十四日目

 まどろみの世界から覚めてきているのか、ベッドの弾力、シーツ、掛け布団、枕とそのカバーの感触が蘇ってきた。瞼を開ければ完全に覚醒できそうだったけれど、私はまだ全身が怠かったため、内側に寝返りを打ち、目を強くつぶった。

 私はまだ眠っていたい。きっと彼がそのうち起こしにきてくれるだろうから、それまでまどろんでいても大丈夫。

 私はよりベッドの内側へと身体をずらし、掛け布団を引き寄せようとする。

 コツン。

 額に当たった固い感触。掛け布団越しに伝わる厚みを持った熱……。

 私は目を開けた。眠気は吹き飛んでいた。

「眠って……いるの?」

 私は小さく呟いた。

 私の視界いっぱい、至近距離に映る彼は、瞳を閉じたまま寝息を立てていた。

 安らかな顔。

 私がうらやましくなるくらい長い睫は伏せられていて、整った顔全体の筋肉は弛緩していた。

 私が監禁されてからずっと張り詰めていて、余裕とか隙が全くなかった彼の無防備な姿。意識を手放し、何にも囚われず考えずにすむであろう眠りは、もしかしたら今の彼にとっては一番幸せな時間なのかもしれない。

 あれからずっと眠っているのかな?

 私は掛け布団の中を覗いてみた。自分を抱きかかえるかのように少しだけ腕、腰、足を折り曲げた彼は、私と同じく裸のままだった。左腕の肘から手首まで巻いている真っ白な包帯を除いて、彼が身につけているものは何もなかった。

 彼自身も、この監禁生活に疲れてきているのかもしれない。

 監禁される以前から、彼が私よりも遅くまで眠り続けていることはなかった。いつも私より早く起きて身なりを整えていて、寝る時だって決して私よりも先に眠ってしまうことはなかった。だから私が彼の寝顔を、こんなにもまじまじと眺められたのは、もしかしたらこれが初めてなのかもしれなかった。

 私は彼の頬に右手を添えた。温かくてなめらかな肌。私は彼に触れた手をそのまま顎へ、そして首筋へと滑らせていく。なんとなく彼を触りたいと思った。

 首から肩へ手を這わせていく。色白だから華奢そうに見えるけど、筋肉質で骨格ががっちりとしているから、やっぱり男なんだなと実感する。そのまま私は肩から腕へと彼に触れていく。温かみを持った、滑るような肌からざらついた感触に変わる。

 包帯の上まで、私の手が伸びていたのだ。

 何か月も前から巻かれている包帯。色が真っ白で黄ばんでいないことから、たぶん毎日新しい物に取り換えているのだろう。

 私は彼の左腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。包帯の中身が気になった。私を押さえつけたり、何の支障なく左腕を酷使していたことから、きっと骨折はしていない。一週間くらい前に出血した時に、彼が頑なに腕を庇ったことから、きっと何かを隠すためなのだろう。

 彼は今、眠っている。また元のように巻き戻せば、たぶん気づかれないだろう。

私は医療用のテープで留められた先端を外し、彼の左腕に巻かれた包帯を解き始めた。

スルスルと、私は幾重にも巻かれた彼の包帯をスムーズに解いていった。ひも状になる包帯と、それと共に露わになっていく彼の左腕。

「ッ」

 私は息を呑んだ。包帯が取り除かれた彼の左腕の、内側を見て。

 そこにはたくさんの裂傷があった。手首を中心に、肘から下の腕全体に、線のように何本も刻み込まれていた。

 白い肌に直線的な赤紫色の少し盛り上がったたくさんの傷。それは刃物で何度も何度も切りつけたかのようであり、時間差があるのか、傷の色合いが若干異なっていた。茶色く傷跡になりかけているものから、まだまだ傷が塞がりきっていない、赤に近いものまであった。傷同士がたくさんあるため、交差していたりもした。

 今まで約二週間、私は彼に監禁され続け、彼もまた家から一歩も出ず、ずっと私と一緒にいた。そこに誰かが干渉する余地はなく、二人きりの世界がすっかり構築されていた。だから、塞がりきっていない傷や、そこそこ新しいものがあるということはつまり、このたくさんの裂傷は彼が自分でつけたことを示している。

 リストカット。いや、下腕部いっぱいに傷がつけられているからアームカットと呼んだ方がいいのかもしれない。

 私は彼の傷の一つを指でなぞってみた。何本も走る裂傷のうち、茶色に変色しかけている、比較的古そうで長そうなものに触ってみた。

 彼はどうして自傷行為なんてしているの?

