第31話 「最も不幸な男」 妖怪「一発逆転」登場



    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



 その夜シンイチはネムカケを膝に抱き、父のハジメの晩酌につきあって野球のナイター中継を見ていた。

「打てよ……打てよ……何だよおおお!」

 ビールも入ってテンションの上がったハジメは試合に夢中だ。今夜は横浜球場での、横浜ベイスターズ対阪神タイガース戦。0‐3で最終回へ突入し、このまま猛虎打線を抑えれば勝てる試合だった。

 母の和代はつまみのベーコン焼きマスタード添えをつくって持ってきた。シンイチはこっそり手でつまんで和代に怒られ、ネムカケは猫舌なので冷めるまで大人しく待っていた。ハジメが横浜を応援するので、シンイチはなんとなく逆の阪神を応援したくなる。

 パカーン。

「大きい! 大きい! 入るか? 入るか? 入ったあああ!」

 阪神の四番がフルスイング。たった一発で逆転満塁ホームランを放った。

「うわああああ」とハジメのテンションは急落し、シーソーのように、「うおおおおお」とシンイチのテンションは急上昇する。

 試合は4‐3と阪神の逆転勝利。落ち込んだハジメは風呂に入り、和代は洗いものに台所に立った。シンイチは二人がいなくなったので、ネムカケに興奮気味に話しかけた。

「野球の一発逆転ってスゴイよね! サッカーは一点一点積み上げなきゃいけないけどさ、たった一発で四点も入っちゃうもんね!」

 ネムカケは、周囲に人がいない時はシンイチと喋る。

「人間はつくづく、面白いゲームを考えるのが上手いのう」

「これ癖になっちゃうよね! 毎回毎回一発逆転が来ないか、期待しちゃうよ!」

「ほほう。それでは一発逆転病になっちまうぞ」

「確かに! 『心の闇』に取り憑かれる隙間を生んじゃうよね!」

 テレビでは、阪神ファン達が「六甲おろし」を歌って狂喜乱舞している。妖怪はデジタルには映らない。だからこの時点ではシンイチは気づかなかったのだ。その観客の中に、妖怪「一発逆転」に取り憑かれた男、原田はらだけんがいたことに。


    2


 原田健は、面白くない大阪人である。

 これは言語矛盾ではない。大阪人が全員お笑い芸人のように面白く、常に爆笑を呼ぶとは限らない。驚くべきことに、「面白くない大阪人」というのが大阪には何パーセントか存在する。それは、「足の遅いケニア人」や「女を口説くのが下手なイタリア人」がいるのと同じことである。分母の上には、分母の下がいるのだ。


 原田は今まで、誰も爆笑させたことがない。笑ってくれたのは子供の頃の家族だけだ。それは家族なりの愛だったのだと、原田は長じるにつれ理解する。

 一歩外へ出れば、笑いに厳しい風が吹きすさぶ、大阪とはそういう土地である。誰もが「オマエどんだけオモロイの?」と知らない人の顔をのぞきこむ。オモロイか、オモロくないかが人の価値である。大阪では、一番面白い奴からモテる。一番面白い奴から運が向き、年長者にひいきされ、スターになる。つまり原田は、人生の落伍者だ。

 中学ぐらいまでは笑いの才能が逆転することもあるが、高校生ともなればランキングは変動しない。

 原田はだから、東京の大学へ進んだ。誰も自分を知らないところで一旗揚げようと思ったのだ。妖怪「一発逆転」が原田に取り憑いたのは、おそらくこの時だろう。彼は東京で、ほとんどの大学生と同様、「人生の一発逆転」を狙ったのだ。


