第52話 「遭難」 妖怪「全知全能」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



「そんなの、スマホで調べればいいじゃん」

 松尾まつお紀助きすけは、とにかくなんでもググる。「ググる」というのはグーグル検索で調べる、というネット用語だが、ネット検索が出来て、しかも手の平サイズに収まったスマホの発売以来、松尾の「ググる生活」は専らパソコンより手の平で行われる。

 松尾は外回りの営業だが、最早地図を持たない。スマホで調べればいいからだ。地下鉄の路線図も時刻表も、レストランガイドも見るべき映画のリストも、もちろん電話帳も手帳も持たない。すべてスマホに集約させている。

 ネットの登場以前、それらはみんな縮小コピーされて手帳に貼られたりしていたものだった。手書きで情報を整理し、早見表をつくったものだ。「そんなのスマートじゃない」と松尾は思う。いちいち自分で纏めるなんて労力の無駄だ。ナンセンスだ。調べれば出てくるんだから、その度に調べればいい。しかも誰かが最新に更新している。自分の所でコストをかけて情報をプールするより、オープンソースを必要なだけ使うほうが効率がいいじゃないか。スマホって何の略かって? スマートな電話フォンのことだろう? スマートかどうかなんだよ。

 もうテレビも随分つけていない。新聞も取っていない。ニュースと天気予報と占いなら、スマホを見ればこと足りる。通勤中は、ネットでネタ探しだ。仕事で分からないことは、人に聞く前に調べてしまえばいい。案外その人もちゃんと知ってなくて、あたふたする様が見れるぜ。余計な所まで知らなくていい。必要な所だけ使えればいい。合コンの幹事も任せとけ。店を調べ、二次会も調べ、終電を調べてギリギリ間に合わないようにセッティングしてやるぜ。どうだ、スマートだろ?


「あの、何だっけ、リドリー・スコットの映画の……」

 そんなの調べれば済むじゃないか。

「代表作はエイリアン、ブレード・ランナー、グラディエイター、ブラックホーク・ダウン……」

「それそれ! ブラックホーク・ダウンのさ……」


「パプリカってピーマンじゃないの?」

「え? ピーマンが熟してパプリカになるんでしょ?」

 そんなの調べれば済むじゃないか。

「パプリカはピーマンの変種。ハンガリー原産のピーマンがパプリカ。ふたつは別品種」

「すごおおおい」


「こないだ番組でやってたんだけどさ、あの、何だっけ……」

 それも調べればいいんでしょ? いつごろ? 誰が出てた? 話題は? そんなの検索で一発で出るだろ。

「『あのスタアは今?』の倫チャンゲスト回、動画で落ちてたけどこれ?」

「それそれ! すごおおおい」

「いや別にすごくないし。ちょっと行って拾ってくるだけだろ」

「それがスマートなのよ!」

 ちょっとかわいい子にそう言われたら、悪い気はしないさ。

「検索のコツとかつかめば、誰でも調べられるよ」

「でもどこに何が置いてあるかとか詳しいじゃん!」

「その人たちの知恵を借りてるだけさ。……でも」

「でも?」

「それって、何でも知ってることと同じかもね」


「俺は何でも知っている」。その過信という心の隙間に、心の闇がやってきて取り憑いた。その名を「全知全能」という。月桂樹の冠を頭の上に乗せた、ギリシャ人のような顔立ちだ。全知全能神のゼウスを模したような、権威めいた顔立ち。ポップな緑色で、金色の太く長いひげを生やしていた。


 セックスの最中も、口説き文句をスマホで検索する。人生相談をしてきた後輩に、スマホで検索する。企画のアイデアをスマホで検索する。始末書も検索だ。松尾は「なんでも知っている」。


