第13話 「サッカーのにいちゃん」 妖怪「どうせ」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



「何故オレは、妖怪が見えるのか?」

 これは、シンイチが大天狗とネムカケと出会ったあの日から、ずっと心に抱いてきた疑問である。

 そもそもシンイチが心の闇「弱気」に取り憑かれたのは、跳び箱の時間に「このまま自分だけやめれば、失敗したことにならない」と小賢しいことを思いつき、それにとらわれたのが原因だ。

 しかし同じように妖怪「弱気」に取り憑かれた人は、ミヨちゃんや、屋上から飛び降りたあの人など、他にもいた筈だ。これまでシンイチは、様々な「心の闇」に取り憑かれた人に沢山出会ってきた。鏡で自分の闇は見えるが、他の人の闇までは見えない。シンイチだけが突然妖怪が見えるようになり、今も見えるのは何故だろう。あの「弱気」だって、「人間が見えるのは珍しい」と驚いていたし。

 普通の人は妖怪が見えない。幽霊と似たようなものかも知れない。だが霊能力者は沢山いるのに、妖怪が見える人がいないのは何故だろう。


 それを遠野での修行中、大天狗に聞いたことがある。

 大天狗は、巨大なぐい飲みに巨大なひょうたんから酒をついで、話をはじめた。

「修行を積んだ高僧には見える。歴史上、彼らは法力で妖怪退治をしてきた」

 大天狗は平安時代や鎌倉時代の、歴代の修行僧の話をしてくれた。また、無邪気な昔の人たちの中には見える者もいたという。

「じゃ何? オレって特別無邪気なの?」とシンイチは質問した。

「そうかも知れぬ」と大天狗は答え、二杯目の酒をついだ。天狗のひょうたんにはいつも酒がなみなみと入っていて、どれだけ呑んでも減らないという(ちなみにシンイチの腰のひょうたんは子供用である)。

「じゃ、なんかオレ馬鹿みたいじゃん」

「そうとは限らぬな。無邪気な心を忘れた現代人と違う、それは神が与えた才能だと思えばよい」

「才能?」

「誰にもない力は、それだけで特別な力だ」

「……そうかなあ」

「西洋人の考え方で、高貴なる者の義務ノーブレス・オブリージュというのを知っておるか」

「なにそれ」

「力のある者は、力を示す義務があるというものだ」

「?」

「貴族は普段は屋敷の中にこもっている。しかしいざ戦争があるならば、真っ先に最前線に立ち、力を示さなければいけない」

「なんで? ヒーローだから?」

「少し違うな。力のある者は、力を使う勇気を示せということだ」

「?」

「世の中には色々な力を持つ者がいる。足の速い者、頭の良い者、人々を導く力のある者。サッカーの上手い者、妖怪を見る力のある者」

「……妖怪を見る力のある奴は、その力を使えってこと?」

「そうだ。特別な力は、悪いことに使わず、正しいことに使う義務がある。力を持つ者を人は恐れる。悪いことに使うと誤解し、火あぶりにするだろう。屋敷にこもる貴族は、戦のときに前線に立つからこそ人々の上に立てるのだ。人々は認めてくれるからだ。お前の力は特別だ。その力には、高貴なる者の義務ノーブレス・オブリージュがあるのだ」

「……義務」

 大天狗はもう一杯酒を注ぎ、ぐびりと呑んだ。

「昔ながらの伝統的な妖怪は、山へ追われつつも、新種の妖怪『心の闇』退治に挑んだ。だが奴らは、人の心の闇の中に逃げた。人間の中に入られると、我々でも手が出せぬ。手っ取り早く人間ごと潰す手もあるにはある。そうした奴もいた。それでは人間を惨殺する妖怪が増えるだけだ。「心の闇」は、その宿主から追い出さぬ限り出てこない。それには、我ら妖怪よりも、お主のような素直な人間が向いていると思うのだ。人間の心をひらくことは、人間にしか出来ぬ」

