黒紫の慟哭 赤銀の契約
春雪ノ下
序章
0.それは、いつかの光景
灰色の地面。
無造作に各所から突き出した、燐光を散らす
瘴気とも見紛うほどの、濃密な魔力の気配。
赤水晶の山と呼ばれるその場所には、人も、魔物も、精霊ですらも近寄らない。
一歩足を踏み入れれば濃密な魔力に
その場所に
無謀であることは判りきっていた。
彼の人が傍に居たのなら、貧弱なお前に出来るものか、と。やめておけ、と。きっぱりと苦言を呈されていたことだろう。
実際、彼女の体力は既に限界に近かった。
彼方に見える山頂。まだ中腹ほどだろうか。山登りなどまともにしたことがなく、更には登るにつれ濃度を増していく魔力が纏わりつき、足を踏み出す意志を奪おうとする。
己の足を見た。
何度も転んだ所為で皮膚が何か所も破け、血で汚れている。
足だけでは無い。腕も、顔も、酷い有様だ。
それでも彼女は、一歩一歩を踏みしめるように、歯を食いしばりながら足を進めた。
下を見れば意志が削がれる。
だから、遠い頂きを……ただ前だけを、彼女は見た。
山頂へ辿り着いた時、彼女は満身創痍の状態だった。
既に立つことすら出来ず、腕を使って這いずるように進む。
山頂は窪地になっていて、窪地はびっしりと赤水晶で埋め尽くされていた。
赤水晶は燐光を散らし、燐光は曇天へと向け立ち昇りながら薄れていく。
血の河のようだ、と、彼女は考え、そして、乾いた唇を微かに震わせた。
「……たすけて」
それは、例えば隣に誰かが居たとしても、聞こえるかどうか判らないほどの弱々しい声音。
それでも確かに彼女はそう言った。
誰も居ない虚空へ向けて、助けを乞うた。
けれども彼女は、己に対しての救いを欲している訳では無い。
「お願い、あの人達を助けて。力を、貸して……!」
先程よりもはっきりとした声で、はっきりとした願いを、彼女は告げた。
……それが限界だった。
腕にすら力の入らなくなった彼女は、灰色の地面に倒れ伏す。
彼女の声に応えるものは無い。
やはり伝承でしかなかったのか。そもそも、伝承の存在がただの
諦めが脳裏を
血の河を渡り、荘厳なる羽音を響かせながら、彼の存在が山頂へ降り立ったのは。
弾かれるように、彼女は伏していた顔を持ち上げる。
そうして、声を失った。
目の前に降り立つ存在の、あまりの恐ろしさに。
……あまりの、美しさに。
『娘よ、助けを乞うたか』
彼女は、是と答える。
『脆弱な人の身でここまで来るとは、見上げたものだ』
彼女は、そんなものは苦では無いと答える。
『だが、そうまでして救う価値のあるものが、この世に存在するとは思えぬ』
彼女は、否と答える。
この世界には価値があると。救うべき人が、救いたかった人が確かに居たのだと。
強大なる存在が彼女の意志を幾ら挫こうとしても、彼女は決して、その意志を曲げなかった。
だから、燐光を揺らめかせるほどのため息を吐き出し、彼は言った。
『判った。そうまで言うのであれば、力を貸そう』
『我が力を受け入れ得る器を、お前が持つのであれば。そして、見ていてやろう』
――――お前が全てを諦める、その時まで。
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