第42話 「夏祭りの記憶」 妖怪「ボケ」登場
1
心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる
天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う
てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る
「
「はい?」
「お昼よ」
「……」
「……お昼、まだ?」
「お義母さん、いやだ、さっき食べたじゃないの」
「あら、……そう?」
「おそば、少なかったかしら」
「ああ。……そうね、おそばね。……いえ、少なくなかったわよ」
「ボケる? 母さんが? ……まさか」
「だってお義母さん今日お昼食べてないって言い出したのよ? 急によ? 食べたことなんて普通忘れる?」
主人の
「そういうこともたまにはあるだろ。物忘れなんて歳だし、よくあることさ。俺たちだって、人の名前や電話番号とか、全然出てこなくなって笑われるじゃないか」
「……物忘れならいいんだけど。でもね、『身内に限って』って思いが目を曇らせることもあるでしょう?」
「……一回じゃ分からんだろ。何回か頻繁にあったら、考えよう」
「……そうね」
問題の先送りは、この場合適確な判断ではなかった。この異変は、老人性アルツハイマー、いわゆる認知症のせいではなく、心の闇「ボケ」が取り憑いたことによるものだったからだ。
妖怪「ボケ」の取り憑いた志乃は、次の日の散歩の途中、ふと自分がどこにいるか分らなくなった。
「……おや。ここに畑があった筈だけど」
昔あった畑は十五年前に駐車場になり、八年前には白い高層マンションになった。その認識が、志乃の中からすっぽり失われたのだ。彼女にとっては、ここが畑である時間の方が遥かに長かったからだ。
「おばあちゃんが散歩から帰って来ないのよ。
娘の果純の帰宅に、満江は噛みつくように頼みこんだ。大学の課題を家でやろうと思って早目に帰宅した果純は、面喰らった。
「えー? 課題やろうと思ってたんだけど」
「あのね。……言いにくいんだけど、おばあちゃん、ボケがはじまったかも知れないの」
「嘘」
「こないだ昼ごはん食べてないって言い出したし」
「……単なる物忘れってことは?」
「そう思ってたけど、この時間になって帰って来ないなんて今までなかった。嫌な予感がする」
「どっかで誰かと会ってたりして、遅くなることは?」
「そうだといいんだけど、もしかして道が分らなくなるとか」
「事故にあって病院とかは?」
「もう電話して確かめた」
「……探しに行くしか、ないのか」
二人は家を出た。
「いつもどこ歩いてるとか、分る?」
「分んないわよ」
「家出て、まず右? 左?」
「……それすらも」
「じゃあ母さんは右、私は左探す。ケータイ持った? 何かあったら電話して」
厄介なことになった、と果純は思った。課題は今日中に終わらないだろうな、と。ボケたかも知れないおばあちゃんを捜索して宿題出来ませんでした、なんて教授は認めないだろうな、とも。おばあちゃんは本当にボケたのだろうか。あの溌溂たるおばあちゃんが? 彼女の気持ちになって考えてみよう。一体どこへ向かうのか。どこか目的地があるのか。この先には何がある? 河原。図書館。公園はあったかな。友達の老人はどこに住んでたっけ。お腹すいたな。晩ごはん、これじゃまともに食べられないな。果純は思った。どこかたべもののあるところにいるかも知れない。
母の満江からケータイにかかって来た。
「いた?」
「全く。道に迷ってるのかな」
「だっておばあちゃん、ずっとこの町で育ったのよ? 道を忘れるって、ある?」
志乃の亡くなった夫、つまりおじいちゃんの
果純は歩きながら、祖母の行方について考えを巡らせていた。どこか食べ物のある所……。
「このスイカは、まだ出来てないよ! 夏までまだ早いでしょ!」
シンイチは、しゃがみこんでスイカ畑から離れない、志乃を説得しようとしていた。