「そうかな。……そうなのかな?」

「シンイチよ」と、大天狗は真面目な顔をした。

「はい」

「お前は、人と妖怪の間を取り持つ大人物になるかも知れんと、わしは思っている」

「えっ」

「お前にしか出来ないこととは、そのことかも知れぬ。わしは、それがお前の特別な才能だと思う。特別なことに、特別な力は使われるべきだ」

「……そんな難しいこと、よく分からないよ」

「たとえ『弱気』に取り憑かれなかったとしても、いずれ妖怪は見えていたかも知れぬ。『弱気』に自力で気づく経験がなかったら、お前はその騒動でただ右往左往するだけの人間に終わったかも知れぬ。お主は妖怪が見え、それを自力で外した。それはお主の才能だ」

「……そうかなあ……」

「覚えておくことだ。お前の力は、お前自身をも試すぞ」

 自分の力の根源は一体何か。シンイチは大天狗の言葉を思い出しながら、ときどき考えることがある。


    2


 ある日、新たな「心の闇」らしき情報を内村先生が持ってきた。その人の名を聞いて、シンイチは緊張した。シンイチの人生に深く関わりのある名前だったからだ。その名は、深町ふかまち和人かずと。かつてシンイチに、サッカーを教えてくれた人の名前だ。


 小学校に入ったばかりの頃。深町は上級生で、サッカーの真似事で遊んでくれた。ドリブルが上手かった。リフティングも上手かった。シンイチたち下級生は「サッカーのにいちゃん」と呼んで、いつも後ろを走ってついていった。夕暮れまで、いつもサッカーのにいちゃんはサッカーをしてくれた。彼が小学校を卒業して既に四年経っている。小学校五年と一年だった二人は、高校一年と小学五年に成長し、これから運命の再会をしようとしていた。


「引きこもり?」

「そうなんだよ。もうずっとだ。高校もほとんど出席していないそうなんだ」

 職員室の内村先生に呼び出されたシンイチは、「サッカーのにいちゃん」深町和人の近況を聞かされた。飛田とびた中学サッカー部顧問の先生が内村先生と繋がりがあって、引きこもりの相談をされたのだ。内村先生も、まさか深町とシンイチが知り合いとは想像もしていなかった。内村先生は話を続けた。

「引きこもりってさ、『心の闇』にやられたときの、典型的な症状のひとつだよな。それで怪しいと思ってさ」

「うん。……そうだね」

 内村先生に取り憑いた「あとまわし」、隣のクラスの将棋友達タケシに取り憑いた「アンドゥ」、先日の「上から目線」。皆ことごとく引きこもりになった。世界と関わりを断ち、一人でぐるぐる考えてると、心の闇はどんどん増幅するのだろう。それはシンイチ自身が、「弱気」に取り憑かれたときに経験したことでもある。

 深町は、とんび野第四小学校を卒業後、飛田中学のサッカー部で活躍したという。元々素質もあったし熱心に練習もしたそうだ。が、レギュラーに決まって最初の試合で、彼は右膝を痛めた。彼はそれを隠し続けたという。次の試合でも、その次の試合でも、普段の練習でもそれを隠した。右膝をかばって次は左膝を痛めた。若いから、静養すれば回復する筈だった。だが彼は隠し続けた。レギュラー落ちが恐かったからだ。そして次の試合で、彼は右膝靭帯を断裂する怪我をした。

「……右膝が、サッカーマンにとってどれほど大事か」

 話を聞きながら、シンイチは思わず顔をしかめて右膝を押さえてしまった。その痛みは、きっとこの想像より痛かっただろう。内村先生は続けた。

「怪我を隠す気持ちは分るよ。レギュラー落ちが恐いのも分るよ。……でもな、サッカーを辞めることの方が、俺は辛いと思うんだよ」

「にいちゃん、……サッカー辞めたの?」

 内村はうなづいた。

「高校に入ってサッカー部に一応は入ったみたいだ。膝は、歩くことは出来る程度には回復した。しかしその後ほとんど部活には出ず、引きこもりになって、部屋から出てこなくなってしまったそうだ」

