最初の一歩

「君たちは、チベットという国を知っているだろうか」


 教授はそう言うと、生徒たちを見渡した。


「正確に言えば、チベットは国ではなく、自治区だ。しかし、もっと正確に言えば、チベットは本当は自治さえ許されていない中国の一部分だ。そうだよ。だから、あまり知られていないことだが、チベットの宗教的権威であるいまのダライ・ラマが亡命政府として求めているのは、中国からの『独立』ではなく、『真の自治』なのだ」


 生徒たちが理解する間を待つようにうなずくと、彼は続ける。


「では、『真の自治』とは何か。その一番の意味は、チベットの人々が彼らのやり方で次の『ダライ・ラマ』を選ぶことだ。これは知っている人も多いと思うが、『ダライ・ラマ』は亡くなると、転生し、生まれ変わると信じられている。だから、先代が亡くなると、占い師が方角や目印などを告げ、生まれ変わりの子供を探すのだ。選ばれた子供は次の『ダライ・ラマ』として教育を施される。それが、彼らの求める『自治』の意味だ。しかし――」


 彼は首を振った。


「しかし、中国は勝手に次のダライ・ラマになる子供を選び、政府に匿ってしまった。……もちろん、チベット亡命政府も従来のやり方で、子供を選んだ。けれど、次のダライ・ラマがどちらになるかは自明だね。そう、中国の選んだほうだ」


「どうしてチベットは抵抗しないんですか?」


 それまで黙っていた女子生徒が手を上げた。


「亡命してるダライ・ラマって、一人だけ逃げてるってことですよね、チベットから。それってズルくないですか?」


「彼らも昔、蜂起をしたことがある。いまのダライ・ラマが亡命したのは、そのときだよ。けれど、チベット全土が巻き込まれた戦禍と、その後の寺社破壊によって、思うところがあったんだろうね。ダライ・ラマは平和的解決を望むようになった。実は、彼はそれでノーベル平和賞を受賞している。けれど、どうかね?」


「どうって……」


 顔を見合わせる生徒たちに、彼は、


「平和的に『自治』を主張するチベット政府の言い分など、いま、誰が知っている? チベットはいまも弾圧され、政府は中国の傀儡になろうとしているのに、誰も何も知らないんじゃないか? どうだ? 君たちがその良い例だろう? 平和を主張する者の声というものは、概して小さいのだよ。誰も耳を傾けないほどに」


 そして、続ける。


「だが、どうだい? 君たちの中で、IS国について知らない者は? ……そうだね、たぶん、いないだろう。なぜなら、彼らはテロという暴力的な手段に打って出た。もちろん、それがいいことだとは言わない。けれど、暴力で発せられる声は世界中に届くほどに大きい。それは強引だが、主張をする上では有効な手段だ。その主張を君たちは理解しなくても、せめて耳に届けることはできる」


「じゃあ、教授はテロに賛成ってことなんですか?」


 今度は、怒ったように男子生徒が発言した。


「テロを支持するって、そういうことですか?!」


 すると、教授は緩く首を振り、さまざまな感情を露わにした生徒たちをもう一度見渡し、言った。


「いいや、もちろんそうではない。けれど、彼らがなぜ暴力的な手段にとって出るのか、それを理解することが、平和への一歩だと私は思うのだよ」


 彼はそう言って、黒板に書かれた議題――テロをなくすためにはどうするべきか――をしみじみと振り返ったのだった。

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