 東京では、関西弁をただ喋るだけで面白いと勘違いされる瞬間がよくある。文脈関係なしに「なんでやねん」と言うだけで「面白い!」と笑いが起きることがある。

 ぬるい。原田はここでなら一発逆転が狙えると思い、お笑いの学校へ通うことにした。

 だがその学校の頂点は、原田が一生勝てない奴ら、すなわち、「昔から面白い勝ち組」たちだった。

「なんでやねん」は、単発では存在しない、実は高度なコミュニケーションである。

「おう、おごったるわ。……あ、お前の分しか金ないやんけ。代わりにおごって!」

「なんでやねん!」

 上手なボケとはそもそもツッコミ待ちのボケだ。ボケはツッコミを呼ぶためにあり、ツッコミは次のボケを呼ぶためにある。いわばこれは言葉のパスなのだ。パスしてパスして、場をヒートアップさせる。笑いとはコミュニケーションなのである。

 だが、人付き合いの苦手な原田はそれをしなかった。原田は一発逆転しなければならない。「なんでやねん」では並だと考えた。

「おう、おごったるわ。……あ、お前の分しか金ないやんけ。代わりにおごって!」

「ビヨビヨボミョーン」

「???」

 それは誰からも理解されず、誰も友達は出来なかった。原田は従ってコンビを組めず、ピン芸人をやった。しかしそれも誰からも理解されず、原田はお笑い学校を辞めた。

 人生の一発逆転は、次に就職活動に求めた。一流企業ばかり受け、学歴を詐称したがひとつも受からなかった。親戚の紹介で大田区の小さな工場の事務に滑りこんだが、合コンでモデルやタレントの卵ばかり狙い、落ちた一流企業の社員を名乗り、なけなしの給料をためては一発勝負に出て惨敗をくり返した。

 会社内の新商品アイデアでも、「右手で右手の爪を切れる爪切り」「五角形のスマホ」など、原田が出すものは苦笑いしか生まれなかった。


 妖怪「一発逆転」は、的のような形をしている。白、水色、赤の同心円の顔の中央に、金色の一ツ目が輝く、弓道の的のような形だ。人生の一発逆転を原田が強く願うとき、妖怪「一発逆転」はぶくぶくと膨れ上がる。原田が勝ったと思えば「一発逆転」はしぼむ。

 実際の所、何年も取り憑いた肩の「一発逆転」は、巨大な妖怪にまで成長はしなかった。人には幸不幸があり、均すと大体誰も同じようなものだと言う。大きく成長しなかったことを見る限り、原田の人生も、案外普通だったのかも知れない。



 かくして今夜の原田は、阪神タイガースの一発逆転に少しだけ溜飲を下げ、満足の帰り道についた。酒の勢いも手伝ったのだろう、街角に出ている占い師が気になり、自分の運勢を見てもらおうとどっかと座った。

「あんた、不幸だね?」

 原田の顔を見るなり、人生の皺を刻み込んだ老婆の占い師は言った。

「はん。どうせここに来る男は全員不幸だ。誰にでもそう言って、一発目から信用されようとしてるな?」と、原田は端から占い師を信用していない。

「どうでもいいさ。人生に一発逆転なんかないよ。コツコツと生きることさ」

 老婆は原田の手相を眺めながら言った。

「いつ俺は成功するんだ? どんな成功をするんだ? 俺の一発逆転はいつだ?」

 占い婆は手相を見、タロットを広げ、紫の別珍の上に乗った水晶を覗き込み、お告げを述べた。

「ずっと不幸さ。何もない。豚の群れに追われて、孔雀が笑って羽を広げるぐらいの事がない限りね」

「なんだそりゃ。そんなことある訳ねえだろ。動物園にでも転職しろってことか」

「分らんよ。霊界からのメッセージを読み取ったまでさ。ハイ二万円」

「ハア? 高すぎだろ。そんなあり得ないお告げに金なんか払えるか! これで十分だろ!」

 原田はポケットを探り、入っていた小銭百三十円を叩きつけた。

「……この客は前金にすべき、って占ってから話をはじめるんだったかね?」

「ちっ。嫌味なババアだ。阪神勝利のご祝儀にとっときな」

 原田は小銭をポケットにしまい、財布から二万円を出して叩きつけた。

 豚に追われて孔雀が羽を広げる? あるわけねえだろ、そんなこと。


    3


 この不況の波は、原田の会社のような小さな工場も直撃している。社は給料を減額し、この波を耐えていこうとなった。ここで一発逆転を狙うことが、益々現実的ではなくなってきた。一生この地味な事務職で食っていくのか、いい女とも付き合わず、豪邸に住むこともなく、毎日笑って暮らすこともなく。


