『背中』
矢口晃
第1話
温かな雨の降る、ある昼下がりのことです。水滴に濡れた一枚の塀の上で、一匹のなめくじが五匹のかたつむりに囲まれて、何やら散々いやなことを言われていました。
かたつむりの一匹は、なめくじに向かってこう言いました。
「お前はなんてみすぼらしいんだ。背中に殻も背負っていないなんて」
また別のかたつむりは、こう言ってなめくじをいじめていました。
「どうせお前の母ちゃんや父ちゃんも、殻を背負っていないんだろう」
「やあい。びんぼうなめくじやあい。悔しかったら、お前も殻を持ってみな」
なめくじは悔しくて悔しくてたまらず、とうとう泣き出してしまいました。そしてかたつむりとかたつむりの間のわずかの隙間をすばやくくぐりぬけると、誰もいない方へ向かって一目散に駆けて行きました。
「やあい。とうとう逃げ出したぞ」
「なめくじのいくじなし。なめくじのべそっかき」
そういうかたつむりたちの意地の悪い声が、どこまで行ってもなめくじの後ろからいつまでも聞こえていました。
なめくじは一人でわんわん声を立てて泣きながら、いつしか遠い遠い原っぱの中に来ていました。なめくじは、いつまでたってもかたつむりに言われた言葉が悲しくて、涙が止まりませんでした。なめくじに殻のないのは、生まれつきのことなのです。それを意地悪く罵られても、なめくじにはどうしようもありません。
自分に殻がないだけで、どうしてこんなにひどい目にあわなくてはならないのかと考えると、なめくじは悲しくてどうしようもないのです。
そのなめくじが、原っぱの外れにある大きな水たまりに差し掛かった時のことです。きらきらと雨に打たれてまぶしく輝く水の底から、誰かがなめくじにこう声をかけました。
「そこにいるのは、なめくじ君かい?」
なめくじは親切そうなその声を耳にすると、ひたっと足を止めて、声の聞こえた水の中を覗き込んでみました。すると、水の底にいた一匹のたにしと、水面を隔ててちょうど目と目が合いました。
なめくじは、優しく声をかけてくれたたにしに向かって、返事をしました。
「そうです。僕はなめくじです」
たにしは池の縁をずんぐりずんぐり水面の方を目指してゆっくりと登りながら、続けてなめくじに話かけました。
「そんなに泣いて、いったいどうしたんだい?」
なめくじは、今日起こったことのいきさつを、できるだけ詳しくたにしに説明しました。たにしには、
「ふん、ふん」
と時々あいづちを入れながら、静かになめくじの話に耳を傾けていました。そして、なめくじの話を最後まで聞き終わると、なめくじを勇気づけるようなしっかりとした口調で、こう言いました。
「それは、とてもひどいね。ねえ、なめくじ君。ひとつ、かたつむりたちを見返してやろうじゃないか」
突然そんなことを言われて驚いたなめくじは、目を丸くさせてたにしに聞き返しました。
「見返すって、いったい、どうやって?」
するとたにしは自信たっぷりな様子で「ふふふ」と笑ってみせると、とまどうなめくじにこう言いました。
「僕の殻を着て、かたつむりたちに見せてやるといいよ。僕の殻はかたつむりの殻よりは小さいけれど、模様もあるし突起もあるから、かたつむりの殻より断然立派さ」
そう言うなり、たにしはすぽっと、背中から着ていた殻を取り外すと、目の前のなめくじに渡しました。
「これを貸してあげるからさ。早く行って、かたつむりたちに自慢してくるといいよ」
「でも……」
なめくじは、困りました。たしかにたにしの言う通り、この殻を借りて行きさえすれば、かたつむりたちの鼻を明かすことだってできるかもしれません。でもその間、殻のないたにしは、寒い思いをしないのでしょうか? 殻のないたにしは、心細い思いをしないのでしょうか? たにしの気持ちを考えると、なめくじはどうしてもすすんで殻を借りる気持ちになれませんでした。
するとそんななめくじの気持ちを知ってか知らずか、たにしは長い角で自分の胸のあたりをぽんと一つ叩くと、なめくじを元気づけるようにこう言いました。
「なあに。僕のことなら心配いらないよ。君が必ず殻を返してくれさえすれば、僕は大丈夫だから」
「うん。わかったよ」
たにしの熱心な励ましの言葉を聞いてようやく殻を借りる決心のついたなめくじは、言われたとおり、たにしの脱いで貸してくれた殻の中に、自分の背中をすぽっとはめてみました。たにしの殻の大きさは、なめくじの背中にもぴったりでした。
「ありがとう」
なめくじはたにしにそう言いました。
「さあ、早く行きなよ」
たにしも、嬉しそうになめくじに言いました。
さて、たにしから殻を借りて勇気が百倍になったなめくじは、さっき通ってきた道を、驚くような速さでずんずんと戻って行き、あっというまにかたつむりたちのいる塀のところまで戻ってきました。五匹のかたつむりたちは、なめくじが戻ってきた時にも、まださっきと同じ場所で、ひそひそとなにやら内緒話をしているようでした。それがなめくじの姿を一目見るが早いか、口々にこんなことを言い出しました。
「あ、泣き虫なめくじがまた戻ってきた」
「いくじなしのなめくじがまた来たぞ」
