愛の証明

七島新希

一日目

 ある日彼のベッドで目を覚ますと、私の左足首に見慣れない、金属製の輪っかが取り付けられていた。銀色のひんやりとした無骨なその輪っかからは鎖が伸びており、たぶんベッドの脚首と繋げられているのだろう。足を動かすと、じゃらりと音が鳴った。

 拘束されている。

 でもどうして?

 私は首を傾げる。理由を知りたくて周囲を見渡してみるものの、彼はもう起きたのかこの部屋にはいなかった。

 静か。

 右を向けば私が寝ていたベッドから一メートル弱離れたところに、明るい色調のカーテンで覆われた窓が見える。カーテンからは少しだけ太陽の光が透過されていて、朝になったのだとわかった。

 私は掛け布団を身にまといながらベッドから降り、窓へと近づく。音を立てる鎖に改めて拘束されているんだと実感させられたけれど、長さに余裕があるのか簡単に窓まで辿り着けた。

 カーテンの境目に手を入れる。窓は閉まっていて引っ張っても開かず、鍵が掛けられているようだった。

 閑散としているような気がしたのはこのためかと、私は一人納得する。まだ暑さが残るこの時期、普段は窓を開け放っているから、大通りに面した彼の部屋には自動車の走る音とかがよく聞こえるのだ。

 でも今日は窓が閉まっている代わりにクーラーが作動していた。

「おはよう。起きていたんだね」

 ドアが開く音とその声に私は振り返った。

「おはよう」

 平常の穏やかな眼差しをした彼に私も挨拶する。

「ねえ、これは何?」

 私は自分の左足首に取り付けられた輪っかを指差し、彼に尋ねた。

「足枷だよ」

 彼は当たり前のことのように言った。

「どうして私に足枷を付けたの?」

「君に消えて欲しくないから。どこにも行って欲しくないからだよ」

「いなくなったりなんてしないよ。こんなことしなくても私はあなたの傍にいるのに。会社とかがあるから四六時中はさすがに無理だけど」

 私は困り顔で微笑む。

「嘘だ! そんな言葉、信じられない。君もいなくなるんだろう!?」

 彼は声を荒らげた。瞳が不安定に揺れ始める。

「本当だよ。私はあなたの傍にいるよ」

 私はベッドの上を横切って彼の前へ降り立ち、その左頬に右手を添えた。

「ね、私はここにいるよ」

 彼の体温を私が感じているように、彼にも私の温かさが伝わっているはずだ。

「……ごめん。でも君を解放するわけにはいかないんだ」

 悲しげに顔を歪ませ、私の右手を掴む彼。

「……」

 ギュッと痛いくらい私の手を握り締める彼の様子を見て思う。

 本当に私が消えてしまうかもしれないと恐れているんだなって。

「ねえ、とりあえず服を着る間だけ外してくれない? このままだと恥ずかしいから。あなたが望むのなら、また私に足枷を付けてもいいから」

 私は鎖を持ち上げ言った。

「いいよ。服を着る間だけなら」

 彼はズボンのポケットから細長い銀色の鍵を取り出すと、私の足枷を外してくれた。

「ありがとう」

 私は礼を告げ、服を身に付け始める。

 彼は私から離れていてくれた。でもドアを塞ぐ形で立ち、私を射抜く視線は彼が本気だということを示していた。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう?

 私は頭の中で思い当たる節を探してみる。彼は元々不安定なところがある人だったけれど、何か原因があるかもしれない。

 私は半袖のブラウスの袖に腕を通す。

「あっ」

 心当たりを見つけて、私は小さく声を上げた。

 ちょうど一週間前。私は自動車に轢かれそうになったのだ。

 彼と週末、晩御飯を食べに行った帰り。周囲への注意力が散漫になっていた私は車が走って来るのに気づかず、横断歩道に飛び出してしまったのだ。間一髪のところで彼が私の腕を引き戻してくれたおかげで事なきを得たのだった。

 その後彼は私を抱き締めて離さなかった。「大丈夫だよ」って彼の背中をトントンと叩いて、ちゃんと無事だよって示しなだめることで、やっと解放してもらえたのだった。

 私はスカートに足を通した。

 彼は交通事故で両親を亡くしている。彼の両親の場合は自動車同士の事故だったらしいけれど、それとダブって見えたのかもしれない。

 だから私がいなくなってしまうと思い込んでこんなことをしてしまったのかな?

