椎名と恭子

佐嶋凌

第1話 鏡

椎名希は不思議な人間だ。

たとえば、彼女は自分のことを『希さん』と呼ぶ。

なんでも幼い時からずっと父親にそう呼ばれて育ったかららしいけど、私は『恭子』と呼ばれて育ってきても一人称は『私』だ。

たぶん、幼い時には自分のことを『恭子』と呼んでいた時期もあったのだろう。

私にその記憶はないけど、両親に訊いてみればきっと覚えているだろう。

しかしその時期は、遅くとも歳が二桁を数える頃には終えているはずだ。

なぜなら私の記憶はその頃からあるからだ。

学年で言えば、小学校三年生と言ったところだろうか。まだ椎名と出会う前のことだ。

椎名は今年で17歳になる。高校二年生だ。

正直に言って、高校生にもなって自分の事を名前で呼ぶのは、かなりバカっぽいと思う。

十年近く付き合っている私でもそうなのだから、初対面の人も、多くはそう思うのだろう。


「っちゅん!」


そしてその印象は、往々にして正しい。


「あ~! アイラインずれた~!」


椎名が叫ぶので、私は読んでいた本から顔を上げて椎名を見やる。


「椎名、面白い顔になってるよ」


椎名は携帯用の折りたたみ鏡を教壇に置き、それを覗き込みながらメイクをしていた。

ちょうどアイラインを引いている時に、ほこりにでも反応したのだろうか。椎名は二度、三度と短く息を吸い込み、溜まっ


た呼気を一瞬で吐き出した。

平たく言うと、くしゃみをしたのである。

椎名のくしゃみは特徴的だ。小鳥が鳴くようなくしゃみをする。

大変可愛げのあるくしゃみだけど、特に狙ってやっているわけじゃないらしい。出そうになった時、つい抑えようとして口を閉じようとするのだけど、閉じ切れなくてそうなるのだとか。