 原田はコンビニのATMで今月の給与を見てため息をついた。阪神勝利の一夜から明け、今日は給料日。貯金の全額は百万と少し。十二年、なんとなしに貯めて、なんとなしに使って、残りの金といった程度の額。これが俺の人生の評価額か。

 原田はその数字をしばらく見つめ、思い切って全額を下ろすことにした。銀行で手続きをし、生涯で貯めたすべての現金を一円残さず受け取った。妖怪「一発逆転」が、それを見て膨れ上がり始めた。


 内ポケットに一万円札百枚が入っている。それだけで原田の目の色は異様だ。今誰かにそれを知られて襲われたらどうしようと疑心暗鬼になり、しかし自分は何にでも金を使えるのだぞと気が大きくもなった。

 目的地は、商店街のパチンコ屋だった。

 原田はこれまで博打などしたことがない。人生で一発逆転を狙う大博打をしてきたからだ。だが自分の人生の先が見えてしまった以上、逆に今日が吉日だと考えた。ここで一発逆転だろ。ビギナーズ・ラックというものが人には一度だけあると聞く。だとしたら、この吉日の一回目だけは勝てるのではないか。原田は、形のない女神に心頼った。


 四時間後、グロッキーになった原田が扉を開けて出てきた。たしかにビギナーズ・ラックという名の女神はいた。開始十五分後に彼女は来て、微笑み程度の勝ち四千円を授け、永遠に去っていった。その後、銀玉は黒い虚空へ呑まれ続け、原田は十二万円を失って出てきた。目はチカチカとし、電子音の幻聴が聞こえ、全身の毛穴や衣服から煙草の匂いがした。

「小さい勝負を波のように続けるからいかんのだ。デカイ勝負をしなければ」

 原田は競馬場へ向かうことにした。

その時、朱い天狗の面をした子供に呼び止められた。

「あなた、妖怪に取り憑かれていますよ」

「何だお前?」

 我らがてんぐ探偵、シンイチとネムカケの名コンビであった。


    4


「そりゃあ、したいさ。一発逆転したくない男が、この世にいるというのかい?」

 原田はシンイチの説明を理解したうえで、反駁した。

「そりゃなんだ、俺が今まで不幸な人生を送ってきたから、それをひっくり返すほどの幸せが来ない限り逆転とは認めない……それを考え直せってこと?」

「まあ、原理的には」

 シンイチは鏡にうつる、妖怪「一発逆転」を原田に見せながら答える。原田は、今までの自分の行動が自分のせいではなく、妖怪「一発逆転」のせいだと言われてもにわかには信じられなかった。

「日々の小さな幸せに感謝。お天気が良くて感謝。ごはんが美味しかったから感謝。店員さんにありがとうと言われたから感謝。そういう『小さいことに感謝教』の信者にでもなれと? 『小さいことからコツコツと』の人生に目覚めろとでも?」

「それが、唯一の正解じゃないだろうけどさ」

「冗談じゃねえ! 俺は今日、一世一代の大勝負をするって決めたんだよ! あと八十八万、馬に突っ込んで大化けするんだ」

「馬?」

「競馬に決まってるだろ!」

「やめなよ! ホラ、また妖怪が大きくなった!」

「知るかよ! 俺が勝ちさえすればこいつは成仏するだろ! 勝てば文句ねえ!」

 原田はシンイチの制止を振り切った。はずみでシンイチが転んでも、振り向きもせず駅へ歩き出す。ネムカケは呟いた。

「仕様がないのう。全く周りが見えとらん。三千年の昔から、博打に飲まれるタイプはこうと決まっとる。自分だけが勝てると思いこむ」

 シンイチはズボンの埃を払い、原田の後姿と肩の「一発逆転」を見つめた。

「……とにかく、後をつけよう」


 大きな競馬場に来た。小汚い大人たちが酒の匂いを漂わせて徘徊していた。シンイチは彼らの脇をすり抜け、天狗のかくれみので透明となって忍び込んだ。

 中が広くてびっくりした。緑の芝が目に眩しく、馬の走る地響きが恐かった。筋肉が異常に盛り上がっている、ボディビルダーみたいな馬も恐かった。うす汚れたコンクリートの観客席には、目が血走った大人たちが奇声を上げている。賭場の大人たちは、シンイチにとって初めて見る大人の姿だった。