ネムカケとともに郊外の町をパトロール中、妖怪「ボケ」の取り憑いた彼女と出会ったのである。
「そうかい。お前はわしの孫かい?」
「だから、シンイチだって言ってんじゃん! おばあちゃんは、妖怪に、取り憑かれてるの!」
「妖怪だって?」
「そう! 妖怪『ボケ』って言って、なんでもかんでも忘れさせてしまう妖怪なんだよ! さっき説明したでしょ!」
「そうかい」
ネムカケはシンイチに囁いた。
「それを忘れるのも、『ボケ』の力かも知れんぞな」とネムカケは言う。
「……たしかに! ほっといたら、何もかも忘れちゃうんだよ! おばあちゃん!」
志乃は、畑のスイカを眺めている。
「大きな丸々一個になるまでには、確かにまだちっちゃいわ。美味しくなるまでだいぶあるわねえ。私ね、昔スイカ泥棒をしたことがあるの」
「え? だめでしょそんなことしちゃ!」
「お父ちゃんがね、スイカが食べたいって言ったから」
そう言って周囲を見た志乃は、ふと我に返った。
「おや」
「どうしたの?」
「ここがその畑だと思ってたけど、どうやら違う畑のようだわ」
「?」
「中谷さん家の畑は、どこへ行ったのだろう」
志乃は立ち上がり、辺りを見回した。
「ここは……どこ?」
「おばあちゃん、道に迷ったの?」
「うーん、どうやら、そうみたいねえ」
「おばあちゃん、名前は?」
「藤田志乃と申します」
「家は?」
「……だから、中谷さんの所の畑を右に曲がって、柿の木を左に……」
「ここは中谷さんの畑じゃないんだね?」
「そうみたいね。……私は、道に迷ったのね?」
「やっと自覚したのかよ!」
妖怪「ボケ」の取り憑いた志乃を、シンイチは家へ届けようとした。手がかりは中谷さんのスイカ畑と柿の木。
そこへ孫娘の果純が走って来て、二人を見つけた。
「おばあちゃん!」
良かった、家族の人か、とシンイチが安心する間もなく志乃が言った。
「おたく……どなた?」
「え? 孫の果純でしょ? 顔も名前も忘れたの?」
志乃は、知らない人を見て怯えるようにシンイチの陰に隠れた。
「おばあちゃん! 家族の人だよ! 家探す手間省けたよ!」
「ホラ、帰るわよ! 家帰れば思い出すかも!」
と、果純は志乃の手を引いた。
「やめてよ! 私をどこへ連れてくつもり! 恐いわ!」
志乃は全力で抵抗した。
「あなたは誰よ!」
「……おばあちゃん、ほんとうにボケが始まっちゃったの?」
シンイチはそれを否定して、果純に言った。
「いいえ。このおばあちゃん、妖怪『ボケ』に取り憑かれてるんです」
「……妖怪?」
2
「妖怪『ボケ』? 認知症じゃなくって?」
一家の主、志乃の息子である敏男は、すっとんきょうな声でシンイチに確認した。志乃を囲むように満江、孫娘の果純。全員が食卓に集まる。
「ハイおばあちゃんチーズ!」
シンイチは腰のひょうたんからポラロイドカメラを出した。妖怪はデジタルには写らず、アナログフィルムに写ることがある。志乃の写真を撮りしばし待つと、フィルムに像が浮かび上がってくる(両手で暖めると反応が速くなって早く現像出来るって、
「おっ! 今回はハッキリ写ってる!」
家族は写真をのぞきこんだ。笑う志乃の左肩に、藤色の妖怪が写っている。白目をむき、口を開けた白痴のような顔。その心霊写真のような妖怪写真を見て、敏男、満江、果純は声を上げて驚いた。
「早くこの妖怪を退治しないと、おばあちゃん、何もかも忘れてしまうかも知れないんだ」
「そんな馬鹿な」と、敏男はまだ信じられない。
「認知症じゃないのね? 妖怪のせいなのね?」と満江は確認する。
「おふくろ、孫を忘れたって嘘だよな? うっかりしただけだろ? 暗くなってたから分らなかっただけだよな?」
志乃の様子がおかしいのに気づき、敏男は言葉をそこで止めた。
「あなた……どなた?」と、志乃はまた怯えはじめたのである。
「どなたって、……息子の敏男だろ」
「敏男は、まだこんなちっちゃい子供よ。あなたは誰」
志乃は手で示した。どうやら、その時代まで記憶が戻ってしまったのか。
「俺も、……忘れたのか」
