ハハハハハ

おかずー

ハハハハハ

 たま子からメールが届いたのは、雄介ゆうすけにプロポーズされた翌日の、美枝みえの結婚式の一ヶ月前だった。

 昨晩、飲めもしない赤ワインを飲んだせいで二日酔い、さらには夜中のうちに始まっていた生理によってまるで赤ワインが膣口からこぼれたかのように朝起きた時にはパンツが赤く染まっていた。それだけでも十分絶望的な朝なのに、たま子からメールが送られてくるなんて人生の中でもトップクラスの最悪の朝だった。

 体はだるく、頭は痛い。起き上がることすら億劫で、メールの内容などは確認する気にもなれない。しかし、だからといってこのまま膣口からこぼれる血を垂れ流しにしておくこともできない。体に残っている力を振り絞り、私はトイレへと向かう。

 便器に腰を落ちつけたまま諸々の作業をこなした。ホッとしたのも束の間、次は吐き気に襲われた。私は慌てて体勢を変え便器を抱え込み、血で染まった水に向けて吐瀉物を吐き出す。目の前には昨晩イタリアンレストランで食べたパスタやらピザやらの残骸がぷかぷかと水に浮いていて、ふいに、雄介にこの光景を見せたらいったいどんな反応を示すのだろうかとなんとも悪趣味な好奇心が沸いたけれど、私だって三十八年も生きた人間の、しかも女としての誉れも一応身につけているのでそれはやめておくことにする。

 そうしているうちに喉の奥から酸味の利いた匂いが立ちこめ鼻先に抜けた。再びの吐瀉。うげえと決して女の口から吐き出されるはずのない低い声が吐瀉物と一緒に喉の奥から吐き出された。これが数時間前に男からプロポーズをされた女の姿か。ありえない。気持ち悪過ぎ。思わず声を漏らしてしまった。はは、ははははは。私の口から酸味の利いた笑い声がこぼれる。

 しかし、こうしていつまでも便器を抱えて笑っているわけにもいかない。私はトイレットペーパーで口を拭き、水を流した。血と吐瀉物が便器の奥へと吸い込まれていく。それを見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。そういえばこのような気持ちをつい最近もどこかで経験したことがあると思い出す。そうだ、職場の飲み会帰り。お疲れさまでした、と上司や社員たちを見送った後、私はいつだってこんな気持ちになる。ようやくこの苦しい時間から解放される。その瞬間、私は心の底から安心し、落ち着いた気持ちになれる。

 そうか。私は理解する。職場の人間たちは全員が血で、全員が吐瀉物だ。あんな奴ら便器の奥に流されてしまえばいい。別に彼らの死を望むわけではない。ただ流されて欲しいと願うだけ。高い給料を貰って日々偉そうに威張っている人間たちが、ほんの一日、いや数時間だけでも水に流されて私の前から消えて欲しいと願うだけ。なんて。そんなことを思う私に私は失望をする。本当は私が流されてしまえばいい。

 皆もそう思っているに違いない。


 リビングに入ると、香ばしい匂いが充満していた。挽きたてのコーヒー豆の匂いだ。

 リビングでは老眼鏡をかけたお母さんがテーブルに新聞を広げて読んでいた。コーヒーの入ったコップを新聞の脇に置いて、お母さんは毎日、新聞を読む。

 いつもなら私もコーヒーを飲むのだけど、さすがに今は飲めない。変わりに水を飲む。

「なに、あんた。二日酔い?」

 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをコップに注いでいると、お母さんから声をかけられた。

「うん、昨日ちょっと飲み過ぎて」

 立ったまま水を飲む。冷たい水が口から喉を伝って体の中へと入ってくるのを感じた。たったそれだけのことで、体が浄化されているように感じるほど、今の私は淀んでいる。

「ご飯どうする? うどんでも作ろうか?」

 壁にかけられている時計を見ると、まだ十時前だった。

「今はまだいいかな。もう少し寝るよ」

 そう言いながらもリビングの居心地が良くて、私は部屋に戻ろうとはせずにそのままソファーへと腰を下ろした。二年前にIKEAで買った、どちらかといえば安価のソファーだけど、それでも毎日座っていると愛着を感じるし、やっぱり家のソファーが一番落ち着く。

 ソファーに座ってぼうっとしているとお母さんがたずねてきた。

「そう言えば、あんた来月なに着ていくの?」

「んっ?」

 一瞬なんの話か分からずに、しかしそれがすぐに美枝の結婚式の話だと分かる。

「あぁ。いつものやつ着ていくよ」

 いつものやつといっても最後に着たのは麻里子まりこの結婚式の時で、今から三年も前の話だ。麻里子はたま子や美枝と同じ高校時代の友達。あの服を着るのはあの時が最後だと思った。

 三十五歳。そこが結婚できるギリギリのラインだった。麻里子はギリギリ駆け込み、そして私と美枝は取り残された。この三年間、美枝と会えばそんな話ばかりしてきた。

 そんな美枝が来月結婚する。知ったのは一ヶ月前、結婚式の招待ハガキが送られてきた時だ。

「いつものって、あの紺色のやつ? あれはちょっと地味じゃない?」

「地味でいいのよ。この年になって派手なやつ着ていったら浮くから」

「なんでよ。別に派手なやつ着ていったっていいじゃない。服なんて目立った者勝ちよ」

 お母さんのこういう周りの目を気にしない性格が羨ましい。我が道をいくっていうのかな。周りの目ばかりを気にする私は、やはりお母さんに似ていない。

「ほら、昔たまちゃんの結婚式の時に着ていったピンクのやつ。あれとかいいんじゃない」

 はんっ、と自分のことながら鼻で笑ってしまった。

「まさか。あんなの十歳若くても着れないわよ」

 セーラー服と同じで、女にはある一定の年齢を過ぎると着てはいけない服が出てくる。笑えない冗談はそれはもはや冗談ではなく事故で、周りを巻き込んで場の空気を破壊する。簡単に言うと、引く。

「なんでよ、あれすっごく可愛いじゃない。あんただって気に入ってたくせに」

 もう二十年近く前の話を、まるで昨日のことのように話すお母さんは時間感覚が狂っている。最近はずっとこう。昨日食べた物は覚えていないのに、昔のことはよく覚えている。

 でも、仕方ないのかなとも思う。お母さんの中で私はずっと子供のままで、私は三十八歳の大きな子供なのだから。

「考えとくよ」

 それだけ口にすると、私はソファーから立ち上がった。これ以上話をすることはできない。そう判断した私は、逃げるように歩き出す。背中にお母さんの視線を感じながら、それでも気付かないフリをしてリビングを出る。

 さっき、お母さんの悪気のない言葉が私の皮膚にぷすと刺さった。あの場所にもう少し長くいるとぷすぷすとお母さんの悪気のない言葉が刺さり続け、二つ三つ、ぷすぷすぷすぷすと刺さり刺さり刺さり続けて、そのうちに私は異常をきたすようになるだろう。もう三十八年の付き合いだ。私には分かる。だから、そうなる前に私はお母さんから逃げた。

 もしかしたら、お父さんもお母さんの悪気のない言葉に耐えきれなくなってこの家を出て行ったのかもしれない。私がリビングから逃げ出したように、お父さんもこの家から逃げて行ったのかもしれない。なんて。そんなはずはない。お父さんはただの女好きだ。娘の大学受験直前に女を作って家を出て行くような男だ。お母さんの言葉が刺さったところでびくともしないだろう。お父さんはお母さんと私を捨てて別の女のところへ行った。それは間違うことのない事実。

 私は違う。

 私はお母さんから逃げた。でもそれは世界でただ一人の味方を失わないために、これからもお母さんと生きていくために、私はお母さんから逃げた。私はお父さんとは違う。

 部屋に戻ると、私はたま子から送られてきたメールの内容を確認した。内容は美枝の結婚式の日に関することで、服装はどうするだとか、当日はどこかで待ち合わせをして一緒に行こうなどといった、いかにもたま子らしい内容だった。子供と一緒に映る写真が添付されているのもいつも通りだった。

 その写真を見た私は、心の内にどす黒く濁った感情が浮きあがるのを感じた。

『たまちゃん、おめでとう』

 あの時、私は心の底からその言葉を口にした。心の底からそう思っていた。

 それなのに。

 私はメールの返信をすることなく、携帯電話の電源を落としてベッドに倒れ込んだ。

 どうしてこうなったんだろう。

 同級生も、職場の人間も、そして親友も。

 いつの間にか、私の周りは敵だらけになってしまった。


 歓声が上がる。スポットライトに照らされて新郎新婦が登場する。くす玉が割れたみたいに、歓声が会場に響き渡る。

 美枝は綺麗だった。年齢こそ重ねたけれど、美枝のかつての可愛らしさは美しさを通り越して、今では中世ヨーロッパの貴族たちのように気品を纏っていて、表現するならそれはやはり綺麗であった。

 才色兼備。勉強ができてスポーツも得意で、絵に描いたような学校のプリンセスだった美枝は、誰よりも早くに結婚するだろうと周りから言われていた。気が強くてプライドが高い、集団行動が苦手で集中すると周りが見えなくなるところなどはその容姿や才能でカバーできると、若い頃の私たちは無責任に美枝を担ぎあげた。美枝には勝てない、そんな私たちの劣等感は美枝を担ぎあげることで、つまりは私たちとは別の場所に移動させることで、なんとか見ないようにすることができた。しかし、それはあくまでも見ないだけであって、確実に私たちの心の中には存在していた。

「ねえねえ、見て見てももちゃん! 美枝ちゃんすっごく綺麗だよ!」

 私の右隣に座るたま子が私の袖を引っ張りながら言った。街でアイドルを見かけた女子高生のように甲高い声で叫ぶたま子は、今にも突進しそうな勢いで体を左右に振りながら美枝の姿を見ようとしている。

 たま子は昔から美枝のファンだった。

「ねえねえ、ももちゃんってば! 美枝ちゃんだよ美枝ちゃん!」

 幼い子供が両親の気を引くように、たま子は私の袖を何回も引っ張りながら声を震わせ叫ぶ。私はたま子の手を振り払うこともせずにじっと美枝の姿を見つめている。たま子が、そして私が憧れた女性が、純白のウエディングドレスに身を包み、何百人と見つめる視線の先にいる。

「美枝ちゃんすっごく良い顔してるね……幸せそう」

 たま子の私の袖を掴む力が緩くなったのを感じ、たま子が泣いていることを知る。たとえ美枝の隣にいる男が老いたトドのような男であっても、しかも二十歳を過ぎた子供が二人もいてバツが二つついていようとも、美枝が笑顔であれば幸せなのだと信じてやまないたま子はやはりたま子で、その単純さと素直さに私は気圧される。

