影渡し

ピグマリオ

第1話

影渡し



包帯が巻かれた自分の足首を眺め、私は唸るように『痛い!』と言った。目をつむると、あの悪夢のような時の流れが蘇る。そして一件によって負った怪我が酷く痛むのであった。

今、診療室の椅子に座り診察を受ける私の隣には、唯の付き添いではあるものの、可憐な美女が立っている。この点に関してのみ、あの悪霊に一房の感謝を感じることにを許しても構わない。特別に許可しよう。受診料は勘弁しておいてやる。

実際に奇妙な出来事がこの世には存在するか否か、と問われれば、私ははっきりと、存在すると答えざるを得ない。話しはそのような点から始まる。つまり、全ては怪奇現象が成したことであるというわけだ。

一人で琵琶湖へと旅行に行った。それがこの事件の発端である。

ある時、突然に川が見たい、川を優雅に泳ぐ魚を見たい、そんな我慢出来ない唐突の衝動に駆られた。思い立てば吉日。私は浪人生の特権を活かして晴天の日に、両親からの罵倒の嵐をくぐり抜けながら、いそいそと旅に出た。

電車から空を見ると、のんびり雲がくつろいでいて、景色が段々と都会から田舎へと移り変わっていった。聳え立つビルなどなく、昔ながらの家と建物だけがある。そして何と言って自然が素晴らしい。バスは旅館へと到着した。いつの間にバスに乗り換えたのだという疑問は、頼むから廃棄処分してほしい。

時刻は夕方に差し掛かり、辺りは少しだけ薄暗くなっていた。ビルなどが無いおかげで、空が広々としていた。この空が、夜になれば満点の星空へと変貌するのかと思うと、早くも胸が熱くなっていた。旅はまだ始まったばかりだというのに。

旅館に着き、部屋に案内されたものの、風呂に入るまでは少し時間が空いている様だったので、私は部屋に荷物を置き、畳の上で大の字に広がり、布団も敷かずに少しだけ眠ることにした。

目が覚めた頃には、辺りはすっかり暗くなって、何も見えなかった。山々に囲われた旅館だからだろうか、窓の外は本当に光り一つない真っ暗闇が永遠に広がっている。私は天井からぶら下がっている糸を引いて、部屋の電気をつけた。しかし、二秒もせぬ間に電気を消してしまった。少し、旅館内を散策してみようと考えたのだ。

玄関先でスリッパを履いた時に、足の甲にに妙な違和感を感じた。先程、部屋の電気を消してしまったので靴を脱いで見ても、なにやらよく見えない。仕方が無いので私は携帯を取り出し、その灯りを頼りに光を当てて見ると、足の甲に小さな出来物があることを発見した。赤く腫れている様に見えた。少なくとも、この旅館へ来る以前には無かったはずだったのだが、寝ている間に、虫にでも刺されたのだろうか。または何かの拍子に出来てしまったのか。兎に角、妙な出来物がへばりついていたことは事実である。

何事においても適当な私が、この程度の出来物にいちいち注意を傾ける訳も無く、別に痛くも何とも無かったのでさっさと靴を履き直して部屋を出た。

廊下に出ると、夏にも関わらず、何故か寒気がした。何処からか風が入り込んでいるのだろうか。私は一度だけ身を震わせ、そのまま散策を続けた。廊下の角を曲がると、まだ廊下が続いていて、何と無く薄暗さを纏っている。しかし、そんな事よりも更に気にするべき点があった。廊下の突き当たりには窓が有るのだが、その窓は開いていて、風がビュウビュウと奇抜な音を立てながら入り込んでいた。しかし、何より気味が悪い事に、窓の枠組みに浴衣を着た女が一人、ゆったりと腰を掛けて、斜め下を右にズレたあたりの位置をジッと見つめていたのだ。

正直言って、その様を見た瞬間に回れ右をして部屋へと帰ってしまいたかったのだが、残念ながら、美人を見れば必ず話し掛けなければならぬ。という、マイルールが我が精神には存在していた為、私は高鳴る鼓動を抑えて女へと近付いた。もちろん、この鼓動は恐怖によるものである。

酷く綺麗な、髪の長い女であった。

女の容姿を語る際は、どのアイドルに似ているだとか、どの女優に似ているのか、などの例えを用いて話すべきなのだろうが、あの女は私の知るどのアイドル、どの女優とも似ているとは言え無かった。顔の問題では無いのだ。それどころか、この世の人間では無いと言ってしまいそうな、そんな言葉に変換しようの無い、不気味と言うには物足りない雰囲気を身に纏っている。