「どうして知らない人ばかりうちにいるのよ?」
シンイチは、慌ててフォローした。
「ばあちゃん道に迷ってて寂しそうだったからさ、オレ、友達連れて来たんだ!」
「おや、そうなのかい」
志乃は少し安心したようだ。何故だかシンイチの笑顔は、人を安心させる力がある。
「旦那さんと敏男ちゃんは、用事で今晩中谷さんちに泊まるって!」
「そうなの。お腹は減ってない? ごはんつくろうか」
満江と敏男は顔を見合わせて驚いた。何十年も、ごはんつくるなんて言ったこともなかったのに。
「ごめんねえ。こんなにお客さん来るなら、スイカでも用意しとくんだったねえ」
志乃は、里芋の皮を剥きながら言った。
「中谷さん家のスイカ畑を探してたみたい」と、シンイチは敏男に小声で報告した。
「中谷さんは随分前に畑を潰して、今はマンションだよ」
「柿の木は?」と志乃は聞いた。
「その時に切ってしまったよ」
「そうなのかい。道理で見つからないはずだわ」
志乃は魚を焼きはじめた。
「妖怪『ボケ』に取り憑かれると、どうなってしまうんだ?」と敏男は小声でシンイチに聞いた。
「……色々忘れてしまうんじゃないかな。果純さんのことも、実の息子のことも忘れてるみたいだし、スイカ畑がなくなったことも忘れてしまったんでしょ?」
「おふくろは、俺を忘れ、何もかも忘れてしまうってこと?」
「たぶん。どうして心の闇に取り憑かれたんだろう。それが分かれば退治の仕方も分るかも知れない。たとえば辛いことがあって、それを忘れたいとか思ったのかな」
「……まさか、あの缶かしら」
思い当たる節があったのか、満江は席を立ち、仏間の錆だらけのクッキーの缶を持ってきてシンイチの前に開けた。
「……なにこれ?」
ぼろぼろの赤い破片だった。透明のプラスチック状で、シンイチがつまむとぱらりと割れて崩れた。
「昔のセルロイド製だからな。経年劣化するとこうなるのか」と敏男は言った。
「これ何か知ってるの?」
「……あの赤い
「お義母さんの、大事なものなんでしょう?」と満江が聞いた。
「おふくろの旦那、つまり俺のおやじが夏祭りで買ってきた、って何度も聞かされたよ。夏祭りの赤い風車。……おふくろはおやじにプレゼントなんか貰ったことなくてさ、多分これが唯一のものだよ」
「それがこうなってるのを見たら、さぞショックだろうね」
食卓からは和室の仏間が見える。仏壇には、志乃の夫である研二の遺影があった。
「ねえ、あのおじいさんの好物はスイカだった?」とシンイチはたずねた。
「どうして知ってるの?」
「やっぱりな。昔、スイカ盗んだことがあるって言ってたよ」
「おふくろが? 初耳だなそんなこと」
「できたわよー」と、志乃のはしゃいだ声がした。
「みんなで食べるごはんは美味しいねえ」と、人が沢山いるので志乃のテンションは上がっている。
「スイカ盗んだ話聞かせてよ! 何でスイカ泥棒なんかやったの?」
とシンイチは聞いた。
「お父ちゃん……私の旦那さんがね、浮気をしたのよ」
敏男は味噌汁を吹いた。
「そんなことがあったのか!」
「へえ! それでそれで?」
「その浮気相手は、お父ちゃんの好物がスイカだって知ってたから、家にスイカが切ってある、って誘ったのよ。じゃあ私は一個丸々用意しようとして、夜に畑に忍びこんだわけ」
「なんだ、旦那さんに振り向いて欲しかったんじゃん!」
「まあ、そういうことだね」
志乃は笑った。
「愛してたんだね!」
「そうねえ」
志乃は寂しそうに遠くを見た。シンイチは慌ててフォローした。
「あ、この魚ウマイよ!」
「おや有難う。味噌汁は口に合うかね?」
「里芋入った味噌汁ははじめて! でもウマイ!」
「よかったよかった。今日はみなさん泊まっていきなさい。客間に布団はたっぷりあるから」
仏間にシンイチと敏男と満江と果純が、寝かされることになった。
「和室だから、旅館みたいだね!」とシンイチは布団を敷きながら言った。
「なんだかすまんね。変なことになってきた」
「全然! 妖怪退治がオレの役目だし! あ、家にはさっき電話したよ! 妖怪退治に理解ある親なんで、しっかり監視しろって! あ、宜しく伝えてくださいって!」
