『迷子』

矢口晃

第1話

 おや?

 いったい、誰の泣き声でしょう?

 しくしく、しくしく、悲しそうにすすり泣く声が聞こえます。もう、とっくにみんなお家に帰って、誰もいなくなったはずの原っぱのある公園で、誰かが寂しそうに泣いています。

 耳を澄ますと、ほら、こう言って泣いているのですよ。

「えーん。えーん。お家がわからなくなっちゃたよう。えーん」

 どうやら、迷子のようです。それも、小さな女の子が泣いているようです。すっかり遊びに夢中になって、気がついてみたらあたりは真っ暗。来た時には見えていた目印もすっかり見えなくなってしまって、ここからお家までの帰り道がわからなくなってしまったようです。

 困りましたねえ。いくら泣いても、辺りにはもう、大人の姿どころか、子供たちの姿さえ見えないのです。真っ暗な原っぱの隅っこで、この子がいくら泣いても、誰も助けには来てくれません。

「お腹がすいたよう。寒いよう。えーん」

 女の子の泣き声だけが、あたりに虚しく響き渡ります。

 すると、誰かがその泣き声を聞きつけて、女の子のそばに近づいてきました。

「そんなに泣いて、どうしたんだい?」

 誰もいないと思った原っぱで、いったい誰が女の子に声をかけたのでしょう?

「あなたはだあれ?」

 女の子はむせるようにしゃくりあげながら、声をかけてきた人にそう尋ねました。

「私は、この公園に住むカエルです。君の泣き声を聞きつけて、かわいそうだと思ってかけつけたんだよ」

 見ると、話をしているのは女の子の足もとにいる小さな青い色をしたカエルです。カエルが人の言葉を使って、女の子に話しかけているのです。

 女の子は泣きたいのをがまんしながら、カエルにこう言いました。

「あのね、私は友達のマキちゃんとね、ドングリ拾いをしていたの。この公園の奥にある大きな大きなシイの樹の下で、たくさんのドングリを拾っていたの。それでそろそろ帰ろうかと思って立ち上がったら、マキちゃんの姿がどこにも見えないの。そのうちあたりは暗くなってくるし、道は見えないし、私、私、……えーん。お家に帰りたいよう」

 女の子は、最後にはとうとうがまんしきれなくて、泣き出してしまいました。

 カエルは女の子の話を聞くと、落ち着かせるためにわざとゆったりとした口調で次のように言いました。

「知っています。知っています。君がマキちゃんとドングリを拾いに来ていたのも。私はそれをずっと、池の端に生えた葦の幹につかまって眺めていましたから」

「だったら、シクシク、マキちゃんがどこを通って帰ったのかも、シクシク、知っているの?」

「ええ。もちろん知っていますとも」

「ならお願い、シクシク、マキちゃんがどこを通って帰ったのか、私に教えて」

女の子にそう言われたカエルは、生まれつきわらっているような顔をさらにほころばせながら、

「ほら、あっちに月がかかっているだろう? あの月を目指して歩くと、公園の出口があるんだよ。公園を出たなら、今度はお月さまに背中を向けて、道なりにずっと歩いて行くんだよ。そうすればきっと、君のお家に辿りつけるはずだから」

 言い終わると、カエルは「ケロケロ」と笑ったように鳴きました。

 帰り方がわかったので、女の子も少しはほっとしたようです。ようやく涙の止まった目で足もとのカエルを見やると、

「ありがとう」

 と言い残し、カエルの教えた方に向かってすたすたと歩き始めました。

 あたりには、電灯も一つもありません。女の子は、干し草のような匂いが立ち込める原っぱの一本道を、ただひたすらお月さまに向かって歩いて行きました。

 すると、カエルに教えられた通り、ようやく公園の出口が見えて来たのです。

「よかった。出口だ」

 女の子はそう一声発すると、今度もまたカエルに教えられた通り、お月さまに背中を向けて、公園の前を横切る道に沿ってずんずん歩きだしました。

 女の子は、もうすぐ家に帰り着けると思うと、嬉しくてしかたありません。さっきまでの寒かったことや悲しかったこともすっかり忘れて、元気よく、今にも駆け出しそうに歩いて行くのです。

 しかしそのままずっと歩いて行くと、あるところで道が突然二手に分かれてしまいました。カエルに「ずっと道なりに行くんだよ」と言われていた女の子も、この先をいったいどちらに行ったらよいのか、わかりません。せっかくもう少しでお家まで辿りつけると思ったのに。女の子は、わかれ道の手前に立ち尽くすと、悲しくなり、また泣き出してしまいました。