「妖怪に取り憑かれるというより、この人たちが妖怪みたいな目になってるね」

「言い得て妙じゃの。その小妖怪から金を搾りとる胴元が真の大妖怪じゃがな」

 原田は競馬新聞を穴のあくほど見つめ、指で番号を押さえすぎて本当に穴を開けてしまった。最終レース、「7‐2」を、全財産一点買いに決めたからだ。

 鼻息が荒くなった。心臓の鼓動が早くなってきた。馬券を買う時には手が震えた。懐から出した現金の束を見て、周囲がざわついた。シンイチはかくれみのから姿を現して原田を止めた。

「やめなよ! それ全財産でしょ? 勝てる訳ないじゃん!」

「レースに出た者だけが、チャンスがある。レースに出なければ勝利すらない」

「完全におかしいよ! あんたが走る訳じゃないのにさ!」

 突然子供が現れたので、警備員が走ってきてシンイチを取り押さえた。

「原田さん! やめときなって!」

 原田は窓口から動かなかった。

「息子さんか何かですか?」と窓口の人は、この悶着を見ながら尋ねた。

「いえ。……知らない子です。無関係で迷惑してます」

「……額が大きいのですが、よろしいですか? 7‐2一点で」

 八十八万円。俺がだらだらと不幸に生きた証。原田はその現金をしばらく見つめた。それは間もなく一発逆転のビギナーズラックに大化けする。倍率十二倍で、一千万越えだ。

 原田は唾をゴクリと飲み込んだ。

「……はい」

 ファンファーレが鳴った。場内が静まり返った。ゲートが大きな音を立てて開き、十六頭の巨大馬が地響きを上げ、風のように走り始めた。

 シンイチは連行された事務室で再びかくれみのを被り、透明となって警備員たちから逃げ出した。

「シンイチ! こっちじゃ!」

 はぐれたネムカケがシンイチを呼びに来た。原田は、柵にもたれてコップ酒をあおっていた。目が血走っていて、妖怪の仲間入りを果たしたようである。

「原田さん!」

「もう遅え。払い戻しは出来ねえ。賽は投げられたんだよ。一発逆転か、否か」

「目を覚ましてよ!」

 観客席を埋め尽くす小妖怪たちは、目を吊り上げて獣のような雄叫びをあげている。十六頭の蹄は、死の運命のドラムを叩く。このうち殆どの馬券は、死ぬ。

「一発逆転! 一発逆転! 一発逆転!」

 7番も2番も、中盤の群れの中にいた。二頭が一位二位に入らなければ原田の全財産は紙切れだ。二周目。第二コーナー、第三コーナー、第四コーナー、最後の直線。7番も2番も遅れてゆく。

「ああああああああああああああああああああ!」

 原田は力の限り叫んだ。叫んで馬が速くなる道理などないが、小妖怪たちは全員があらぬ声で叫んでいる。阿鼻叫喚の地獄とはこのことだ。このうち殆どの馬券は死ぬ。

 どどどどど。

 あああああ。

 走り抜けた馬の群れとともに、全財産はただの紙切れとなった。

 呆けた間のあと、原田はコップ酒の残りを一気飲みした。


    5


 これでコツコツとした人生に目覚めるだけの授業料は払っただろう、とシンイチもネムカケも思った。だが原田は止まらない。

 深夜になって原田は会社へと忍び込み、パソコンを立ち上げ何やら操作をはじめた。

 シンイチが止めても、原田は何かに憑かれたように(否、実際妖怪に憑かれているのだが)、キーボードの操作を止めなかった。原田の肩の妖怪「一発逆転」は、昼間の大敗でしぼんでいたが、再び風船のように膨らみ始めた。

