緋田成海と天満谷蒼良

伊達隼雄

緋田成海と天満谷蒼良


(今日こそ、魔法塾に行ってやるわ!)


 完璧な準備をした緋田ひだ成海なるみは、完璧な逃走経路を完璧なタイミングで走り、完璧なゴールを迎えようとしたところで、メイドの鉄壁に阻まれた。


「蒼良、お父様には内緒よ」

「ダメです。しっかり報告させていただきます」

「放して! 私は外に出るの!」


 抱えられたまま暴れられれば、メイドとしてそれ相応の仕込みをされている天満谷てんまや蒼良そらといえど痛みはある。子供の攻撃は加減がないので、たまにいいものが入る。

 仕事なので、ここで溜め息などはつかない。成海の目の届かない、一人のところで、深く深くついてやるのだ。


「蒼良は私のメイドでしょう? 私の言う事を聞かなくていいの?」

「私を雇っているのは旦那様です。緋田の家です。お嬢様には蒼良へあれこれ指示する権利はありません」

「私だって緋田よ!」

「個人の姓である緋田と、家としての緋田は別物です。ほら、机に向かってください」


 猫を放すのと同じ要領で椅子に置かれることに、成海は気づかない。飼ってはいないが、犬派であった。

 音を立てて姿勢を崩し、背もたれに肘を置きながらお嬢様はメイドを睨みつける。

 かわいいものだ、と蒼良は思い、その愛おしさが顔に出る。それがますます、成海には気に入らない。


「蒼良は知らないだろうけど、お母様は魔女だったわ。母方のお婆様もよ! 私は魔女の家系に連なるのよ。私も魔女になれるわ」

「存じております。加えて言うならば」蒼良が掌を開くと、ぶわっと薄い桜が舞った。「私も魔女です」


 ふーっ、とメイドが吹きかけた息は、桜の花びらをくるりくるりと舞わせて星形をつくった。綺麗に並んでいるわけではないが、形を作る花びらに少女の目からは険しさがとれ、歓びが染み出る。それは、花びらが形を崩し、同時に消え去ると共に終わった。


「蒼良、そんなこともできるのね! 初めて見る技よ! これはやっぱり、私も魔法塾に行くしかないわ!」

「魔法でしたら蒼良がご披露いたしますので、お嬢様は学校の勉学に励んでください」

「私だって魔法を学びたいわ。もう小5なのよ? 友達にはずっと前から習い始めた子もいるわ!」

「私は中2から学び始めました」

「それは蒼良の話でしょう。お願い、蒼良からもお父様を説得して。勉強だって頑張るから」


 食い下がる成海の姿を見るのはこれで何度目か。メイドは数えることすらやめていた。高学年に上がってからは、毎日のように魔法塾へ通うことをねだられる。たかだか一メイドにそれをどうこうできる権限があると思っているのだろうかと呆れもするが、他に頼れるような者がいないのも事実であった。結局のところ、良く言えばお人よし、悪く言えば一番手っ取り早く折れてくれそうと見なされているのだ。


「旦那様の説得はご自分でなさってください」

「お父様は聞く耳を持たないわ」


 にべもなく断られたことが何度あったことか。埒が明かないと結論を出したからこそ、成海は一人での入塾を決意したのである。必要書類の保護者欄への細工は自身、中々のものだと思えた。


「学びたいという意思と、確かな計画と、誠意を持てば聞いていただけるかと。今はそれが足りないのでしょう」

「計画以外はあるわ」

「でしたら、計画を立ててください」


 宿題が終わるころにまた伺うと言い残し、蒼良は部屋をあとにした。

 残された成海は、不満に包まれながらも、仕方ないと鉛筆を手に取る。宿題をこなしはするが、頭の中は父やメイドへの文句、どうやって魔法塾に行くかでいっぱいであった。


(何よ! 蒼良には私の気持ちは分からないのかしら?)