 ボロボロになった左腕。指に伝わるざらついた凹凸がわかる感触が、彼が付けた傷の存在を私に突き付けてきた。

 きっと痛い。痛かったはずだ。命に別状はない程度だけど、例え自分でやったのだとしても、痛みを彼は感じたはず。

「あ」

 彼が目を開けた。私は彼の左腕を持ち、傷を指でなぞっているまま。

 彼は一瞬だけ呆けたような顔をした。けれどすぐに私が左腕の包帯を外して掴んでいることに気づき、表情を強張らせた。そして次の瞬間、思い切り私から左腕をふんだくると、隠すかのようにもう片方の手で掴み、掛け布団の中に入れ、私から距離をとった。

「……見たな。見ただろう」

 寝返りを打ち私から顔を背け、身体を丸め彼は低い声でそう言った。その肩は震えていた。

「……」

「……気持ち、悪いだろう? 醜いって思っただろう? 僕に幻滅した……だろう?」

 何も答えられずにいた私に、彼は静かにそう続けた。震える声を低く、怯えたように彼は絞り出した。

 私はそんな彼に背中だけ起こし、肘で掛け布団内を進んでゆっくりと近づいた。それからガタガタと震えたままの彼を背後から抱き締めた。彼の腕ごと私は自分の腕を回し、自分の胸を彼の背中に押し付ける形で。

「私はあなたに幻滅なんてしていないわ。あなたが自分を傷つけていることは悲しいけれど、気持ち悪いだなんて思わない」

 私はぬくもりが少しでも伝わるように、より強くギュッと腕に力を込めた。小刻みに動く彼の身体、体温、直にわかる肌の感触。

 私は彼に抱きついたまま、左手だけを動かし彼の左腕――色白な肌にたくさんの切り傷が刻み込まれた腕を掴んだ。そして腕を解き、身体をずらして、彼のボロボロになった左腕を引き寄せ、また私からも近づいた。

 私は彼の左腕の裂傷に口づけた。

「やめろ! やめてくれ」

 彼はすぐさま私から自分の腕を引き剥がした。

「こんな汚い腕に……やめてくれ」

「汚くなんかないわ! あなたはきれい。私はあなたの全てを愛しているもの」

 私は再び彼の腕に顔を近づけた。ちゃんと彼に左腕の傷達も含めて全部愛していると、汚いとか醜い、気持ち悪いだなんて思っていないことを伝えたかった。彼に理解してもらいたかった。だから私は行動で示そうとした。

「やめろ。お願いだ、こんな汚い腕を、僕に、触れようとしないでくれ」

 彼は再度、私から自分の腕を引き剥がす。今度は私がもう彼の左腕にキスできないように、頭を手で押さえつけられた。逆らうように私は押し返してみるがビクともしなかった。けれど握力自体は弱かったから、痛みを感じることはなかった。

「朝食、作ってくる。だから君はここで待っていてくれ。なるべく早く作るから。作ってくるから」

 彼はそう言うと起き上がり、一人服を着始めた。真っ先に長袖のカッターシャツに腕を通し、痛々しい自傷の痕を私から隠した。私は寝転がったまま身体を横に傾け、そんな彼の様子を黙って見ていた。

 今はこれ以上、彼を刺激しない方がいいのかもしれない。きっと朝食を作ってまたこの部屋に戻ってくる頃には彼も落ち着いているだろう。その時にまたきちんと彼に何をしていたとしても愛していることを伝えればいい。