    2


 一方、シンイチは苦しみに苦しんでいた。

「天狗の力」が、まるで出なくなってしまったのだ。

 「つらぬく力」も「ねじる力」も「不動金縛り」も。どんなに叫んでも、丁寧にやっても念じても、ウンともスンとも言わなかった。

 「術」関係は全滅だった。水鏡の術もダメ。呪文関係もダメ。動物の言葉はてんで分からなくなった。猫も烏もただの動物。ネムカケの言葉しか分からない。

「どうしようネムカケええええ」

「落ち着けやシンイチ。小鴉が折れたときを思い出せ。動揺してもなんもいいことないぞ。小鴉は生きとるのか?」

「……ダメなんだ。『火よ在れ』だって、一種の呪文だしさああああ」

「やってみよ」

「……一応面も被ったほうがいいよね」

 シンイチはひょうたんから火の剣と天狗の面を出し、面を被った。シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である……筈だ。

「抜いてみよ」

「火の剣! 小鴉!」

 シンイチの恐れた通り、黒い刃からは、ちびりとも炎は出なかった。

「火よ在れ! 火よ在れ!」

 振ってもこすっても、火など出ない。

「また遠野かなあああ。でも壊れた訳じゃないんだようううう」

「むう。原因を探ろう。いつどこでそうなった?」

「あの窯。……あの窯から、全部はじまってるんだ。……いや、そもそもあのビルの屋上……」


 シンイチはこれまでのことを全部話した。陶芸家、玄田礼のこと。息子、洋が「あの人」だったこと。離婚問題を元鞘に収めたけど、彼はなにひとつ作品をつくれなくなってしまったこと。

「……人の人生に勝手に介入することは、正しいのかな?」

 シンイチはため息をついた。「心の闇」が寄ってきそうな暗いため息だった。

「ふむ。……精神的に参っておるようじゃのう。ショック療法的に『その場所』に行ってみるか?」



 シンイチはまず、大天狗とネムカケに出会った、町外れの高台公園に行った。

「……ここで、二人と出会ったんだね」

 炎に包まれた大天狗が座っていたジャングルジムはそのままで、あの時のタイヤ跳びもそのままで、やっぱりペンキは剥がれかかっていた。入口から出て、うじゃうじゃいた妖怪に、大天狗が「つらぬく力」「ねじる力」を行使するのを初めて目撃したのだった。

「……そしてあのビル」

 ベンチからは古い雑居ビルが見えている。あそこから玄田洋は、巨大な「弱気」に取り憑かれたまま飛び降りた。

「屋上へ行けるか?」

 動悸は速くなり、足が震えた。それでも、行くしかなかった。


 「最初の日」以来だった。屋上の扉には立入禁止の札があり、鍵がかけてあった。シンイチは腰のひょうたんから一本高下駄を出し、跳梁ちょうりょうの力でネムカケを連れ屋上へ跳んだ。

 玄田洋が最後にのりこえた鉄柵が、そこにあった。あのときに比べて鉄錆が増えている気がする。この狭い屋上は、飛び降り事件以来誰も入っていないのだろう。夏の雑草がコンクリの隙間から青々と生え、焼けたコンクリの匂いと混じっている。

 シンイチは鉄柵をつかんだ。あのとき払われた彼の冷たい手の感触は、今もシンイチの右手に生々しく残っている。身を乗り出し、シンイチは飛び降りた地点を見下ろした。

 煉瓦で囲んだ花壇が出来ていて、オレンジの花が植えてあった。

「……今のオレなら、下まで行ってジャンプして帰ってこれるのにね」

「やってみるか?」

「……いや、いいや」

 シンイチは腰のひょうたんから「道具」を出してあらためた。

 大風の力の葉団扇、遠眼鏡の千里眼、隠形と変身のかくれみの。それぞれの道具は、まだ力を失っていないようである。

「天狗の力が込められた『道具』だからかな。……オレの『天狗の力』だけみたいだね、出ないのは」

 屋上は空が近かった。遠くに山がけむっている。高尾山系だ。

「あの窯に……もう一度行ってみたい」


    3


 一方その高尾山口には、「全知全能」の取り憑いた松尾と、同僚の山下やました、合コンで知り合った女の子のみさきちゃん、莉子りこちゃんの計四名が来ていた。休日の登山ハイキングへ行こうと盛り上がったのである。

