第5話 「先生の闇」 妖怪「あとまわし」登場

    1


     心の闇にとらわれて 出口の見えない人がいる

     天狗の力の少年が 来たりてこれを焼き払う

     てんぐ探偵只今参上 お前の心の悪を斬る



 昼休みの時間、生徒に混じってサッカーボールを蹴るのは楽しい。ボールに触ると、足首や膝までもが自我の一部であったことを思い出す。自分はただのサッカーバカだな、と内村は思う。ただ、バカでも今の自分は教師だから、自我と対話するよりも、生徒たちにこの楽しさを知って欲しいと願う。だから今は、ボールを長く持たずに色んな生徒にパスを出す。


 内村うちむら敬介けいすけは今年三十になった、シンイチのクラス五年二組の担任だ。

 内村先生に勢いよくパスを出したシンイチは、少年らしい質問をした。

「先生! なんか必殺技教えてよ!」

「サッカーに必殺技はないよ。あるとしたら、地道に練習すること」

「なんだよ! つまんねえよ!」

 不満を漏らしたシンイチに、内村はちょっとやってみせた。

「でも、こういう技を練習することも、サッカーの一部だ」

 内村は「クライフターン」をして見せた。オランダ代表のヨハン・クライフが、一九七四年西ドイツワールドカップで披露して観衆の度肝を抜いた、フェイント技だ。

 まずボールを右に流す。左足を踏みこみ、右足で前に蹴るふりをして左に蹴るのがこのフェイントの中心である。しかし普通にやってもバレる。これが「技」たりえるのは、最初の左足の踏みこみ方に伏線がある。まず左足を「ボールの前」に踏みこむのである。次に右足を振り上げ、前にではなく左に蹴る。相手から見ると、ボールの前に踏みこんだ左足が目隠しになり、突然ボールが逆側にワープしたように感じられるのだ。これがマジックのタネだ。スムーズに実行するには、右に流す、左足のクロスの踏み込み、右足フェイントかけて左に蹴る、それを一連の流れに繋ぐ修練が必要だ。

「すげえ! 何今の!」

「クライフターンだ。家に解説書あるから、今度貸すよ」

「マジで!? 絶対だぜ! こうか? こうか?」

 左足、右足、右足ともつれるシンイチのボールを、ススムが奪った。

「なにすんだよススム!」

 内村は笑う。

「ボールキープが第一だろ? 遊んでる暇はサッカーにはないぞ」

 シンイチは両足を更にもつれさせ、尻餅をついた。


 放課後。内村は職員室の自席で、赤ペン片手にたまった答案を採点していた。瑣末なことが重なって手をつけられず、もはやひとつの「山」になっていた。

 内村はいちいち三十二人分の顔を浮かべて、誰がどのように答えているかをチェックする。サッカーで見せる姿、授業や給食のときに見せる顔、答案に書かれた文字。それらは別々のようでありながら、繋がったひとつのものの筈だ。内村はそう考えながらテストの採点をすべきだと思っている。当然だが、そのやり方は時間がかかり、同僚の先生からは「効率を知らないバカ」と呼ばれる。

 その山を前に格闘をはじめてすぐ、小野おの先生が遠足の下見旅行の話をしに来た。算数の「兄が弟に追いつく」世界から、山登りの世界に頭の中を切り替えるまで、内村には多少の時間がかかる。ああそうだった。昼ごはんも山小屋の食堂スペースを借りるかどうかを考えなければならなかった。途中で雨が降ったときの退避場所も。

 その話が終わるとすぐに、PTAとの打ち合わせの件を数見かずみ先生が持ってくる。ああそうだった。俺は、頭の切り替えが遅いバカだなあ。

 自席の書類を順にめくると、昔の手紙がはらりと落ちてきた。昔の彼女の手紙だ。オイオイそこに挟んであったのか。だが今モトカノとの過去を思い出している場合ではない。今は兄と弟でもなく、すべての生徒の顔を思い浮かべるのでもなく、山登りでもなくPTAだ。そうだ、空の湯飲みにお茶を入れようと思っていたのだ。手紙を湯飲みの下に引くとケータイが鳴った。