「えーん。お家がわからないよう。えーん」

 するとその声を聞きつけて、また誰かが女の子のそばに近づいてくると、女の子に優しい声でこう尋ねました。

「もしもし。そこで泣いているのは誰ですか?」

 今度女の子に話しかけたのは、チョコレート色の体をした、一匹の年老いた犬でした。犬は親切そうな眼差しを女の子に向けながら、心配そうに女の子に話しかけました。

 女の子はしっぽを振りながら近づいてきた犬に、泣いている事情を話しました。

「シクシク。シイの樹のある公園から、ここまで一人で歩いてきたの。そうしたら急に道がわかれてしまって、シクシク、どっちに行ったらいいのかわからなくなってしまったの」

「そうだったのですか。では、ちょっと待って下さい」

 犬はそう言うと、女の子のひざのあたりに鼻の頭を近づけて、くんくんと匂いをかぎはじめました。すると女の子のそばを離れて、今度は二本の道の入り口を行ったり来たりしながら、地面の上の匂いをかぎわけていました。

 しばらくすると、犬は一本の道の前でぴたっと座り、女の子に向かってこう言いました。

「君とおんなじ匂いが、こっちの道からしますよ。こっちの道を行ってごらんなさい」

 女の子はそれを聞くとやっと安心したように泣きやみ、

「犬さん、ありがとう」

 と言って犬の教えた道の方を歩いて行こうとしました。その時です。犬は女の子の方に振り返ると、もう背中を向けて歩き始めた女の子に向かって、こう尋ねました。

「ところで、あなたはいったい、どなたなのです? 体中が、まっ黒じゃないですか?」

 女の子はそれを聞くと立ち止まり、犬の方に振り返って明るい声でこう答えました。

「私はね、マキちゃんの影なの。昼間、マキちゃんについて公園に遊びに行ったのだけれど、ついドングリ拾いに夢中になってしまって、気がついた時にはマキちゃんがいなくなって、私一人ぼっちになってしまったの」

「それでわかりました。どおりで、さっき通ったマキちゃんと同じ匂いが、あなたの体からもしているわけですね」

 犬は最後に「キャイン」と嬉しそうに一声笑うと、「バイバイ」と手を振るように、毛むくじゃらのしっぽをぱたぱたと左右に振りました。マキちゃんの影も犬に向かって軽く手を振ると、残りわずかとなった帰り道を、マキちゃんの家目指して歩き始めました。

 その、ほんの少し後のことです。どこからともなく、小さな女の子の、楽しそうに数を数える声が、電灯もない暗い一本道の上に聞こえてきました。間違いありません。それはマキちゃんの声です。きっとずいぶん前にお家に帰って、ご飯の前にお風呂に入っているマキちゃんが、湯船に肩まで浸かって、お母さんに言われたとおり、一から十まで数字を数えているのです。

「さあん、よおん……」

 その声は、マキちゃんの家のすぐ前を通りかかったマキちゃんの影の耳にも、はっきりと届きました。

「ごおお、ろおく……」

 マキちゃんの影は、お風呂場から楽しげに聞こえてくるマキちゃんの声を聞くと、歩く足をぴたりと止めました。そして、見覚えのあるマキちゃんの家の玄関から漏れ、ほんわかと温かそうに家の前の路地を照らす明かりの中に、すっぽりと体を包まれました。

「なあな、はあち……」

 そうする内にも、マキちゃんの数字を数える声は、楽しそうにお風呂場の方から聞こえてきます。

「きゅうう……」

 マキちゃんが九まで数えた時、玄関先の明るい電球の光の中で、マキちゃんの影は一声、大きな声で家の中のマキちゃんに向かって、こう言いました。

「マキちゃん。ただいま!」

 そしてそう言い終わると、マキちゃんの影は、音もなく、すうっと跡かたもなく消えてしまったのです。

 マキちゃんの影が出した声は、湯船に浸かって数を数えているマキちゃんには、聞こえないようでした。マキちゃんは、最後の十まで数え終わると、

「おかあさあん、出てもいい?」

 と、お風呂場の扉の向こうの居間で、夕食の準備をしているお母さんに大きな声で聞きました。

「いいわよう」

 お母さんにそう言われるとマキちゃんは勢いよく湯船を飛び出し、びしょびしょに濡れた頭を、お母さんの出しておいてくれたタオルでごしごし拭き始めました。

 今日、公園の奥のシイの樹の下で拾って来たたくさんのドングリを、マキちゃんは早くお母さんに自慢したくて、しかたありません。

 裏方さんの影は、その時にはもう、家の電球の光に照らされたマキちゃんの後ろに、いつものようにぼんやりと、かすかにうかびあがっていたのでした。

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『迷子』 矢口晃 @yaguti

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