 高尾山は観光地化されていて、どんな人でも登れる山だ。しかしそれだけでは詰まらないだろうと、一号登山路の超初心者ルートから行って、六号下山路の中級者ルートから下りようという計画だ。

 リーダーの山下は山岳部出身なので、一応は登山装備をしてきた。対照的に松尾は、ラフな服装に手ぶらだ。

「一応、山なんだからさ。そこらへんのコンビニに行くんじゃねえんだから」

 山下は苦い顔をしたが、松尾は笑う。

「大丈夫大丈夫。なにかあっても全知全能だからなんとかなるさ。今日の天気も快晴って調べ済みだよ。登山ルートもね」

「……まあ、ハイキングレベルではあるけど……」

 山の知識からすれば、厳しいようだがここで登山中止をすべきだった。何も持たずに山に登るのは、何かあった時に対応しきれないからである。しかし、折角休日に集まったことと、女の子たちが楽しみにしているのを壊したくない「空気」が、これに目を瞑らせたのだ(実際、こうして遭難するケースは結構多い)。

「一応、みんな頭に入れてくれ」

 山下は地図を広げた。手書きでルートが書き込んであり、間違いやすいルートもメモしてあり、前日からの天候と天気図も貼りつけてあった。

「古臭いなあ。手書きのアナログかよ。今時スマホにGPSも入ってるし、地形図だって3Dで出るぜ?」

 松尾は無視して手ぶらで歩き始める。小姑のような山下よりも、軽快で楽しそうな松尾に女の子たちはついていく。山下は殿しんがりを務めることにした。他の登山客(一号登山路は、登山というより散歩だが)も沢山いるから、迷うことなどないであろう。

 山頂まではすぐだった。高尾神社にお参りし、一行は下山をはじめた。高尾山本尊の飯綱いづな権現ごんげんは、仏教でも神道でもなく修験道(醍醐寺だいごじ当山派)の神だ。すなわち天狗である。遠野十天狗に、飯綱神いづなしんという狐の術を使う天狗がいたことを思い出そう。飯綱権現はその仲間だ。東日本でよく信仰される天狗で、狐に乗った姿で描かれることが多い。せで江戸時代有名になり、東海道沿いで賑わった、秋葉あきば神社の本尊、秋葉あきば権現もその仲間である(そして秋葉権現が江戸に勧請された土地が、当時の野原、秋葉原だ。東京にも天狗の地はあるのだ)。