「野菜詰めて段ボールで送っといたから。今年の正月は帰ってくるの?」

 実家の母からだ。今聞くことじゃねえだろと言いたくなるのをグッと抑えて、はいはいと返事をし、PTAに頭を戻そうと席を立ったら、はずみに湯飲みに手が触れた。咄嗟にかばった手が答案の山に触れ、微妙な均衡を保っていた紙の山は雪崩をうった。紙には滑空力があり、四方八方に、床に散ってゆく。

「……」

 内村ははいつくばり、一枚一枚の答案を拾いながらため息をついた。

 その深いため息が、妖怪「心の闇」を呼び込むとも知らずに。


 PTAの件は結局夜までかかり、答案の山に再び挑む頃には腹がすいてきた。ああ、忘れないうちに、シンイチに貸すサッカー本のこともメモらなければ。内村は再びため息をついて、終わらない山の残りを眺めた。

 うしろの柱の影から、黄緑色の妖怪がぬるりと現れた。

「そんなん、あとまわしでええやん」

 内村は赤ペンの手を止めた。

「……そうだな。家に持って帰ってからにしようか」

「そうや。そんなん、あとまわしにしたらええんや」

「はあ……。そうだよな」

 妖怪「心の闇」はにやりと笑った。名を、「あとまわし」と言った。


    2


 音楽の授業は、シンイチはとても好きだ。何故なら、ピアノを弾く小野真知子まちこ先生に会えるからだ。シンイチは多少音痴だが、真知子先生に「元気よく歌うこと!」と言われてからは、とにかく元気に歌うことだけを心がけている。それを真知子先生にほめて貰えるのがとても好きなのだ。ピアノを弾く真知子先生の横顔は美しい。白くて長い指が、ときにスローモーションのように、ときに嵐のように鍵盤に踊り、一本一本の長い指は別々の生命を持ちながら、同時に同じ意志を思っているように思える。いい匂いのする艶やかな髪がそれに合わせて揺れる様は、少年の心をうっとりさせる。


 音楽の授業が終わって、今日も元気で歌えたことをほめてもらおうと、シンイチは真知子先生のもとに走っていった。と、彼女は廊下で内村先生を呼び止めていた。

「内村先生」

「あ。小野先生」

「この時間にご出勤ですか?」

「スイマセン、ちょっと寝坊しちゃいまして」

「一時間目が私だから油断してましたね?」

「面目ない」

「でも、丁度良かった」

 真知子は廊下を出て校舎裏へ内村をうながした。シンイチはあやしげな雰囲気を感じ、二人を尾行する。真知子先生はチケットを二枚取り出した。

「一枚チケット余っちゃったんです。モーツァルト中心なんで、初心者向きかなと思って」

「おおう」

 きのうの打ち合わせの中の雑談で、モーツァルトって誰だっけ、みたいな話をしたところだった。内村はチケットに印刷された、蝶ネクタイの指揮者の写真を見て言った。

「やっぱり、こういうのは正装とかしなきゃいけないんですか?」

 真知子は鈴のように笑った。

「大丈夫ですよ。市民コンサートですから。初心者向けの選曲ばかりですし。次の金曜の夜なんですけど、ご予定とか入ってなければ」

「あー、次の金曜。僕はなにも」

「ではご一緒しません?」

「あ。はい」

 内村は、これまで生きてきたサッカーの世界とはまるで別次元のチケットを受け取った。あまりにもかしこまって、相撲取りが賞金を貰うようだと、真知子はまた鈴のように笑った。

 陰から見ていたシンイチは、自分の初恋が終わったことを知った。厳密には、その言葉をシンイチはまだ知らないので、名前のついていない心の痛みだけを味わった。



 三時間目。突然内村先生が、「授業をやめて、給食にしよう!」と言い出した。教室はわあい、と沸いた。給食を食べ終わるや否や内村先生は、「以後の授業は中止。自習だ。いや、サッカーをやろう!」といい始めた。わあい、とまたクラスが沸いた。