『 やあ、こんな何処で何をしているんだい』と私がナンパの如く話しかけると、女は視線を私の顔へと当てた。目が合い、私は感じたことのない雰囲気に当てられ、少しばかり身じろぎをした。怖くなったのだ。顔は引きつっていたのかもしれない。

暗く、電気が今にも消えてしまいそうな光を放っているせいだろうか。廊下の不気味さと、女の不気味さは、私の中で更に速度を増していった。女が口を開いた。

『どうしたのですか?そんな幽霊でも見た顔をして』と、表情を一つも変えずに言った。

お前が幽霊だ。と言いたい衝動に駆られたが、私は無礼な人間では無い。我ながら礼儀は弁えた人間だと思っている。故に無難な返事を返した。

『そうですねえ、こうも不気味な旅館だと、幽霊の一つや二つ、出たって可笑しくはありませんよ』

私がそう返事をすると、女はやはり表情一つ変えずに、少し鼻で笑い、視線をまた右斜め下に落として、妙な事を言った。

『出ますよ。幽霊。この旅館、幽霊が出るんです』

いや、だからそれはどっからどう見てもアンタだ。と今度こそツッコミを入れてしまいそうな衝動に駆られていたが、やはり失礼過ぎると判断し、私はまたも、無難な返答をしようとした。なるべく会話を切り上げたかったのだ。この女はとんでもない、と私の本能が全力で悲鳴を上げていた。

『見た事があるのですか?幽霊を、この旅館で』早く帰ろうと考えていた。それにも関わらず、私はつい尋ねてしまったのだ。これは、怖いもの見たさ、というやつなのだろうか。いつもそうなのだが、例えば着信アリという映画を自宅で鑑賞した時などが典型的だ。毛布で顔を隠しつつ、要所、要所で顔を覗かせ結局、怖いシーンを見てしまうのだ。つまるところ、私はそのような男なのである。『ええ、有りますよ。子供の頃、この旅館に泊まった時に、一度だけ』

女は顔をより一層、不気味に歪ませた。

『良かったら、お聞かせしましょうか?貴方、とても暇そうですし、聞いて下さると、私も嬉しい。それに、この話しは私の十八番なのです。なので、きっと、退屈はさせません』

この場面で、いえ結構です。と言い、バックステップで部屋に帰還できる人間がどれ程いるというのか。だいたい、そんな奴が居る訳がない。居たとしても、バックステップはしないであろう。言うまでもなく、私はその様な勇敢なる精神を持ち合わせてはいない。さらに、例の怖いもの見たさお陰か、私は、すっかり彼女の話しを聞くつもりになっていた。全く、愚かな男である。

『ええ、暇ですね。暇でしたから、貴方に話し掛けたのですよ。私で良ければ、お話、ぜひ聞かせて下さいよ』

私は、彼女に対してなるべく、心底怖がっていることを悟られぬよう、なんてことはない事のように話しを続けるよう促した。すると彼女は、あの無表情な顔を微かに変化させたのである。あれはまるで、獲物が罠に掛かった際に浮かべる猟師の笑みのように、深く、黒い顔つきであった。

そして彼女は奇妙な出来事を語り始める。

『幽霊見た。なんて言いましたけれど、あれが本当に幽霊と言えるのかどうかどうかについては、私には未だ、判断に困ります。けれども、この世に存在しない、してはならない、何かしらの怪異を見たということに、なんら間違いありません。それだけは、疑いようの無い事実です』彼女は、髪を手ですくい、かきあげて、左の耳を露出させた。彼女の横顔がはっきりと見え、私は冷や水を浴びせられた様に背筋を敏感に感じたが、その横顔を見れば見るほど、改めて美人な女であると思った。しかし、やはり異様に不気味な点だけがあまりにも気に障る。

