絶滅危惧種しずかちゃん

私の好きなセリフを3つ挙げることから始めたい。


先ず、痴人の愛よりナオミのセリフである。

「友達として清く附き合うのと、誘惑されて又ヒドイ目に遭わされるのと、孰方がよくって?―あたし今夜は譲治さんを脅迫するのよ」

天稟の悪女であるナオミが主人公に対し徐々に牙を剥き、それを食いこませ始めるシーン。女王めいた口調に惚れ惚れしてしまう。因みにややあってからの譲治の返答は、

「では友達になってもいいよ、脅迫されちゃたまらないから」

であった。


次いでハリー・ポッターシリーズよりハーマイオニーのセリフである。手元に本がないのでうろ覚えを許していただきたい。

「あなたたちといたら、命がいくつあっても足りないわ。もっと悪ければ、退学ね」

魔法への好奇が強くホグワーツでの学びに懸けるところの強いハーマイオニーの性格がよく表れたセリフである。これに対してロンは、

「死ぬよりも退学の方が怖いのかよ」

と答えている。


最後にドラえもんよりしずかちゃんのセリフである。

「安心しなさい、僕がついてる。」

というのび太に対し、

「だから心配なのよ。」

と返す。非常にF先生らしい、寸鉄人をさす素晴らしいセリフである。


私は以上の女性キャラクターのセリフがお気に入りなのだが、こんな言葉を言われたことはかつてない。内容的な面でなく、口調や語尾の面からの話である。


「てよだわ言葉」というものがある。先の例から見ると「よくって?」や「足りないわ」、「なのよ」が所属する区分で、明治時代中期に登場したとされる。女学生らが(当時の時勢において学生であることから中流階級以上と推察されうる)その始祖とされ、今でこそこういった言葉はなにか丁寧な印象を与えるものの、誕生直後は下品な言葉遣いとして尾崎紅葉に批判されたりしている。いつの世も変わらないなと思うエピソードである。


「てよだわ言葉」は次第に翻訳小説などへ登場し、市民権を獲得していく。当時の女性はまどろっこしい敬語を使っていたそうで、海外の小説に出てくる女性の口調にどうも当て嵌まらない。そこで「てよだわ言葉」を用いてみると案外すっきりする。そんな経緯があり文学の世界にも浸透したようだ。


この言葉の優秀なところは一文の内に性別、更にはおおよその性格までも示すことが出来るという点である。上に挙げたのはほんの一例であるが文学、海外言語の翻訳、漫画、あらゆる創作物はこの恩恵に与かることが可能で、反対にこれから逃れようとすることは創作上の利点を一つ消してしまうことに他ならない。


重要なのは、現在「てよだわ言葉」を使う人はほとんど居ないのにその存在が何の違和感もなく受け入れられるという特質である。私はこれが不思議でならない。


上記の例の中で男性らの言葉は今でも通じる言い回しである。しかし今時「孰方がよくって?」などという人はいるまい。「どっちがいい?」である。ハーマイオニー以外「退学ね」とは言わない。「退学でしょ」「退学や」「退学になります」だ。しずかちゃんだけが「心配なのよ」と言ってくれる。他の方々は「心配です」「心配。」となる。


例外的に所謂オネエ、カマ言葉としてこういう言い回しが見られることはある。というよりこの用途が大多数である。蓋し女性の強調であろう。「てよだわ言葉」は男女同権が意識され始めた1980年ごろから衰退していく。それは役割語としての「てよだわ言葉」が男女同権の妨げになるという無意識化の働きがあったと私は考えている。そうして女性を強調したい新宿2丁目界隈に濃縮、凝縮される形で現在まで続いたのだろう。


先に少しだけ触れたが、これを用いない創作と言うのも増え始めている。特に私小説やエッセイにおいて、もはや「てよだわ言葉」は誤魔化しの効かない言葉になりつつあると思う。誤魔化しが効かないというのは非現実性を内包しているという意味である。リアリティを大切にする散文において、これらが用いられることはもう無いだろう。


しかし漫画や翻訳においてはまた違った展望が見られる気がする。とかく登場人物の多い創作にありがちであるが、語尾や口調を特徴的なものにし、キャラクター設定を際立たせる手法はあちこちに散見される(ラムちゃんの「~だっちゃ」のような)。その基本として「てよだわ言葉」は君臨する。


便宜上先の例を取るが、「しずかちゃん型」や「ハーマイオニー型」は一般女性に当てはめられることが多い。これは特段に特徴がなくとりあえず女性であることを示せればよいキャラクター、例えば母親などに多く用いられる。さらに特徴が欲しければ足していけばいいのであるから、ベースはここに定めることが多い。


「ナオミ型」は今や「世間知らずのお嬢様」或いは「高飛車なお嬢様」にしか用いられない。それは先に述べた「てよだわ言葉」が中流以上の階級から発生したことに起因していると思う。私はこの「ナオミ型」を愛している。しかし現在の用法はどうもピンとこない。元来上流階級の人間ではないナオミがこういう話し方をする倒錯が良いのであって、使って当然の人物が使うのは違う。


当然谷崎が「痴人の愛」を書いた当時は「てよだわ言葉」の全盛期でナオミがこれを用いることに何の倒錯もないのであるが、今の時代から見ると非常にアンバランスに見えて魅力的に映るという点は「てよだわ言葉」絶滅によって生まれた恩寵と言ってもよい気がする。


これからも「てよだわ言葉」は創作の中で生き続けるだろうか。私は疑わしく思っている。現在創作の中で多く用いられているからさしたる違和感もなく生き残っているだけで、創作中の人物の口調と現実に隔たりがあると気付いたとき、発生した違和感は連鎖して他の創作にも影響を与えて一気に死滅させてしまう気がする。特にVR技術の登場でこれが現実味を帯びたのではないか。


今のうちに愛でておくのが吉。結論である。

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