 午後の授業の時間になる前に、内村先生は「今日の学校は終わり!」と宣言して家へ帰ってしまった。

 更にみんなのテンションは上がり、サッカーの続きをする者や別の遊びをする者に別れた。


 次の日、内村先生は無断欠席をした。授業の代わりを真知子先生がしてくれて、シンイチはなにやら嬉しいやら心がズキズキするやらだった。

 次の日も次の日も、何故だか内村先生は休んだ。


 朝。先に出た父のハジメが、「電車が動かないんだよ」と家に帰ってきた。電車や他の公共交通機関が、ストでもないのに突然動かなくなったのだと言う。

 テレビのニュースでは、国会で年金問題を討議していた。のちのち払われるはずの年金を当てにしたのだが、その財源が確保できていない問題だ。

「ネムカケ。なんか変じゃね?」

 てんぐ探偵の勘がシンイチに働いた。膝の上で居眠りしている老猫ネムカケ(ネムカケとは遠野弁で居眠りのことだ)に、シンイチはこっそり話しかけた。

「心の闇の仕業かな」

 ネムカケは、ニュースに夢中な父母に気づかれない音量でしゃべった。

「国会の連中は、心の闇に取り憑かれておるか?」

「うーん。デジタルには妖怪は写らないんだよね。仮に彼らが心の闇に取り憑かれてたとしても、デジタルテレビじゃ分らない。直接見ないと」

「ふむ。止まった電車の運転手に取り憑いている可能性もあるのう」

「多分……妖怪『あとまわし』」

「ふむ。年金問題もあとまわし問題じゃよ」

「内村先生が気になる」

 シンイチは、内村先生の家に行くことにした。

「サッカー本貸してくれるって言ってたのが、あとまわしにされてるんだ」


    3


 内村先生は、学校から自転車で十分で通える、とんび野町八丁目の木造アパートに住んでいる。

「先生!」と呼びかけても返事はない。しかし中に人の気配はする。

 シンイチは指先から、にゅう、と「架空の矢印」を出した。天狗の力、「ねじる力」の初歩的な使い方だ。鍵穴に「矢印」をさし、ねじる。カチャリと鍵は開いた。

 中に入ったシンイチとネムカケは驚いた。独身男の部屋は汚いものだが、想像の二十倍だった。

 脱いだ服、下着、コンビニの袋。弁当のトレイ、洗濯が終わって干そうとしたが床に放置されそのままの形で自然乾燥した服。積まれた宅配ピザの箱、実家から送ってきた段ボールの野菜と、わいている小バエ。机の上には未採点の答案の山と、昔の手紙と、遠足の下見旅行の計画書と、サッカードリブル入門書が放置されたままだ。混沌の最奥、湿った布団には、ヒゲぼうぼうの内村先生が埋まっていた。

「先生! どうして学校来ないの!」

 内村先生の様子がおかしい。しゃべり口調や動きがとてもスローだった。

「そんなん、……あとまわしでええやん」

「みんな心配してるよ!」

「そんなん、……あとまわしでええやん」

 内村先生の異様な口調を見て、シンイチはズバリと聞いてみた。

「お前……妖怪『あとまわし』だろ」

「……なんのことやろかね」

「とぼけても無駄だ!」

 シンイチは腰のひょうたんから、天狗の面と朱鞘の小鴉を出して見せた。内村先生は、じろりとそれを見た。

「……天狗の手のモンか」

「話が早い。内村先生から、出てってくれ」

「アホか」

 内村先生の口の中から、妖怪「あとまわし」がにゅっと姿を出した。黄緑の肌をした福々たるおっさん顔で、禿頭に青い髪のポニーテールだった。その後れ毛が、くるくると回り、ぺしりぺしりと規則的な音を立てた。