「……心の闇の仕業じゃなくてもさ」

 シンイチは、自分の右膝から顔を上げた。

「オレ、にいちゃんに会いたい」



 内村先生に連れられ、シンイチは深町の家を訪ねた。意外と近くにサッカーのにいちゃんの家があってびっくりした。四年間のどこかで、偶然会ってもよさそうな場所だったからだ。運命とは分からないものだ。きっと適切な時まで、それは待つのだ。

 二人で話したいとシンイチは言い、内村は家の外で待つことにした。

 先日の哲男のときと同様に、廊下から、扉の向こうの深町に話しかけた。

「オレ! 覚えてる? とんび四小でさ、いつもオレとサッカーしてくれたじゃん! 高畑シンイチだよ! 覚えてる?」

「……おう。シンイチか」

 扉の向こうから、深町の声が聞こえた。声変わりして大人っぽくなったけど、あの時から雰囲気はちっとも変わってない、憧れのにいちゃんの声だった。シンイチは嬉しくなってきた。

「そう! 覚えてくれてた?」

「懐かしいな。コスモスの自販機の下で五十円見つけた、シンイチだな?」

「そうそう! そんなことあったよな! あれからオレ、リフティングだいぶ出来るようになったんだぜ! 百はいけるよ!」

「へえ。やるじゃん」

「だろ? ねえ、扉開けてよ! 久しぶりに話、しようよ! オレ、五年生になったんだぜ! にいちゃんがオレにサッカー教えてくれたの、確かそれぐらいだろ?」

「……そうだ。五年生だった。お前はまだ一年だった。もうそんなになるか」

「……入っていい?」

「どうせ、俺の怪我の話は聞いたんだろ?」

「……うん」

「どうせ、俺は心の弱い奴だと思ってるんだろ?」

「思ってないよ! にいちゃんは凄いやつだもん!」

「どうせ、そんなの昔の栄光じゃねえか。どうせ、今の俺は凡人だよ。……入れよ」

「……いいの?」

「どうせ、いずれは俺の本当の姿を知ることになるしな」

 シンイチはごくりと唾を飲み込み、ドアノブを回した。緊張しながら廊下と部屋の境界をまたいだ。ベッドの上でうずくまる深町は、シンイチを見るなり言った。

「……変わっちまったろ? 俺」

 ぶくぶくと太った、にきびだらけの男が体育座りをしていた。野山を走っていた軍鶏が、ケージの中でチューブに繋がれたブロイラーのようになっていた。顎は脂肪にめりこみ、かつてのにいちゃんの顔が巨大な顔の真ん中あたりにあった。手も足もぶよぶよにむくれ、圧力を増し流れた肉塊がそこにいた。かつての深町の、それは残骸で、本人だった。

 そして巨大な、歪んだ顔の妖怪「心の闇」が隣にいる。部屋いっぱいに成長し、顔の頂点は天井にすりきり一杯で、もはや斜めにならないと部屋に入りきらない。深町同様のデブな顔で、伸びた手足が深町の体に深く根を下ろしている。禿げ頭のペールブルーで、投げやりな表情をしていた。妖怪の名は「どうせ」。さっきから、にいちゃんは「どうせ」を必ず語頭につけていた。どうせ俺なんか、と思う心の隙間に取り憑く妖怪である。

「久しぶり。サッカーのにいちゃん」

 部屋の壁には、ロナウドやクライフや中田ヒデのポスターが貼ってあった。しかしそれは日に焼けて随分と色褪せていた。

「だいぶん、サッカーやってねえからな」

 と、深町は自分の腹をつまんで自虐した。

「膝の怪我は、おとなしく治せばまたサッカー出来るようになったかも知れない。でもさ、何かがぷっつり切れちゃってね。……遅れを取り戻すのはもう無理だと思った。どうせ、無理だってね」

