているようだった。
「そうでしたか……。ここ亥馬岳にお参りをするところがございましたとは露も知りませんでした。何分、体が重いものでここからはあまり外に出ませんので」
私は代志子さんの話を聞いて2点、ぴんとくることがあった。1つは亥馬岳。確かに「いめだけ」と言った。そう、ここは紛れもなく亥馬岳なんだ。当たり前のことだけど、それを聞いて少し安心した。そしてもう1点。ここにお参りをする場所がないということ。亥馬岳には亥馬神社と、むねん? むげん? きっこうべというお墓がある筈。どちらもここからそう遠くはない。それなのに、代志子さんは何も思い当たらなかった。そういえば、ここに来たのもそもそもお墓の方に戻るためだった。お墓への道を引き返したつもりが、その途中になかった筈のこの屋敷があり、代志子さんの話だと恐らくこの先にもお墓はなくなっているんだと思う。亥馬野が消えたことと、お墓が消えたこと。何か関係があるのかもしれないと思った。すると、しばらく黙り込んでいた吾朗が口を開いた。
「すみません、この亥馬岳の周りは何ていうところでしたっけ?」
私も亥馬野がどこに行ってしまったのか聞きたかったけど、うまく聞き出す方法が思いつかなかった。「亥馬野ってどこ行っちゃったんでしょうかねー、ハハハ」なんて言おうものなら、一体何を言っているんだこの子は、という目で見られるに決まっている。その点、吾朗の聞き方は怪しくもなくベターだと思った。いや、十分怪しいけどね。
「周りですか? 麓のことでしたら……はて……あれ? 申し訳ございません、どうにも、忘れてしまったようでして……歳は取りたくないものですね」
代志子さんはとぼけているわけではなく、本当に忘れてしまったようで、自分への意外さと困惑をごちゃまぜにしたような表情をしていた。いやいや、40歳そこらで物忘れってレベルじゃないでしょう。自分の家の周りのことですよ奥さん。吾朗がせっかくの打診を計ったのに、思いの外空振りに終わってしまって何だか腑に落ちない気分になった。しかし当の吾朗はというと、特に意にも介していないような、飄々とした様子で質問を続けた。
「今って暦の上で、何年ですか?」
暦の上って……と思ったけど、なるほど吾朗は大昔にタイムスリップしたという考えだから、西暦何年って言い方すら伝わらないだろうと言うことなのかな、と思った。何も考えてないようで、吾朗はたまには考えている。普段は冴えなくても、いざという時に役に立つのが吾朗。いいぞ吾朗、このまま頑張れ吾朗、と心の中で応援した。
「何年、とおっしゃいますと……?」
そりゃそうだ。カレンダーが普及したのは近代でしょ。いつか知らないけど。古文で江戸時代のカレンダー見たことあるけど、テレビも新聞もない大昔に和暦がどれだけ普及してたか……、と考えてみて、ハッとした。私、いつの間にか大昔って前提を受け入れちゃってる。いやいや、そんな非現実的な。何を考えているんだろう、私。
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