 下山途中に異変は起きた。

 空がかき曇り、雨が降ってきたのだ。

「聞いてないよお!」と、手ぶらの松尾は天に突っ込んだ。

「山の天気は変わりやすい」と、山下は雨合羽を出す。

 他の二人も、リュックから折りたたみ傘やビニールシートを出した。

「とりあえず予備のシート貸すよ」と、山下は黄色のツェルト(防水シート)を松尾に渡した。

 下山路が煙ってきた。霧が出てきたらしい。視界も悪く、足元の岩も濡れて滑りやすい。

「ゆっくり行こう。滑って転んでは元も子もない」と、山下は殿から声をかける。

 松尾はぶつぶつ言う。

「ネットの予報じゃ晴れだったんだけどなあ」

「それ、どこの予報?」

「ちゃんと東京二十三区じゃなくて、八王子のほうを見たんだけど」

「それ、大多数が必要な、都市部の予報でしょ? 山の予報を見ないと」

「あ。……そうか」

「西から天気はやってくる。つまり山の向こう側、山梨県東部の雲の状況も見とかないと」

「じゃお前は見たのかよ?」

「勿論。天気図的には問題なかった。でも降る時もある。なにせ自然だからな」

「ケッ、えらそうに」

 松尾はよそ見しながら左足を踏んだ。踏んだ筈の石が動き、足を滑らせた。

「ッとお!」

 転んだり、挫いたりすることはなかったが、腹が立ってその石を蹴る。

「今年の梅雨は少なかったから、そういう『浮き石』が十分に落ちなかったんだな」

 山下が解説する。

「最初から言えっての! そんなのネットになかったよ!」

 と、目の前に二股が現れた。

「ここ右だろ?」と松尾は右の道へ一歩踏み出す。

「ちょっと待って、それ地図にないぞ」と山下はアナログの地図を広げた。道案内の道標も、付近には見当たらない。

「俺のスマホには点線で道が書いてあるぜ。近道っぽいけどよ」と松尾は言う。

「そのGPS合ってる? スマホの精度が信用できるのは都市部だけだ。平気で一ブロックぐらいずれるぞ」

「じゃお前のGPSは?」

「流石にそこまで本格的じゃないと思って、持ってきてない」

「じゃ行こうよ。近道だぞ?」

「こっちが最新の地図なんだけど」と山下は紙の地図を見せる。

「スマホの方が最新だろ」

 一行は松尾に従い、右の近道を行くことにした。

 地図における点線は、かつてあった道のことを指す。今あるとは限らない。五十年前にあった道、なんてのはざらだ。五十年前の獣道が今ある保証など山にはない。そしてスマホの地図では、何年前の地図をつぎはぎしているかまで、表示されない。


 雨はひどくなり、こうして一行は遭難することになった。

 遭難の厄介な所は、最初は気づかず、随分奥に行ってから気づくことだ。そうして間違いを認めるのを嫌がり、さらに迷ってしまうことだ。今回のケースでは、「女の子たちにいい所を見せよう」という男たちの心理も加わっていた。


 下草が増え、クマザサなどが増え、足元が藪めいて来た。川の音がどこからか聞こえてくる。スマホの電波も、山の中で途切れがちだ。

「どこだよ電波!」

 松尾は色んな方向にスマホをかざし、また足元の注意を怠った。

「あっ!」

 踏み外した先の岩が濡れて、滑った。

 一瞬で、松尾の姿は谷底へ消えた。

「松尾!」

「いてててて……」

 下のほうから声は聞こえるが、姿は見えない。ずいぶんと遠くだ。

「怪我は? 上がれるか?」と山下は大声を出す。

「分かんねえけど。血は出てない、骨も大丈夫。ちょっと休ませてくれ」

 困った。ロープも何もない。周囲を見渡しても、助けに行けるルートはなさそうだ。この雨では、どの岩をつかんでも滑るだろう。山下は見えない崖下の松尾に声をかけた。

「二重遭難の恐れがある。雨が止むのを待とう」

「OKOK。ネットで地図見てユーチューブでも見て待つわ」

 しかし雨が止む気配はなかった。女の子たちが寒さに震え始めたのを見て、山下は決断した。

「松尾。女の子たちの体力が心配だ。一旦頂上へ引き返す」

「ハア? 下山すればいいじゃん。町もすぐそこだろ?」

「遭難の鉄則は、下りるんじゃなくて、登ることだ。体を冷やさないように。濡らさないのが一番だ。ここがどこだか分からないから、途中で荷物をひとつずつ置いていく。松尾、チョコレートを投げるから、受け取れ! この場所から絶対動くなよ! 必ず戻るから!」

 大げさだなあ、と松尾は内心思った。遭難じゃあるまいし。たしかに雨はキツイけど、「自力下山」なんてニュースでよく見るじゃん。


 山下は女の子二人を連れ、要所要所に目立つ色の荷物をひとつずつ捨て、来た方向を示すように石を積みながら、頂上へと一旦戻ることにした。

 遭難の鉄則は、「上ること」である。これは覚えておくとよい知恵だ。

 山には殆ど人が通れる場所はない。九十九パーセントが悪路だ。かろうじて通れる道を沢山の人が踏み固め、獣道ならぬ人道が出来上がったのが、いわゆる登山路である。山には登山路がたいてい複数あり、それらは頂上を中心に放射状に伸びている。「全ての道はローマに通ず」ように、どの登山路を行っても必ず頂上にたどり着く。その登山路から外れることが道に迷うことだ。もし道から外れたら、頂上を目指せば、原理的には必ずどれかの「登山路」には出られるというわけだ。登山路にさえ出れば、あとは歩ける道であり、標識があり、他の登山客もいるわけだ。

