第一章

第一章 第一話

 今様を謡う声が聞こえて来る。

 袈裟を身に纏った一人の男は何気なく、小さな市の開かれている大通りを歩いている。

 伊豫いよの国、高縄半島は砂利まじりの「マサ土」で、作物の根付きが弱く、地滑りや洪水といった災害があればすぐに流れてしまう。そんな恐怖と背中合わせに、畑を耕し、作物を植える。人々はそうした営みをくり返して来た。

 週に一、二度開かれる市では、野菜や穀物が店先に並んでいる。

 そんな中を眺めて歩くこの男は、農民ではない。

 袈裟は手入れが行き届いておらず、色褪せている。すらりとした長身で、太い眉の下から鷹のように鋭い目を、一心にある一点に向けている。

 今様の声の方向に人だかりが出来、みな商売の手を止めて聞き入っている。

 何故こんな場末の市の直中で謡うのだろう。京や四天王寺ならばもっと地位も懐も豊かなお歴々の御相伴に与ることも出来るだろうに。芸能を生業として生きるのなら、尚の事。

 美しい謡声の主が誰なのかを見極めようとするが、人に遮られてなかなか分け入れられない。女性の声というのは分かるのだが、どんな姿の、どんな容貌の、どんな口元から奏でられているのか。

 男は不意に後ろからどんと圧され、円となっている真ん中に押し出される。

 顔を上げて見遣ると、若い女だった。紅やら黄やらの極彩色の、見たこともない衣を纏い、不思議な形のかんざしで髪をまとめている。衣の上から窺える肉感あふれるふくよかな姿体から、磁器のように白い手足がすらりと伸びている。

 傍らに何人か、やはり異形の男女が立っている。きっと芸子集団の仲間なのだろう。

 

 釈迦の御法みのりは浮木なり

 参りあう我らは亀なれや

 今は当来とうらい弥勒の

 三会さんえの暁 疑わず

 

 目を閉じると、弥勒菩薩の御姿が浮かんで来る。それにしてもなんと心地のよい声なのだろう。高く繊細で、しかし鋼のように強い。

 周囲の人々も、その面妖ですらある歌声にうっとりと聞き入っている。日々の倦むような労働の合間の憩いなのだろう。

 

 歌声が途切れた途端に、感嘆とも、共感とも云えない、うねりのような歓声が上がる。

「ありがたや、ありがたや」

「まさに阿弥陀如来様がここに来られたようじゃ」

 老人は涙ぐんでいる。農家の妻とおぼしき女は手を合わせて一心に祈りを捧げている。

 傍らから現れた男が、うやうやしく声を張り上げる。この集団の頭領らしい。

「ありがとうございました、ありがとうございました。ここでお目にかかれましたのも何かのご縁、またお会いできますことをみ仏にお祈りしましょう」

 そう云うと、一団は深々と一礼を捧げる。次いで周囲の人々は一斉に、一団の前に広げられた大きな風呂敷に、駄賃を放り投げて立ち去って行く。皆、興奮したのであろうか、一様にやや顔を紅潮させている。

 我に返った袈裟の男も、袂にあるなけなしの小銭を手に持ち、近付いて行く。

 銭を投げ入れようとした瞬間、先程まで今様を謡っていた女が、下げていた頭を不意に持ち上げた。自然、男は彼女の視線をまともに受け止めてしまう。

 まつげが長く、瞳はまるで琥珀のようにかげり、しかし硝子のように澄んでいる。薄く左右に伸びた唇は、また彼女自身も虚をつかれて見据えてしまった男の視線に戸惑い、やや半開きになっている。

 まるで永遠のような一瞬。

 二人が互いの存在を初めて認め合った瞬間だった。

 

 間に、黒い衣を身に纏った優男が割って入って来る。

 袈裟の男は、目を見据えられ少し身構える。妙な威圧感がある。やはり武士の、死線をくぐり抜けて来た目だ。

ちょうに色目使ってんじゃねえよ、糞坊主」

 今様の女—蝶、という名のようだ—を護るように腕で遮ると、連れ去るべくその場を小走りで歩き出して行く。他の集団の面々も、風呂敷に集まった駄賃を抜け目なく掻き集めると、そそくさとその場を立ち去って行く。

 他の者たちは変わらずに、ありがたや、ありがたや、と何度も繰り返しては、集団の背中に向かって手を合わせている。

 

 が、袈裟の男だけは、それを見送って呆然と立ち尽くしている。

 あの女とは、初めて逢ったような気がしない。

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