「そうか、よかった」
「ねえねえ! トランプとかやろうよ!」
シンイチはすっかりはしゃいで、修学旅行のような一夜をすごした。ネムカケは女子大生果純の膝の上で可愛がられて満足した。
寝る前、布団の中で敏男は尋ねた。
「どうやったら妖怪を退治できるんだ?」
「うーん。亡くなった旦那さんのことを思い出したのかな。それとも『忘れたい』って思って、『ボケ』に取り憑かれたのか。……天狗のかくれみので変身して、おじいさんになりすませばいいのかなあ」
「おやじを良く知らんだろ。すぐばれるよ」
「確かに」
妖怪「ボケ」は、それほど大きくなく、急な危険はなさそうだ。妖怪を斬れば志乃の記憶は元に戻るのだろうか。もし何もかも忘れたら、どうなってしまうのだろう。取り殺すまでにはまだ時間はある。長期戦になるかなあとシンイチは予測しながら眠りに落ちた。
だが事件は次の日に起こった。志乃が、再び行方不明になったのだ。
3
朝からシンイチは志乃に思い出話を色々聞いていた。どこまで覚えてるかを確認するためだ。昼ごはんを食べ終えた午後、全員の目が偶然外れた瞬間があった。満江はGPSつきケータイを志乃に持たせる為買いにゆき、果純は大学に行き、シンイチはトイレに行き、ネムカケは居眠りをうっかりし、敏男は宅配便を玄関で受け取っていた。
「お父ちゃんが、帰って来ない」
突然、志乃は不安にかられた。
「お父ちゃんが帰って来ない。事故にあったんじゃないかしら。車に跳ねられて、どこか見つからない溝にでも嵌って、助けてくれ、助けてくれ、と言ってるのじゃないかしら」
志乃は、居ても立ってもいられなくなった。
「探しに行かなきゃ。お父ちゃんが私に、助けを求めてる」
シンイチがトイレから戻り、ネムカケが居眠りから目覚め、敏男が宅配便を居間に持って来て、志乃が消えたことに気づいた。
「おふくろ!」
「おばあちゃん!」
手分けして探した。シンイチは腰のひょうたんから、遠眼鏡「千里眼」を出して探したが、勝手の分らない町でどこをどう探してよいか分らない。敏男は満江にも果純にも連絡を取り、老人会にも連絡を取った。
志乃は町をさまよっていた。自分の町にいたはずなのに、周りの風景は急に違っている。スイカ畑はなく、角の煙草屋も柿の木もない。お父ちゃんを迎えに行こうにも、自分がどこにいるかすら分らない。
「お父ちゃん……どこだい? お父ちゃん……どこだい? どうして帰って来ないの? ……私といるのが嫌なの? 私よりその女の方がいいの? 私を捨てるの? 私を、忘れるの? ……私の町はどこへ行ったの? ここはどこ? みんなに忘れられてしまったの?」
日が沈んできた。風が冷んやりとする。夜が来る。老人の体力で野宿はきついだろう。早く家に帰さねば。
「ちくしょう!」
シンイチは一本高下駄で町の上空へ飛んだ。上から見ても発見出来ない。
「天狗の力は、何の為にあるんだ!」
近所の人も総出で探すことになった。目撃情報も尽きた。懐中電灯を持ち、河原の葦を分け入って探す組。山へ行こうかと準備する組。
「老人の足だ! 遠くまでは行けないだろ!」
ついに夜が来た。
警察へ捜索願いを届けるべきか家族は迷った。敏男が言った。
「おふくろの気持ちになって考えるんだ。結婚したころ、俺の生まれたころまでの記憶は確かにあった。それ以降の記憶が失われたとすると、その頃からここにタイムスリップしてきたと想像するといいんだ。俺が子供のころの町と、今の町では全然変わった。中谷さん家のスイカ畑はもうないし、北川のばあちゃんの駄菓子屋も随分前に閉めた。千田さんの牛乳屋は更地になって、今は外人の家だ。お化け桜も切り倒した。ボウリング場もないし、寿司屋は今駐車場。おふくろからしたら、知ってる所はどこにもないんだ。不安だろ。知らない町ならあきらめもつくけど、知ってる町なのに分らないんだぜ。幽霊みたいな感覚だろ」