 誰もがその名前を耳にしたことがある高級ホテルの大広間。来賓数は全部で二百を超えているだろう。そのほとんどが新郎側の仕事関係の人間だそうだ。新婦側は親戚が十数人と、私を含む高校時代の友人が数人だけ。大広間の右端に設けられた丸テーブル、そこから私たちは二十年来の友人を祝福する。

 まるで水族館の魚のように大広間を遊泳する新郎新婦が、優先順位の高い人たちのテーブルを回った後で私たちのテーブルに向かって歩いてきた。近くで見れば見るほど、たま子が口にする通り美枝はとても綺麗で、なにより幸せそうな顔をしていた。

 新郎が私たちに対してひどく大袈裟にお辞儀をし、対照的に美枝はとても小さくお辞儀をした。そうして二人は私たちの前をあっという間に過ぎていった。少しだけ見えた美枝の横顔は、溶けたチョコレートのように柔らかくて、トップアイドルのように胸の奥底に隠してある感情を読み取ることができなかった。

 思えばいつもそうだった。その時々に美枝がなにを考えているのか、私たちがその答えを知るのはいつだって全てが終わった後で、しかもその時にはすでに美枝本人の心は別のところに移っている。私たちはいつだって後出しジャンケンをされているようなもので、決して美枝の前に立つことはなかった。

 現にまた、私たちは美枝の後ろ姿を見つめている。今まで見た誰の後ろ姿よりそれは遠く、そして美しい。

 結婚式はつつがなく進む。

 だらだらと長いだけの主賓挨拶に、初めてでもなんでもない共同作業のケーキ入刀。お色直しを挟み、つまらないうんちくや退屈な自慢話が織り交ぜられたスピーチと、身内ばかりが盛り上がるド派手な余興。その間にも次々と高級な料理が運ばれてきては、高価なお酒が振る舞われる。会場は次第に熱を帯びていき、喧騒の渦がところどころに発生する。私の隣ではたま子が料理を写真に撮っては子供たちにも食べさせてあげたいと口にする始末。居心地の悪さから目を逸らすために私は目の前にある料理を次々と口に頬張りそれらをお酒で流し込む。時間は加速を繰り返し、気が付いた時には披露宴も終盤に差し掛かっていた。

 そこで私は、美枝が泣いている姿を見た。

 その瞬間、私はまるで夢中になって見ていた映画が途中でぶつりと終わってしまった時のような衝撃に襲われ、気付いた時には私の意識と視線は美枝に釘づけになっていた。

 美枝は母親へ感謝の手紙を読んでいた。本来であれば退屈なはずの、その行為自体が興醒めなはずのその行為は、しかし今はとても素晴らしい感動をもたらす瞬間であった。

 美枝の家は母子家庭だった。私と同じだなんて口が裂けてもいえない、美枝は生まれながらにして父親の存在を知らない子供だった。兄弟もいない。母親と二人で手を取り合って生きてきた。そしてこれからも二人で生きていくだろうと思われていた子供だった。

 この時、私は美枝のことが少しだけ分かったような気がした。出会ってから二十年以上の時が経ってようやく私は彼女の心の中が垣間見れたような、そんな気がした。

「お母さん、今まで育ててくれて本当にありがとう」

 美枝はこの思いを伝えるために結婚をしたんだ。


桃子ももこ、お父さんと一緒に行くか?」

 その日はとても爽やかな朝だった。まだ夜明けといっていい時間帯。カーテンの隙間から射し込む光が真白い紙に水を垂らしたようにぼんやりと部屋の中に光をにじませ、ガラス越しに鳥の囀りが聞こえてくる。街には桜が咲き誇り、新しい学年、新しい学期が始まる今日という日を迎えてさあ気分も一新、そんな月曜日の朝だった。

 過去に何度か、お父さんが家を出て行ったことはあった。短くて数日、長い時は数週間家を空けたお父さんは、その度にお母さんと喧嘩をしては、決まって仲直りをした。自称プレイボーイのお父さんは事実プレイボーイで、中学生の時に国語の授業で源氏物語を読んだ時にはまさにお父さんのことではないかと衝撃を受けた。俺は光源氏の生まれ変わりだと思春期の娘に堂々と話すお父さんは、だからこそ憎むことができなかった。天の邪鬼な私の性格をよく理解しているお父さんだからこその娘への立ち振る舞いだったのかもしれない。

 しかし、今回は今までとは違うと私は感じていた。

 予感だった。女の勘は鋭い、なんて言葉をたまに聞くけれど、それは違う。女は感が鋭いのだ。感受、感性、感覚、予感。どれもこれも、男より女の方が鋭い。

 お父さんがこの家を出て行く。

 私は予感していた。

 だから言った。

「行かない。私はお母さんといる」

 その言葉を聞いて、お父さんは眉一つ動かすことなく口だけを動かした。

「そうか。それは残念だ」

 高校三年生の娘が眠っている部屋に無断で入ってくるようなお父さん。でも、私はそんなお父さんが嫌いでもなく、かといって好きでもなく、けど世間一般の感覚からすれば充分にファザコンと呼べるレベルのお父さん好きの娘だったと思う。プレイボーイでもなんでも、お父さんは私のただ一人の血の繋がったお父さんだ。

「これ、お父さんの連絡先だから。寂しかったり、困ったことがあったらいつでも連絡してきていいからな」

 そう言って、お父さんは私に一枚のメモ帳ほどの紙を手渡した。そこには私の知らない街の住所と電話番号、それから私の知らない女性の名前も書かれていた。お父さんは私がお母さんを選ぶことを初めから予測できていたのかもしれない。

「お母さんのこと、よろしくな」

 お父さんは私の頭を軽く撫でた後、部屋を出て行った。

 私はお父さんがくれた紙を持ったまま、ぼんやりとお父さんが出て行った扉の辺りを眺めていた。しばらくすると、私は大きく息を吸い込んで、お父さんの残していった匂いを体の中へと取り入れた。それは『お父さんとは当分会うことができない』ことを本当の意味で理解した私が無意識に行っていたことであった。私はお父さんの残していった匂いを体の中、その中でもとりわけ奥、胸の奥底にある宝箱へと仕舞い、決して外へ出て行かぬよう頑丈に鍵を掛けた。か、ち、と鍵の掛かる音がしたのを確認してから、私は呼吸としての息を吐き出し、また吸った。そうして徐々に冷静さを取り戻して、私はいつもと変わらない調子でリビングへと足を進め、お母さんにおはようと挨拶をした。


 何年か振りに会った大野おおのくんは相変わらず大野くんで、美枝と並べばまるでイギリスの皇太子夫婦のようだと揶揄された気品と美貌は、四十歳を二年後に控えた今でも決して衰えることなく、むしろ年を重ねたゆえの渋みが加わった分、男としての魅力は増していた。

 一時期、私も大野くんに好意を抱いていた時期があった。私だけじゃない。美枝もたま子も麻里子も、それぞれ時期こそ違えど大野くんに心ときめき、胸を躍らせた時期があった。あれはきっと、一種の洗脳であったと思う。第二次世界大戦中の日本人が天皇を神だと崇めたように、高校時代の私たちは大野くんのことを貴公子だと信じてやまなかった。私たちはなんとかして大野くんの心を射止めようと躍起になり、各自準備が整い次第特攻を繰り出しては一人の例外者も出すことなく全員が玉砕をした。その度、私たちは学校の近くにあったファーストフード店に集まって慰め合いをした。失恋ごときで真剣に落ち込み仲間と慰め合いをするなんて、この六十年間で日本は随分と平和になった。でも、その時の私たちにとって、それは間違いなく一大事だった。心が傷つき、誰かに慰めてもらわなければなにもできない状態に陥っていた。

 あれから二十年の月日が経ち、私たちも二十の年を重ねた。その間にたまちゃんの呼び名はたま子となり、今日美枝は山本やまもとさんとなって、私だけが変わらず綾瀬あやせ桃子のままである。

「綾瀬ってなに、今付き合ってる人とかいないの?」

「いるよ。一回り下の子」

「うっそ。まじ?」

「まじまじ。しかも最近プロポーズされた」

「はっ? なにそれ?」

「やるでしょ」

「それって結婚詐欺なんじゃねえの?」

「なに? 喧嘩売ってんの?」

「冗談だって」

 大野くんが笑う度に私の体も揺れる。私の頭を支えている大野くんの腕は、思ったよりも太くて頑丈だった。雄介とは違う。

 引き締まったお腹も勃起したペニスも、そのどれもがなぜか懐かしく思えた。過去に一度も触れたことがないはずなのに、私は大野くんのそれらに触れた瞬間、まるで紙の辞書をめくった時のように懐かしい気持ちに陥った。

「男ってさ、奥さんがいてもこういうこと平気でできるの?」

 言ってから気付いた。愚問であると。

 大野くんには奥さんがいて、子供も二人いるそうだ。奥さんは美枝に負けず劣らずの美人で、結婚して十年近くの月日が経つのに未だに一ヶ月に一度は手を繋いでデートをし、週に一度はセックスをするらしい。自他共に認める仲良し夫婦だそうだ。それなのに、結婚式の二次会の席でたまたま隣の席に座った元同級生をホテルに誘える男でもある。

 平気に決まってる。

「できるできる。嫁は美人で子供は死ぬほど可愛いけど、これはまた別だからな。よく言うだろ、デザートは別腹って」

「なに、私はデザートなの?」

「ケーキじゃなくて饅頭の方な」

 お腹を思いっきりつねってやる。いてててて、と大袈裟ではなく本気で痛がっている姿が可笑しかった。

「でも、男とか女とか関係なく、人それぞれなんじゃないか? 男にだって一途な奴もいれば、女にだって淫乱な奴もいるし。現にお前だってそうじゃん。相手いるんだろ」

「私は結婚してないもん」

「それこそ関係ねーだろ。てかプロポーズされたんだろ?」

「一方的にね」

「プロポーズって一方的にするもんだろ」

 得意気に言った大野くんの顔を見ながら、はたしてそうだろうか、と私は考える。そしてすぐさま結論に至る。大野くんの発言は一見正しいようで実は正しくない。プロポーズは相手の気持ちを考えてするもので、一方的に気持ちを押し付けるのはただの自己満足な自己表現に過ぎない。

 現に今、私はかつてないほど苦しみ、そして悩んでいる。

 環境もタイミングも、なにもかもが中途半端で、むしろ悪い。雄介の自己満足な自己表現のせいで、私は今とても困っている。

 その後、しばらく沈黙が続いた。私は雄介のことを考えていた。年下で、若くて、人の良い雄介のことを。やはり、どれだけ考えても答えは出ない。先週も、昨日も、今日も、そして多分、来週も答えは出ていない。