 私は彼のぬくもりが残る位置に寝転がり目を閉じた。











 彼に足枷を付けられ監禁されてから約二週間。食卓から卵料理、野菜サラダが消えた。

「気になっているだろう?」

 二人でテーブルに着き、品数が減った朝食を食べていると、ふいに彼はそう口にした。

「何が?」

 私は訊き返した。

「……僕の、左腕の、リストカットのこと」

 少し躊躇うように、静かに彼は言った。

「うん。あなたがなぜそんなことをしていたのか、話してくれるのならその理由を知りたいわ」

 私は正直に頷いた。彼がどうして自分で自分を傷つけるような真似をしてしまっているのか、聞かせて欲しかった。

「僕はさ、臆病者なんだよ。それに真っ黒なんだ。いつからだろう? 君が突然消えてしまうんじゃないかって不安に憑りつかれて監禁したい、僕の傍から放したくないって思うようになったのは。気がついた時にはずっとそんなことばかり考えていたんだ。僕はそんな自分が許せなかった。挫折ばっかりで何一つ成し遂げられない矮小な自分、君に対してひどいことをしようと考える自分の心が憎くて憎くて、それで……」

 彼は言葉を切った。苦悶の表情を浮かべながら息を吐いた。それから大きく息を吸い目を大きく見開きながら続けた。

「切ったんだ。手首を。カッターナイフで。けど、けど……」

 彼は自分の左腕を持ち上げ、見つめながら苦々しく言う。

「死ななかった。いや、臆病者の僕はわざと死なない程度に切ったんだ。本当は死ねばいいのに、致命傷になるぐらい深く切る勇気が臆病者の僕にはなかったんだ」

 彼は心底自分のことを憎んでいるようだ。忌々しげに言葉を吐き出していく。

「君を監禁したい衝動に常に駆られ始めて、僕はそんな自分が嫌で嫌で、消したくて抑えたくて、また切ったんだ。痛いだけで死にはしないけど、せめてこんな感情だけは捨てたかったんだ。こんな真っ黒な感情を持つ自分を罰したかった。衝動に駆られる度に、自分が嫌になる度に、何回も切って切って切りまくったんだ」

 彼は頭を抱えてガタガタと肩を揺らした。顔を片手で押さえたまま、さらに震えた声で続ける。

「だけど全然なくならなくて、抑えたくても一時的なものにしかならなくて、だからまた切って、そしてそれを繰り返していって……。手首が、腕が醜く汚くどんどんボロボロになっていくのがわかったけれど、やめられなくて、衝動は消えなくて……」

 彼は顔を押さえていた手を下ろした。

「結局、君をこうやって監禁して無理矢理毎日犯している。……僕は自分の心に負けたんだ」

 さっきまでの怯えようは消え、無表情に平坦な口調でぽつりと言った。

「本当はさ、こんなこと、君を苦しめるような真似なんてしたくないんだよ。なんでかな? 本当は君ともっと、きちんと二人で共に、生きていきたいのに。どうしてこんなことをしているんだろうね。こんなこと、監禁なんて犯罪行為、していたって本当は何にもならないのにね。未来がよりなくなるだけなのにさ」

 彼は乾いた笑い声を上げ自嘲する。

「僕はこんな自分が大嫌いなんだ。君がいなくなるかもしれない不安に押し潰されてこんなことしている自分が憎くてたまらない。こんな自分が嫌で、こんなこともやめたくて今も毎日切っているけど、やっぱりどうにもならなくて……。死ねばいいのにね。こんな僕なんか。その方がきっと君にとっていいはずだしね。こんな奴、君だってもう嫌だろう? 本当は嫌いだろう?」

