「掃除機」「ページ」「可能性」

矢口晃

第1話「掃除機」「ページ」「可能性」

「掃除機」「ページ」「可能性」



 僕はその日、何となくポケットの中をまさぐっていた。

 右手をズボンのポケットの中に突っ込んで、中にあるかどうか探していたんだ。

 たぶん、どこかに入れたはずだった。それは「しまう」というような丁寧で、意志と目的にあふれた行為ではなかったかもしれない、確かに。でも、僕はたぶん、どこかにはいれたはずだった。それも、体のごく近くに、取り出そうと思えばすぐ取り出せる、それでいて、そこに入れたことを忘れてしまうように、とても自然で、全然気にならないところに。

 机の引き出しみたいな、固いものの中ではなかったと思う。少なくとも、僕の記憶の中には、重い引き出しを開けて、その中に入れるべきかどうかを確かめ、つまり、大切なものを入れておけないほど引き出しの中が乱雑になっていないかどうかを見極め、そこに入れて、引き出しをもとのとおりに閉めたという記憶は、ないのだ。もしそれをしたら、少なくとも多少は記憶のどこかに残っているだろう。引き出しの重さ、引き出しの中の暗さ、引き出しの中の散らかり具合、隅の埃の溜まり具合。そのいずれかの記憶が、たとえ青空に浮かぶ太陽のようにはっきりと確かなものではないとしても、おぼろげにでも、漠然とでも、頭の片隅に煙のように漂っているだろう。

 でも、僕にはそれがないのだ。そのような硬いものの中に入れようとした記憶が、頭の中に少しも残っていないのだ。例えば、動物園のテナガザルに似ている。動物園の出口を出た後、その日見たいろいろな動物のことを、思い出すだろう。大きなゾウや首長のキリン、だらけもののライオンや、サービス精神旺盛なレッサーパンダ。でも、絶対に誰の記憶にも残らない動物がいる。テナガザルだ。テナガザルは、たいていどこの動物園にもいる。そして、大概の場合は、一度はその檻の前を通っているはずだ。だけど、動物園の外に出て、園内の動物の姿を回想する時になると、もはやテナガザルの印象は、ない。いたかどうかも定かではない。見たかどうかも、気になりもしない。いるのに、いないのと同じ存在だ。そんな感じで、とにかく僕は引き出しに入れたことはないのだけは、本当に確かなような気がするのだ。

 しかし、ズボンのポケットの中にも、それはない。手を替えて反対側のポケットの中もまさぐってみたけれど、やはり、ない。ポケットの中は夕暮れの東の空みたいに、どんよりと暗く、ぽかんと空疎だ。コウモリは夕日の方へ向かって飛びたがるし、イヌは夕日に向かって遠吠えをしたがる。ハトが歩くのも残照の中だし、トカゲが見るのもぼんやりと明るい西の空だ。夕暮れ時になると、東の空は忘れられてしまう。なかったことにされてしまう。東の空の存在価値は、朝の日の出の時間に集約されているとでも言いたいのだろうか。空に優劣があるとすれば、南や西はいつでも花形だ。いつも安定している北は渋い二枚目の位置。でも、東は案外忘れられがちだ。疎んじられがち。山の稜線から太陽が顔を出したあとは、人は誰も東の空を眺めたりしない。そんなふうに、左ポケットの中も空虚でがらんどうだ。

 僕は、無くしてしまったのかもしれない。あれほど、大事だからきちんと保管しておかなければと思っていたのに。だからこそ、僕自身の体に近いところに入れておこうと思ったはずなのに。僕は、そんなふうに大切に思っている気持ちとは裏腹に、なんとも軽率で浅はかな行動をとってしまっていたのだ。矛盾、齟齬、相克。気持ちが行動を裏切ったり、行動が気持ちを裏切ったり。僕というたった一つの体の中で、どうしてこれほどまでに無意味で愚かな食い違いが発生するのだろう。気持ちが眠くないのに、体が眠る。気持ちが喜んでいるのに、体が素通りする。気持ちが映画館に行きたがっているのに、体が家の椅子の上に居座る。気持ちが恋をしているのに、体が怖がる。気持ちは大概、僕を前向きにさせようとする。僕を行動的にするし、僕に可能性を感じさせてくれる。でも体は、大概僕を臆病にさせる。疲れていないはずなのに、疲れたがる。できるはずなのに、諦めたがる。歩け、と気持ちが言わないと、歩かない。いや、歩けと気持ちが言っていても、時として体は歩こうとしない。