 魔法というものの存在が明かされ、世界に受け入れられたあとに成海は生まれていた。歴史の勉強でそれを知り、成海は生まれた時代に感謝した。今は素質の有無こそ重く見られはするが、魔法は誰でも学べる学問である。まして、少女は魔女の血を引く身である。この分野においては最初から有利な立場、即ち素質に恵まれた方なのだ。

 それならば、学ぶことに何も問題はない。学んで当然。ずっと、成海はそう思っていた。


 魔法を学べる、最も近い門は各地にある『魔法塾』であった。入塾は特別な事情がない限り、人間は九歳以降で可となる。成海はその時を楽しみに待ち、誕生日に入塾の意を打ち明けた。

 しかし、父に反対された。

 父を説得できそうな母は打ち明ける前、とうの昔にこの世を去っていた。

 メイドや執事が無力であるとは知っていたが、打ち明けてみれば答えは一律「私には何も言えません」である。


 魔女の娘なのに。

 どうして、父は魔法を学ばせてくれないのだろうか。


 いや、学べないこともない。家には母が集めていた魔法関連の書籍などが山のようにある。別邸を丸々埋めてしまうほどの量なのである。魔法塾に通っている友達からは、イギリスの魔法学校の図書館みたいと羨望の眼差しを向けられたほどの充実ぶりだ。

 これらがあれば、自己流で……とも思うが、入門書のようなものは見当たらなかった。


(そもそも、お母様はあれを全部読んでいたのかしら? 収集癖があっただけかも)


 母が本を読んでいるところは、あまり見たことがない。これは、もしかしたら本当に集めていただけかもしれないぞ、と成海は思う。

 のんきだった母が確かに読んでいたのは、マンガと、店頭にバーンと並べられている流行りの小説と、料理本だった気がする。

 僅かな音を立てる揺り椅子に身体を預け、眼鏡をかけて、開け放たれた窓から風の旋律が流れ込む中、魔法関連の書籍に目を通す――そんな上品な姿はついぞ知らない。


(だけど、お母様は魔法を使えたのよね?)


 その姿は写真や映像にも残っていた。のんびりした顔で箒に乗る母の姿に、娘は憧れを抱いていた。

 心から悔やむ。母が生きているうちに、魔法を教えてもらうべきだったと。


(蒼良は全然教えてくれないし!)



 天満谷蒼良がメイドとしてやってきたのは、何度目かの懇願を父にしたあとだった。


 出会いの日のことは鮮明に覚えている。学校から帰り、送迎車の雇われ運転手に手を振りながら玄関へ。珍しく父が出迎えてくれた。そのことに驚きつつ、「お父様は執事になったの?」とジョークを飛ばした。ノってくれた父は、執事に扮して広間へ。そこに、年若い女性がいた。綺麗というより、可愛らしい。どれほど年上かは、子供の成海には分からなかった。大人ではなく、お姉さんという印象だった(事実、この時は十八歳だった)。紺色のジャージ姿で、大きな荷物を持っていた。新しいメイドを雇うとは聞いていなかったが、そうであることは成海にも理解できた。

 女性は深々と頭を下げ、自己紹介をした。


「はじめまして。本日より緋田家でお世話をさせていただく、天満谷蒼良と申します」


 珍しい苗字だと思いながら、成海は挨拶を返した。父から、成海の身の回りを見てくれる人であると説明され、最後に付け加えられた――彼女は魔女である、と。

 魔法に、魔女に憧れていた少女は、瞳を輝かせ、ときめきを増しながらジャージのメイドを見た。魔女。母と祖母以外では、初めて見る、魔女!

 父から何か魔法を一つ、成海に披露してほしいと頼まれた蒼良は、断りを入れてから今後面倒を見る少女に近づき、屈んで視線を合わせた。ポケットから青い折り紙を取り出して片手に乗せると、その上をもう片方の手が通り過ぎる。すると、折り紙が勝手に折れだし、花ができあがった。

 蒼良が初めて見せた魔法だった。その時の花を、成海は今でも大切に保管している。


 聞けば、蒼良は身内が魔女であったというわけではなく、魔法を学んでいくうちに才能を開花させ、あとから魔女と認定された側であるらしい。

 魔女にはいくつかの定義があるが、基本的には、系譜として魔女の血筋に連なり魔法に関して素質を持つ者、あるいは、魔女に匹敵するほど高い素質を持つと認定された者が魔女と呼ばれる。要するには、魔法のエリートともいうべき者だ。