 大きな「ハ」の字を想像するとよい。字の真ん中で遭難したとしよう。右でも左でも、上に登れば「ハ」の左右どちらかにたどり着く。最悪でも頂上だ。しかし下に下りたら、扇の広がる先に「ハ」のどちらもない。つまり、登山路に出ないまま、扇状に広がる道なき道を進むことになる。下りれば下りるほど登山路から遠ざかるのだ。すなわち生還の確率は、下りれば下りるほど下がってゆく。


 松尾は、遭難したときに初心者が至る、もっとも間違った考えをとった。

「川が流れているから、それ沿いに下れば下界に着くはずだ」である。

 雨で体温が下がり、動かないとダメだと思い、松尾は近くに流れる小川沿いに下山することにした。水は必ず下に流れるんだから、下に行けるだろうと。

 何故これが誤りであるかは、日本の川の性質を知れば分かることだ。松尾は、それをこれから身をもって知ることになる。


    4


 山下率いる一行は登り続け、六号下山路に戻ることに成功、頂上まで一旦戻り、山小屋の捜索隊に協力を要請した。

「六号下山路中で遭難です。滑落者一名、怪我なし、生存。救出が困難で、パーティの安全を優先して登って戻ってきました。荷物を要所に置いてきたので、再びそこに戻れると思います」

「いい判断だったね」

 捜索隊員は言った。

「場所の見当は?」

 捜索隊員の一人が地図を広げた。

「おそらくこの筋から、こう、こう、こうかと」

「よく分かるね」

「昨日地図をちゃんと読んでおいたので、地形は大体頭に入っています」

「もう一度戻れそうかな? 案内してもらえると助かる」

「……少し、休めば」

「あったかいうどんが茶屋にあるよ。おごろう」


 その現場に、シンイチとネムカケが偶然居合わせた。窯まで一本高下駄で行こうと思ったのだが、途中で雨が降ってきたので、茶屋で雨宿りをしていたのだ。

 シンイチはその話を聞き、腰のひょうたんから「千里眼」を出した。

「その人って、緑のシャツに、黄色いビニールシート被った、頭もじゃもじゃの人?」

「そうだ! 怪我はないから、座って雨をしのいでる筈だが……」

「川沿いに、下りようとしてるみたいだけど」

「松尾! 動くなと言ったのに……」

「この人で合ってる?」

 シンイチは千里眼を渡した。山下は覗いた。

「いた! 沢下りしてやがる! 急ぎましょう!」

 女の子二人を預け、山下と捜索隊は出発した。

 シンイチは迷った。ネムカケは聞いた。

「どうしたシンイチ? いつもなら人助けに向かう所じゃろ」

「うん。でも天狗の力がないかと思うと不安で……」

「ならば専門家に任せておくことじゃな」

「でも、そうもいかないみたい」

「?」

「その人の肩に、いたんだ。……妖怪『全知全能』が」

 シンイチはかくれみのを雨合羽代わりに、捜索隊を千里眼で追いつつ、一本高下駄で跳ぶことにした。


「ちっきしょう! 電波届かねえじゃねえかよ!」

 歩き始めてしばらく。電波が届かなくなり、松尾はイライラしていた。GPS機能も、電波が届かなくては使えない。ケータイは、電波がないと電波を探し続けるので、急速にバッテリーが減ってゆく。

「オイ! もうバッテリー二十%切ったよ! 動画なんて見てる場合じゃなかった!」

 つまり松尾は、ここに至って、はじめて徒手空拳で山の中に放り出されたことに青くなったのである。

「さっきの所まで、戻るか? ……いや、『いまさら』だな。歩いた労力が無駄になるからな」

 この心理も遭難者特有だ。自分のやったことを、たとえ間違いでも無駄だと思いたくないのだ。多くの間違った集団はこれで座礁する。松尾は妖怪「いまさら」に取り憑かれてはいなかったが、それはたまたま妖怪「いまさら」が、この山にいなかっただけの話だ。