 隣を見ると、大野くんは視線を空中に泳がせたまま、別のことを考えているようだった。ココロココニアラズ、といった感じ。

 数分後、ようやく大野くんが口を開いた。

「それにしてもびびったな。あの美枝が、あんなトドみたいなのと結婚するなんて」

 さっきまでとあまり変わらない、軽い冗談交じりの口調だった。

「なに? 嫉妬してるの?」

 だから私も軽口のつもりでそんな言葉を口にした。けど、大野くんの反応は私が思っていたのと少し違った。軽い気持ちで蹴った空き缶が知らない人の足に当たったような、そんな気まずい感じがした。

「いやさ、もう時効だから言うけど、俺ら一瞬だけ付き合ってたんだよ」

 驚いた。そして少しだけショックだった。

 まさか美枝と大野くんが。

 とはいっても、私は別に二人が付き合っていたことに対して驚き、ショックを受けたわけではない。私は、美枝がなにも言ってくれなかったことに対して驚き、ショックを受けていた。こればかりは何度同じ目に合っても慣れない。今回の結婚式のことだってそう。肝心なことを美枝はなに一つ話してはくれない。

「いつくらいの時に付き合ってたの?」

「高校三年生の夏くらいかな。三ヶ月くらい」

「ふうん」

「ふうん、ってなんだよ」

「別に、なにもないよ。それで?」

「それでって、いや、別に、俺だってなにもないけど」

「けど?」

「けど」

 一呼吸置いて、大野くんは言った。

「あんな綺麗な女が、あんなトドみたいな男に抱かれているのかと思うとやっぱり、な」

 な、って。

 私は心の底から呆れた。

 この男は女のことをいったいなんだと思っているのだろうか。そもそも、たった三ヶ月付き合っただけの男に美枝のことをとやかく言う資格はない。美枝がいったいどんな思いで結婚をしたのか、そんなことも分からないくせに、ただ二人のセックス模様を想像して嫌悪感を抱くなんて浅ましいにも程がある。

 結局、この男も性器だけでしか女の中に入ってこない男だ。その辺にいる、経験人数が多いことを自慢するようなくだらない男。

 パタン、と私の耳元で紙の辞書が閉じる音がした。

 懐かしい匂いと感覚は少しの余韻を残し、しかし私がため息を吐くと蝋燭の炎のようにすぐに消え、その後二度と炎が灯ることはなかった。


 今の私は、周りの人間関係や職場環境をブチ壊しにする存在だけど、それでも人並みに世界平和を願っていて、私の存在が見知らぬ誰かの力になればいいと本気で願っていた時期もあった。

 でもそんなことは全て後付けで、ただ単純に私自身が好きで好きで仕方無くて夢中になっていた、ただそれだけのことだったのかもしれない。

 私たちがまだ高校生の頃の話。

「たまちゃん、昨日はどこまで書いたの?」

「昨日はね、主人公のカナコがオオキくんと別れるところまで書いたよ。後は最後、二人が復活して完成」

「えー。昨日はまだ出会ったばっかだったじゃん」

「昨日夜中の四時くらいまで書いてたもん! 一晩で三十枚分くらい書いたよ!」

「すごいっ! 私は二時くらいまで頑張ったんだけど、気が付くと寝てた」

「おかげで今日はずっと寝不足だけどね」

 たま子が大きなあくびをした。そのあくびはまるで戦に勝ち相手の首を持ち上げる武士のように誇らしげな行為のように私には見えた。

 あくびだけじゃない。化粧で隠してはいるけれど、たま子の目の下には大きなクマができていた。さらには元々タレ目なたま子だけど、今日はさらにタレている。さっきの数学の授業だって、たま子はずっとあくびが出ないように我慢しながら、最後の方は頭をコクコクさせていた。いつ先生に注意されるか見ている私がドキドキした。

 それでも、私はたま子の話を聞いてとても嬉しく思ったし、私ももっと頑張らなくちゃいけないと改めて気持ちを引き締められた。

「ももちゃん、今月末が締め切りだからね。ちゃんとお互い完成させて、読み合いっこするんだから」

「もちろん」

 こんな風に私たちは一作一作、たった一人の人間に読んでもらうためだけに小説を書き続けていた。

 賞に応募するということもプロになりたいということも全て後回しで、この同じ夢を持つ親友をいかに感動させ楽しませるか、あるいは驚かせ胸を躍らせるか、ただそれだけのために私たちは同級生がクラブ活動や勉強や恋愛やアルバイトに勤しむ時間、家でひっそりと小説を書き続けてきた。三ヶ月に一作という早いのか遅いのかも分からない、けれど二人が小説を作るのには適切な期間を設けて、私たちはお互いがお互いに読ませるために小説を書いた。執筆活動に熱中するあまり二人揃って成績は急下降、深夜までに及ぶ執筆活動のせいで毎日が寝不足、その寝不足のせいで授業中もぼんやりとしていることが多いため先生からは目をつけられ、呼び出しをくらう始末。

 それでも私たちは誰になんと言われようとも小説を書き続けた。

 一人だと多分、ここまで熱くはなれなかったと思う。私にはたま子が、たま子には私がいたから、だから私とたま子は夢中になれた。

 そして迎えた高校二年生の一月。大学受験を一年後に控えて、そろそろ志望校を考え始めなければいけない時期のことだった。

「見て見てももちゃん! ここの大学あるよ! 名古屋! 日本で唯一の! 小説家志望の人たちが集まる! 小説の書き方について勉強できる専攻!」

 小説家志望だとは決して思えない文法、倒置法か体言止めだと思えば頷けなくもないけれど、ただ興奮しているだけに違いないその言葉は、蜃気楼のようにぼんやりと地元にある大学の文学部の文字を見ていた私の未来を明確に照らしてくれた。

「そこに行こう! 一緒に行こう! 絶対に行こう!」

 それがたとえ地元から遠く離れた場所にある大学で、今までずっと一緒だった親元を離れることになるとしても、その時の私は気にもしなかった。

 問題は成績だけだった。目標とする大学の偏差値は今の私たちの成績では少し難しかった。

 一月、二月、三月と私たちは受験科目である国語と英語を死に物狂いで勉強した。あれほどまでに下降の一途をたどっていた成績はたちまちに急上昇し、大学受験すら危ういと思われていた私とたま子は先生たちから一目を置かるほどになった。

 この成績なら大丈夫。名古屋にある、小説を学ぶことのできる大学に行きたいとお父さんとお母さんに相談しよう、そう考えていた四月二週目の月曜日にお父さんが家を出て行った。


 おはようと私がいつものように挨拶をすると、キッチンに立っていたお母さんが振り返っておはようと挨拶を返した。フライパンでなにかを、おそらくは目玉焼きとウインナーを焼いているお母さんは、すぐにできるからもうちょっと待っててね、と言ってすぐに視線を私からフライパンへと戻した。電子レンジの上にあるオーブントースターが、ジジジジと毎秒一回くらいのペースで音を出しながら食パンを焼いている。私はイスに座って、行儀悪くテーブルに肘をつきながらフライパンを握るお母さんと赤色に光るオーブントースターを交互に眺めていた。

 チン、と音が鳴って食パンが焼けると、お母さんはいつものように焼けた食パンをお皿に乗せ、その上にできたばかりの目玉焼きを乗せて脇にウインナーを添えた。二つのお皿を持ってこちらに歩いて来るお母さんはいつもと少しも変わらないように見えたけれど、目の下にあるクマはどれだけ化粧で隠しても女である私にはすぐに分かってしまった。なによりコーヒーの匂いがしていない。テーブルの上に二つのお皿が並び、お母さんと私の二人が向かい合って座った。二人でいただきますと合掌をしてから、二人同時に手を動かした。

 フォークでウインナーを突き刺したお母さんは、それを口に運ぶ間にぼそりと言った。

「お父さん、家出て行ったから」

 そしてウインナーを一口かじった。

「知ってる」

 その言葉だけをなんとか口にすると、私は食パンを一口かじった。さくっという香ばしい音がした。

 二人の咀嚼する音だけが静かに響く。時折、冷蔵庫の呻るような音が鳴る。時計の針の進む音が聞こえる。お母さんがウインナーを口に運んで、私はパンをかじる。お父さんが新聞をめくる音は聞こえない。少しだけ違和感。信号機から黄色がなくなったよう。別になくてもなんとかなるけど、やっぱりどこか寂しい。一年前、お姉ちゃんが出て行った時はトランプだった。ハートダイヤクラブスペード、四色揃ってこそ成り立つカード。お姉ちゃんが家を出て行ってそれが三色となり、それでも三色だけでもなんとかゲームはできた。そうして一年間過ごしてきた。ようやく三色で慣れてきた今日、ついさっき、信号機から黄色が消えるようにお父さんが家を出て行った。今度はオセロ。白か黒、どちらかがなくなってもゲームはできない。だから絶対、私はこの家を出て行かない。お母さんを一人になんてできない。

「あんたはなにも気にすることないんだからね。好きなことを好きなだけすればいいんだから」

 その言葉を聞いて、分かった、と私はお母さんに言った。

 実はね、私、行きたい大学があるの。

 私は正直に言った。


 たま子が妊娠をしたという話を耳にしたのは、私が大学二回生になったばかりの春の出来事だった。

 大学生活も一年が終わったというのに、私は相変わらず授業カリキュラムや単位制度、それにアルバイトなど、大学生活に必要とされる要素やそのこなし方のたった一つのコツを掴めることなく、不器用に、まるで動物園で飼われているパンダのようにマイペースに授業に出席しては単位を取得し、名古屋に行くための旅費を稼ぐため週に三日ほど書店でアルバイトをした。

 というのも、私の大学生活の半分以上は小説を書くことに時間を費やしていて、今まで通り三ヶ月に一度たま子と自作の小説を読ませ合っては意見の交換をしていた。

 三ヶ月に一度、私は新幹線に乗って名古屋に住むたま子に会いに行った。私はたま子に案内をしてもらいながら見知らぬ土地を歩き、未知の文化に触れては、その度に刺激を受けた。たま子の大学の友達にも会った。たま子の大学の友達は全員が小説を書くことに夢中で、それは至極当然のことでもあったけど、私は初めてたま子以外の小説家志望の人が書いた小説を読ませてもらった。彼らの小説を読んでいると、その表現の甘さや文法の間違いなどからまるで少年野球の試合を見ているように泥臭くて歯がゆい思いをたくさんしたけれど、それらはみな作者の持つ熱い気持ちだけは十二分に伝わる小説ばかりだった。読んだ後は決まって感動し、私も頑張ろうと思えた。

 一回目は人見知りをしてあまり話せなかったけど、二回目、三回目と会う度にみんなとは少しずつ仲良くなれたし、たくさんの意見交換ができるようになった。みんなで夜遅くまでファミリーレストランで討論会をした。四回目に会う頃にはもう十年以上も昔から友達だったかのように話すことができて、そして五回目はなかった。