しかし、なめくじはそんな悪口を少しも意にも介さないで、どんどんかたつむりたちのいる方へ向かって進んでいきます。しだいになめくじとかたつむりたちの距離が縮んでくると、かたつむりたちもようやくなめくじの様子がさっきまでと違っていることに気がつき始めました。
「おや? なめくじの様子が、何だか変だぞ」
「おかしいな? 背中に殻を背負っているようだぞ?」
「変だな? さっきまで、確かに殻なんて背負っていなかったのに」
なめくじの突然の変貌に、かたつむりたちは戸惑いを隠すことができません。そうこうするうちに、なめくじは五匹のかたつむりたちの目の前に来て、ぴたっと足を止めました。
そして、声高らかに、こう言ったのです。
「さっきは、よくも僕をばかにしたな。さあ、この背中の殻を見ろ。どうだい、僕の殻は。君たちの殻よりも、数千倍も格好いいだろう?」
かたつむりたちは、あんぐりと口を開けたまま、何も言い返すことができませんでした。それもそのはずです。さっき見た時はあんなにみすぼらしい格好をしていたなめくじが、いつのまにか、模様もあって突起もたくさん付いた、とてもすばらしい殻を身に付けていたのですから。
「あっはっは。どうだ、参ったか。これに懲りたら、もう二度と僕らなめくじの悪口を言うんじゃないぞ!」
なめくじが勇ましい声でそう叱りつけると、色を失ったかたつむりたちは、「うわあ」と悲鳴を挙げながら、みんなしっぽを巻いて四方へ散って逃げて行ってしまいました。
さて、計画通りかたつむりたちの鼻を明かすことに成功して、すっかりいい気分になったなめくじは、かたつむりたちの逃げて行ってしまった後、心の中でこんなことを考えていました。
(あーあ、ずうっと、この殻が背中にあったらいいのに。そうすれば、かたつむりに二度と悪口を言われる心配もないのになあ)
そうに、違いありません。なめくじがこのままずっとこの殻を背中に背負っていれば、それより見劣りのする殻しかもっていないかたつむりたちから、二度と口悪く罵られる気遣いをせずにすむのです。
しかし、なめくじはたにしに殻を返しに行くことにしました。それは、なめくじがその後すぐに、こう考え直したからです。
(でも、やっぱりこの殻はたにしさんに返さなきゃ。だってこの殻はもともと僕のものではないし、僕がこのまま使い続けていたら、たにしさんがきっと困るに違いないから)
そう思ったなめくじは、本当は返したくない気持ちを自分の強い意志で断ち切って、借りた殻をたにしに返しに行くことに決めました。
えっちらおっちら、さっきの池のほとりまでなめくじが帰ってくると、そこには殻のないたにしがなめくじの帰るのを今か今かと首を長くして待っていました。
「ただいま、たにしさん」
「やあ、なめくじ君。どう? うまく行ったかい?」
たにしにそう聞かれると、なめくじは胸をそらしてこう答えました。
「うん。かたつむりのやつ、僕の背中の殻を見た途端、みんな肝をつぶして逃げて行ったよ」
それを聞くとたにしもまるでわがことのように嬉しそうに、
「そうかい。それはよかったね」
と笑いながら言いました。
「たにしさん、この殻、どうもありがとう。返すよ」
そう言いながら、なめくじは自分の背中に背負っていた殻から、すぽっと体を抜きました。とたんにひんやりとした空気が、裸になったなめくじの背中に触れたので、なめくじは思わずぞくっと身震いしました。
たにしは返された殻に再びすぽっと背中を入れると、なめくじを心配するような様子で、
「でも、本当にいいのかい? この殻がなくなったら、君はまたかたつむりにいじめられないかい?」
と聞きました。それを聞くとなめくじは、
「ううん」
と首を横に振りながら、こう答えました。
「平気だよ。これからは殻がなくっても、かたつむりたちにいじめられないような強い僕になるよ」
なめくじがそう言ったのを聞いて、たにしは安心したようにふうっと深い息を吐きました。
なめくじは、続けてたにしにこう言いました。
「今日、僕は一つ決めたことがあるんだ」
「へえ。それはいったい、どんなことだい?」
たにしは、話の続きが早く聞きたいというように、なめくじ聞き返しました。なめくじは、ゆっくりと深呼吸をした後に、たにしにこう話しました。
「僕もね、たにしさんのように、目の前に困っている人がいたら、すすんで手助けができる人になりたいって、思ったんだ」
たにしは、嬉しそうににこっと微笑みました。そして、殻のなくなったなめくじに、こう言いました。
「また困ったことがあったら、いつでも僕のところに相談に来てね」
なめくじも、心から嬉しそうな笑顔をたにしに向けながら、
「もちろんだよ。たにしさんも、もし困ったことがあったら、迷わず僕のところに来てね。僕にできることだったら、何でもするから」
と言いました。
二人の背中にはきらきら、きらきらと、まるで星屑のシャワーのように明るい雨粒が、いつまでも降り注いでいました。
『背中』 矢口晃 @yaguti
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