「にいちゃん」

「何?」

「どうせ俺なんか、って思ったのはいつ?」

「?」

「大事なことだ。教えて。いつ、どうせって思った?」

「中学でサッカー部に入ったときからかな」

「えっ? そんな前から?」

「どうせ俺はサッカー上手く出来ないし、ってずっと思ってたよ」

「ええっ! なんで? スーパー上手かったじゃん!」

「小学生相手と中学生相手じゃ、やっぱり全然違うよ。中学サッカーは、小学校で上手かった奴の選抜大会さ。俺はお山の大将だったにすぎない。どうせ俺には、ってずっと思ってた」

「……」

「だから努力したのさ。誰よりも」

 彼がその頃「どうせ」に取り憑かれたとしても、その力をバネに彼は努力したのだ。シンイチは改めてにいちゃんを尊敬した。

「やっぱりにいちゃんはすげえや」

「? どこが」

 シンイチはひとつ咳払いをして、深町をまっすぐ見た。

「だいじな話があるんだ」

「? なに?」

「……」

 シンイチは緊張した。変わり果てたにいちゃんを救う自信はなかった。しかし、自分の「妖怪が見える力」を使わないと、にいちゃんはこのままダメになってしまって、巨大な妖怪に取り殺されてしまう。力を使う勇気。大天狗はそう言った。

「オレ、妖怪が見える力があるんだ」

「……ハア?」

「マジな話なんだ。信じて。にいちゃんは、妖怪『どうせ』に取り憑かれてるんだ。だからどうせ俺なんか、って思うんだ。そいつは今もこの部屋を占領してる」

 シンイチは両手を目一杯広げ、「どうせ」の大きさを示した。

「何言ってんのお前? お前、俺を馬鹿にしにきたのか?」

「本当なんだ。にいちゃんが引きこもってるのは、妖怪『どうせ』のせいなんだ」

「帰ってくれ。小学生の妄想に付き合ってる暇はねえ」

 突然、深町の表情が変わった。さっきまであった親しみの表情が消え、恐ろしく冷たくなった。にいちゃんはこんな顔をするんだ、って怖くなるぐらいの顔だった。

 心の扉も、物理的な扉も閉じられ、シンイチは廊下に放り出された。失敗だ。だけど、このまま帰る訳にはいかない。いくもんか。

「……力を使う、勇気」

 シンイチは右の掌を、閉じられた扉に向けた。にいちゃんは自分の醜い姿を晒してでも部屋に入れてくれた。今度は自分が自分の姿を晒す番だ。目をつぶり深呼吸をして、シンイチは自分の力を使った。

「ねじる力」

 扉をねじった。扉はぐにゃりと曲がり、大きな穴が開いた。

「な、なんだこれ!」

 穴ごしに、深町がこちらを見ていた。まっすぐ目を見なきゃ。

「オレのほんとうの姿は、天狗の力を持つてんぐ探偵なんだ」

「……だから何言ってんだよお前!」

「鏡を見て。これがにいちゃんに取り憑いた妖怪『どうせ』」

 シンイチは腰のひょうたんから出した鏡を、にいちゃんに向けた。

「なんだこりゃ!」

 鏡にうつる、思った以上に太り果てた自分。そしてその隣にいる、部屋いっぱいに成長した、似たような顔の妖怪「どうせ」。深町は、ようやく自分自身を客観視することになった。

「なんだこのデブ」

 自分のことを言ったのか、その妖怪のことを言ったのか判然としない。おそらく両方なのだろう。

「力は自分を試す」、大天狗はそう言った。シンイチは今試されていた。自分が、この力にふさわしいかどうかを。

「オレ、この力でにいちゃんを助けたい」

 

    3


 シンイチの説明を一通り聞いた深町は、シンイチに尋ねた。

「じゃあさ、全部妖怪のせいってことかよ? 『どうせ』俺なんかレギュラーになれる訳ない、『どうせ』もう一度サッカーなんかやれる訳ない、『どうせ』俺なんか生きてる価値ない、『どうせ』俺なんか何をやっても無駄だ。……そう俺が思うのは」

「うん。心の闇は、負の感情の隙間に潜り込む。『どうせ』って強く思った瞬間に、多分滑りこまれたんだ。その感情を餌に大きくなって、宿主はその心の状態からいつまでも抜け出せなくなる。『どうせ』って思い続けることで」

