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 その眸子の凄絶な光に、津田由紀はヒッと悲鳴を洩らして、思わず後退ってしまった。しかし後ろはソファだ。それ以上後退するには、ソファを飛び越えねばならない。

「お前、京子さんを知っているな?」

 順弥の声が、悪魔の鎧を通して陰々と響く。

 今、少年の足許には、その美しい肢体を貪り喰われ、犯されていた京子が冷たい死体となって転がっている。美貌は、苦痛に歪んだまま固まっていた。

「――何者だ、お前」

「は、早坂京子のマネージャーよ」

「マネージャー?」

 その単語には聞き覚えがあった。

 京子が、順弥に自分がどういう仕事をしているのか教えたときに、その会話の中によく出て来たものだ。


 私の、一番の親友よ。

 親友って?

 そうねぇ、楽しいこと悲しいことをわかちあえる、もう一人の自分ってとこかな?


「…確か、由紀さんといったな。…お前、友だちを殺したのか」

「友だち? ふふ、冗談じゃないわ、こんな跳ねっ返り!」

 友だち、という順弥の言葉が、少年に怯えていた由紀に、冷静さを取り戻させていた。

 今、自分の前にいるのは、愛する女を殺されて怒りに狂うただの餓鬼だ。

 だから、由紀は順弥の心をさらに狂わせるとして、京子の顔を蹴ったのである。

「――!?」

 思った通り、激しい動揺が順弥を貫く。

「しかし、偶然とは恐いものね。まさか、このの所へ、脱走者おまえが転がりこんで来たんだからねぇ。お前のことを聞いたときは、こみ上げる笑いを抑えるのに苦労したわ」

「貴様!」

 順弥が剣を構えた。

「ほほ、殺せるかしら。私は素早いわよ」

 艶然と微笑む由紀の美貌を剣風が襲う。

 順弥の渾身の薙ぎは、しかし由紀の顔を鼻の部分で水平に切り裂くことはなかった。

 由紀は、順弥の凄まじい剣の一薙ぎを、身体をスウェイバックさせるだけで躱したのだ。

 しかも、まばたき一つすることなく。

 順弥は、一瞬茫然と由紀を見つめ返してしまった。

「――わかる? あなたの動きでは遅すぎて、私を捉えることは出来ないのよ。ましてや、殺すことなど。そして、これが私の戦闘形態」

 微笑む美女が順弥の眼の前で変身してみせた姿は、まさに空を飛行するにふさわしいものであった。空気抵抗を極限にまでおさえた鎧は、由紀の肢体にぴったりとフィットし、女性としてのボディラインを露にしている。他の鎧はどれも武骨な観があるが、この鎧は美さえも感じさせた。そして、夜闇に紛れる濃紺の魔装鎧の背には、同じ色の巨大な翼があった。また、兜には鳥の嘴のようなものがせり出していて、ちょうど由紀の顔の上半分を守るようになっていた。

 今、兜からむき出しになった由紀の赤い唇が、ニィッと邪悪な笑みに歪んでいた。

『鳥人』型バードマン・タイプか…」

「そう。役割は偵察と奇襲。この翼のおかげで、『忍者』以上の働きが出来るのよ」

「しかし、その分攻撃力は低い、と」

「ためしてみる?」

 由紀が唇を舐めた。

 それが合図だった。

 鎧の奥で由紀の眼が炯るのを感じた順弥は、一瞬で三メートルほど跳びすさっていた。それを、由紀もまた一息つく間もなく詰め、鋭く尖った右手刀を突き出していた。

 眼を、いや、その奥の脳を狙ってきた。

「ちっ!」

 身を屈め、順弥が手刀を躱す。

 途端、由紀の脚がその顔めがけて跳ね上がろうとする。

 予備動作で、それが膝蹴りだと見破った順弥は、素早く左手でその脚の動きを封じにかかる。

 そして――

「――!?」

 順弥が躱した手刀を引こうとしたとき、由紀は、下方から噴き上がる一条の光を見た。

 ざんっ!