 たま子が妊娠をしたという話を聞いたのは、たま子の大学時代の友達の一人からで、直接たま子の口から話を聞いたのはその一週間後の夜だった。

 そろそろ日付も変わろうかという時間に、その電話はかかってきた。

 私ね、赤ちゃんができたの。第一声がそれだった。彼は結婚しようって言ってくれてる。第二声。ももちゃん、私ね、産もうと思うの。彼と結婚したいの。何時間も思い悩んで、電話をかけるまでに随分の時間を要したのだろう。川の堤防が決壊したように、たま子の口からは言葉が次々と溢れ出てきた。

 私はたま子の思いを知った。

 だから、私は、

「おめでとう」

 と、言葉を口にした。

 私の口から発せられたその言葉は、地元の大学に行きたいとお母さんに言った時と同じように誰になんと言われようが間違いなく私の本心であって、たま子のお腹の中に新しい生命が宿ったこと、そしてたま子が私の知らない男性とお腹に宿る赤ちゃんと共にこれから生を歩んで行くこと、それらのことを私は心の底からおめでたいと思ったし、心の底から祝福することができた。

「たまちゃん、おめでとう」

 もう一度、私はその言葉をたま子に贈った。


 派遣社員の私はお局にすらなれない。

「すみません綾瀬さん、これ十部コピーお願いしたいのですが……」

 おずおずと、まるで腫物にでも触れるように今年入ったばかりの正社員の男の子が私に声をかけてきた。男の子は両腕で紙の束を抱えていて、パッと見ただけでもそれは二百ページ以上はありそうな代物だった。

「分かりました。いつまでにしましょう?」

 相手が何歳であろうとも敬語で。三十歳を超えた時に私はそう決めた。

「できれば今日中にお願いしたいのですが……」

「分かりました。そこに置いといて下さい」

 机の横にある台を指さして私は言った。男の子は紙の束を置くや否や逃げるように自分の席へと戻って行った。自分の席についた男の子は隣に座る先輩社員になにか言葉をかけて、それを聞いた先輩社員は愉快そうに笑った。私の悪口かな。なんて。最近はそんなことすらも思わなくなってきた。どうでもいい。私はお金を稼ぐためだけにこの場所にいるのだから。

 電話が鳴れば電話を取って、コピーを頼まれればコピーを取る。出張に必要な新幹線のチケットがあればそれを取って、ホテルの予約が必要ならばそれも取る。取って取って取って取って、そして年をも取っていく。一日八時間、私はこの場所でお金を稼ぐためになにかを取り続ける。

 私は紙の束を抱えて三階の部屋から一階のコピー室へと向かった。カツカツカツと足音を遠慮なく響かせ階段を降りていく。

 階段を降りてすぐ右に曲がると突き当たりにコピー室がある。両手がふさがっているため、ノックもせずに半開きになっていたドアに体を押し当てて中に入ると、中に人の姿があった。

「お疲れ様です」

「あっ、綾瀬さん、お疲れ様。コピー? もう少しで終わるからちょっと待っててね」

 中にいたのは皆川みながわさんという女性で、私が派遣されている部署とはまた別の部署に派遣されている女性だ。私が所属している派遣会社と同じ派遣会社に所属している女性で、年齢は私の四つ上。既婚者で、子供が二人いて、旦那さんの稼ぎだけでは厳しいから私も働いてます、といった派遣社員にありがちなスタンスの人。そもそもここにいる派遣社員の女性はほとんどがそういった働き方の女性で、未婚者なのは私くらいのものである。

 皆川さんはスマートフォンをいじりながらコピー機の前に立っていた。私は机の上に抱えていた紙の束を置き、皆川さんのコピーが終わるのを立ったままじっと待つ。携帯電話をいじるほど返していないメールがあるわけでもなく、そもそも私はスマートフォンを持っていない。

 こういう時に昔は色々と会話もしたけれど、今ではほとんどしなくなった。既婚者と未婚者とでは話が合わないし、そもそも面倒くさい。愛想笑いとか、相槌とか、女らしさとか。いらない。昔は多少必要だったけど、今はもう必要ではなくなった。私はそれだけ年を取った。

 少しして皆川さんのコピーが終わると、それじゃ、と言って皆川さんはさっさと部屋を出て行った。

 まだなにもしていないのに、私は心身ともに疲れきっていて、のろのろと作業に取り掛かる。コピー機に紙の束をセットし、必要なボタンを押す。後は紙詰まりしないかどうか見ていればいい。私はイスに座りながらぼんやりとコピー機から紙が吐き出されていくのを見る。

 昨日も、一昨日も、一週間前も。二週間前も、一年前も、十年前も、私は同じことをしている。私はいったいなんなのだろう。なんのためにここにいるのだろう。なんて。そんなことはもう思わない。どうでもいい。私はお金を稼ぐためにこの場所にいるのだから。なんのためにお金を稼ぐのか。そんなことも考えない。生きていくために。それしかない。ではなんのために生きていくのか。そんな愚問はもう何年も前に考えないようにした。

 メトロノームのようにリズミカルにコピーは続く。眠気すら催す一定のリズムに負けないよう私は意識を保つ。人生と同じ。いつか終わる。だから今は耐える。終止符が打たれるその時まで、私は耐えて耐えて耐え忍ぶ。

 小一時間が過ぎてようやくコピーが終わると、私はその膨大な紙の量に圧倒されつつも、両腕で抱えれるだけ抱えてコピー室を後にした。世界は広いそうだけど、私は毎日毎日同じ道を行ったり来たりする。神様から見れば、蟻の巣にしか見えない小さな世界の中で私は日々生きている。

 三階に戻ると部屋の中はがらんどうで人の姿はほとんどなかった。それを見て、ああ、そういえば今日は全社会議の日だったなと思い出す。

 全員が揃えば五十人にもなる部屋の中で、残っていたのはわずかに五人だけだった。五人は閉店前のスーパーに並ぶ売れ残った総菜のように、部屋の隅っこで大人しくパソコンと向き合いそれぞれの作業をしていた。こうあからさまに取り残されると、改めて私たちは他所者なのだと思い知らされる。

 私は腕に抱えていた紙の束を自分の机の上に置いた。残った五人と同じ島にある最後のワンピース。そこに私が加わって派遣島が完成する。部屋の入口から一番近い場所にある島、つまりは一番初めにこの部屋から出て行くことになる人たちが集まる島。私がこの会社に派遣されてからの約五年間で何度も派遣の入れ替えがあった。業績が少しでも悪くなれば切られ、また忙しくなれば呼ばれる。都合良く、効率良くをモットーに売られる人材、資材。

 ふいに、その中の一人と目が合った。

 雄介だ。

 私の向かいの席で、社員がいないのをいいことにお菓子を食べている。ま、雄介は社員がいても平気で食べるし、この職場自体がそれを可とする環境だから別にいいのだけど。

 でも、後二十分もすれば昼食だというのに、本当によく食べる人だ。でも、よく食べるくせに雄介はやたらと細い。いかにも今どきの子といった体型。いっちょまえに身長があるのに華奢で、ひどく頼りない。

「食べます?」

 雄介が明らかな作り笑顔でそう言った。プロポーズを一ヶ月以上も放置している私を、雄介は怒らない。電話を無視しても、メールを無視しても、雄介は決して怒らない。ただ優しいだけ。まるで優しいことが正しいことだと思っているかのように、雄介はただ優しい。

「ありがとう。でも、もうすぐお昼ご飯だしいらない」

 それだけ言うと私は早々と踵を返し、再び一階のコピー室へと向かった。

 合計三往復してようやく全ての紙の束を運び終えると時刻はすでに昼休憩の五分前で、その頃には全社会議から社員たちがぞろぞろと戻ってきて、十二時ちょうどにチャイムが鳴った。

 わずか四十五分の休憩時間。お弁当箱を抱えて私は逃げるように部屋を出る。空き部屋で一人、小説を読みながらご飯を食べることが会社にいる時の私の唯一の楽しみ。


 私の唯一の居場所である家だけど、お姉ちゃんが来た時だけは全く別の家となり、私はとても居た堪れない気持ちになって逃げ出したくなる。

「聞いてよお母さん、雄一ゆういちったら最近全然家に帰って来ないのよ」

「もう子供じゃないんだから放っとけばいいのよ」

「なに言ってるの、私にとって雄一はいつまでも子供よ」

 コーヒーを飲めないお姉ちゃんはテーブルの上に置かれた紅茶を一口飲んでから、お母さんに言った。お母さんも同じように紅茶の入ったコップを口に運んでから、お姉ちゃんに言葉を返した。私だけがコーヒーを飲んでいる。お母さんの淹れてくれたコーヒーを。私は会話のキャッチボールに入ることをせず、お姉ちゃんが買ってきたクッキーを黙々と食べながら、テレビを眺めるフリをして、でもしっかりと会話は聞いている。

 雄一くんはお姉ちゃんの一人目の子供で、私の甥っ子に当たる。今年大学に入学したばかり。雄一くんの女好きの気は三年前から徐々に垣間見られ、その度にこうしてお姉ちゃんはお母さんに愚痴を言いに来た。高校一年生の頃から徐々に朝帰りをするようになって、それは誰がなんと言おうとお父さんの血が関係している。

 お姉ちゃんには雄一くんの他に子供が二人いて、二人とも女の子。今は高校三年生と一年生で、もうほとんど手がかかることはなくなり、お姉ちゃんは最近よく一人で新幹線に乗って家にやって来る。

 お姉ちゃんは大学時代を東京で過ごし、そのまま東京の会社に就職した。けど、一年目の時に付き合っていた会社の先輩との間に子供ができたことが発覚してすぐに退社し、そのまま結婚。専業主婦となった。

 ぽんぽんぽんとリズミカルに子供を三人産み、育て、半年に一度必ず家族総出で家に帰って来てはお母さんに孫の顔を見せ親孝行をした。いつの間にかお母さんはおばあちゃんになって、お姉ちゃんは妻となり、お母さんになった。私だけがいつまでも変わることなく私のままで、誰の妻になるわけでもなく、誰の母親になるわけでもなくこうして生きている。

 最近のお姉ちゃんは前置きもなく突然やって来るからこうして逃げ出す機会を失ってしまうことが多くなってしまったけれど、少し前までは必ず外に逃げるようにしていた。お姉ちゃん家族の眩しさを、子供がいて、旦那さんがいて、そして母親となったお姉ちゃんがいて、さらにはおばあちゃんとなったお母さんもいて、そんなところに一人ぼっちの私がいれるはずがない。だからなにかと予定を入れて、どうしても予定が埋まらない時は嘘までついて外へと逃げ出していた。さすがに何年も同じことが続くと逃げていることがばれていたかもしれないけれど、そんな私をお母さんは決して責めることなく、夜遅くに帰る私をコーヒーを淹れて待ってくれていた。

 結婚は、とか、子供は、とか、将来どうするの、とか、そんなことをなにも言わないお母さんは私のわがままを全て受け入れてくれて、多分、きっと、これから死ぬまでずっと私の味方でいてくれる。