「もうやめなよ! 充分懲りたでしょ! 何をやるつもり!」

「うるせえなあ! 子供は帰って寝ろよ!」

「不動金縛り!」

 会社の事務室はぴたりと時を止めた。

「一体何をやってんのさ?」

 シンイチはネムカケに尋ねた。ネムカケはモニタを覗きこむ。

「これは株の取引きじゃな。しかも、FXときた」

「FX?」

「正式名称を外国為替保証金取引といって……」

「???」

「要するに、二十四時間眠らない世界市場で、素人が手出して大火傷する、ヤバイやつ」

「それ競馬よりヤバイの?」

「こやつの目を見れば分かるじゃろ」

 原田の目は濁って血走っている。再び「一発逆転」の興奮に襲われている顔だ。肩の妖怪「一発逆転」は、原田からの栄養をドクドクと受けて、一瞬のうちに一メートルに成長していた。

「マズイな」と、ネムカケはページの履歴を調べて気づいた。

「なに?」

「こやつ、会社の金を勝手に別口座に落として、FXにつぎ込んでおるぞい」

「えっ、それって」

「会社から一千万円盗んだのじゃ。横領じゃな。それで大博打を打とうってことか」

「どうしよう! そのお金を返せる?」

「今ここでクリックしても時が止まっておる。……というか、世界市場全体に不動金縛りはかけられんじゃろ。大天狗でもそれは無理じゃ」

 シンイチはこの場の金縛りを解いた。

「原田さん! すぐキャンセルして元に戻ろうよ!」

 原田は刻一刻と動く株式グラフから目を離さない。

「今キャンセルしたら、五十万の赤字だ」

「今キャンセルしたら、百万の赤字だ」

 目で見てもグラフが急激に下がっていくのが分かる。シンイチは胃が痛くなり原田にすがりついた。最悪の相場だった。逆張りか。否、皆が逆張りをはじめた。逆の逆か。

「もういいよ! 百万の赤字でやめときなよ! ごめんなさいって社長に謝ればいいじゃん!」

「……二百万……三百万……。いや、損した金を数えても、意味がない」

「どうやったら止められるの!」

「止めないよ。これは、俺の運試しだ」

 言い争いをしているうちに五百万が溶けてなくなり、計九百万が溶けて消えた。残り十万を切ったところで原田はあきらめた。

「……明日俺は、一千万の横領で捕まる。……ははは。一発逆転って、何だろうな」


 原田は表の空気を吸いに外に出た。

 自殺でもされてはたまらない。シンイチとネムカケは追う。真夜中の星が出ていて、街はもう眠っていた。

 誰もいない公園に、原田はふらふらとたどり着いた。ベンチに力なく座り、星を見上げた。

「あの星にそれぞれ惑星があって、それぞれに宇宙人が沢山いて、そいつらは勝手に幸せに生きていて、その中で俺が今最も不幸だな」


 と、向かいのベンチに先客がいることに原田は気づいた。夜の店の女であることは、化粧や服装から判断できた。その女は顔を覆って泣いていた。長い黒髪に黒いドレスだから、最初気づかなかったのだろう。