 川は下る。これは本当だ。問題は、「川は直進しない」という真理だ。川は、蛇行する。それは「人里への最短ルート」を意味しない。水にとっての最短ルートであり、人の足にとって歩きやすい最短ルートとは限らない。人里より遠い方向へ誘導するかも知れない。三百六十度のうち何度から何度までが人里方向だろうか。確率だけでいえば、当たりはまず引けない。山奥の秘境へ連れていかれるだけである。そうして、結局体力が尽きてゆく。

「ちくしょう……ぜんぜん人間のいる気配がしねえ……」

 雨で滑る岩。コケで滑る岩。転べば皮膚を裂いたりどこかを挫くことは、最もよくある怪我だ。そうして動けなくなり、死へ近づくのだ。偶然松尾にはそれがなかった。ないが故に、日本の川の構造を知るまで歩くこととなった。


「なんだこりゃ?」

 沢は川に合流し、谷を削っていた。両側に切り立つような固い岩があり、底も岩の、U字の岩谷になっていた。この高い岩の壁を迂回するか、川の中を先へ進むしかない。勿論戻ることなど松尾の考えにはすでにない。

「……川の中を歩くか」

 このような地形を、山の言葉でゴルジュ帯という。山の中の沢は、たいていこの地形に集まってゆく。長年かけて、山の水が岩を削った末に出来た地形である。突破するには、水の中をゆくしかないのだ。

「うわっ!」

 川は思ったより深かった。すべての水が集まる場所だ。深く深く岩を削っているのである。足がつかなかったはずみで、松尾はバランスを崩し、手に持ったスマホを川の中へ落としてしまった。

 最悪の水没だ。拾えはしたものの、画面は真っ黒。乾かせば復活するだろうか?

 そしてゴルジュ帯のその先には、大抵絶望が待っている。

「……」

 滝だ。

 日本の山の中の川で、滝がないものは殆どないと言う。一説には、九八%には滝があると言われている。これが沢下りが危険な最大の理由だ。


 そもそも地図上の「滝」の定義は、落差五メートル以上。四メートル半は滝に入らない。四メートル半は、二階に箪笥を置いてその上から地面を見下ろせば、大体その高さだ。ザイルもロープもない素人が、濡れたその崖を無事に降りられるだろうか?

 マンガか映画みたいな、垂直落下式の滝は滅多にない。大抵のリアルな滝は、丘陵状の岩場を大量の水が流れる、ただの危険地帯だ。

 絶体絶命の行き止まりか。それともゆっくり下りれば下りられるものか。ゴルジュ帯に再び戻る勇気はない。


    5


 山下が先導する捜索隊は、計画的に目印にした荷物と積んだ石を頼りに、二股で迷った地点を見つけ、その先の滑落地点へたどり着いていた。シンイチはかくれみのでその地点まで追いついた。