七十年その町で生きれば、最初はこうだったのに次はあれになり、という記憶は、次々にふり積もるように更新されてゆく。今の目の前の町はひとつだが、そこで七十年生きた人にとっては、町は記憶の地層のようにある。
「……昔からまだあるものって何?」とシンイチは聞いた。
「小学校は隣町と合併してなくなった……市役所は移転、公民館は閉鎖……ゲーセンも映画館も、パチンコ屋も潰れた……」
敏男ははたと気づいた。
「あ。山の上神社!」
里山の頂上を、そう言って指さした。
「神社か! それなら確実だ!」
黒々とした小さな山が、闇の中に浮かんでいる。シンイチは千里眼で山の頂上の神社を探した。
「いた!」
神社の小さな祠の陰で、志乃はしゃがんで震えていた。
「神社の祠だ!」
「まさか!…… 老人の足で、千段の石段上ったのかよ!」
シンイチは一本高下駄で、いちはやく山の上神社に飛んだ。
「おばあちゃん! 探したよ! 夜だよ! 家へ帰ろうよ!」
志乃は怯えきって、パニック状態になっている。
「なんだい? あんたは誰だい? どうして神社以外全部変なんだい! 神社以外どうして全部変わってしまってるんだい! お父ちゃんは一体どこへ行ったんだい!」
「オレ、シンイチ! きのうスイカ畑で会って、焼き魚と里芋の味噌汁つくってもらったじゃん!」
「知らない」
「知らないって……覚えてないの?」
志乃の目は、嘘をついているようではなかった。肩の妖怪「ボケ」は、巨大に膨らんでいる。
シンイチは彼女の気持ちを想像した。さぞ恐いだろう。自分の周りにあるものが順番に消えていく恐怖。いまある確かなものもなくなっていく恐怖。
「おふくろ!」
千段の石段を上って、敏男と満江と果純がやって来た。
「帰ろう! 家に帰ろう!」
「……あんたたちは、知らない」
志乃は怯えた目で全員を見た。
「知らない家には、帰らない」
シンイチは天狗のかくれみのを出して、旦那さんに化けようとした。敏男がそれを制し、前に出た。
「志乃」
敏男の声色が変わった。低く威厳のあるような声だった。
「……どなた?」
「……主人の顔を、忘れる嫁がいるか!」
物真似だった。父、研二を、敏男は必死で真似たのだ。
「お父ちゃん?」
「そうだ」
「お父ちゃん! 無事帰って来れたのね!」
「そうだ。儂はちゃんと帰って来る。お前の元に帰って来るぞ」
「嘘よ。じゃあ、あの夏祭りの日、どうして帰って来なかったのよ!」
「む?」
「私は敏男を連れて、あなたと行くつもりでずっと待ってたのよ! 新しい浴衣もこさえて! なのにあなたは朝まで帰って来なかった! 私、知ってるのよ! あの女の所へ行ったんでしょう? スイカ切って待ってる女の所へ行ったんでしょう? だから朝まで帰ってこなかったんでしょう? 私を忘れたんでしょう?」
「しかし。……しかし、儂は朝にはちゃんと帰って来たではないか。お前の元に帰って来た。お前を忘れる訳ないだろう」
「どうせ私が盗んだスイカ目当てなんでしょ」
「む……そうかも知れん」
「やっぱり!」
「ち、ちがう。スイカが目当てなのではなく、お前が中谷さんの所からわざわざ盗むまでしたことを、知っていたから……」
「どうして中谷さんのスイカって分るのよ!」
「わ、分る。儂はなんでも知っている」
志乃は敏男の演じる研二を、疑いの目で見ている。形勢不利か。
敏男は足元に落ちた木の枝を拾って、志乃に見せた。
「夏祭りに行ったのはな、この風車を買う為だったのだ」
「嘘おっしゃい!」
「嘘じゃない。赤い風車が、お前に似合うと思って」
「……」
「あの女には似合わん。赤い風車は、お前に一番似合う」
敏男は必死に、父の笑顔を真似てみせた。
「ああ! ……ああ!……」
それは、妖怪「ボケ」が見せた幻かも知れない。彼女のパニックによる幻覚かも知れない。
手に持った木の枝は、夏祭りで買った赤い風車だった。結婚する前にはじめて二人で夏祭りに行ったとき、研二が志乃に買った赤い風車だった。「お前に似合うと言われた」という話を、敏男は何度も何度も、子供の頃聞かされた。その赤い風車だった。