「じゃ俺が、『どうせ俺なんか』って思わなくなればいいってこと?」

 シンイチはうなづいた。

「そんなの無理だろ。どうせ俺なんか……」

 と、深町はその言葉を発した自分に気がついて苦笑いした。

「ふん。……これか」

「うん。そうだ」

 太った顔の妖怪「どうせ」は深町からまた栄養を吸い、嬉しそうにしている。


 シンイチは、先程から考えていたことを深町に提案してみた。

「にいちゃん、オレとサッカー勝負をしてくれないか」

「は?」

「ぶっちゃけオレ、その心の闇の治し方が分らない。だから無理矢理にでも、学校に行ってくれないかな。引きこもりが一番よくないんだ。ぐるぐる一人で考えて、ずーっとループになる。そしたら奴らの思う壺なんだ」

「なんでサッカー勝負なんだよ」

「昔はいつも何か賭けてたろ。ランドセル持ちとか、オモシロギャグ言えとか、秘密一個ばらすとか。……オレが勝ったら部屋を出て、学校へ行ってくれないか」

「……じゃあ俺が勝ったら?」

「わかんない。……一生にいちゃんの言うこときくよ」

「ははは。小学生らしいな。昔そんなことよく言ってたな」

 深町は部屋の中の、埃をかぶったサッカーボールに触った。空気が抜けてて、べこんとした。

「今の俺みたいだな」と深町は自虐する。

 シンイチは、腰のひょうたんからマイボールを出した。

「オレさ、……あの場所でやりたいんだ」

「?」

「いつもサッカーやってた空き地あるじゃん。あそこで1オン1やって、オレ一回も勝てなかったじゃん?」

「あ? じゃ勝負にならねえだろ」

「あれから、オレなりにサッカーは続けてきたんだ。……無理な勝負じゃない」

「勝負になるって思ってんのか? オレがデブで怪我したからナメてんのか?」

「ちがう。男と男の勝負をしたいんだ」

 シンイチは深町の目を見た。

「……マジなんだな」

 内村先生はずっと外で待っていた。シンイチと深町が出てきて、引きこもりが解決したのかと勘違いした。シンイチは訳を話し、内村先生は立会人をやろう、と言ってくれた。


 だがその空き地に行ってみると、スーパーマーケットの駐車場になってしまっていた。かつてのやわらかい草原は、一面真っ黒で固いアスファルトに覆われてしまっていたのだ。

 深町はぼやいた。

「なんだよ。折角外に出てやったのに。何ヶ月ぶりに出てやったのに。どうせ、俺の人生こんなもんさ」

「……ここでやらなきゃ意味がないんだ。ここは、オレらの聖地だから」

 シンイチは腰のひょうたんから、朱い天狗の面を出した。


 はじめてサッカーボールをここで蹴ったことを思い出した。まわりの子供は誰がいたのかも覚えていない。ススムや大吉や公次やミヨちゃんも、ひょっとしたらその中にいたかも知れない。今となっては分らない。ただ、にいちゃんはいた。シンイチもいた。夢中で走った。それだけだ。辛さも楽しさも、全部この空き地が知ってるはずなんだ。それから将棋を覚えたり、マンガやゲームに夢中になったり、色んなことをしたけど、サッカーだけはシンイチがはじめて知った、「誰かとすること」だと思っている。


「にいちゃん。出来るかどうか分らないけど、やってみる。引かないでね」

 シンイチは天狗の面を被った。この面には天狗の力が封印されていて、シンイチの術に力を貸す。シンイチは精神統一をした。

 大天狗の見様見真似だ。必死だった。結果のイメージがはっきりしている方がいい、という大天狗の言葉にシンイチはすがった。

「ねじる力!」

 目的地は、あの日の空き地だ。はっきり思い出せない筈がない。草一本一本の匂い、虫除けに焦がされた木の杭の手触り、捨てられて真っ赤に錆びたトタン。ときどき埋まってた青緑色のきれいな丸い石。立ちしょんべんして臭かった奥の草むら。十三本目の杭だけないオカルト話。トイレの花子さんとテケテケの目撃談。広い空。