 魔女が、これから、自分のために働いてくれる。

 その事実は、夢見る少女の自由な翼をさらに理想へと羽ばたかせた。

 きっと、魔法を教えてくれる。そのためにお父様が雇ったのだ、と――


 しかし、どれだけ時間が経っても、その時が来ることはなかった。仲良くなるのは早かった。期待も膨らみ続けた。しかし、蒼良はテキパキ仕事をこなし、時折魔法を披露してくれる。それだけだった。

 ある日、業を煮やした成海は直接尋ねた。いつ魔法を教えてくれるのか、と。


「それは私のお仕事ではありません」


 バッサリだった。

 成海の人生で、何度目かの、ショックであった。勝手に期待した自分が悪いのだが、ひどく裏切られた気分になった。



(まったく! それならそうと言ってくれればいいのよ! 魔法を見せてくれるから、魔女だから、期待しちゃったじゃない! するなという方が無理よ!)


 鉛筆を動かす手がピタリと止まる。

 嫌な気分になりすぎたと、少女は気を落とし、机の中の箱にしまってある、折り紙で作られた青い花を見る。大切な宝物だ。


(蒼良は、私に教えたいとも思わないのかしら? 蒼良も反対なのかしら?)


 ――蒼良に魔法を教えてもらえないと知ってからは、ひたすらねだることにした。メイドは真面目だが、人が好さそうなのである。頑張れば折れてくれるかもしれない。そんな――蒼良にはバレバレだったが――考えで、成海は蒼良にすがり続けた。それすらも無駄骨に終わるのが続き、自分ひとりでなんとかしようと最近に至る。

 この家に、味方はいないとさえ思えた。

 みんな、よくしてくれている。

 だけど、一番したいことを、させてくれない。

 なんで? どうして? 疑問ばかりがちくちくと苛んでくる。

 浮かぶのは、魔女だった母。魔女である蒼良。


 泣きはしなかった。強い子だと自負している。泣いてたまるものか。


(絶対に、魔法塾に入ってみせるんだから!)


 魔法を使えるようになり、それを颯爽と披露する自分。

 魔女となり、優雅な笑みをたたえて本を片手に魔法を披露する自分。

 理想は広がるばかりだった。



 * * *



「そろそろかもしれない」


 蒼良の雇用主である『旦那様』は、娘の素行報告を聞くと、溜息をつきながら呟いた。


「お嬢様を、魔法塾に?」蒼良は期待をこらえながら聞いた。

「いや、それはまだ決められないよ。あの子はまだ小さいし、それに、魔女の娘とはいえ必ずしも素質を受け継ぐわけではないだろう? それは君が教えてくれたことだぞ」

「はい。しかし、お嬢様に素質がないとは申しませんでした」

「そこのところを、そろそろ教えてくれんかね? 私も気になって仕方ないんだ。これまで成海を見て、どうだろう? 素質は、あるか?」


 蒼良は、すぐには答えなかった。少し考え込み、確認するべきことをまとめてから口を開いた。


「まず、ご理解いただきたいことがあります。旦那様もご存知かもしれませんが、魔法は誰もが学べる学問です。しかし、素質が重要であることは間違いありません。魔法が、現代まで表に出なかった理由の一つがそれなのです」

「それは妻から聞いたよ」

「踏まえた上で、申し上げます。素質とは必ずしも必要なものではありません。大成するしないに関わらず、誰でも魔法は学べるのです。そして、成果を出せます。私は、幸運にも素質に恵まれた方でしたが、そうでない方も多く見てきました。魔法を諦める場合もありますが、多くは学び続けています。何より、仰るとおりにお嬢様はまだ小さい、子供なのです」