 それはもちろん私にだけじゃなく、お姉ちゃんに対しても同じ。

 お母さんはお姉ちゃんのお母さんだから。

「ほんともう嫌になっちゃう。絶対お父さんの血だよ、あの子は」

「そんなこと言わないの」

「だってそうでしょ。子供は母親の父親に似るって言うし」

「そんなことないわよ。人それぞれでしょ」

「そんなことあるわよ。どうしよう、あの子もお父さんと一緒でその辺にいっぱい愛人作りまくるような子になったら」

 お姉ちゃんの愚痴は止まらない。

「女を悲しませる子にだけはなって欲しくないと思って今まで育ててきたのに。やっぱり血ね。生まれ持った性質は変えることができないのよ。でもどうしよう、愛人だけならまだしも子供まで、」

直美なおみ

 お母さんの鋭い声が飛んだ。

 その場にいる全員がまるで包丁で指を切ってしまった時のように、鋭い痛みに顔を歪ませた。

「ごめんって。別に悪気があって言ったわけじゃないから」

 へらへらと笑いながら言うお姉ちゃんはバツが悪そうで、しかし私が見る分には反省の意志は見られず、紅茶を一気に飲み干してから私そろそろ行くわねと立ち上がった。それは間違いなく言い逃げで、スカンクが放屁をして逃げるよりもタチの悪い知行であった。

 それでもやはりお母さんはお母さんで、あんなことを言われたにも関わらず玄関までお姉ちゃんを見送りに行き、体に気を付けなさいよ、とか、なにかあったら連絡してきなさいよ、とか昔と変わらない母親らしい言葉を我が子へと託していた。

 私はテーブルの上に並べられた三つのコップと中央に置かれている小奇麗な箱の中にあるクッキーを見つめながらぼんやりと他人事のように二人のやり取りを聞いていた。

 お母さんは戻って来ると何事もなかったかのようにテーブルを片付け、夜ご飯どうしよっかと私に聞いた。


 ウエディングベルが鳴って私は歩き出す。

 久し振りに会ったお父さんはもう六十近いはずなのにまだまだ現役バリバリといった感じで、会場にいる女性陣から一斉に黄色い歓声を浴びていた。そんなお父さんと腕を組みながら、私は真っ赤なバージンロードを歩いていく。おめでとう桃子、祝福の言葉が四方から私に贈られる。たま子は私が登場してからずっと泣きっぱなしで、ハンカチで涙を拭きながら私を見つめている。そんなたま子と視線が合うと、たま子はその濡れた瞳で私を見つめ、おめでとうと唇を動かした。ありがとうと心の底から私はお礼の言葉を唇に込めて、そうして再び歩き出す。一歩、一歩、この瞬間を体に滲み込ませるように、私はゆっくりと歩を進める。ウエディングベル、歓声、祝福の言葉。この二十年間、私に足りなかったモノを私は吸収していく。

 この二十年間、私を救ってくれたのはお母さんと、そして私の奥底に眠るお父さんだった。苦しいことがあった時、私は胸の奥底に眠らせている宝箱の鍵を開け、その中にあるお父さんの匂いを少しだけ解放した。私の胸の奥から醸し出されるお父さんの匂いを鼻から吐き出し空気に混ぜることで私はお父さんを感じることができた。ウエディングベルも拍手も歓声も、そのどれもが私には遠い異国の地のように関わり合うことがなく、しかしお父さんだけは遠くにあってもそうすることで近くに感じることができた。浮気を繰り返し、お母さんと私を置いて出て行ったお父さん。でも。でも。お父さんは私の血の中にいる。生理の時に私の膣からこぼれる血も、私の心臓を動かしている血も、その全てにお父さんの血が混ざっている。お父さん。お父さん。お父さん。

 あれ、お母さんは?

 ハッとして私は会場を見渡した。お母さんがいない。親族、友人。どこの席を見てもお母さんの姿はない。お姉ちゃんはいる。雄一くんもいる。でもお母さんはいない。どこにいるの? お母さんはいったいどこにいるの?

 私の不安は勢いを増し膨らんでいき、会場にいる人たちを呑み込んでいく。まるで風船のように不安は膨らみ続け、一人、また一人と会場にいる人たちを呑み込んでいく。膨らみ過ぎた風船は、ぱああああんっと凄まじい音を立てて破裂し、世界を破壊し、その場にいる人間を消し去ってしまった。

 静寂。

 周りには人っ子一人いない。人だけじゃない。あれほどまでに華々しかった結婚式場が、今ではただ白濁色をした空間となり変わっていた。

 結局、ここか。

 私は人生に観念し、一つだけため息を吐く。はあ、と私が口からため息を吐くと、目の前で今度は小さな風船が膨らんでぱんっと破裂した。

 風船の中から声が溢れてきた。

 それは罵声だった。罵りだった。嘲笑だった。三十八歳にもなってウエディングドレスだなんて。子供産めるのかしら。分かっている。そんなこと、誰よりも理解している。しかも相手年下だって。可哀そう。もしかしてはめられたのかしら。違う。向こうから言ってきたの。まさかデキ婚とか。えー、相手の子可哀そう過ぎ。想像は想像を呼び、噂が噂を広める。それは次第に遠心力をもって世界に広がり、原形を留めることなく広がりに広がって最後は破裂する。さっきの風船のように。ぽわーんと膨れるだけ膨れて最後はぱああああんっと破裂する。私の心に傷痕だけを残し、まるで初めから存在していなかったかのように世界から消滅する。

 静寂。

 今度こそなにも残らなかった。

 私は呼吸をすることすらできずに、じっと、世界の隅で息をひそめている。私は知る。誰も私を必要としていない。

 誰も。

 誰も。

 そうして夢は果てる。

 幸せになりたい、私の女としての夢はこうしていとも簡単に潰える。

 目が覚めると外はまだ暗く真夜中で、私は最後の救いを求め一目散にお母さんのいる部屋へと駆け込んだ。

 お母さん。

 お母さん。

 声に出したのか心の中で思ったのかは分からない。私は無我夢中でお母さんの眠るベッドに潜り込んだ。

 お母さん。

 お母さん。

 起きているのか眠っているのか、その判別はつかなかったけれど、お母さんは私を迎え入れてくれた。私の体全体をお母さんはその深い愛で包み込んでくれた。お母さんに包み込まれている間、私は遠い遠い遥か昔の記憶を思い出していた。それはお母さんのお腹の中にいる時の記憶で、私は生温かい液体の中、体を丸めてじっと前を見据えている。微かに光る視線の向こう、その先にある生を見据えて、じっと、じっと、私は前だけを見つめている。

 


『おつかれさまー。今週の土曜日とかご飯いかない? よさげなお店発見したよー』

『おつかれっす。今日はすげー雨と風だったけど帰り大丈夫だった? 俺は外出た瞬間傘ぶっ壊れてずぶ濡れなって帰った。笑』

『今週も一週間お疲れ様! 今日とかって夜ちょっと時間あったりする? せっかくの週末だし、ご飯でも行きたいなーと思って』

『おはよー。よく寝たー? 今日はせっかくの休みなのになんも予定がないという……。桃子は今日はなんか用事あんのー? なかったらちょっとお茶でもしにいかなーい?』

『見て見てー。餃子超うまく作れたんだけど。笑 嬉しくてついついメールしたー』

 メールの届く着信音。その音が鳴る度に一つ、また一つと私の心に傷をつけていく。

 人が良いのと優しい人は違う。

 雄介は優しくない。

 優しい人とは、相手が今どういう気持ちで、どういうことをされたら嫌で、どうして欲しいのか、そういうことをきちんと考えて行動できる人のことを指す。自分の思いをただ相手にぶつけるだけの人間は、結局のところ自分のことしか考えていなくて、だから私はそんな人に対して敬意を払うことはできないし、これから先も一緒に行動したいとは思わない。

 でも雄介は人が良い。

 電車ではお年寄りの方や妊婦さんになんのためらいもなく席を譲ることができるし、道が分からずに困っている外人さんにはたどたどしい英語で道を教えてあげることができる。社会に絶望し一人暗い顔をしていた私にもなんの気兼ねもなくたくさん話しかけてくれた。

『綾瀬さんってマジすっげー若いっすよね。三十七歳に全然見えないっす! 僕初め見た時、綾瀬さんのこと二十代だと思ってました』

『綾瀬さんこれ食べます? コンビニで買った新作のお菓子っす』

『いやーホントお腹空きましたねー。せっかくの金曜日ですし、ご飯でも行っちゃいますか? なんちって』

『綾瀬さん昨日のドラマ見ました? 最後めっちゃ感動しましたね!』

『いやマジここのラーメンうま過ぎてヤバいっすよ! 一回食べたらもう他のお店のラーメン食べれなくなりますよ』

『綾瀬さん、ほんと超可愛いっす。僕みたいなんじゃあれかもしれないっすけど、本当マジ惚れてるんで、良かったら付き合ってください』

『いやホント、も、ももこ、さん、好きっす』

『うわー、桃子すっぴんも超可愛い。マジやばい!』

『見て見てこれ、超可愛いっしょ。桃子にあげる。お揃い』

『桃子とはこれからも一緒にいたいと思ってるし、本当に好きで、本気でこれからもずっと隣にいて欲しくて、だから、あの、その、』

 仮に私と雄介が結婚をしたとして、

 仮に私と雄介の間に子供ができたとして、

 仮に笑い声の絶えない幸せな家庭が築けたとして、

 その中にいる私は、心の底から笑えているのだろうか。

 年齢差。

 これだけはどんなことがあっても一生縮まることはない。

 仮に、もし仮に私が雄介と結婚をすることになれば、私は一生この年齢差を気にしながら生きていかなくてはならない。

 優しくはないけど、人の良い雄介。

 私はこの人と一緒に生きていけるのだろうか。

 考えても考えても答えなんて導き出せるはずもなく、その間にも刻一刻と時間だけが過ぎていき、気が付けばプロポーズを受けてから二ヶ月以上の月日が経っていた。さすがにこれ以上待たせるわけにもいかないし、どちらにするにしろ、いい加減会って話をしなければいけないと思った。

 答えが定まってもいないのに会おうと思った私の軽率な行動が、全てをブチ壊した。


 雨が降っていた。

 風も吹いていた。

 なんとなく、今日は家に帰りたくなかった。

 だからかもしれないし、違うかもしれない。

 私と雄介はセックスをした。

 お互い無言のまま順番にシャワーを浴びていき、準備が整うとセックスを始めた。

 まるで因数分解を一から解いていくように、雄介は順序正しくセックスをする。キスから始まって胸へと手をやり、服を脱がせて陰部を撫でる。いつも通り、特別盛り上がることも、期待を大きく裏切ることもなく、セックスは転々と転がるように前へと進んでいく。