「着終わったよ」

 私は彼にそう告げた。彼は再び私の左足首に枷を取り付けた。

 またベッドの脚首と繋げられちゃったなんて漠然と思っていると、彼はベッドの方の足枷を取り外した。

 私が驚いた表情を浮かべると

「朝食ができているから一緒に食べよう」

 彼は外した足枷付きの鎖を持ちながら歩き始めた。当然私に取り付けられた足枷も引っ張られるから、転ばないように慌てて私も彼に後をついていく形で歩き出した。

 彼の家は1DKのアパートの一室。部屋を出るとまずアイボリー色の絨毯、その上に置かれているテーブルと椅子が目に飛び込んでくる。

 彼はテーブルの脚に足枷を繋いだ。

 テーブルにはすでに朝食が用意されていた。トーストに野菜サラダ、オムレツにコーンスープ。

 朝なのにメニューが豊富だ。

 彼はいつも、少なくとも私がいる時はたくさんの料理を作ってくれるのだ。私は普段一人の時は、トーストだけだったり食べることすら面倒で、朝食そのものを抜いてしまう。だからそんなに食べなくても平気なのだけれど、以前彼にそう話したら「きちんと食べないと駄目だよ」と怒られてしまったから、彼といるときだけはちゃんと取るようにしているのだ。

 私はスプーンを持ち、コーンスープを掬う。所々に浮かぶ、つぶつぶ。インスタントじゃなくてきちんととうもろこしを使って一から作られている。

 手の込んだ料理。オムレツはチーズ入り、サラダはレタス、キャベツ、きゅうり、トマト、人参、と野菜の種類が多いし、トーストは程良い焼き加減だ。彼によると、前もって準備しておくから大変ではないそうだが、私にはとても真似できない。

 彼と付き合い始めたばかりの頃は私も料理を頑張って作ってあげたりしていたのだが、あまりの出来映えの差に今ではすっかり彼に任せっきりだ。

「トーストには何を付ける?」

 紙パックのレモンティーを私のコップに注ぎながら彼は言った。

「マーガリンだけでいいよ」

 私はそう答えた。レモンティーをコップのきっかり八分目まで注ぐと、彼は冷蔵庫からすぐにマーガリンを取り出した。そして私のトーストに薄く均一に塗った。個人的にはもっとたくさん付けた方が好きなのだが、身体に悪いからと言って彼はそれ以上決して追加してもさせてもくれない。

 私はトーストを少しだけかじってからレモンティーを口に含んだ。朝食の時、私が紙パックのレモンティーを飲むことを習慣にしていることを知っている彼は、必ずそれに合わせて用意してくれるのだ。

 向かい合わせで私と同じように食事をしている彼。

 いつもと変わらない。彼の家に泊まった翌朝の日常風景。

 白い長袖のカッターシャツを着た彼と、半袖のブラウスを着た私。

 長袖と半袖。

 なんだかちぐはぐでアンバランスだなと、私は意識する度に思う。今年の夏、彼はずっと長袖の服しか着ていなかった。

「ごちそうさまでした」

 全ての料理を食べ尽くした私は、両手を合わせて言った。食後の挨拶であり、作ってくれた彼に対する感謝の気持ちを表した言葉。

 彼にはまだコーンスープが残っており、飲んでいた。毎回僅差で私の方が早く食べ終わるのだ。

 私は自分の分の食器類とグラスを一つにまとめて持ち、立ち上がった。

 洗い物なら私だって彼と同等にできる。

 私は台所へと歩く。けれど流し台まであと一歩というところで、左足が引っ張られた。左足に視線を落とすとそこには足枷があった。鎖がテーブルの脚からまっすぐ、ひもを張ったかのように伸びきっていた。