『あの出来事は、人生で唯一の心霊体験ですから、それはもう、はっきと記憶に焼き付けています。

私の家族には、親戚が大変多くいまして、当然ながら、それぞれが別々の職業に就いているもんですから、そう簡単には各々の予定は合いません。ですから、親戚一同で集まる機会など、きっと無いだろうとまで言われていました。曾祖父が、その年で九十歳でしたからね。もう、亡くなってしまうだろうよ、と本人が冗談で言う程ですよ。しかし、何の偶然か、いえ、具体的に何日だと尋ねられましても、家に帰り、親に聞かなければわかりませんが、数多い親戚一同が集まる都合、全員の予定が重ならない日時が奇跡的に確保出来たのです。曾祖父の体調の事も考え、親戚の方々は、なるべき地元から近い、自然の綺麗な場所へ行こうという案でまとまっていましたが、当の本人は、自然なんざガキの頃から腐る程見てる、と、うだうだ言っていました。宿泊する場所も自然が多い方が良い、ということで、親戚の方々が宿泊先に選んだのが、この旅館だという訳ですよ。知っていますか?この旅館、意外にも歴史があるんですよ。しかし、かなり老朽化が進んでいましてね。そのせいか安いのです。料金が魅力的なのは今も昔も変わりありません。風景も変わっていませんね。当時、まだ十歳だった私から見ても、明らかに親戚の方々は予算をいかに抑えるかについて、躍起になっていると察する事が出来ました。まあ、仕方ないの無い事なのですけれど。

そんな小さく腹黒い攻防の末、私たち一族は滋賀県の大自然へと足を運んびました。

バスに揺られ旅館へ着くと、六十前後のお爺さんが出迎えてくれ、荷物を運んでくださいました。今は姿が見当たりませんから、ひょっとすると亡くなられていられるかも知れませんね。

部屋に着くとすぐに、私の両親は、親戚達とこの後の予定を決めてくると言い、浴衣を羽織って私を残したまま三階の親戚が泊まっている部屋に行ってしまいました。

古い旅館でしたし、まだ子供だった私は、どうにも部屋に一人で留守番をすることが怖くてたまりませんでした。そんな状態では居ても立っても居られませんので、私は両親の言い付けを破り、三階へ行こうと考え、天井にぶら下がる糸を引いて、部屋の電気を消し、下駄箱からスリッパを出して廊下に出ようとしました。しかし、スリッパを履いてみますと、どうも足の甲に違和感を感じます。見てみようにも、部屋の電気は既に消してしまいましたので、一旦、廊下に出て、廊下の薄い灯りを頼りに足の甲を見てみました。するとどうでしょうか。一体いつの間に出来たのか、全く身に覚えがありませんでしたが、私の足の甲に、小さく赤い腫れ物のようなものが根を張っていました。私は神経質な人間なので、やはりこの類いのものは気になってしまいます。腫れ物がスリッパに擦れでもすれば、歩くたびに私の神経を逆撫でし、歩行になりません。ですから私は、スリッパを部屋のドアの前に二足とも置いて、素足で廊下を歩くことにしました。

上に行くための階段が何処にあるのかが分かりませんでしたから、とりあえずデタラメに廊下を歩いていると、曲がり角が有りましたので、その角を曲がりました。しかし、まだ廊下が続いています。そうですね。丁度、私達がいる廊下です。空気が違うとでも言うのでしょうか。角を曲がる前の廊下と、角を曲がった後の廊下ではまるで違うのです。曖昧な薄暗さを纏っていて、何処からか風邪が入り込んでいるせいか、夏にも関わらず、寒気がし、私は身を震わせました。

廊下の突き当たりには、窓が有ります。大きいとも小さいとも言えない、中ぐらいの窓です。その窓の淵に、女の人がゆったりと腰掛けて、虚ろな表情で首を横に傾けていたのです。その女の人は、私が良く知っている人物でした。私の母親なのです。しかし、そんな訳はありません。ほんの数分前に、父の共に親戚の部屋へ行ったはずなのですから。当然、不思議に、不審に、思いましたが、かまわず私は窓に腰掛けている母に近付いて行きました。違うのです。間違い無くその形質は私の母であるはずなのですが、何かが違うのです。魂がない。正気がない。何とでも言えます。しかし、あえて限定して言うならば、生きていない。という表現が最も近いように思えました。あれは人間ではありませんでした。ましてや母でもありません。これは後になってからの感想です。あの時の私はただ単純に、本能的に恐怖しているだけでした。

私は怖くて怖くて、逃げ出したくなりましたが、母親の明らかに異常な様子を放置するわけにもいかず、母で無い何かに声をかけました。しかし、母はずっと無表情で首を横に傾けて微動だにしません。何度声をかけても反応はありませんでした。ついに恐怖感が限界に達した私は、それを打ち消すためか、母の肩を両手で掴み、揺すりながら母の名を呼んでいました。呼ぶと言うより、叫んでいたと言うべきかもしれません。すると、突然母の声が聞こえてきたのです。前からではなく、後ろから聞こえてきました。振り向くと、母と父が不思議そうな顔をして立ってます。