 それでも、久し振りということもあってか気持ちが昂った。体がいつも以上に反応をした。もっと触れて欲しい。もっと撫でて欲しい。もっと。もっと。自分から体を密着させ、言葉ではなく体で思いを伝える。その思いが伝わったのか、雄介はいつもよりたくさんの時間をかけて私の体に触れ、撫ででくれた。陰部からは信じられないほどの液が溢れていることが分かった。老人が熟れたイチジクをねぶるみたいに、くちゅくちゅと厭らしい音が鳴った。まるで女という生き物自体が厭らしい存在であるかのように、私の陰部から厭らしい音が鳴り続ける。でも、それでもいいと思えた。今まで散々女という性に翻弄され、嫌な思いをたくさんしてきたけれど、これほどの快感を得られる女という性を、この瞬間だけは受け入れることができると思った、

 はずだった。

 入れて、と私が小さく呪文を唱えるように言うと、雄介は静かに首を縦に振り、私を見た。

 私は見逃さなかった。

 雄介の瞳に映る確かな決意を。

「つけないの?」

「うん」

「どうして?」

「どうしてって言われても」

 雄介は戸惑っていた。夜中に信号無視をして警察に呼び止められた人のように、雄介は戸惑い、少しだけ慌てて、しかし結局は自分の考えを押し出した。

「子供できたらさ、その時はその時じゃん」

 そのひと言が私の全てを破壊した。昂っていた気持ちも、快楽に溺れていた体も、雄介との未来を思い悩んだ時間も。その全てが炎に焙られた氷のように瞬時に溶けていき、二度と元に戻ることはなかった。

「子供できたらその時って、あんたね」

「なんで? 責任は取るよ」

 ただの派遣社員のくせに。私の中に存在する汚い私が顔を出す。もう止まらない。口に出すことはおろか、思うだけでも自己嫌悪に陥りそうな言葉が次々と私の心を埋めていく。その言葉全てが自分に返ってくることだと分かっているというのに。

「俺はさ、桃子と結婚したいって本気で思ってるし、子供だって欲しいって本気で思ってるからさ」

 だから生でするの? 後先考えずにポンポンとウミガメみたいに子供産むの? 周りの人のこととかなにも考えずに、ただ自分たちさえ良ければいいって考え。そんなのたま子と一緒じゃない。夢も簡単に捨てて。まるで初めから素敵な家庭を持つことが夢だったみたいな顔して私に結婚の素晴らしさとか子供の愛らしさとか家庭を持つことの幸せさとか押し付けてきて。ももちゃんも早く結婚しなよ、って。なに、それ。そんなの全然興味ないから。私は、私だけは夢を叶えるの。小説家になって、私の書いた小説が見知らぬ誰かの力になればいいって本気で思ってるから。誰にも言ってないけど、私は今でも小説を書いているの。毎晩、コツコツと、真剣に。私はたま子とは違う。子供を産んで、結婚をして、それでも小説家になる夢は諦めていないと信じていたからこそ私は心の底からたま子の結婚を嬉しく思ったし、おめでとうって言葉を贈ったのに。

 それなのに、

「結婚しよう。二人でさ、一緒に暮らそうよ。俺は桃子と毎日一緒にいたい。これから先もずっと、俺は桃子と一緒にいたい」

 そりゃああんたはいいでしょ、それで。両親だって健在で、二人ともまだ若くて、だから結婚をしたら家を出て奥さんと二人きりの新婚生活とか夢見てるんでしょ。でもね、私はそうじゃないの。お母さんはもう年だし、私はたった一人残った家族であるお母さんを一人にすることなんてできないの。あんたそれでもいいの? 私のお母さんと一緒に住む覚悟とかあってそんなこと言ってるの? 私何回も言ったよね。私の家庭環境。それなのに二人で住もうなんてよく言えたわね。あんたなにも考えてないでしょ。ただ毎晩一緒にいてセックスがしたいだけでしょ。

 あんたなんかね、

「だからさ、な、桃子」

 もう嫌。なにもかも嫌。嫌い。嫌い。仕事も、たま子も、雄介も。みんな嫌い。みんないなくなれ。どこかで知らない女と暮らしてるお父さんも、一人で育ったかのような顔して東京で自分勝手に生きているお姉ちゃんも、私の前からだけじゃなく地球上からいなくなれ。私の記憶から消え去れ。

 お母さんだけいればいい。

 世界でただ一人、私の味方でいてくれるお母さんだけいてくれればそれでいい。

「桃子、黙ってちゃなにも分からないよ。ちゃんと思ってることを言葉にして伝えてくれないと」

 あんたっていっつもそう。言ってくれないと分からないって。あんたね、一回でも相手の気持ち考えたことあるの? 相手の気持ちを汲んで行動しようって思ったことあるの? 黙ってちゃ分からない? 知るかそんなこと! 相手がなにを考えているのか自分で考えろ。私はなにも言わないから。言ったって分かってくれない相手に、なにを言ったって無駄だから。

 だから私はなにも言わない。

 私は裸のまま泣くこともせず言葉を発することもせずに窓の方を見つめていた。時折雨が窓を打ち、滴を作って、下方へと滑っていった。それを見て、ああ、まるで私の人生のようだと思った。生まれてからずっと、私は下方へと滑っていくばかり。重力に逆らえず落ちていくリンゴと同じ。ただ落ちていくだけの無力な存在。

 夜が更けると共に雨もやんだ。湿度を失ってカラカラになった私の体と同じように、窓についた雨もやがてなくなり、そして知らない間に私は眠りについていた。


 カツ丼の夢を見た。

 お母さんがカツ丼を作って私を待ってくれている夢。

 大学受験本番の朝、私が起きてリビングに行くと、なにやら卵をとじた甘くて香ばしい匂いがリビングには充満していて、あまり眠れなかった私のあるはずのない食欲を掻き立てた。

「おはよう。朝ご飯もうすぐできるから、早く顔洗ってきなさい」

 まだ半分くらい眠ったままの頭でこくりと頷いた。そして私はお母さんの言葉通り洗面所へと行って顔を洗った。再びリビングに戻ると丼に盛られた大盛りのカツ丼が二つテーブルの上に置かれていた。

「今日、桃子が受験に勝つように」

 朝からお母さんと二人でカツ丼をもりもりと食べた。過去、私は名古屋にある大学にも行きたかったけれど、本当は知らない土地で一人、いやたま子と二人で挑戦してみたいという気持ちもあったけれど、それでも私はこの道を選んだ。地元に残ってお母さんと二人で生きていく道。小説はどこでも書ける。でも、お母さんはここにしかいない。

 カツ丼を食べて受験に勝つ。そうだ。私は勝つんだ。受験にも、夢にも、そして人生にも。

 お母さんは毎日玄関まで送ってくれる。お父さんが仕事に行く時も、お姉ちゃんが学校に行く時も、そして私が受験に行く時も。お母さんはいつだって家族の誰かが家を出て行く時には玄関まで見送り、家族の誰かが帰って来るのを家のリビングで待っている。リビングで料理を作って、あるいはコーヒーを淹れて、家族が帰って来るのをお母さんは待ってくれている。

 行ってきます、と私が振り向いてお母さんに言うとそこにお母さんはいなくて、代わりに私の知らない女の人が立っていた。

 どこかで会ったことのあるような気がするその人は、私に似た顔をしていた。私に後二十ほど年を足したような、そんな顔をしていた。

「お母さん?」

 その人に向かって私が手を伸ばすと、突然その人の顔がぐにゃりと歪んで溶け始め、顔と体の区別がつかないほど溶けた皮膚が絡まりに絡まり合って次第に液体と化し、溶岩のように沸々と煮えたぎったまま私に向かって流れてきた。私は必死になって逃げようとするけれど、足が動かずにそのままその液体に飲み込まれ、足から腰、腰からお腹とその液体の一部となり徐々にその液体は上がってき、終には私の顔にまで近付いてきて、

 そこで目が覚めた。

 目の前には見慣れない天井があった。場末のホテルにありがちな、安っぽい単色の塗装が施された天井だった。

 私は裸のままダブルベッドの中で横たわっていて、隣には雄介が眠っていた。

 雄介は静かな寝息を立てながら眠っていた。規則正しい呼吸を繰り返して、私の隣で裸のまま眠っていた。今時の男の子らしい目を隠すほど長い前髪が枕に垂れていて、私はその前髪を人さし指で軽く撫でた。可愛い寝顔だと思った。とても可愛い寝顔だと。私は雄介の頬にキスをした。バイバイ、と心の中で伝えた。ごめんね、とは言わなかった。

 雄介が起きないよう静かに布団から抜けて着替えを済ませると、書き置きも残さず一人分のお金だけ置いて一人で部屋を出た。

 外はもうすっかり朝で、昨晩の雨が嘘のように晴れ渡っていた。

 気を落としてトボトボと歩くわけでもない、かといって肩の荷が下りたとスキップをして歩くわけでもない。ただ静かに、まるで会社にいる時のように存在感を薄くしながら、私は一人で家に向かって歩いていく。

 家に着くと玄関を開けて中に入り、真っ直ぐにリビングへと向かった。リビングの扉を開けると、そこには淹れたてのコーヒーの香ばしい匂いが充満していて、台所に立っていたお母さんが私の方を振り返って「おかえり」と言った。


 金曜日の昼間から千五百円もするランチを食べている。十二時四十五分を回ったあたりから忙しなく席を立ち始めるOLたちを横目に、私は少しだけ優越感に浸っていた。

「たまにはいいね。有休を取ってランチってのも」

「そう? 私はここんとこ毎日だからあんまりそういう感覚ないよ。むしろ、あんな風に時間を気にして働きたいくらい」

「なんて贅沢な」

 他の人間が言えば嫌味に聞こえるその言葉も、美枝が言えば自然に聞こえる。なぜなら、美枝は誰よりも現実を見ているから。

 ほら、実際に、

「でも、それって結局はないものねだりだよね。私も働いてた時は専業主婦になりたいってずっと思ってたけど、なったらなったで専業主婦も大変」

 そう言った美枝の表情は、富を得尽くしてしまった大富豪のように儚いものであった。残るは永遠の命のみ、そんな絶望にも似た諦めの表情。

 そんな美枝だからこそ、私は今一番伝えたい言葉を素直に贈ることができる。なんの前置きも、飾りの言葉もいらない。ただ思うことを口にすることができる。

「最後の最後に、お母さんに親孝行ができて良かったね」

「うん」

 美枝のお母さんは美枝の結婚式が行われた三ヶ月後に亡くなった。

 癌だった。悪性の癌を肺に患っていて、もう治る見込みはないと言われたそうだ。そのことを医師から告げられたのが美枝の結婚式の半年前。美枝のお母さんは延命措置をすることなく、最後の最後まで家で生活することを選択した。美枝の旦那さんもお母さんと一緒に暮らすことを快諾してくれ、一緒に看病をしてくれたそうだ。

