神のお告げ

「神様の声が聞こえる……」


 彼女が突然そんなことを言い出したので、俺はビックリして振り返った。


 この森で出会った日から、俺たち二匹のカマドウマは仲良く昆虫の死骸や落ち葉を食っては所狭しとこの世界を飛び跳ねていた。


 俺たちに驚く人間の足をかいくぐり、ヤモリの舌を避け、眠ってるガマガエルの横を気づかれないようにそーっと跳ね、とにかく自分たちの力でこの世界を生き抜いてきた。


 つまり、神様なんてもんには縁がない。


 だというのに、彼女は顎を動かすのもやめ、複眼をぼうっとさせて、空なんか見ていやがる。


「おい、何言ってんだよ。悪い草でも食べたのか?」


 笑い話にしようと、俺は精一杯おどけた調子で言ったが、彼女はこっちを見ようともしなかった。それどころか、


「神様が呼んでる……」


 そう言って、どこかへまっしぐらに跳ねていく。


「お、おい、待てよ!」


 食いかけの死骸を残し、俺は慌ててその背中を追いかけた。まさか、他にいいが出来たんじゃねえだろうな、胸に暗雲がよぎる。


 誤解のないように言っておくが、俺は相当な色男だ。触覚はバッチリ均等な長さだし、顎も強い。おまけに足の筋肉ときたらモリモリで、色も最高にイカしてる。


 なのに、俺の何が不満だってんだ! 悔しさに顎をギリギリ噛む。と、そのときだった。水の匂いがした。


 川だ。俺たちを食う、危険な魚の野郎が棲んでいる川だ!


「危ない!」俺は叫んだ。


「そっちへ行ったら、魚に食べられちまうぞ!」


 しかし、彼女は跳ねるのをやめようとしない。


「おい! やめろって言ってるだろ! そっちに行ったら死ぬ――」


「…………ないの」


 そのとき、風に乗って彼女の小さな声が聞こえた。

 え? 俺は聞き返す。するともう一度、今度ははっきりと、


「……止まらないの」


「止まらないって、どういう――」


 叫びかけた俺は息を呑んだ。未だ全速力で跳びながら、振り返った彼女は泣いていた。


「止まらないの。だって、もう私は神様のものだから――」


 ごめんね、カッちゃん――最後の瞬間、彼女はそうつぶやいただろうか。その言葉が終わらぬうちに、彼女は最高速度トップスピードのまま、川へと身を躍らせた。


「ウマ子ーーーーーー!」


 ギリギリで川に垂れる葉に掴まり、俺は声の限りに叫んだ。


「悪かったな」


 彼女を飲み込んだ魚が水面に顔を出してニヤリと笑った。


「こ、この野郎……!」


 俺は自慢の筋肉に力を入れたが、魚相手ではどうしようもない。


 彼女を失い、子孫を残すこともできなくなった俺は、その日からそこでぼんやりと川面を見て過ごすようになった。


 彼女を食った魚は、俺のことも食べたそうに時々ぽっかりと浮かんできたが、陸に上がれないのでは仕方なかった。



 俺たちは、互いを監視するように毎日を過ごした。そのうちに風も冷たくなってきた。俺の命も長くはないと知らせるように、自慢の筋肉はしぼんできた。


 そんなある日のことだった。彼女を食ったあの魚が、突然、川面でバチャバチャと跳ね出した。


「おい、何してんだよ、お前」


 川には時折、あいつのような魚を食べる白い鳥が来るのだった。それがあんな目立つようなことをしていては、すぐに見つかって食われてしまう。


「やめろよ、鳥が来るぞ」


 彼女を食った仇ではあるが、俺は一応忠告した。魚に食われ、今度は鳥に食われるなど、彼女が可哀想だと思ったのだ。しかし、魚は跳ねるのをやめなかった。


「おい、病気か?」


 そう聞いてみたが、その顔は恍惚とし、跳ねることを純粋に楽しんでいるように見える。その音に引き寄せられたのか、心配したとおり、白い鳥がやってきた。


「……やつが来たぞ!」


 草の影に隠れ、俺は声を張り上げたが、魚は何が楽しいのか、「ヒャッヒャッヒャ」、奇妙な笑い声を上げている。


 もうどうでもしろ、俺は息を潜めた。逃げもしない魚に、鳥が近づいていく。憎い魚ではあっても、殺される瞬間など見たくはない。視線を背けたそのときだった。


「アヒャヒャッ、神様ぁ! 神様だぁ!」


 ――神様?


 聞き覚えのあるその言葉に振り向いたときにはもう遅かった。魚は白い鳥に飲まれ、影も形もなくなっていた。


 神様が呼んでる――そう言った彼女は魚に食われ、神様ぁ、そう叫んで魚は鳥に食われていった。


 一体何が起こってるんだ、俺がそう思った時、ひょろひょろともう一羽、白い鳥が飛んできた。やせ細ってはいるが、いまにも歌い出しそうな表情をした鳥だ。


「お前、まだ魚とか食ってんの?」


 すると、痩せた鳥が楽しそうに言った。


「魚とか、食わないほうがいいって」


「いや、どう見てもお前、痩せすぎだろ。食べたほうがいいぞ。人間に掴まって食われるだろ」


 魚を食べた鳥が真面目に言うと、


「まったく、これだからやつはしょうがないなあ。そんなこと、どうでもいいんだってば」


 痩せた鳥はそう言い――続けてこう言った。


「だって、神様が呼んでるんだから」


 それを聞き、俺は震えた。


 あの鳥はそのうち「神の声」によって人間に自ら近づき、掴まって食われてしまうのだろうか。そして、その鳥を食った人間もまた、「神の声」を聞くようになるのだろうか。


 俺は考えた。しかし、その思考は俺の望まぬ形で、唐突に途切れることとなった。


 ――川へ飛び込みなさい。


 それは甘く優しい声だった。


 その瞬間、体中に快感が走り、俺は危険な川に飛び込みたくて仕方なくなった。目の前の流れを、俺はじっと見つめる。


 ――何をしているの? 早く川へ飛び込むのよ。


 その声にすぐに従いたい気もしたが、しかし俺にはまだ微かに理性が残っていた。川は危険、本能の壁はそれほど容易く突破されないのだ。


 ――ほら、早く。


 けれど、その声は彼女にも似て、何度も俺を呼んだ。筋肉の少し落ちた足が震えた。意志とは反対に、俺の足はすぐにでも水に飛び込みたがっていた。


 ――ほら、こっちは気持ちいいわよ。


 危険、気持ちいい、危険、危険、気持ちいい、けど、気持ちいい。そんな単語がぐるぐると頭を回り始め、俺は目が回ったような気分になる。


 危険、気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい、危険? 気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい――


 そのとき思考がパチンと弾け、アヒャ、魚と同じ笑い声が俺の口から飛び出した。


 ごめんね、瞬間、彼女の最後の言葉が蘇る。


 それが何に対しての謝罪だったのかも思い出せないまま、俺は高笑いをしながら、「神様!」、魚の待つ川へとひと思いに身を躍らせた。

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