 僕には矛盾する気持ちと体とがある。僕の体から気持ちだけを取り出して見せることができれば、僕はきっと、もっと多くの人に好かれているはずだ。でも、僕の体が、僕の気持ちの邪魔をする。僕の気持ちの見えない多くの人にとって、僕は実に怠惰で、怠け者で、後ろ向きで、頼りない人間に映るだろう。でも、僕は体を恨んだりしない。それは、僕は僕の体の気持ちも苦しいほどよくわかるからだ。なぜなら、気持ちの代わりに、いつも痛みを感じるのは、体である。指に針が刺さった時も、足の上にものが落ちた時も、鉄棒に頭をぶつけた時も、長い間立ちっぱなしの時も、痛みを感じるのはいつも体だ。体のおかげで、気持ちが守られている。気持ちは痛みを知らないから、そうやっていつでも前向きにいられる。実際に痛みを知ったら、体のように臆病になる。僕は体に同情すらしている。

 ズボンのポケットをあきらめた僕は、来ていた上着のポケットに、両手をいっぺんに突っ込んだ。ポケットの底に、じゃりっといやな感触がする。貝を食べた時に、貝から砂が出てきたような、わざわざそんなことに気が付くようなことをしなければ、僕はそれを知らないままにいられたのに、という後悔を伴った、ため息をついてもそう簡単には晴れることのない、絶望するほどのことはないけれど、少しだけ絶望したような気持ちになる、いやな感覚。ポケットの底の指に触れたものを、人差し指と親指の腹でつまんで、外に引き出してみた。思った通り、小さな綿ぼこりだ。

 ポケットは、まるで埃の吹き溜まりだ。世界を漂う微細な塵や埃が、落ち着くべきポケットを探して空中を浮遊している。ポケットは、小さな掃除機のように、それらの埃を食べ尽くす。そして何事もなかったかのように平然と、まるで昔からそこに埃があったとでも言いたがっているかのように、ごく平然としているのだ。

 指先の埃を、子細に見つめてみる。僕自身の目玉を、顕微鏡のレンズにしてみる。僕の指先にあるのは、ひとくくりにすれば、確かに「埃」としか言いようがない。糸でも布でも紙でもないし、まして羽毛のような綿でもない。でも、「埃」をもっと詳しく分析してみると、その中には糸も布も紙も、そして羽毛のような綿さえ混じっていることがわかる。いつどこで僕のポケットに舞い込んできたのか、赤い糸切れ、青い糸切れ、でもそれは、糸切れというにはあまりに短すぎるし、布というにはあまりに小さすぎる。でも、色も持っているし、形も持っている。埃を形成する構成物をばらばらにして、その一つ一つにあえて名称を与えるとすれば、それは「糸」と言わざるを得ないし、「布」と言わざるを得ないし、「紙」と言わざるを得ない。そういうものが密接に絡み合って、ふわふわっとなったあとにポケットの中でぺしゃんこにされると、僕の指先にあるような「埃」になる。でも、「埃」を「埃」というは、どうも大変失敬なようだ。集まってごちゃごちゃっとなったら、それを「埃」と呼んでいいのだろうか。なら、満員電車の中に密集している人、コンサート会場にぎゅうぎゅう詰めの人、お昼の定食屋さんで肩が触れ合いそうになりながら、体を小さくし合っている人。それらも全て、「埃」と呼びうるだろうか。僕は「埃」を「埃」と呼ぶならば、それらの人も「埃」と呼びたい。逆にそれらの人を「埃」と呼ばないならば、「埃」のことも「埃」なんて、軽々しく呼ぶべきではないと思う。恐らく僕には何の関係も由来もない、これらの赤や青の糸や布の断片も、「埃」になる前は、とても意義のある歴史の一ページを彩っていたはずだ。赤い糸くずは、恋人ができたばかりで人生最大の幸福に浸っている女性の上着から離れたものかもしれないし、青い布きれはアルバイトで失敗をして肩を落としながら家路についていた学生の衣服から離れたものかもしれない。泣く人や、祈る人や、喜ぶ人や、悲しむ人。そしてもしかしたら、亡くなる人。亡くなる人を、見守る人。そういう人たちの気持ちを背負って、そういう人たちのその瞬間に存在して、その人たちの時間を形作っていた。きっとそういう複雑な気持ちが混在して、漂って、何かの拍子に、僕のこんなありふれた、つまらないポケットの中に集まってきたのだ。それを「埃」と呼べるだろうか。じゃあ、何と呼んだらいいのだろうか。それは僕にとって、難しい質問だ。あえて言うなら、「埃のようなもの」だ。瓶に映った青空は、それ自体は「青空」ではない。あくまで、「瓶に映った青空」だ。でもそれを表現するのに、僕たちは「瓶に映った青空」とわざわざ言うだろうか。たぶん、きっとそれは単に「青空」と言ってしまうのではないだろうか。でも、本当の青空はちゃんと頭の上にある。瓶に映った青空は、あえて言うなら、「青空のようなもの」だ。青空と言えば、確かに青空。でも、それは青空ではない。そういうことは、意外によくある。