これ一つで告白してきた男子もいると、椎名本人から聞いたことがある。

くしゃみの勢いのままに力強く尾を引いたアイラインは、メイク用にピン留めをしておでこの出た椎名の片目を必要以上に強調していた。


「も~やり直しだよ~」


椎名は仕事をしすぎたアイライナーを教壇に置くと、メイク落としとハンドタオルを片手にお手洗いへと向かう。

本日二度目のメイク落としだ。

私はその背中に言葉を投げかける。


「くしゃみが出そうになったら、アイライナーを置けばいいんだよ」


すると椎名は振り返りもせずに、


「それ先に言ってよ~」


と文句を言いながらお手洗いへと消えていった。

私は手持ちの本へと視線を戻す。

蛇口をひねる高い音がして、続いて勢いのある水音が、静かな礼拝堂に大きく響いた。

椎名は、教会に着くと必ずメイクを落とす。

そしてだらだらと時間を過ごし、ご苦労なことに出る時にまたメイクをする。

これも彼女を構成する不思議の一つだ。

水音が止まり、少し時間があってから、代わりに足音を響かせつつ、タオルで顔を抑えて椎名が戻ってきた。


「ごめんね恭ちゃん、もうちょっと待ってて?」


椎名は私の傍まで来ると、タオルで軽く顔を叩いて水分を吸い取りながら私に謝ってくる。

ごめんね、のところがタオルの向こうでくぐもった音になった。


「別にいいよ。急ぐ用事でもないし。もうちょっと本が読めるし」

「恭ちゃんのそういうとこ好き~」


顔を拭き終わった椎名は、だらしない笑顔で告白すると、教壇へと戻っていく。

私は本のページをめくった。


「ありがと。私は椎名の何度言ってもすぐ忘れるとこ、ちょっと嫌い」


椎名がこうして何かしらドジをすることは珍しいことではない。

それが原因で予定がズレることも、もう慣れっこだ。


「ごめんね~、いつもありがとね~」


間延びした、本当に悪いと思っているのかはなはだ疑問な物言いで、椎名は感謝してみせる。

私はどういたしまして、と小さく口にして、椎名のメイクを大人しく待った。

椎名のメイクは薄い。ナチュラルメイクというやつだ。

あまりけばけばしいものではないが、それでも時間はそれなりにかかる。

基本を丁寧にしているのであって、手を抜いているのではない。

そういった大事なものを、椎名は本能的に分かっているようだった。

その待ち時間にこうして本を読むのが、私はけっこう好きだった。


「ん~、よし!」


鏡を前に百面相をして、最後に一つウインクしてから、椎名はメイク道具をしまっていく。

私もきりの良いところでしおりを挟んで、読みかけの本を学生カバンにしまった。


「恭ちゃんおまたせ~」

「ん」


きっちりメイクアップした椎名は、化粧をする前よりずっと可愛くなった。


「いつもそうだけど、化粧なんてしなくても可愛いのに」

「えへへ~、ありがと~」


紐を長く伸ばした学生カバンを肩にかけて、長椅子から立ち上がりながら椎名を褒めると、椎名はわかりやすく機嫌が良くなる。

肩まであるウェーブのかかった髪の先を、指に絡めていじりながら、


「でもやっぱり~、好きな人と一緒に歩くなら~、一番可愛くいたいじゃない?」


私より頭一つ分低い目線から、上目遣いでそんなことを言った。

それを聞いて、私は思わず笑ってしまった。


「それ、女の私に言う台詞じゃないよ。彼氏に言ってあげなよ」

「今はいないも~ん」


解放されて気楽だ、とでも言いたげな笑顔で、椎名は私に腕を絡めて来る。


「もう別れたの? 3ヶ月経ったっけ」


私は少し左脇を広げた。椎名の右腕が、するりと間を通る。

椎名は基本的に告白を断らない。とりあえず3ヶ月は付き合ってみると決めているらしい。

椎名が告白を断るのは、フリーでないと知らずに告白してきた男と、二度目以降の男だけだ。