「なんで泣いてんの?」

 女は顔を上げた。不細工な女だった。濃い化粧が涙でグチャグチャで、さらに不細工だった。

「私、世界一不幸なの」

「ハア? 俺のほうが不幸だね。俺は宇宙一不幸」

「じゃ私も宇宙一不幸よ」

「俺の人生、何にもいいことなかった」

「私も何にもないわよ」

「モテずに故郷を捨て、一旗揚げられなかった」

「私なんか男に騙され続けて、転落人生」

「全財産すっちまった。会社の金を一千万使い込んだ」

「社長の愛人にされてたけど、その人は借金こさえて雲隠れ。借金は私が肩代わり」

「……俺のほうが不幸だろ」

「私のほうが不幸よ」

 原田は不細工な顔をあらためて見た。

「……そうだな。ブスの分そっちのほうが不幸だな」

「ブスは分ってるわよ」

 意表をつかれ、彼女は思わず苦笑いした。

「笑ったらちょっとましな顔じゃねえか。やっぱり俺のほうが不幸だわ」


 その時背後の大通りで、どんと大きな音がした。交通事故だ。酔っ払い運転の車が、タクシーに衝突したらしい。

「シンイチ!」とネムカケは叫んだ。

「うん! 助けに行かなきゃ!」

 二人は立ち上がった。

 と、その交差点にさらに大きなトレーラーが突っ込んできた。二重衝突だ。ブレーキは間に合わず、運転手は大きくハンドルを切り、トレーラーは横倒しになろうとする。

「ちきしょう! 不動金縛り!」

 シンイチはとっさに九字を切った。しかしトレーラーは重すぎて、横転が止まらない。

「くっそお!」

 シンイチは人差し指から「矢印」を出した。

「つらぬく力!」

 トレーラーを「矢印」でつらぬき、ワイヤーのようにしてブレーキをかけ止めようというのだ。シンイチは端っこを持って踏ん張ったが、どすんと着地させるので精いっぱいだった。

 はずみで、後ろの扉が壊れた。中には、干草まみれの豚たちがいた。

「えええええ?」

 トレーラーの中身は、養豚場から精肉場へ運ばれる豚だったのだ。

 パニックになった豚たちは、奇声をあげながら走り出した。群れの本能か、先頭の豚について猛烈に走り始める。豚の津波は、原田の座るベンチに横から体当たりしに来た。

「うわあああ!」

 原田は思わず飛び上がった。横にあった木に、豚たちを避けよじのぼった。暴れ豚は原田の尻に噛み付いた。

「ひいいいい!」

 原田は豚以上の悲鳴で、さらに上によじ登った。

 豚津波は、原田を置いて彼方へと去っていった。

 あとに残ったのは、木にしがみついた、尻丸出しの原田だった。その格好を見て、向かいのベンチの女は大爆笑をはじめた。

「あははは! 何それ! あはははは」

「なんだよ! ……笑ってんじゃねえよ!」

「あはははは。これが笑わずにいられる? だってその間抜けな格好! あはははははは。豚もおだてりゃ木に登るって言うけど、逆、逆! あははははは」

「……あれ?」

 と、原田は尻丸出しの格好で、ふと気づいた。

「どうしたの?」

 とシンイチは下から尋ねた。

「俺、はじめて人を笑わせたかも知れない」

「……えっ?」

「あははははは。あははははは」

 女の笑いはツボに入ったのか、なかなか止まらなかった。

 笑う彼女を、原田は特別な目で見た。

「俺、もっと彼女を笑わせたい」

 その瞬間、妖怪「一発逆転」が彼の肩から外れた。

「え?」

「俺……恋に落ちたみたいだ」

 妖怪「一発逆転」は闇に逃げようとする。シンイチは九字の印を切った。

「不動金縛り!」

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「一刀両断! ドントハレ!」

 夜の公園と原田の尻を照らした小鴉の炎が、「一発逆転」を斬り伏せた。「一発逆転」は清めの塩となり、四散した。



「私そろそろお店に戻らないと」

 彼女はベンチから立ち上がった。

「でもお店も今日限りで辞めるつもりなの。堅気になって働くから。……このドレスも店に返さなきゃ」

 彼女は両手を広げた。黒い袖に、孔雀の羽の刺繍があった。

「あ。……豚に追われて、孔雀が笑って羽を広げたとき」

 原田は思い出した。

 あの占いババア、当たるじゃねえか。

「ちょっと待ってよ。もう少し、話をさせてよ。なんなら店に行って指名するよ。……あ、俺全財産ないんだった」

 原田はポケットに手を入れた。占い師に叩きつけその後引っ込めた、百三十円の小銭が出てきた。

「缶コーヒーおごるから。……あ、でも金ないから、俺の分おごって」

「なんでやねん」

 彼女はもう一度笑った。



 禍福はあざなえる縄の如し、と昔日の人は言った。

 FX相場が翌日回復し、一千万円と百三十円になることを、この時の原田はまだ知らない。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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