 シンイチは目をつぶった。黒く、大きな渦が現われた。渦は、シンイチと深町と内村先生を覆い、さらに駐車場全体を覆いつくした。シンイチの「ねじる力」は、「時空をねじる」ことに成功した。

 三人は、あの日の空き地に立っていた。


    4


「驚いたな」

 深町は地面の感触をたしかめた。さっきまで真新しいアスファルトだった地面は、やわらかな草むらに変わっていた。草の匂い。空も広い。そういえば高層マンションがまだ出来ていないせいだ。風が吹いて、エノコロ草が揺れた。

「俺この奥で、デラべっぴん拾ったんだよなあ」と、深町は角まで歩いていった。

 シンイチは天狗の面を外した。

 シンイチは無限に広いと感じていた草原が、案外狭いことに気づいた。それは背がのびたり走る力がついた、成長ゆえなのだとまだ自覚していない。


 四年前の空き地で、ひとつのボールを挟んで男が二人対峙した。

「ルールは?」と内村先生が聞いた。

「二十本勝負でいい?」とシンイチはかつての定番を出してきた。

 ルールは簡単だ。真ん中で攻撃側オフェンスがボールを持つ。防御側ディフェンスはそれを奪ったら勝ち。それを抜いてシュートし、四番から十二番の杭の間の「ゴール」に入れたら攻撃側オフェンスが一本。二十本先取。同点ならサドンデスだけど、実力差が出やすいからそこまでもつれたことはない。

 単純な1オン1だから、昔は皆にいちゃんに挑んだ。にいちゃんは小学生の憧れのチャンピオンで、誰もにいちゃんに勝てなかった。

 二人の男は、互いに互いのものを賭けた。

「学校へいって」

「一生奴隷だぞ」

 このサッカー勝負に意味があるのかなんて分らない。だが、何か真剣なものを賭けたことだけは確かだ。サッカーの前に嘘はつかない。それだけは二人にとって真実だ。


 じゃんけんでシンイチが先攻を奪い、ボールを蹴った。

 シンイチはドリブルには自信がある。にいちゃんのステップは速かった。だからシンイチも速いステップを練習した。大きく進むより、細かく刻むやり方を覚えた。

 だが、元祖の深町には通用しなかった。横を抜けず一瞬でボールを取られた。

「0‐0」と内村先生はカウントした。

 次は深町の攻撃だ。

 巨大な「どうせ」が邪魔になるかと思ったが、奴に重さはなかった。ヘリウム風船がついてまわるように宙に漂っている。深町にとっては、久しぶりのボールの感触だった。何度かタッチしたあと、おもむろに走り出した。相手は所詮小学生だ。簡単にフェイントに引っかかり、深町はゴール左隅にシュートを決めた。

「0‐1」


 シンイチの攻撃。ドリブルの途中、シンイチは必殺技を出した。クライフターンだ。あれ以来密かに練習していた、内村先生とサッカー本直伝のフェイントターンだ。が、深町にはあっさりと止められてしまった。

「ええーっ」

「クライフなんて、やるじゃん!」

「何でダメだったんだよ!」

「目線でばれてるぜ」

 深町は二重にフェイントをかけ、シンイチを抜いた。

「0‐2」と、内村先生は冷静にコール。


「ちくしょう!」

 シンイチはさらに細かくボールタッチをくり返した。テクニックとか関係なく、単なるがむしゃらだった。ゴールに向かわず、うしろの広い空間へ走った。

「オイどこまで行くんだよ。ゴールはこっちだぞ」

「奪いに来いよ!」

 深町が来るのをシンイチは待った。右足、左足、右足。

「そこだ!」

 シンイチはなるべく軽いタッチをした。いざというときに強く蹴ってしまわず、軽いタッチを維持できるかどうか。これもにいちゃんに習ったことだ。「足のリズムを読め」は内村先生に習った。人間は、足を着いた瞬間だけはその足を動かせない。