しかし、3ヶ月以上続いた例はない。


「おとといでちょうど3ヶ月だったよ~。今回はあっさり別れてくれてよかった~」


息を合わせたわけでもないけど、自然と二人で同時に歩き出す。

礼拝堂を、こうして腕を組んで歩いていると、なんだか結婚式みたいだなと少しだけ思った。

参列者も牧師もいない、寂しいものだけど。


「前はひどかったもんね。まだ来るの? ラブレター」

「来てるよ~。家のポストはいいけど、下駄箱に入れるのはやめて欲しいな~。谷田部くんが数えててね~?」


谷田部……例のお調子者か。

確か、クラス全員分のあだ名を個別に考えているのだっけ。

三村なんとか言う人を、名前に“二”が入っているからという理由で、2足す3で5、2かける3で6の語呂合わせで、“ゴロー”と呼んだという話は印象深い。


「外野は気楽でいいね。実際は倍くらいもらってるって知ったら、なんて言うかな?」


礼拝堂の扉を、空いた右手で押す。

重く鈍い音と共に扉が開き、夕暮れの町外れが私たちを出迎えた。


「ぜっっったいからかってくるよ~。『号外!号外!』とか、変なこと言いながらすぐ言いふらすんだから~」


ぜっ、をたっぷり溜めて、口を苦いものでも噛み潰したような表情で、椎名は文句を言った。

あんまり表情を崩すと、せっかく綺麗にしたメイクまで崩れてしまいそうだ。

『号外!』というのは、谷田部くんのモノマネだったのだろうか? 本人を知らない私には、なんとも判断がつかないけど。

椎名のことだから、あんまり似てはいないのだろうな。


「アイドルの面目躍如と言ったところだね」


名声と醜聞は有名税だ。人の目を惹くということは、好き勝手に噂されるということでもある。

どこぞの俳優が結婚したのなんだのと言う話題が盛り上がるのがいい例だ。

テレビで多少喋っているところを見る程度の人たちのゴシップなんて、私には何が楽しいのかわからないけど。


「そんなのみんなが勝手に言ってるだけだよ~」


心底迷惑そうに、椎名はため息をついた。

苦労話をいくつも聞いている私からすれば、彼女の気持ちも分からないではない。

というか、私もたまに巻き込まれる。


「椎名が可愛いのは、事実だからね」


私が男でも、一度はこの子に惚れているだろう。

物腰は柔らかいし、気配りはできるし、小さなことではへこたれない。

欠点と言えば、ちょっとズレていることと、おつむが足りないことくらいだ。しかしそれらも魅力の一つになっている。


「えへへ~、ありがと~」


へにゃっとした力の抜ける笑顔と声で、椎名はいつものように礼を言う。

必要以上に謙遜しないのも、彼女の美点だ。


「恭ちゃんもお化粧すればいいのに~。絶対キレイだよ~?」

「私は、いいよ。見せる相手もいないしね」


椎名の提案を、さらりと流す。

私は化粧や衣服といった、自分を着飾るものに興味が無かった。

あれは鎧だ。自分を大きく、あるいは美しく見せて、他者を威嚇している。

私は、恐れるほどの興味を他者に持っていなかった。


「も~、希さんがいるじゃないですか~!」


椎名はつかまった私の腕をぶんぶんと振るった。

体が引っ張られてがくがくと揺れる。

衝撃で眼鏡がズレて、夕闇の街並みが赤暗い何かの塊になった。


「椎名に見せてどうするの……」

「私が見たいの~!」


問答になっていない。

椎名が揺するのをやめてくれたので、私はズレた眼鏡を右手で直す。

椎名はお腹の前でカバンを開いて、ごそごそと中を漁った。

なにをしているのだろうと見ていると、四角いピンクのものを取り出してぱかっと開く。

椎名がよく化粧に使っている折り畳み式の鏡だった。

それを私に突きつけて、


「ほら見て! 恭ちゃんノーメイクでこんなに肌きれいなんだよ!