「わしはこいつの栄養で生きとるんや」

 今思い出すと、授業をあとまわしにし、出勤をあとまわしにした先生に、すでに心の闇は巣食っていたのだろう。目撃できなかったのは、体内に侵入していたからだ。つまり、根が深い。

「電車が止まったりしたのも、お前の仕業か、あるいは仲間の……」

「知らんがな」

 天狗を呪う表情を見せ、再び内村の体の中へ「あとまわし」は引っ込んだ。


「困ったな……体内で人格を半分乗っ取ってるんだね?」

「ふうむ。天狗三十六計の出番かの?」

 とネムカケは聞いてみる。

離間りかんの計かな、とも思ったんだけど、先生が『面倒くさい、あとまわし』と根本的に思ってる限り無理だよね。でも会話はまだ出来るから……」

 シンイチは色々なことを先生に質問したが、のらりくらりと避けられる。どこまでが内村先生で、どこからが妖怪の人格なのか、分別することは困難だ。

「なんもかんも、あとまわしでええんや。テストの採点も、PTAも、昔の手紙も、正月に実家に帰るかどうかも、野菜の段ボールも、家賃も洗濯も風呂も飯も。ぜんぶめんどくさい。ぜんぶあとまわしや」

 内村先生は、生徒の名前を順に言い始めた。

「相沢も、今村も、江古田も大沢も、どうでもええねん。加藤も木崎も近藤も、どうでもええわ。沢本も瀬尾も、高畑もどうでもええねん」

 妖怪「心の闇」のせいで先生の心が変調を来たしている。それは理屈では分っているつもりだ。本人に罪はなく、「心の闇」に罪があるということも。しかし実際に自分の名がそのリストに入り「めんどくさい」呼ばわりされると、心がちくりと痛んだ。

「ああ……もう……寝返り打つのも……めんど……くさい。それも……あとまわしや」

そう言う先生の言葉は、次第にゆっくりになって来た。傷ついて手を止める場合ではない。このままでは先生は養分を吸い尽くされ死んでしまう。救えるのは、シンイチだけだ。


 孔雀くじゃく明王みょうおうの秘法も、妙見みょうけん菩薩ぼさつ呪も、白衣びゃくえ観音かんのん経も効果はなかった。天狗の術(法力ほうりき)とは、修験道に伝わる呪法に重なることが多い。それは正式な密教由来のものもあるし、雑密ぞうみつ(民間に伝わる呪法)も含まれている。様々なしゅや術があり、体系だてられていないのも特徴だ。つまり、術は使い手の技量しだいだ。シンイチは遠野の大天狗の優秀な弟子ではあるが、人生そのものの経験が足りない、まだ子供である。


 色々と試して疲れ果て、すっかり夕方になっていることにシンイチは気づいた。ネムカケは飽きて得意の居眠りネムカケだ。へたりこんで机の上に目をやると、市民コンサートのチケットがあった。開演時間は今日の六時。

「先生! コンサート! 真知子先生と行くんでしょ!」

「そんなん、あとまわしでええやん」

「オレはあとまわしでもいいけどさ! 真知子先生はだめだよ!」

 シンイチは時計を見た。すでに六時を回っていた。

 内村先生は答えなかった。意識は混濁し、難しいことは考えられない。結論は単純だ。

「あとまわしや」

「真知子先生をあとまわしにするな!」

 シンイチはコンサート会場へ走った。


 市民音楽ホールの入り口では、緑の綺麗なスカートとスカーフが似合った真知子先生が、ずっと待っていた。

「先生、振られちゃったみたい」

 真知子先生の涙は、シンイチにとって心臓をつかまれたみたいに苦しかった。

「電話しても出てくれないし、私一人でおしゃれして……馬鹿みたい」

 シンイチは咄嗟に嘘をついた。

「う、内村先生さ、スッゲー風邪引いてるんだ!」

「え?」

「もうキョーレツで! 鼻水ブリブリで一歩も立てないし、しゃべれないんだ! だから電話も出れなくて! で、俺伝令係頼まれたんだよ、内村先生に! 今日行けなくてごめんって!」