その後、私が後ろを見たのかどうかということが、この物語の落ちになるのですが、残念ながら、もう来てしまったようですね。落ちを私の口から伝えることが出来ずに、非常に残念に思います。ではでは』女はその奇妙な物語を語り終えると、私に小さなお辞儀をした。余りにも唐突に、そして急に話しを切られてしまったため少々面喰らってしまったが、私は直ぐに気を取り直し、最後の落ちまで語らんかいと言うために口を開こうとした。

その時である。背後から肩を叩かれた。

この小説で私が廊下に出て寒いだの何だと語り始めてから、女のこの世の者ならざる雰囲気と、怪奇な物語のおかげで、私の副交感神経は沈黙し、交感神経は今にも心臓を核爆発させん勢いで活動し、背筋は凍りつき過ぎて逆に燃え上がっていた。そんな身体精神状態で突然、何者かに肩を突つかれでもすれば、余程の強者でない限り私と全く同じ反応をすると、太鼓判を押して保証する。

背後から、肩を突つかれた。度重なる緊張感と恐怖により、私の精神状態はパンパンに腫れ上がっていた。そんな状態の私に、何者かが肩を突つく。膨れ上がった風船を針で、ちょんと突けばたちまち大きな音を立てて破裂するのは当然の事であり、何も恥ずかしい理由は無い。『うひゃあ』と、小さく叫び、私はフィギフィギアスケートとかいうおよそ私とは縁遠いスポーツにおいてやたらと多用される三回転ジャンプの如く華麗なターンで、身体ごと後ろを振り向いた。無論、素人の私は着地に失敗し、足を挫き、膝まづいた事は言うまでもない。

頭を上げて上を見ると、私はもう一度、情けない叫び声を漏らした。女がいるのである。風呂上がりなのだろうか、頭にタオルを巻いて、浴衣を着衣し、不思議そうな顔をして私を見下ろしているが、間違いない。あの女だ。ほんの数秒前に、私に不愉快極まりない怪奇談を語り続けていた女に間違い無いのだ。これではまるで、女の語る怪奇談そのものではないか。

『だ、大丈夫ですか?もしかして驚かせてしまいましたか?一人で窓の方をぼんやり見て、ずっと立っていましたから、てっきり具合でも悪いのかと…』女の台詞に明らかに、違和感のあるフレーズが混ざり混んでいた。

一人。

そんな筈はない。ほんの数秒前まで私は確かに貴女と…

そう口を開き、後ろを振り向こうとして、私は直ぐに自分の口を手で塞いだ。少し冷静になろうとしたのである。今、この状況における最も重要な部分は何か。それは一切後ろを振り向く事無く、何もかも無かった事にして、部屋に帰ることに他ならない。だって怖いんだもん。私は、痛む足を、慎重に扱いながら立ち上がった。

『何、大丈夫ですよ。ところでお嬢さん。貴女、昔この旅館で幽霊を見た。なんて事はありませんか』そう、男は格好を付けねばならぬ、例えそれが精一杯の強がりであったとしても。

私は、某名探偵が犯人を当てて見せた時のドヤ顔を遥かに凌ぐドヤ顔で数行前の台詞を吐いた。

『 まあ、どうしてそれを…』と、女は目を見開いて驚いていた。予想は当たった様である。偽物であれど、妖怪であれど、姿を借り、私を惑わしたが、どうやら話しは事実であったようだ。有難う。そしてサヨウナラ。出来るならもう二度と私の前に現れないでほしい。『失礼、実は足を挫いてしまい一人で歩けそうにありません。良かったら肩を貸していただきたい。ついでに、いや、もしよかったら部屋に来て下さい。貴女がかつて見た幽霊の話しを、じっくりとお聞かせしましょう』

女は私の手を自分の肩にまわし、介抱してくれた。介抱のさなか、彼女の横顔がはっきりと見え、やはり美人に間違い無いと確信した。私にあの忌々しい怪異談を語った、不気味な雰囲気を纏う彼女では無い、純正の美女であった。それから私は思い出したように、こう言った。

『あ、ちょ、ちょっと待って。やっぱり痛い。先に病院をお願いします』






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