 深町の右足の着地の瞬間、シンイチは股の間を抜いた。

「やべっ!」

 深町は反転し、シンイチを追った。しかしシンイチのトップスピードに深町は加速しきれない。

「なんだよこのデブ!」

 深町は自分の太った肉体を呪った。慣性の法則にしたがい、ぶよぶよの体は深町の意志に反してついてこない。

「1‐2」

 深町はふうふうと息を切らし、汗をかきはじめた。

「休む?」とシンイチは深町に尋ねた。

「休むかよ!」

 だが、巨大な「どうせ」よりも、具体的な肉体のほうが枷となった。深町は息が切れ、シンイチについて来れなくなった。

「2‐2。……3‐2。5‐2。10‐2。……19‐2。」

 あっという間に、シンイチは決勝点にたどり着く。

「マッチポイント!」と内村先生が宣言する。


 深町は、汗でドロドロにとけた蝋人形だ。身体全体から、風呂上りのような湯気が出ている。

「デブ畜生……デブ畜生……」と、鼻の穴からなにかを漏らしている。

「ラスト一本」とシンイチは呟く。

 落ち着いて。丁寧に。これもにいちゃんから習ったこと。シンイチは、にいちゃんから習った全部をにいちゃんに見せたかったのだ。

 シンイチはフェイントをかけて抜こうとした。クライフターンは読まれた。深町はその動きについてきた。

 シンイチはボールを左に流した。右足を「ボールの前に」被せ、左足で右足の後ろから右後方にボールを抜いた。

「あ!」

 深町は声をあげてそのフェイントに引っかかった。「左の」クライフターンだ。

「シンイチ! お前、左もやるのか!」

 ススムの必殺技ダブルフェイントと、クライフターンを組み合わせたのだ。シンイチはそのまま深町を置き去りにし、決勝ゴールを決めた。

「はじめて、……にいちゃんに勝った!」

 シンイチは汗をぬぐい、喜びをかみしめた。息は少ししか乱れていなかった。

「ちくしょう……こんな膝壊して走れねえデブに勝って、嬉しいのかよ!」

「嬉しいよ! 今まで一回も勝てなかったんだ!」

「まさか、左のクライフも練習してたとは」と、内村先生が褒めた。

「にいちゃんが教えてくれたんだぜ? 右も左も同じように出来るようになっとけってさ!」

「そうだっけ」

「そうだよ! オレはにいちゃんの弟子だ。ちゃんと守った。それを見て欲しかったんだ」

 深町はまだ息を切らしている。ふうふう言いながら彼は自虐する。

「こんなデブ相手に、最後まで手を抜かずやることねえだろ」

「サッカーに手は抜かない」

「……それも俺が言ったっけ」

「うん」

「ははは。……過去の俺、すげえな」

「にいちゃん相手に、手は抜けない」

「……ははは」

 深町はなんだか笑いがこみあげてきた。

「負けは負けだな!」

 深町は草を蹴った。

「学校へ行くの怖いなあ。デブって言われるだろうなあ。勉強はついていけるかなあ。……サッカー部に顔出すの、怖いなあ」

 シンイチは深町の顔を見た。深町はそれに耐えられず答えた。

「……分ったよ。男と男の約束だよ。学校行くよ。こんな俺だけど、無理矢理行くよ。どうせ俺なんかって思わないように頑張るよ。俺なんかに手を抜かなかったお前のことを思い出すよ」

「うん」

 シンイチはサッカーボールを抱えた。深町に取り憑いた妖怪「どうせ」は、こころもち小さくなったようだが巨大さはたいして変わらず、深町の抱えた闇の大きさを示していた。内にこもるより、人前に出たほうが心の闇の成長は遅くなるだろう。このまま長期的に観察していこうと、シンイチは考えていた。