「そんなにひどいの? じゃ、お見舞いに行かなくては!」

「大丈夫大丈夫! いや、むしろうつったら困るから来ちゃ駄目だって言ってた!」

「うつったら困るって、……それ、ちょっとは私のこと思ってくれてるのかな」

「そうだよ! 多分内村先生、真知子先生のこと好きだよ!」

「子供が大人の話に首つっこむんじゃありません。今日は先生、帰ります」

 真知子先生が、生徒を前にした先生の顔に戻ってくれて、シンイチは少し安心した。

 妖怪退治の現場に、シンイチはとんぼ返りだ。


    4


「先生! 起きてくれよ! 真知子先生は内村先生のこと好きなんだよ! オレがアシストのパス出すからさ! オレは子供だから、真知子先生を幸せに出来ない! 内村先生が真知子先生を幸せにしてくれよ!」

 内村先生は、ゆっくりとしか答えない。

「あーとーまーわーしー」

 シンイチは「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 烈! 在! 前!」と九字の印を切った。獨古印どっこいん大金剛輪だいこんごうりん印、獅子じし印、ない獅子じし印、外縛げばく印、内縛ないばく印、智拳ちけん印、日輪にちりん印、隠形おんぎょう印。

「不動金縛りの術! エイ!」

「シンイチ、動かぬ人に金縛りをかけてどうする?」とネムカケが聞くと、シンイチは真意を答えた。

「この部屋全体に、金縛りをかけたのさ!」

「?」

「この部屋を、周囲の時間軸から切り離したってこと!」

「どういうことじゃ?」

「答えは、『放置』だ」

「はあ? 何もせんというのかえ?」

「……見ててよ。さっき、『寝返り打つのも面倒』って言ってたでしょ!」


 内村先生は、いまやただ寝ているだけの、生ける屍だ。

「ああ。おなかすいた。でも飯つくるのも、注文もめんどくさい。あとまわしや」

 さらにシンイチは辛抱強く放置した。

「考えるのもめんどくさい。あとまわしや。見るのもあとまわし。聞くのもあとまわし。……漢字で考えるのもあとまわしや。ひらがなでじゅうぶんや。まばたき、めんどくさい。めもあけるの、めんどくさい。あとまわしや。……こきゅうも、しんぞううごかすのも、……あとまわしや……」

「オイオイ死ぬやないかい」

 慌てた妖怪「あとまわし」が、その口から出てきた。


「つらぬく力!」

 狙い済ましたように、シンイチは右手から「矢印」を出した。「矢印」はびよーんとのびて、ぶすりと刺そうとする。

「なんやねん!」

 あとまわしは咄嗟に避けた。

 さらにシンイチは「矢印」で「あとまわし」を虫ピンのように刺し、空中に固定しようとつらぬく力を出した。

「あほか! 当たるかそんなもん!」

 シンイチは右に行くふりをして右手を左手で隠し、左に「矢印」を出した。

「なんや!」

「フェイント!」

 「あとまわし」は矢印にぶすりと貫かれ、空中で身動きが取れなくなった。クライフターンを、シンイチは手でやってみたのだ。

 「あとまわし」が体内からいなくなった内村先生は、呼吸をはじめ、目を開け、耳を澄まし、考えをはじめた。寝返りをうち、お腹がすいてきた。つまり、生きることをはじめた。「あとまわし」と内村先生をつなぐ妖怪の根は、ずるりと外れた。