 そういえば私には足枷が付けられていたのだった。

「勝手に僕から離れるな!!」

 忘れかけていた事実を思い出した瞬間、鋭い怒鳴り声がとんできた。それと同時に背後から抱きすくめられた。

 両脇の下から伸びてきた手が、私の胸を触り始める。

「やっ、ま……」

 待って、と最後まで言えなかった。

私は持っていた食器類を落としてしまった。それらは床に当たり、音をたてて割れた。

早く片付けないと、と頭の片隅で思ったものの、彼が私の胸をまさぐり続けるため動けなかった。それどころか服とブラ越しに彼の指が敏感な乳首を擦り、力が抜けそうだった。

「やぁ、やめて」

私は声を上げ、抵抗する。何回も彼を受け入れてきたし、触られるのも嫌いじゃないけれど、心の準備ができていない。それに彼は性急に、私の意思を無視してこんなに強引に襲ってくるような人ではなかった。

「あ、やめ……」

 制止の声をなんとか再び掛けようとして、私は言葉を飲み込んだ。

 後ろから感じる彼の息遣い。どこか確かめるかのように、執拗に私の胸を中心に愛撫を繰り返す手つき。

 彼はこの行為によって私の存在を確認しているのだ。私が確かにここにいて、決して消えはしないのだということを。

 私は抵抗するのをやめた。今拒否すれば、彼をより不安にさせてしまう。

 彼の手が私のブラウスのボタンを外し始めた。そしてはだけさせられ露わになった私の首元に、彼は顔をうずめる。

「ひぁ、んっ」

 首筋に走る快楽を伴った鈍い痛み。同じような痛みが連続して私を襲う。

「あ、あっ、んっ」

 彼のモノだって印を付けられている。

 意味を成さない嬌声を漏らし、こんな形でも気持ちよく感じ始める身体のせいでどこかぼんやりとする意識の中、私はそう思った。

 彼は普段決して私にキスマークを付けたりしない。何かの拍子で付いてしまった時には、私を傷つけたとひどく自分を責める。

 そんな彼が私に自分の痕をたくさん刻んでいく。こうまでしないと私の存在を感じられない程、彼は追い詰められているのかもしれない。

 私に触れる手と這わされていた舌が離れた。私はどうしたのか理解できないまま、乱れた自分の息を整えようとする。

 カシャン。

 鍵が外れる音と共に、私に取り付けられていた足枷が床に落ちた。

「きゃっ」

 彼が後ろから私を再び抱き寄せた。そしてそのまま私を引きずるような形で移動し始めた。私は彼に引かれるまま、バランスを取るために足を後ろへ後ろへと出すしかない。

 テーブルの横を通り過ぎた。彼は片手で私を捕まえたまま自室のドアを開けた。

「……ッ」

 私はベッドに放り出された。身体に衝撃を受けたけれど弾力があって柔らかかったから別に痛くはなかった。

 私が何か反応を示そうとするよりも早く、彼は馬乗りになってきた。

「んんっ」

 手首を押さえつけられ、唇を塞がれた。貪るように荒々しく、一方的に口内を蹂躙される。掴まれベッドに張り付けられた手首が痛かった。彼にしては乱暴で、私は少しだけ悲しくなる。

 彼が口を離した。酸欠になりかけていた私は、過呼吸気味になりながら空気を取り込む。けれど息を整える猶予もなく、彼は私のブラウスに手を掛けた。

 首筋、鎖骨、胸へと噛みつくようにキスされたり愛撫されたりしながら服を脱がされていく。時折視線が合う彼の瞳には不安定な揺れと、確かな欲情の色があった。

 昨日の夜もしたのだから、私としてはせめて今晩までは身体を休めたかったが、この様子では拒否することはできない。拒絶すれば彼を傷つけることになってしまう。

 彼が肌を重ねることでその存在を実感し安らぐことができるのなら、私は抱かれてもいい。それで彼が私を信用してくれるのならばいくらでも受け入れる。

 私が身にまとっているものを取り除きつつ、彼もカッターシャツを脱いでいった。私と触れ合う時以外決して長袖の服を脱ぐことのない彼の肌は日に焼けていなくて白い。普段は隠れて見えない、左腕の肘から手首にかけて巻いてある包帯も露わになった。

 もう何か月も前からずっと巻き続けている包帯。「どうしたの?」と訊いても彼は「大したことない」の一点張りで、何も教えてくれなかった。

 今もまた気になりかけたものの、彼に喘がされ理性を奪われていくうちにその思考は霧散した。









 






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