 抗がん剤を使わなかったから私の結婚式に出ることができたのかもしれない、とは美枝の弁。薬の副作用によって髪の毛を失うことも、苦しみに見舞われることもなく、私の結婚式に参加することができたのだと。

 私が美枝のお母さんの死を知ったのはいつもと同じように全てが終わった後で、お線香もろくにあげることができていなかった。だから今日、ここに来る前に美枝の家に行ってお線香をあげてきた。遺影は美枝の結婚式の日に撮ったものだった。とても素敵な笑顔で写っている写真だった。

 このままだと場の空気が重くなりそうだったので、私はできるだけ軽い口調で言った。

「私は親孝行できないまま終わりそうだよ」

「別に結婚することだけが親孝行じゃないでしょ」

「でも、やっぱりウエディングドレス姿は見せてあげたいかも。そうすることで安心させてあげることができるのかもしれない」

 理屈ではなく、本能的にそう思った。母親は娘のウエディングドレス姿を見ることによって、ようやく本当の意味での子育てが終わったことを実感するのではないか、と。

 親への感謝の手紙と同じくらい、その姿には力があると私は思う。

 正確には思うようになった。

「桃子も充分過ぎるくらい親孝行してるよ」

「そんなことないよ。私はなにもできてない」

 私はお母さんになにもしてあげることができていない。家事もろくにしないで、家では職場の愚痴ばっかり言って、彼氏すらもろくに紹介したことがない。そしてきっと、私は一生お母さんに孫の顔を見せてあげることができないだろう。

 これほど親不幸な娘はいない。

「それは違うよ。だって桃子は一度も家を出ることなくずっとお母さんの側にいてあげてるじゃない。それだけで充分だよ」

 一呼吸置いてから、美枝が言った。

「血の繋がりがなくてもさ、桃子は立派な親孝行娘だと思うよ」

 思わず息を呑んでいた。まるで無声映画を見ているみたいに、世界から音が消えていた。店内に流れていたクラシック音楽も、周りにいる人たちの会話する声も、なにもかもが私の世界からは消え、代わりに美枝の言葉が私の世界を支配していた。

 桃子は立派な親孝行娘だと思うよ。なにもしてあげることができていないのに。桃子は立派な親孝行娘だと思うよ。私はお母さんになにもしてあげることができていないのに。桃子は立派な親孝行娘だと思うよ。私はお母さんの、

「桃子は立派な親孝行娘だよ」

 その瞬間、世界に音が戻った。

 私はとても温かい気持ちに包まれていた。

 美枝のその言葉は、私が今までずっと不安に思っていたことを少しだけ、本当にほんの少しだけ和らげてくれた。

 それで充分だった。

 美枝の言葉は、私が二十年以上も心の奥底に溜め続けた不安の固まりに穴を開けてくれた。その穴からは少しずつだけど確かに不安が外へと溢れ出し始めていて、もう少しすれば一気に音を立てて崩れていきそうな、そんな予感がした。

「ありがとう」

 私は美枝に言った。

 心の底から、私は美枝に言った。


 自分が婚外子であることを知ったのは十五歳の時だった。

 お姉ちゃんが家を出て行くその日、私はお姉ちゃんに事実を告げられた。

「あんたはお父さんがヨソで作ってきた子供なんだから」

 小さい頃からなんとなくおかしいとは思っていた。お姉ちゃんが私のことを嫌っていたこととか、お父さんが時折どこかに行ったきり帰ってこなくなることとか。中学生になって子供の作り方を知った時、まさかとは思ったけれど、それがそのまさかだなんて信じたくなかった。だから私はできるだけそのことについて深く考えないようにし、目の前にあるであろう事実から目を逸らし続けてきた。

 でも、お姉ちゃんは違った。お姉ちゃんはずっと心の中に『普通の家族』ではないストレスをため、その原因である私とお父さんに恨みを抱いて生きてきた。そして私に事実を告げるという行動によってその恨みを少しだけ果たした。後は自分が『普通の家族』を作ること、それを私に見せること、そうすることでお姉ちゃんは復讐を果たそうとしている。あくまで私の推測に過ぎないけれど。

 お姉ちゃんが家を出て行ってから、家族のバランスが崩れた。お父さんは今まで以上に家を空けることが多くなった。それでも家にいる時は優しいお父さんで、信号機の黄色を演じ続けた。でもそれは上辺だけだった。夜中、私はリビングでお父さんとお母さんが激しく言い合いをする声を、自分の部屋のベッドの中で何度も聞いていた。

 もしその時が来たら。

 私はどちらについていくべきか。

 答えは驚くほど簡単に出た。

 そして『その時』も驚くほどすぐにやって来た。

 私はお母さんと一緒に生きていく。血の繋がったお父さんよりも、血の繋がらないお母さんと私は一緒に生きていく。

 お母さんは他人である私をこれほどまでに優しく、十年以上も愛を持って育ててくれたんだから。

 これからは私がお母さんに愛を返していきたい。


 コーヒーの匂いがする。

 挽きたての香ばしい匂い。

 これが我が家の家庭の匂いで、私が一番安心できる匂い。

「あー、頭痛い」

「なに、あんた? また二日酔い?」

 お母さんが呆れた口調でそう言った。

 昨日は美枝と飲んだ。新婚の人妻を連れ回して、得意ではないアルコールを多量に摂取して、私は次第に愉快な気持ちになっていた。気が付くと、居酒屋、クラブ、カラオケと飲みや踊れや歌えや、まるで二十歳を過ぎたばかりの若者のように遊び呆けていた。

「久し振りに美枝と飲んだの。超楽しかった。おかげで頭痛いけど」

「美枝ちゃん元気そうだった?」

「うん。今はもうだいぶ落ち着いたみたい」

「そう。美枝ちゃんのお母さん、まだ若かったのにね」

「そうだね」

 若いといっても、もう六十歳は超えていたはず。でも、お母さんに比べると若い。つまり、お母さんだっていつそうなるか分からないということだ。

「お母さんは長生きしてよ」

 私が言うと、お母さんはキョトンとした顔になってこちらを見ながらなにも言わず、少ししてからとても恥ずかしそうに立ち上がって言った。

「ご飯どうする? うどんでも作ろうか?」

 照れているのがばればれだった。

 私は思った。なんて話を変えるのが下手な人なのだろう、と。でも、私もあえてそのことには触れないようにした。

「うーん、お腹はあんまり空いてないから、コーヒーだけ飲むよ」

「はいはい、今淹れますよ」

 ソファーの上で横になりながら、私はお母さんを見る。手動のコーヒーミルで豆を挽き、その挽いた豆をフィルターの上に乗せてその上からお湯を注いでドリップしていく。ぽつぽつぽつと一定に規則正しくコーヒーの滴がコップへと落ちていく。ぽつぽつぽつ、ぽつぽつぽつ。雨が窓に当たるような、なんとも心地の良いリズムだった。

 願わくばこのままずっと目の前の光景を見ていたい。元気なお母さんがいて、私のためにコーヒーを淹れてくれている。そんな光景を。

 いつまで続くだろうか。お母さんがいて、私のいる光景。もしお母さんが死んだら。私は一人ぼっちになる。この世界で、正真正銘の一人ぼっち。

「はい、できたわよ」

 ソファーの前の小さなガラステーブルの上に、お母さんはコーヒーの入ったコップを置いてくれた。私は体を起こして、コップに手を伸ばす。両手でコップを包み込むようにして持ち、顔の辺りまで近付ける。良い匂いがする。温かい、家族の匂い。

「おいしい。やっぱりお母さんの淹れるコーヒーは世界一だね」

「大袈裟な子だね。誰が淹れても同じよコーヒーなんて」

「そんなことないよ。愛が詰まってる」

 今日はなんかおかしい。普段はこんなこと言えないのに。美枝が私の中にある不安の固まりに穴を開けてくれたから? それともまだ昨日のお酒が残ってる? 分からないけど、今日は素直になれる。

 だからかもしれない。

 今まで一度も聞けなかったことを私は聞くことにした。

 私がお母さんにずっと聞きたかったこと。

「ねえ、どうしてお母さんはお父さんと離婚しないの?」

 これはずっと疑問に思っていたことだった。離婚をした方が慰謝料とかたくさん取れそうなのに、お母さんはお父さんと籍を入れたまま今日まできた。お金のこととかでお母さんとお父さんは一年に何度か会ってはいるようだけど、事実離婚しているような関係で、それでも籍を外さないでいる理由を私は聞いてみたかった。その答えが実はまだ二人は愛し合っているなんてメルヘンチックなことを期待しているわけでもなかったし、お父さんを他の人と結婚させないためなんて復讐めいたバイオレンスなことを望んでいるわけでもなかった。ただ、そのことは誰にも言えない、あるいは言いたくない理由があるはずで、私が出しゃばる必要はないと思っていた。

 でも今日はいい機会だと思った。

「そんなの決まってるじゃない」

 お母さんの口から出てきた言葉は、私の予想しないものだった。

「あなたと他人になりたくないからよ」

 えっ、と思わず声が出た。

 一呼吸置いて、お母さんの口がゆっくりと動いた。

「もしお父さんと離婚をしてしまったら、あなたと私を繋ぐものがなくなってしまうから。だから、」

 息が苦しい。呼吸の仕方を忘れてしまったようだった。まばたきも。目が乾燥して痛い。そうだ、涙。涙を出さなくちゃ。でも、涙は一向に出てくる気配はない。どうやら我慢することに慣れ過ぎてしまったようだ。辛くても、悲しくても、私は涙を流すということを否定してここ数年生きてきた。負けるようで嫌だったから。でも今日だけはいいよね。今だけは涙を流してもいいよね。そう思うのに、一向に涙が出てくる気配はなかった。長く培われてきた習慣をわずか数分で覆すことは容易ではない。

 でもやっぱりそれでよかった。多分、きっと、いや絶対、一度涙が溢れ出したら止まらないから。今はダメ。出てくるなよ涙。そう思って私は必死になって話を変えようと試みた。

 しかし、私が次に取った行動は、両手で目の前のコップを掴んでそれを口に持ってくることだった。

 ずずず、と普段は絶対に出さない音を出しながら私はコーヒーをすすった。空になってもなお、行儀の悪い子供のようにずずずずと音を出してコーヒーをすするフリをした。

 後になって思ったことは、私も話を変えるのが下手くそだということ。お母さんが心配しなくても、どうやら私はしっかりとお母さんの子供であるようだ。


 その人は年齢よりもずっと老けて見えた。まるで玉手箱を開けた浦島太郎のように、顔は皺だらけ、窪んだ目の奥にある瞳には覇気が見当たらなかった。髪の毛は手入れをしていないのが明らかで、その見た目は非常に残念なことに、私がこのまま二十も年を取ればこうなるであろう顔をしていた。