「松尾ー!」

 大声を出しても返事はない。とうに近くにいないのか、それとも衰弱したのだろうか。

 滔々と流れる音を聞き、山下は言った。

「この下の沢沿いに行ったと思うんですが……」

「おかしい」

 捜索隊は地図を見ながら言った。

「ここに川なんてないぞ」

「おそらく、雨のときだけ出来る奴だよ!」

 と、シンイチがかくれみのを脱いで割って入った。

「うわっ! キミは? さっきもヘンな望遠鏡持ってたよね?」

 シンイチは天狗の面を被っていた。「朱い天狗面の少年と山で会う」という奇妙な体験を皆はしているわけだ。シンイチは咄嗟に言った。

「えっと、……そうだ、オレ、高尾の天狗様の使いなんだ!」

「……はい?」

 捜索隊はぽかんとなった。

「証拠を見せよっか! ホラ!」

 シンイチは腰のひょうたんから葉団扇を出し、大風を吹かせた。

 八手の葉団扇は、天狗の持ち物として最も有名なもののひとつだ。

「ホントに……天狗の子?」

「まあね! とにかくこの川はさ、普段は地面だけど雨水の通り道になってるタイプだと思うんだよ! 川って山の中だといつでもどこにでも出来るからね!」

「……たしかに」

「だから地図を見ても、この川の行方は分からないと思うよ!」

「むう……」

 捜索隊員は唸る。山下が周囲の地形を見ながら言った。

「こっちとこっちに尾根が走ってるから、沢はおおむねその間を蛇行してるんじゃないでしょうか。二つの尾根を越えることはないでしょうし」

「成程」

 シンイチは千里眼を覗く。

「いた!」

「どこに?」

「滝の上!」

「滝? ……それは、修行僧が使うみたいな滝じゃなくて、分岐ばく、つまり、こう、丘みたいな岩の上を水が走るタイプのやつか?」

 と、捜査隊員が思い出す。

「そう。その上で、行くか戻るか、迷ってる」

 シンイチは千里眼を覗きながら答えた。捜査隊員は確信する。

「それなら記憶にある。地図には載ってないやつだ。こっちの尾根沿いに行けば近道だ」

「ヘリは要請しますか?」

「怪我はないようだし、このエリアなら無線も通じる。しかしこれから行くまでに怪我する可能性はあり得る。エンジンを暖めとけと連絡を」

「了解」

「その滝まではどれくらいですか?」と山下が聞く。

「晴れてれば十五分もあれば」

「その間に奴が滝を下りはじめて転落でもしたら……」

「オレが飛ぶ! この千里眼、貸しとくね!」

 シンイチは一本高下駄で遥か高くに飛び上がり、先に滝へ向かった。


「ちくしょう。……ちくしょう。……何でこんな目に遭わなきゃなんねえんだよォ……」

 岩をつかむ松尾の手は、予想以上の冷たい水に震えている。雨も止まなさそうだ。知識もなにもない素手の状態で、水で溢れる下りの岩場を下るしかない。水の流れは速かった。

「くっそ!」

 松尾は降りる決心をした。大きな岩は表面が滑りそうだ。しっかりと小さな岩を踏み……。ガラッ。踏んだ岩が崩れ、重心をまともにかけていた松尾はもんどりうった。下りは後ろ足に重心を残す、基本中の基本すら松尾は知らなかったのだ。

「危ない!」

 シンイチは滝の下に先に着き、葉団扇を構えた。

「吹けよ天狗風!」

 ごう。

 葉団扇からの大風が、上下が逆さまになった松尾をふわりと浮かせた。

 しかし空中で松尾は暴れ、バランスを崩した。

「ちくしょう!」

 二発、三発と大風で松尾を浮かせる。

「超突風!」

 大きく浮かせてから、一本高下駄でキャッチしようとしたそのとき。

 ぽきり。

 葉団扇が、根元から折れてしまった。

「ええええ?」

 見る間に緑の葉が茶色に変色して行く。動揺してる暇はない。とにかく跳んで、松尾の浮いた体を空中でキャッチする。岩場を何度も蹴り、シンイチはようやく滝の下の平地にたどり着いた。

「大丈夫?」

「あ……何?……俺、助かったのか? ……て、いうか、て、天狗?」

 松尾は朱い天狗面に仰天した。

「そ、そう! オレ、高尾山の小天狗!」

 松尾は安心したのか、泣き出した。

「助かったのか……俺、助かったのか……」

「おうい!」

 山下たち捜索隊が、向こうの獣道からやってきた。

「山下……!」

 山下は松尾に言った。

「この天狗のおかげさ。この場所を教えてくれた」

 捜索隊員が付け加えた。

「いや、我々が早く到着できたのは、山下さんの無駄のない案内のおかげでした」

「……いや、たいしたことないっす」

 山下はポケットから、雨でぼろぼろになった地図を出した。手書きの書き込みは雨でにじみ、貼ったセロハンテープははがれ、地図は折れ目から切れ空中分解しそうになっている。