 メイクしたら絶対美人だよ~!」


と息巻いた。

少し鼻息が荒い。


「椎名には及ばないって」


私は鏡をすっと手でよけて、目を逸らして前を向く。


「も~、そんなこと言って~」


椎名は鏡をぱたんと畳んで仕舞うと、カバンの口を閉じた。


「……急に鏡を出すの、やめて欲しいな」


少し視線を落として、椎名の顔を見れないままに、私はそうこぼした。


「ん~?」


椎名は元通り腕を絡めて、私にすり寄って来る。


「ごめんね~。鏡、やっぱり嫌い?」


そうして私の顔を覗き込むように、顔色をうかがう。


「まぁ、すぐに好きにはなれないよ」


私は強がって笑って見せた。

しかし、椎名はこういうことには驚くほど鋭い。

こんなことでごまかせやしないだろう。

自分の横顔に、椎名の視線が突き刺さっているのが分かる。


「希さんはね~。鏡好きだよ~。自分をね~、可愛くできるのが好き~」


椎名は柔らかく笑った。

好きなものを食べている時と同じ笑顔だ。


「それからね~、恭ちゃんのことも好きだよ~。メガネとるとけっこう美人さんだし~、かっこいいし~、優しいし~」


指折り数えながら、椎名は私の好きなところをあげ連ねる。


「飾らないとこも好き~。思ったことすぐ言ってくれるし~」

「も、もういいよ。その辺で」


椎名に好きだと言われるのは慣れているけど、こうもたくさん挙げられるとさすがに照れる。

……自分で列挙しようとしても、半分も出てこないだろうに。


「だからね~、希さんは恭ちゃんがいれば彼氏はいなくてもいいの~」


そう言って、椎名はぎゅっと私の腕を抱いた。

腕から伝わるぬくもりが強くなる。


「とか言って、告白されたら断らないくせに」


すぐに憎まれ口を叩いてしまうのが私の悪い癖だ。

素直にありがとうと言えばいいのに。


「だって~、何も知らないのにお断りできないじゃない~」


椎名は気にした様子もない。


「あっ! 恭ちゃん、ソフト食べよ~ソフト!」


椎名はソフトクリームの屋台を指差したと思ったら、次の瞬間にはその屋台に向かって駆け出していた。

屋台のお兄さんに向かって身振り手振りしているのを眺めながら、私はゆっくりとその後に続く。


「どれにしよっかな~。ストロベリーはいくでしょー、バニラも欲しいな~。あ、キャラメルも入れたいな~」

「二つまでにしときなよ。どうせ食べきれないんだから」

「はぁい。ん~~~! 迷う~!」


いらっしゃいませ、と出迎えてくれるお兄さんを尻目に私はようやく追いついて、唸る椎名をよそにメニューを眺める。

今日の椎名は何を選ぶだろう。甘いものを選ぶのはいつものことだけど、椎名はその日の気分でものを変えるから予測しづらい。

いつも決め打ちで頼む私とは大違いだ。

バニラとキャラメルか。その二つならバニラかな。

でもストロベリーはいくと言っていたから、生乳もあるかもしれない。バニラと言いながら直前で生乳に変える、くらいのことはよくある。


「よ~し決めた~! お兄さん、キャラメルとバニラのミックスに、ストロベリーのソース! コーンでお願いしま~す!」

「わ、三つともとった」


頭いいでしょ~と鼻を鳴らす椎名をくすくすと笑いながら、私も注文する。


「お兄さん、私は抹茶とバニラ、私もコーンで」


二人分のお代をまとめて500円玉で払い、おつりをもらった。

ソフトクリームが出てくるのを待っている間に、椎名がカバンからラメ革の長財布を出し、自分の分のお代を私の手に落とす。

私はそれを小銭入れにしまうと、まだかなまだかなと体を揺らしてソフトクリームを待つ椎名の横顔を眺めた。

まったく、かなわないな。これだけで気が晴れてしまう私も私だけど。

椎名を見ていると、私の抱えている悩みなんて大したことないように思えてくるから不思議だ。


「お待たせしましたー! こちらがキャラメルとバニラのストロベリーソース、それからこちらが抹茶とバニラになりまーす!」


店員のお兄さんが、両手にソフトクリームを持って差し出してくれた。


「待ってました~! お兄さんありがと~!」


椎名は自分のソフトクリームを両手で包み込むようにして受け取る。

お兄さんの手が一瞬動きを止めたのが分かった。

私は一呼吸置いてから、お兄さんが我を取り戻したのを確認して自分のコーンに手を伸ばす。


「ありがとうございましたー! またのお越しをお待ちしております!」


お兄さんの喜色満面な声を背中に受けながら、私たちは屋台を後にした。


「ん~! おいひ~」

「美味しいね」


椎名は両手でコーンを抱えたまま、ソフトクリームの先からついばむようにして食べる。

さっき鏡を好きだと言った時と同じ顔になっている。

私も破顔してソフトクリームの味を堪能した。


「……さっきはありがとね」


その最中、私はぽつりと椎名に礼を述べた。

このたった一言を搾り出すのに、ずいぶんと時間がかかったものだ。


「ん~? なにが~?」


椎名はソフトクリームを味わいながら返事をした。

こちらを見もしない。


「ん……なんでもない」


私も、抹茶とバニラを口に運んだ。

甘味と苦味が口の中で混ざり合うこの味が、私は好きだった。

抹茶だけではダメだ。苦いのは嫌いじゃないけど、茶道にお茶請けがつき物なように、苦いものには甘いものが必要なのだ。


「私も、椎名のこと好きだよ」

「えへへ~、ありがと~」


椎名は変わらず幸せそうな笑顔で、いつものように簡単に、私の気持ちを受け止めた。

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