第9話 深淵への誘い②

 アルケタイプ達の住処からアブホースの湖

まではそれほど離れてはいなかった。


 しかし、この情景をどのような言葉で表現

すればいいのだろう。灰白色のおぞましい物

体が譫妄運動を続けながら何かを産み出して

いる。


 その物体は巨大で、見渡す限りの湖を全て

埋め尽くしているようだった。いや、そもそ

も湖のように見えるもの自体からして、その

物体の一部かも知れない。途方も知れない大

きさであった。


 ただそれはとても邪悪であることだけは、

見間違う事がないと思われる。ゼリー状であ

り、グロテスクの極みであるところのその物

体は、察するに全ての母なるアブホースその

ものに違いなかった。


「アブホースよ、私達はツァトゥグアの使い

として参った。どのような使いかは会えば判

ると言われているので、私たちは預かり知ら

ない。返答をしてくれ。」


 その大きな物体の何処に頭があり、何処に

耳があるのかは想像もつかなかったが、とり

あえず叫んでみた。


「それほど大きな声を出さずとも、十分伝わ

っています、ツァトゥグアの使者たちよ。い

や、ツァトゥグアその人よ。」


 四人がいっせいに(えっ)と思った。ツァ

トゥグアはあの入り口付近の洞窟に封印され

ているのだから、ここまで来られる筈がない。

それだからこそ、自分達を使者として送り込

んだのではなかったのか。周囲を見回してみ

たが、やはり自分達に他には誰も、もちろん

ツァトゥグアも居なかった。


「私達がツァトゥグアの使者としてここまで

降りて来たのであって、ツァトゥグア本人は

こちらには来ていないのですが。」


「戯言はおよしなさい、ツァトゥグアよ。」


「そうせかすでないわ、アブホースよ。確か

に我はここに居る。」


 それは四人の合体された体の中から発せら

れる思念であった。そして、それは確かにツ

ァトゥグア本人のものだったのだ。


「不思議に思うのももっともだ。我は我に取

り込んだ体の一部を通して思念を送ることが

出来る。お主達に使者を頼んだのにはそうい

う意味があったのじゃ。」


「わらわは忙しい。用があるならさっさと言

って元の洞窟に戻るがよいでしょう。」


「アブホースよ、忙しいとはそのアブホース

チルドレンを産み出す作業のことか。だが、

アブホースチルドレンを産み出すための養分

に使うためにアブホースチルドレンを産み出

しているお主が忙しいとは、滑稽なことであ

るのう。」


「ツァトゥグアよ、ただ未来永劫に怠惰なだ

けのあなたに言われたくはない。用がないの

なら帰るがよろしい。わらわは本当に忙しい

のじゃ。」


 旧支配者同士の会話などはこんなものなの

だろうか。これでは人類とそれほど変わるわ

けではない。旧支配者達はけっして万能の神

ではなく、存在すること自体がイレギュラー

な、れっきとした生物と考えるほうがよいの

だろうか。


「そもそもわらわが何故故にただ産み続けて

いるのかを知ったうえで言っておるのか。わ

らわがもしその営みを停止したのならこの宇

宙の時流が止まってしまうのですよ。それを

無駄な努力とでも?」


 アブホースが子供達を産み出すことによっ

てこの宇宙の時間は過去から現在、そして未

来へと流れているのだ。全ての父にして母と

呼ばれる所以であった。


「そんなことは承知しておる。我が言うのは

何故そうまでして、この宇宙の因果律を護る

必要があるのか、ということだ。旧神達との

遥かなる過去の戦いにおいて共に破れた我々

が何故この世界を保つことに専念せねばなら

んのだ。そのことをお主に問いたいと前々か

ら思っておったのだ。そんな時にこの者たち

が丁度参ったので、態々ここまで降りてきた

と言う訳だ。」


 途方もない話しであった。ツァトゥグアは

アブホースの営みを止めさせようとでも思っ

ているのだろうか。そんなことをすれば、こ

の宇宙はたまちち収縮して大爆発をおこして

しまうだろう。それとも時が止まってしまう

のなら全てその瞬間に止まってしまうだけな

のだろうか。


「ツァトゥグアよ。それは思い違いをしてい

るようですね。わらわの存在意義は全てを産

み出すことによって初めて意味を持つことに

なるのです。こんな処に封印されている今で

あってもそれは変わることはない。そもそも

この宇宙を産み出したもののひとつとしてわ

らわがこの宇宙を崩壊に導くことはできるも

のではありません。それはツァトゥグア、あ

なたにとっても同じ事でしょう。あの過去の

戦いこそが過ちであったのです。」


「殊勝なことを言うものだな、アブホースと

もあろうものが。アザトースどのがどう思う

であろうか。クトゥルーやクトゥグアにも聞

かせたいものだ。まあよいわ、その思いが判

っただけでも我がここまで降りてきたかいが

あったというものだ。」


 ツァトゥグアの意図はどうも綾野達には理

解不能であった。


「ツァトゥグアよ、何を考えているのですか。

旧神の封印は未だ解けないままでしょうに。

それとも、何か封印を解く鍵でも見つけたと

いうのですか。」


「いずれ判るときが来るであろう。それにし

てもアブホースよ、何も感じないのか。感覚

が鈍っておるのではないか。ここもかなり汚

染が進んできておるようだ。地球上の汚染が

そのままこの洞窟にも影響があることは理解

しておるであろう。我らが封印を解いて地上

の人間達を滅ぼさない限り我らにも破滅の時

が訪れることになるのだ。」


 何やら話が厭な方向へと向かっているよう

だった。


「ツァトゥグア、それはどういう意味です。

封印を解けるとでも言うのですか。」


「つい最近、クトゥルーの封印が解かれよう

としたときにそれを阻んだのがここに居る人