 由紀の手首が、順弥の振るった剛剣によって跳ね飛ばされていた。

「ひいいいい!?」

 迸る鮮血を手首を押さえて止め、由紀は翼を羽ばたかせて、一気にベランダに逃れた。

「ちぃ!」

 しかし、なおも順弥の手が追いすがり、由紀の翼の羽根を、数本引きちぎった。

 そのことに、由紀は愕然となった。

「馬鹿な!? 何故、貴様が…『騎士』型ナイト・タイプが、私よりも速く動けるんだ!?」

「データを信用してはいけない、というところかな」

 今度は、順弥が嗤う番であった。

「俺は試作型プロト・タイプだし、手術の途中で逃げ出したからなぁ。――だから、こういう芸当もできる」

 順弥の右手が下手投げアンダースローの要領で動いたとき、そこから放たれる一筋の小さな銀光があった。

 その銀光は、精確無比な一直線を由紀に胸に引いて飛んだ。

「ぐっ…!?」

 呻いて、由紀は見た。今、自分の左胸の装甲をも貫いて心臓に肉迫する銀光は、『忍者』が順弥に向けて放ったあのくないであった。

「こ、これは…?」

「聞いていないのか? 俺は、貴様等『魔装鎧』の能力を吸収して、自分のものにすることが出来るんだよ」

「そんな…」

 由紀は言いかけて、大量の血反吐をベランダにぶちまけた。

「――さて、死んでもらおうか」

 剣を一颯して構え、疾った!

 しかし、刃は『鳥人』の身体を傷つけることはなかった。一瞬早く、由紀はベランダの向こうへ背中から身を躍らせたのである。

 思わずベランダに駆け寄る順弥の眼に、自由落下から翼を広げて上昇に移る『鳥人』の姿が見えた。

 由紀は一瞬で順弥の頭上遥かに上昇し、痛みをこらえながら順弥に告げた。

「憎いのなら、殺したいのなら、追ってきなさい。――ただし、生き延びられたらね」

 由紀は胸に刺さっていたくないを抜き、そして微笑し、夜の闇に消えていった。

 その笑みの意味を、順弥はその一瞬後に理解することになる。

 世界が、紅蓮に染まり、爆音が夜気を揺るがせた。

 そのとき、三〇階建てのマンションの二〇階にある一室から、オレンジ色の爆光が盛り上がるのを、数十名の通行人が眼にした。

 由紀たちが、何か爆発物を仕掛けていったのだろうか。順弥には、それを察知することは出来なかった。

 ただ、爆発の瞬間、順弥がとった行動は、床に冷たく横たわる早坂京子の遺体を、爆発の衝撃から守ることであった。

 炎にさらわれぬように、京子の身体を抱きしめる。

 涙があふれていた。

 姉さんを殺したのは、俺だ。俺が、部屋から出なければ、守ることも出来たろうに。いや、あの夜、公園で出会わなければ…。

 見ろ、俺を。俺は、この爆発の中に在っても、死ぬことすら出来ない。死んで、罪を償うこともできないのだ。

 ならば、生き延びてやる。そうだ。生きて、闘うしかないのだった。俺には、それしか残されていないのだ。

 己れの眼の前に突きつけられた運命を再確認したとき、サイレンの音が聞こえてきた。誰かが通報したのだろう。順弥の耳は、人々のざわめきすら聞き取れた。

「行こう、姉さん」

 京子の死体にそう囁いた順弥の鎧の背中から、漆黒の巨大な翼が現れた。

 天鵞絨ビロードの如く滑らかな艶を持った美しい闇色の翼であった。

 由紀の『鳥人』の能力を吸収したのである。

 京子の死体は、喰われた箇所を除けば綺麗なものだった。爆発による火傷など、一点もない。順弥が守ったとはいえ、奇蹟であった。

 そして順弥は、夜空を嚇々あかあかと染め上げる炎の舌に紛れて、闇の中へと飛び去っていった。

 そのとき、人々は獣の咆哮を聞いたという。

 悲しくて、悔しくて、そして怒りに満ちた咆哮が、夜空の彼方に消えていった…。

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