 シンイチは腰のひょうたんから天狗の面と小鴉を出した。

 シンイチは天狗の面を被ると天狗の力が増幅する、てんぐ探偵である。

「火の剣! 小鴉!」

 黒曜石の剣からたちまち炎が湧き上がった。

「一刀両断! ドントハレ!」

 妖怪「あとまわし」は真っ二つになり、紅蓮の炎に包まれ清めの白い塩と化した。狭いアパートの部屋は浄火の炎に熱せられ、窓が大いに曇った。

 内村先生はシンイチが何をしているのか理解できなかったが、部屋の中の姿見に心の闇が映っていることに、途中から気づいていた。


 ネムカケが尋ねた。

「放置して、奴が子供を生んだらどうするつもりだったんじゃ」

「体の中ではデカくなりきれないんじゃないかなと思って!」

 臨床心理では、「底つき」と呼ばれる現象がある。アルコール依存症などの治療で、とことん人生の底までゆくと、患者自身がこれではいかんと思うのだそうだ。逆にそうならないと、依存症を治すことは難しい。「これではいかんと思う力」は、あらかじめ人間に備わった、生きる力なのかも知れない。シンイチは、無意識にその力の存在を知っていたのだろうか。

「底つきを知っていたのか?」とネムカケはシンイチに聞いた。

「? 何それ」

「じゃなんで放置しようと?」

「息が苦しくなってきたら、水から出てくるじゃん」

「ほほう。……子供の発想だからこそ、か」

 内村先生の腹が、グーッと鳴った。

「ラーメン食いに行こう。おごるよ」


    5


 商店街のまん中あたりにある、サイコロ角切チャーシューが有名なラーメン屋で、二人は醤油ラーメンチャーシュー大盛りを食べた。食べながらシンイチは、妖怪「心の闇」のこと、天狗のことを内村先生に話した。

 目の前で鏡越しに見たのだ。内村は信じるしかなかった。

「『心の闇』は、どれくらいの数がいるんだ?」

「……わかんない。とにかく沢山だよ。大天狗はかつての妖怪並の数だって言ってる」

「……今このへんにもいるの?」

「うん。でもこのへんに漂ってる野良は、だいぶ浄火した。でもどこからか現れて、ふらりと人の心に取り憑くみたい。オレは、そんな奴らを退治したいんだ」

「そうか。……担任として、出来る限りのバックアップはしてやるよ」

 ネムカケは猫舌なので、話が終わりにさしかかった頃、ようやく小どんぶりの冷めたラーメンにありつく事が出来た。「うみゃい」と遠野にはない東京の味に喜んだ。

 もし妖怪「あとまわし」が原因ならば、電車の運転手や国会議員のところにも行くべきではないか、と内村先生は推理した。

「俺からシンイチのお母さんには電話しておく。偶然会ってラーメンおごって、ついでに宿題見てやってるってさ」

「分った!」

内村はシンイチの背中をばんと叩いた。

「行って来い、てんぐ探偵」

 シンイチは、テレビで見た限りの電車の運転手や国会議員の所へ行ってみた。案の定、彼らに妖怪「あとまわし」が取り憑いており、不動金縛りで放置後、出てきた奴を斬り伏せた。



 校舎の裏手に、内村は真知子を呼び出した。

「小野先生。こないだはすいませんでした」

「あ。ご病気だったそうで」

「かなりキツイ風邪もらっちゃいましてね。お詫びといっちゃなんですが、これ、どうですか?」

 内村の懐から出てきたのは、サッカーの観戦チケット二枚だった。真知子先生は驚いて内村先生の顔を見た。チケットには、サポーター達がそろいの青いユニホームシャツを着て、猛烈な応援をしている写真が印刷されていた。

「私もこんなシャツで『正装』したほうがいいのかしら?」

 真知子先生の冗談に、内村は思わず笑った。きっと似合うだろうな、と想像した。


 柱の影からじっと見ていたシンイチに、内村は答えた。

「俺バカだからさ、優先順位つけて、あとまわしにせずに一つ一つやっていくよ。それしかないだろうし」

「……」

シンイチのふくれっ面に、内村は心当たりがなかった。

「?」

「サッカーの入門書、貸してくれるってのはどうなったんだよ」

「あ! やべっ忘れてた!」

「優先順位、オレだいぶ下かよ!」

 真知子先生の方が上で良かったと、シンイチは思った。

 心の棘の痛みは、それで少し和らいだ。



     てんぐ探偵只今参上

     次は何処の暗闇か







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