間達なのだ。我はこの者たちを取り込んでそ

の記憶をも取り込んだのだが、あと一歩のと

ころであったようだ。我らのように普通の人

間には近寄ることも出来ない場所に封印され

ているものたちは僕を持たないので自らが動

けない限り封印を解く方法を探る術はない。

そこで考えたのだが、このような者達を使っ

て我らを封印から開放する術を探させる、と

いうのは如何であろうか。そう頻繁に外の世

界のものたちがここに迷い込むことはないの

だ。この機会を逃すことは無いと思うのだが

どうであろう。」


 どうも、ツァトゥグアは綾野達4人を使っ

て自らの封印解く方法を探させるらしい。そ

れにアブホースを巻き込む魂胆なのだろう。


「わらわには可も不可もない。ツァトゥグア

よ、勝手にするがよいでしょう。それにして

も怠惰な神とも呼ばれるあなたが、それほど

までして封印を解きたいというのが、わらわ

には理解できないことです。どうしたという

のですか。」


「永劫の時を封印されている身であるとした

ら我の存在意義は何処にあるのだ。考える時

間は幾分とあったのでな。ただ結論はでなん

だ。まあ、それほど期待している訳ではない

のだ。ただ、たまにはこんな余興もよいので

はないかな。」


 こうして、四人は元来たツァトゥグアの洞

窟に戻され、ツァトゥグアの封印を解く方法

を見つけることを条件に元の世界へと戻され

ることになってしまったのだった。


 ヴーアミタドレス山の洞窟に迷い込んだ四

人が元の世界に戻る条件は、ツァトゥグアと

アブホースの封印を解く方法を見つけること

であった。


「一人だけを此処に置いて行くがよい。その

者の命と引き換えとしようぞ。」


 それが担保であった。


「それなら私が人質になりましょう。」


 当然のように橘が言い出した。調査隊の隊

長であることの責務を未だ忘れていないのだ。


「そうは行かない。ここは一番年長の私が妥

当なところだろう。」


「駄目ですよ、先生達が残ったら誰が封印を

解く方法を探すのです。元はといえば僕達が

単独行動をとったことが原因なんですから僕

が残りますよ。」


 綾野、橘、岡本浩太の話を直ぐ横で黙って

聞いていた桂田が不意に話し出した。


「綾野先生、橘先生、それに浩太。よく聞い

てくれ。浩太はさっき二人のような言い方を

したけれど本当は俺一人が言い出したことな

んです。浩太は無理に連れてこられただけで。

それと、元の世界に戻っても一番役に立ちそ

うにないのはやっぱり俺だと思うんです。綾

野先生と浩太はそういった方面には詳しいで

しょうし、橘先生にはいろいろとお知りあい

も多いでしょうから。だから、ここは俺が残

るべきだと思うんです。」


 普段の桂田からは想像も出来ない、真面目

な面持ちで話し出したので桂田をよく知る浩

太は少し呆気に取られてしまった。場違いで

はあるが、


(こいつ、真面目な顔すれば結構いい男じゃ

ないか。)


 などと感心してしまった。元々端正な顔立

ちなのだが、普段の行動と話の内容でどうも

顔の印象がふやけてしまっているのだ。


「そうは言うが、桂田君、私は立場上生徒の

君を置いていく訳にはいかないのだよ。」


 綾野としてもここは引く訳にもいかなかっ

た。自分の生徒なのだ。放っていける筈がな

い。


「お前達の都合で残る者を決めると誰が言っ

たのだ。」


 そこにツァトゥグアが割り込んできた。そ

うなのだ。もともとツァトゥグアの申し出は

絶対的拘束力を持っている筈で、それに逆ら

える訳がない。残れと言われた者が残らざる

を得ないのだ。


「お前達の話を聞いていると、その者の言い

分が一番我の要求を叶えるのには都合がよい

ようだ。他の三人は早急に立ち去り、封印を

解く方法を見つけ次第、ここに戻ってくるが

よい。お主達が戻ってくるときだけここへの

道を開こう。」


 そうツァトゥグアが言った瞬間、綾野、橘、

岡本浩太の三人は入ってきた縦穴の一番底に

いた。桂田は居なかった。ツァトゥグアの意

思は本人の希望どうり桂田を残して、他の三

人に封印を解く方法を探させることにあるよ

うだった。


「こうしていても仕方が無い。桂田君のため

にも早く封印を解く方法を探そう。」


 脱力状態の三人に喝を入れるように綾野が

言い、三人はカーゴに乗って地上へと戻った

のだった。


 綾野の講師控え室で、三人は相談をはじめ

た。桂田は助け出さなければならない。それ

は判っていることだ。だが、それによってツ

ァトゥグアとアブホースの封印が解かれるの

ならば、それはそのまま人類の危機に繋がっ

てしまうことになるのだ。

「悩んでいても仕方がない。とりあえず、手

を尽くして封印を解く方法を見つけよう。」


 綾野の言葉でその場は解散となった。


 橘助教授は自らの伝手で大英博物館にある

といわれているいくつかの稀覯書を探すこと

になった。綾野は自らの伝手でミスカトニッ

ク大学に向かう。その他、アーカム財団にも

連絡を取って協力を仰いだ。


 ただ、各々の協力者に対して話したことは

ツァトゥグアやアブホースを復活させるため

にその方法を探している、とは言えなかった。

そんなことを言えば、それだけで人類の敵に

されかねない。


 その他、インターネットのホームページに

も琵琶湖大学や綾野個人のページはもちろん、

有名ポータルサイトの掲示板にも情報提供を

呼びかけた。考えられる範囲の全ての手を打

ったうえで、綾野はアメリカ合衆国に、橘は

イギリスに、連絡係として岡本浩太を日本に

残し、旅立って行ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る