 みんなが見ている僕は、本当に「僕」だろうか。それは決して、純粋な意味での「僕」ではないはずだ。みんなが見ている僕は、僕の外面を通してみた僕に過ぎない。僕の本当の僕を見た人は、この世に一人もいない。きっと僕自身だって、本当の僕自身のことを全て知っているわけではないはずだ。気持ちはいつも揺れ動いている。「これが僕だ」というような確たる基準があるわけではなくて、ゆらゆら揺れている、その揺れ幅を含めて全体が「僕だ」としか言いようがない。海の水面はどこかという質問に答えるのは、実はとても難しい。なぜなら、水面はいつも波打っている。水面は、上にある時もあれば、下にある時もある。それを含めて「水面だ」というしか方法がない。アリの目線で見てみると、それは実に恐ろしい世界だ。ある時は、「水面って意外と低い」と思う。でも、次の瞬間には「水面って意外と高い」と思う。どちらの世界が、本当の世界だろうか。アリは、どちらの水面の高さに合わせて世界を考えればいいのだろう。「低いのも高いのも、どっちも水面だよ」と言ったなら、アリはそうとう面食らうに違いない。どちらも同じ、と言うにしては、その高さがあまりに違い過ぎる。水面の高いときと低い時では、世界のありようが違い過ぎる。赤道直下の島と、北極に限りない島。そのどちらもの気温も、「気温だよ」と言われたら、僕たちはきっと途方にくれるだろう。寒い気温には寒い気温也の、高い気温には高い気温なりの、それぞれの対応の仕方がある。なのに、どちらも「気温」の一語でまとめられてしまったなら、僕はたとえ北極に近い島へ行くときにさえ、Tシャツ短パンで行かなければならないかもしれない。

 つまりこの揺れ動いている僕が僕なのであって、じゃあ純粋な「僕」だけを取り出して見せろと言われたら、それはできない注文なのだ。ラーメンを食べたい時の僕と、食べたくない時の僕。どっちの僕が僕かと言われたら、どっちの僕も僕だと言わざるを得ない。そうなると、「僕」はこの世界に無限に存在することになってしまって、地球はたいそう窮屈になるだろう。だから、気持ちの揺れ動き、振幅を納める入れ物として、僕の体がある。僕の振幅は無限大だが、幸い、それが僕の体を溢れてしまうことはない。だからどうにか、地球が狭くなり過ぎずに済んでいる。

 僕がどこに入れたたかわからなくなってしまったことも、そしてそれを本当にどこかに「入れる」という行為を僕が取ったかどうかも定かではなくなってしまったことも、でも、確かに体に近いところにそれを保管したような気がしてならないのも、要するに無理からぬことなのだ。その瞬間瞬間の僕は、確かに僕であったのだけれど、でも、別の瞬間の僕とは、案外遠い関係にあったりするのかもしれないのだ。その時の僕は今の僕を想像できなかったし、その時の僕は、今の僕よりそのものに無関心だったかもしれない。でも、その時の僕は、今の僕がこんな無関心になるなんて想像もできなかったわけだし、今となってはそれを探している僕のことも、微塵も想像できなかったわけだ。僕のポケットの底に溜まった「埃のようなもの」も、まさか巡り巡って、僕のポケットの底で一つに集まるなんていう未来を、夢にも想像できなかっただろう。そしてこの「埃のようなもの」を構成する糸くずや布きれも、それらの背負った瞬間や記憶の断片が、このように融合して今ここにあるという未来を想像することはできなかったであろう。

 僕の入れたものは、きっと僕のごく身近にある。今の僕は、そういうふうに想像している。そしてきっとそれは、ポケットの底の「埃のようなもの」のように、僕に見つけられるのを待っている。ズボンのお尻のポケットに、僕は右手を突っ込んだ。

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「掃除機」「ページ」「可能性」 矢口晃 @yaguti

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