志乃の目にははっきりと見えた。あの日の神社の夏祭り。暗い中に照らされたお面の屋台。浴衣姿の夕涼みの人々。金魚すくい。沢山売られている風車。一陣の風が吹き、すべての風車がくるくると回った。
「赤い風車が壊れてもな、また買えばいい」
「そうなのよ! あの風車が壊れて無くなってしまったのよ! それで私は寂しくて寂しくて……」
「風車が大事か? 儂が大事か?」
「あなたに決まってるじゃない!」
敏男は笑った。写真の父にそっくりな笑顔だ。
「ただいま、志乃」
「お帰り! お帰り! ずっと待ってたの! ずっと会いたかったの! 私を忘れてしまうんじゃないかって、ずっと恐かったの!」
「馬鹿。お前のことを忘れる訳ないだろう」
「赤い風車が、ぼろぼろぼろぼろ、手の中から崩れ落ちたの! お父ちゃんのことをみんな忘れていくの! 私の町もみんな忘れていくの! スイカ畑があったことも、柿の木があったことも、……風車も、私がここにいたことも!」
志乃は声を上げて泣いた。迷子の女の子が、父親に見つけられて、安心して堰を切ったように泣く声だった。
「私を忘れないでね! 私を忘れないでね!」
志乃は、研二である敏男に抱きついた。こんなに泣くおふくろを見るのは、敏男ははじめてだった。ずっと背中を撫でていた。ずいぶん小さな背中になったなあ、と思った。
「お前の所に、必ず帰る」
泣き疲れて志乃が安心したころ、彼女の肩から妖怪「ボケ」は外れた。
「不動金縛り!」
シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。
「つらぬく力!」
左手から「矢印」を出し、空中に「ボケ」を固定した。
彼女に見えた夏祭りの記憶は、シンイチにも見えていた。お面の屋台の中に天狗の面があって、天狗の記憶も、日本人の中に代々記憶されているのだろうかと思った。
「火の剣! 小鴉!」
シンイチは火の剣を抜いた。この神社はどれくらい前からあるのだろう。どれ位の夏祭りが、地層のようにふり積もった記憶なのだろう。
「一刀両断! ドントハレ!」
妖怪「ボケ」は四散し、炎に包まれて塩となった。
終わってみれば、それは遠い夏の日のような事件だった。
シンイチとネムカケは、またまた郊外の町をパトロールしている最中、スーパーマーケット帰りの敏男に偶然出くわした。
「丁度良かった。温室ものだけど、早生のスイカが出てたんで買ったのさ。家で切るから寄ってってよ」と、敏男が声をかけた。
「おばあちゃん、あれから元気?」とシンイチは無邪気に聞いた。
「実は、あのあと本格的にアルツハイマー症にかかっちゃってね」
「えっ」
「まあ歳だし、しょうがないよね。でも、あの時ほど忘れていくスピードは速くなくて、楽だよ。ある意味いい予行演習だったというか」
敏男の話によれば、あの時の風車代わりの木の枝を、志乃はまだ仏壇に供えているのだそうだ。そして、ふとした時に記憶が戻ることがあるという。突然、あの日のことを思い出して敏男に言ったのだという。
「あの時の敏男は、ほんとうにお父ちゃんの芝居が上手だったねえ」と。
「えっ。全部ばれてたの?」
「ははは。どうもそうみたいでね。おふくろにはかなわんよ。しかもね、こうも言ったんだ」
「なんて?」
「お父ちゃんはどこかへ行ってしまった訳じゃない。お前の中にも、孫の果純の中にもいる。お父ちゃんに貰ったのは、お前らだ、ってね」
家の門前で、「またお父ちゃんが帰って来ない!」と志乃が探しに行こうとするのを、満江と果純が止めていた。
「施設に入れないで、なるべく一緒の時間を過ごそうと思って。ドタバタして大変だけど」
まるでコントのように、果純が志乃を羽交い絞めにしている。
敏男は笑ってみせた。
「まあ、ドタバタするのが家族だし」
スーパーの袋を高々と掲げて敏男は叫んだ。
「スイカ、盗んで来たよ!」
暴れる志乃の動きが、ぴたりと止んだ。
てんぐ探偵只今参上
次は何処の暗闇か
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