 要は私に似ていた。

 その人の家の最寄り駅近くにある喫茶店で待ち合わせをした。

 日曜日のお昼過ぎ。店内はそれなりに混んでいて、子供連れの主婦、一人で読書をする学生、カップル、他にも色々な人がいた。

 約束の時間より二十分ほど早く着いた私は、持ってきた文庫本を読みながら待っていた。

 その人は約束の時間に五分ほど遅れてやって来た。

 注文を取りに来たウエィトレスにアイスコーヒーを二つ頼んで、私たちは向かい合った。

 まず始めに、その人は自分は今六十歳であると自己紹介をした。その後、一人身で身寄りもなく仕事もしていないから毎日暇で、しかし年金だけではどこかへ行くこともできずに、早く死にたいと口にした。

 コーヒーが運ばれてきた。その人はまるでコーヒーの味を消すようにミルクとシロップをたっぷりと入れてかき混ぜ、それから一口で半分ほど飲んだ。

 私は運ばれてきたコーヒーには手をつけずに、そうですかと相槌を打ち、その後もその人の話を黙って聞き続けた。

 最近は寝てばかりいるから腰が痛くて、今通っている病院の医者はヤブだから他の病院を探さなくてはいけない。でもなにをするにもお金がかかるから本当に嫌になる、こんな世の中にいったい誰がしたのだ。私は生まれる時代を間違えた、早く死にたい。

 その人が口にする言葉を聞きながら、私はまるで鏡を見ているような気分になった。

 一緒に誓った夢を簡単に捨てて結婚をしたたま子がむかつく。幸せそうな顔をして私に家族の話をしてくるたま子の無神経さに腹が立つ。お姉ちゃんもお姉ちゃんで、これ見よがしに家族揃って実家に帰ってきては私を邪魔者扱いして、幸せそうな家族を私に見せつけるから嫌い。会社では誰もが私のことを嫌っていて、だから私も全員嫌い。こんな世の中にいったい誰がしたのだ。ふざけるな。

 誰に言われたわけでもない。ただの被害妄想。誰もあんたのことなんて見てないし、皆自分のことで精一杯。なのに、自分で自分のことを陥れる。バカみたい。

 私は目の前の鏡を見ながらそう思った。心の中で、私はそう思った。ずっと思っていたことを私はまた思った。ずっとずっと私はこんな風に思い続けるのだろうか。ずっとずっとずっとずっと、私はこんな風に生きていくのだろうか。

 目の前にいる人が話を続ける。

 あんたのお父さんまだ女ひっかけ回してるの? あー、私もバカだった。変な意地張らずに金だけ受け取ってあんたのこと育てていれば今は全く違う人生を過ごしていたのかもしれないのに。結婚したいとか、離婚してとか、あの頃の私は本当に若かった。そんなのどうでも良かったのに。金だよ金。金さえあればなんとでもなったのに。慰謝料、今からでも取れないかな。

 そんなことを言いながら、その人は胸ポケットからくしゃくしゃになったタバコの箱を取り出して、そこからタバコを一本抜き取り安っぽい緑色のライターで火をつけた。顔の右半分を歪めながらタバコを吸うその人は、死人のように顔色が悪く、よく見ると歯はところどころ抜け落ち、黄ばんでいた。

 私は黙ってその人がタバコを吸い終わるのを待ち、コーヒーを飲み終えるのを待ち、話が終わるのを待った。

 その人はさらにその後、自分の人生がどれほど不幸で不運で、社会に対してどれほど不満を抱いているのかを話し続けた。その間、タバコを八本吸ってコーヒーを二回おかわりした。

 一時間後、ようやくその人の話が終わると、私は黙って伝票を手に取り、席を立った。

 

 店の外に出ると私は駅に向かって歩きながら、鞄から携帯電話を取り出した。アドレス帳には登録していないけれど、すっかりと覚えてしまった番号へと電話をかける。二十年前に手渡された紙に書かれていた数字の羅列。目を瞑ればすぐに浮かび上がってくる。

 わずか三回のコール音の後、相手は出た。

「もしもし」

「もしもし、お父さん? 私だけど」

「おう、桃子。どうだった?」

 電話の相手は私のお父さん。私が高校三年生の時に私とお母さんを置いて家を出て行った、女たらしの無責任な男。

 私のお父さん。

「どうもこうもないよ。もう一生会うこともない。それだけ」

「相変わらず厳しいな、桃子は。今はあんなんだけどな、かつては俺が愛した女だぜ」

「でも、今は愛してないんでしょ?」

「今はナツキちゃんに夢中だからな」

 軽々しくこういうことを口にする私のお父さん。本当に私にもこの人の血が流れているのだろうかといつも不思議に思う。

「相変わらず最低だね、お父さんは。今も昔も。最低の最悪」

「人を愛することが最低だなんて、さては桃子、最近失恋したな」

 その言葉は私の胸に小さな痛みを与えた。注射針が刺さったみたいに、私の胸にチクリと痛みが走る。雄介、心の中で名前を呼ぶコンマ数秒だけ私の口から言葉が出なくて、結果それが肯定を示すこととなり相手を調子付かせてしまった。

「お、どうやら図星らしいな。じゃあ桃子、今晩は空いてるわけだ。それなら一緒にご飯を食べに行こう。美味しい店を見つけたんだ」

「実の娘をデートに誘うな」

「実の娘だからデートに誘うんだ」

 ああ言えばこう言う。軽くて、調子乗りで、口が上手くて。まるで誰かさんみたいだ。

「な、たまにはいいだろ」

 無意識に引き寄せられる声。子供がケーキの家に引き寄せられるのとは全く違う、たとえるなら、ギャンブル中毒者が賭博場に引き寄せられるような甘い罠。行ってはいけないとは分かっているのに、それでも抗うことのできない甘い甘い囁き。

 それでも、

「ごめん、今日は無理。お母さんとご飯食べに行く約束してるから」

 どれだけ甘い囁きでも、仮に私の心を少し揺さぶったとしても、私の行動を変えることはできない。私と、私のお母さんの絆は血の繋がった人たちよりも強い。

「そうか。それは残念だ」

 あの時聞いたセリフ。お父さんが家を出て行く時、お父さんが私に向かって言ったセリフ。

 全てを理解した上で、遠くから優しく私を見守ってくれるお父さんを、やはり私は嫌いになれない。今回、私が私を産んでくれた人に会いたいと言った時も理由を聞かずに全ての段取りをつけてくれた。今まで私を産んでくれた人と会うことを拒み続けてきた私が、突然会いたいと口にしたにも関わらず、お父さんはなにも聞かずに了承してくれた。

 きっと、お父さんは私の思いを理解している。私の思いをきちんと理解してくれて、だからなにも聞かずにお父さんは今回の会を開いてくれた。それは私にとって心が震えるほどありがたいことであって、どれだけ感謝してもしきれない。

 もちろん、お父さんが私とお母さんを置いて家を出て行ったことを忘れたわけではない。

「困ったことがあればいつでもお父さんに連絡してこいよ」

 電話越しのお父さんの声はあの頃から少しも変わることなく優しい。もう少しで私は泣いてしまうところだった。

 でも、ここでまた口を閉ざしているとお父さんに気付かれるから私はすぐに「分かった」と口にして電話を切った。ばいばい、も、ありがとう、も私は言わなかった。

 だってお父さんは全てを理解してくれているはずだから。

 私の恨みも憎しみも感謝の気持ちも、お父さんは全て理解してくれているはずだから。


 たま子からメールが届いたのは、雄介と別れた半年後の、新しい年を迎える一日前だった。

 お母さんと二人で午前中に台所の掃除を、それが終わると買い物に出かけて、午後からはおせち料理を作った。そんな風に例年と同じように一年の終わりを過ごしているとたま子からメールが届き、その内容が子供が帰ってこないだとか連絡が取れないだとか最近どこかで聞いたような内容で、皆色々と大変そうだと私は首を竦めた。そうであるにも関わらず、子供たちと一緒に撮った写真が添付されているのはさすがたま子だった。私はいつものように無視してしまおうと思ったけれど、少し考えた後で『大丈夫じゃない?』とだけ返事を返しておせち作りへと戻った。

 あーでもないこーでもないと言いながら二人しておせち料理を作っていると、途中から熱くなってしまって、二人しかいないのに随分な量のおせち料理ができてしまった。これは年が明けてからは当分おせち料理が続くねと毎年繰り返している失敗を今年もまた私とお母さんは繰り返した。

 夜は二人でおそばを食べながら紅白歌合戦を見て、ゆく年くる年で新年のカウントダウンをした。さん、に、いち、と二人してカウントし、そして年を越した。明けましておめでとうございます、と二人して向かい合い、どこか余所余所しく挨拶をする。このようにして迎えた一年の間に私たちはまた一つ年を取っていく。

 年を取ることがいいことなのか悪いことなのか、三十八歳が三十九歳になることにいったいどのような意味があるのか、そんなことは私には分からないけれど、生きていれば私は、私とお母さんとお父さんとお姉ちゃんと世界中の人たちは平等に年を取っていく。

 布団に入って目を瞑ると次第に意識が溶けていき、気が付くと私は夢の中にいる。新しい年の初めくらいは縁起の良い夢を見たいけれど、それすらも叶わぬ夢であって、私はいつもと同じようによく覚えていない夢を見る。まるで目を瞑った時に見える真っ暗ではない真っ暗な世界の中で、私は空を飛んだりイスから落ちたり巨人に追いかけられたりする。羊の毛を刈ったり蟻の行列に参加したりどこまでも落ちていくエレベーターに乗っていたりする。そうしてある程度の時間が経つと私は目を覚まし、なにか夢を見ていたはずなのによく覚えていないなあとまだ覚醒していない頭で思う。その後で私は布団から抜け出し、リビングへと向かう。扉を開けると途端に私の鼻に香ばしい匂いが飛び込んできて、私はリビングにいるお母さんにおはようと挨拶をする。

「おはよう。よく眠れた?」

「うーん、どうだろう。なんか変な夢いっぱい見た」

「変な夢?」

「うん。よく覚えていないけど、空を飛んだり、小さくなったり。それよりお母さん、私にもコーヒー淹れてよ」

「はいはい、今淹れますよ」

 新年一発目でも私とお母さんはコーヒーを飲む。おせち料理はその後。

 いつもと変わらない日常。私とお母さんはこんな風に毎日を過ごしていく。寝て、起きて、コーヒーを飲んで。そうして世界にいる人たちと同じように年を重ねていく。血が繋がっていても繋がっていなくても、そんなことは一切関係なくて、終わりが来るその時まで、私とお母さんは共に暮らし、生きていく。それだけが私とお母さんを繋ぐ唯一の絆。

 いつまで経っても、お母さんはお母さん。

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ハハハハハ おかずー @higk8430

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