 松尾は驚いて山下に聞いた。

「このぼろぼろの地図見てきたのかよ?」

「いいや」

 山下は笑った。

「ここに、ちゃんと入れてきた」

 山下は自分の頭を指した。

「俺ホント馬鹿だ……」

 松尾は再び泣き出した。

「山にネットがあるわけねえのによう……」

「そりゃそうだろ」

「ネットに頼るってことは、外部に頼るってことだよな。俺、自分の身になんもねえわ。どこが全知全能だよ。勘違いも甚だしいよ」

 こうして、松尾の妖怪「全知全能」は肩からぽろりと外れた。


 いつもならここで「不動金縛り!」の出番だが、今のシンイチにはその力が失われたままである。仕方なくシンイチは咄嗟に嘘をついた。

「皆さん、下がってください。山の神が安全に下山出来る儀式を行います」

 シンイチは黒い刃の短剣、小鴉を抜いた。炎は勿論出なかった。ただ皆には見えない妖怪を、四つに、八つに、みじん斬りにすれば、すぐには復活しにくいだろうと考えた。

 松尾は、まだ山下に抱きついて泣いていた。

 みなさんの協力もあって、とりあえずは一人の命が助かってよかった。そう思い、シンイチは安心した。

 突然、小鴉から炎があがった。

「うおっ!」

 皆は一歩下がった。しかし炎は安定せず、時々消えそうになる。シンイチは飛んだ。

「一刀両断! ドントハレ!」

 真っ二つに斬った。炎が弱い。縦に、横に、斜めに、小鴉を何度も走らせる。二刀両断、五刀両断。十刀両断。妖怪「全知全能」にようやく火がついた。湿った木切れに火をつけるようだった。

 妖怪「全知全能」は一気に炎に包まれ、清めの塩となった。


 雨が晴れてきた。まるで天狗の炎の舞が、太陽を呼んだかのようだ。

 折れて茶色に変色した葉団扇を拾い、千里眼を返してもらい、シンイチとネムカケは当初の目的地へ飛んだ。



 後日。再び高尾山に登りなおそうと、四人はまたも高尾山口で待ち合わせた。今度は松尾はフル装備でやってきた。テントに飯盒に、寝袋に毛布に、アメフト用のヘルメットに剣道の胴に、手足のプロテクターに。

 皆は苦笑いした。

「超重い」

 松尾も笑った。


    6


 元・玄田のあの窯に、再びシンイチはやってきた。主のいなくなった掘立小屋は、埃がうっすらと積もっている。家は、住む人がいなくなると急に廃墟になるという。

 どうして天狗の力が出なくなったのだろう。小鴉から炎が出たのは何故だろう。

「さっき、一人の命が助かって良かったと思ったら、火が出たんだ」

「ふむ。次もそれで火が出るといいが」とネムカケは答える。

 今小鴉を抜いても、やはり何も出ない。ただの小太刀にすぎない。

「……大天狗に相談すればいいのかな。もう一度修行しに、遠野へ行った方がいいのかな? このままじゃオレ、妖怪『不安』に取り憑かれちまうよ」

 シンイチは遠野を見ようと千里眼を覗いた。その瞬間、金色の千里眼はぼろぼろと錆びて、粉々に崩れてしまった。

「うわ! 何で? 何で?」

「分からん。『天狗の力』に限界があるのか……それとも……」


 シンイチの天狗の力は失われた。葉団扇と千里眼も壊れた。天狗七つ道具は、残りこれだけ。

 ひとつ、小鴉。さっき火は出たが今は出ない。

 ふたつ、一本高下駄。

 みっつ、かくれみの。

 よっつ、「天狗の力」を増幅する天狗面。

 いつつ、ひょうたん。



 シンイチは、心の迷路に迷いこんでいた。

 何の為に天狗の力を使うのか。

 てんぐ探偵は、何の為にいるのか。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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