「あなたはただ、少し心が弱いだけだよ。ねえ、そんなに自分のことを責めないで」

 私は席を立ち、静かに彼の目の前まで歩いていった。

「私はあなたのことを嫌いになんてならないわ。ううん、今もこれかろもずっと愛している。ずっとあなたの傍にいるわ」

 横から彼の身体を私は抱き締めた。

「どうして君は僕のことを嫌いにならない? もっと憎んで蔑めばいいのに。どうしてそうしない?」

「だって私はあなたのことを愛しているもの。ねえ、私を信じて」

 私は彼に身体を押し付け、腕の力を強める。

「僕は君の自由を奪って、毎日毎日、何度も何度も犯しているんだよ。無理強いさせている。そんなひどい奴をどうして愛し続けられるって言うんだい?」

「あなたはひどい人なんかじゃないわ。そうやってちゃんと自分のことを責めている。罪悪感を持っている。本当にひどい人は何をしたってなんとも思わないもの。あなたみたいに悩んで自分を責めて、自傷までしたりするようになんてならない。あなたは優しいわ」

 私は彼の耳元で穏やな声音で囁いた。包み込むように、彼に私の想いを伝えられるように。

「僕は優しくなんかないよ。君に優しくありたかったけど、優しくできなかった。僕が悩んだって責めていたって、こんな風に自傷していたって結果は変わらない。君を監禁して苦しめていることに変わりはない。僕がどう思って何をしていようが君にとっても、客観的に見ても何一つ変わらない。君の言う本当にひどい奴と同類だよ、僕は」

「一緒なんかじゃないわ。あなたはひどい人なんかじゃない。同類なんかじゃないわ。私が保障する。あなたに監禁されている私が言うんだから間違いないわ」

「どうして君はそんなに僕に尽くしてくれるのかな? 君は本当は自由になりたいだろう? こんな生活は嫌だろう? なのにどうして僕を抱き締める?」

「だって私はあなたを愛しているもの。確かに自由にはしてもらいたいわ。でもそれは日常生活に支障をきたすからで、あなたを不安定なままにはしておけないわ。私の一番はあなたで、元の生活に戻る時はあなたも一緒じゃなければ駄目なの。だから私はあなたが信じてくれるまで、あなたが私を解放してもいいと思える時まで待つわ。あなたが私を信じてくれるなら何だってするし、されてもいいわ」

 彼により強く抱きつき、私は強く、真剣に言った。私の一番は彼で、彼にいなくならないと、愛しているんだと証明するためなら私は何だってするし、どうなってもいい。私は彼と共に生きていきたいのだ。

「……ごめん。君が愛しているのが僕じゃなかったら良かったのにね。僕が君を、好きにならなければ、愛さなければ良かったんだろうね。君をこんな目に合わせたり、君にそんなことを言わせたりやらせたりしている」

 悲しげな声で彼は苦しそうにそう吐き出した。彼の震えが私に伝わってきた。きっと私を監禁していることに対しての罪悪感に苛まれているのだろう。彼は優しくて几帳面で、本当は人一倍責任感が強いのだから。

以前から彼は理想通りにいかない自分を必要以上に責めていた。彼は誰よりも自分に厳しく、そのせいで人並み以上に思い悩むのだ。

「そんなことない。私はあなたのことを好きになれて愛せて、あなたにも愛してもらえて幸せよ。私はあなたに救われたもの」

「でも僕は結局君を……」

 私は彼に顔を近づけ、その唇を塞いだ。これ以上彼に自分のことを責めるようなことを言って欲しくなかった。それにただただ彼が愛おしくて、キスしたいと思った。

「そんなことをすると僕はまた君を……」

「いいよ。あなたがつらそうにしているのが、私は一番見ていられないもの」

 もう一度、私は彼と唇を重ねた。今度は深く、舌を絡める。彼の方も応えてくれて私達は深く、溶け合うようにくちづけ合った。

 私と彼が二人で一つだったら良かったのに。そうしたら彼はここまで不安と恐怖に怯えることはなかっただろうし、私だって彼をより身近に感じられて一緒に寄り添い合える。愛しているってことをお互いに共有できるかもしれない。

 どうすれば彼は私の存在を伝えることができるんだろう? どうすれば彼と以前のような関係に戻れるんだろう? どうすれば彼に私が愛していることを感じてもらえるんだろう?

 彼の腕が私を抱き締めた。私もより強くギュッと抱き締め返した。











 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る