 「ねじる力」が開いた、現代の駐車場への戻り道を内村先生は戻った。シンイチもあとに続いてくぐろうとした。そこを深町が呼び止めた。

「見なよシンイチ」

 シンイチが振り向いた。

「あっ」

 美しい夕焼けが出ていた。何度も何度も見た、あの日の空き地の夕焼けだった。三人の男は、無言でその夕焼けをしばらく見ていた。

「帰ろう」

 深町は戻り道へ入った。シンイチも名残惜しそうに空き地と夕焼けを見ながら、戻り道へと入った。三人とも現代へ戻り、あの日の空き地への道は閉じた。


 こちらでも夕焼けが出ていたが、高層マンションとスーパーの建物にさえぎられて、あまりよく見えなかった。主婦の買い物客がごった返して、駐車場には車がいっぱいだった。

「また勝負やろうぜ」と深町はシンイチに声をかけた。

「?」

「あれぐらいじゃ、膝はちっとも痛くなかった。たかが一回勝っただけで偉そうな顔してんじゃねえぞ。一回負けたから学校には行くけど、俺とお前の勝負は終わってねえ。何回かやって、勝ち越さねえと勝ちじゃねえ」

 強気のにいちゃんが戻ってきて、シンイチは嬉しくなってきた。

「また負ける癖に!」と、意地悪く突っ込んだ。

「ふざけんな!」

 深町はニヤリと笑って武者震いした。

「オレは、まだ闘える」

 妖怪「どうせ」は、こうして深町の肩から外れた。


 シンイチは天狗の面を被った。

「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前! 不動金縛りの術! エイ!」

 スーパーの前にごった返した主婦たちが、動きを止めた。

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「一刀両断! ドントハレ!」

 シンイチは天高く飛び、唐竹割りに「どうせ」を真っ二つにした。着地して、返す刀で十文字に斬った。火は大きく燃え上がる。それはシンイチの思いの大きさを示すようだった。

 「どうせ」を焼く炎は高く燃え、火祭りとなって清めの塩柱へと化した。


    5


 内村先生と別れ、同じ方向のシンイチと深町は帰り道を歩いていた。二人とも、名残惜しそうにゆっくりと歩いた。

 シンイチは、不意に深町に悩みを漏らした。

「……オレ、妖怪が見える力があるんだ。だから日々、妖怪『心の闇』を退治してるんだ」

「……そうだったのか」

 シンイチはしばらく黙ったのち、突然大粒の涙をぽろぽろこぼした。

「どうしたんだよシンイチ?」

「だからオレ、もうサッカーの選手になれないかも知れない」

「なんで?」

「オレには妖怪が見える才能があるから! それは世の中にオレだけだから! それって、たぶん、サッカーの才能より、あるから」

 シンイチはさっきの勝負でにいちゃんに習った全部を出した。どうしてあんなに必死だったのか、深町には分った。サッカーの力を、見せたかったのだ。

「そういうことか」

 と、突然、深町は声をあげて笑いはじめた。

「あははは。もっと早く言えよそれ!」

「何がおかしいんだよ! オレ、サッカー選手あきらめなきゃいけないんだよ?」

「馬鹿だなあ」

「何が馬鹿だよ!」

「『妖怪退治するサッカー選手』になればいいじゃん」

「えっ?」

 シンイチは意表を突かれて固まった。

「そ、……そんなのあり?」

「アリに決まってんだろ。サッカーにはどうやったって絡めるだろ。サッカーは何でもアリだからいいんだよ。人生だって、何でもアリだよ!」

 深町はもう一度笑って、シンイチの悩みをいとも簡単に吹き飛ばした。

 夜の帳が迫っていた。一番星が出た、赤と青の中間の空を見ながら深町は呟いた。

「……そうだ。何でも、アリだ」



 その後、深町は少年サッカー教室の講師のバイトをはじめた。

 ときどきシンイチもそこへ遊びにいく。あの空き地はもうないけど、丁寧に整備されたグランドがそこにある。深町は教室の少年たちに「サッカーのにいちゃん」と呼ばれず、「デブのにいちゃん」と呼ばれているのが目下の悩みだ。


 そのグランドで時々、夜にこっそり二十本勝負をやる二人の男がいることは、教室の人たちは誰も知らない。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か






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