「素質の有無で、決めるべきではないと言いたいのだな」

「はい」

「理解したよ。では、教えてくれ。成海に素質はあるのか?」


 父としての顔、家を守る主としての顔、様々なものが入り混じった表情に、蒼良は応じた。


「――あります」


 嘘をつこうというつもりはなかったし、誇張するつもりもなかった。ありのままを、メイドは伝えていた。

 旦那様の口から、再び溜め息。


「そうか……」


 その反応は、蒼良には予想外のものだった。てっきり、喜びを前に出すかと思っていた。


「旦那様、伺ってもよろしいでしょうか?」

「構わん」

「では、失礼ながら――なぜ、旦那様はお嬢様の入塾に反対なされていたのですか?」


 素質云々ではないということは、蒼良にも理解できていた。旦那様は、それで決めるような人物ではなかったのだ。


「そうだな……私になってほしくなかったから、かな」しみじみと、旦那様は語り始めた。「私は家を継いだ身だ。成り行きでそうなった。妻と出会うまでは、それが当然だからという気持ちだけだった。嫌な事ではなかったよ。だが、自分で全部決めたわけじゃない。与えられたものを与えられるままに受け取り、成してきた。そういうことができるのだから、当然そういうことをするだけ。あいつに出会うまで、人生の義務を義務のままに、私は生きて来てしまった。無論、義務は大切だ。しかし、そればかりで人生の針路を決めてはいけないと、私はそう学んだのだよ。

 私は、成海にはそういう思いをしてほしくないんだ。自分は魔女の子供だから、きっと素質があるから、当然魔法を学ぶ。そればかりが、成海は大きかったと思う。それは、あの子にとって大切なことかもしれない。しかし、当然というだけで好きな道を選んでほしくない。好きであるからこそ、持って生まれた当然だけではいけないと、私はそう思うのだよ。正しいかどうかは分からない。だから、反対するしかなかった」


 妻が生きていれば、どうなっていただろうか――最後にそれだけ言うと、旦那様は話を変えた。


「天満谷蒼良、私が君を雇った際の求人で、どのような条件があったかは覚えているね?」

「魔女限定、ですね。不思議な条件があるものだと思いました」

「魔女だった妻が亡くなり、成海が手本とするものが身近から消えてしまった。お義母さんも、たまにしか顔を見せられないし……魔女がいることで、何か掴めればと思ったのだ。成海に素質があるかどうかの見極めもしてもらいたかったしね」


 目論見は、半分成功し、半分失敗していた。


「魔法を教えないよう指示なさったのも、お嬢様の道をそれで縛りつけたくないから、ですか?」

「そうだ。これから他に好きなことができるということもあるからね――」


 それならば、披露するのも禁止すればよかったものをと、蒼良は思った。

 確かに、魔法への興味を抱き続けるかどうかは本人の感じ方次第ではあるが、間違えれば逆に道を狭めていたのである。

 不器用な父親だ――メイドがここへ来てから変わらぬ感想だった。


「天満谷、分かっているね? もう、そろそろだ」

「はい。分かっております」


 そろそろ、時期が来る。

 蒼良にとっては、寂しい時期だ。



 * * *



「なるちゃんの別邸って、いつ見ても凄いよね」


 友人・咲苗は来るたびにそれを言うので、成海としては気分がいい。母の遺産に感謝である。おかげで、友達がいつも目を輝かせるのだから。


「お母様ったら、ここ一つ書斎にしてしまったのよ。本当、贅沢。昔の魔女って気ままで勝手って言われているけど、もしそうなら、お母様は正統派の魔女よ」


 これは、咲苗や他の友達が来る際に必ず交わされる、決まりのようなやり取りである。互いにそうであると分かっているので、一通り済めば「おかしいね」と笑い合った。


「咲苗、塾では今、どんなことを習っているの? 箒は?」

「箒は、今やり始めたところだよ」


 咲苗は五年生になってから入塾した、(近く入る気でいる成海にとっては)少しだけ先輩の魔法使いである。


「私も早く入りたいわ。箒で飛ぶのって、かっこいいもの」

「映画とかで、一番使われてる魔女の技だもんね」


 明るく談笑しながら別邸を歩き、本に囲まれる。この時間は二人にとって、とても幸せなものだった。

 しかし、今日は少しだけ違っていた。先客がいたのである。

 一番大きな広間も、本棚いっぱいに敷き詰められた書物の匂いが充満していそうだった。その中に、脚立の上で座りながら本をパラパラとめくる、メイドがいた。


「蒼良! 何してるの!」


 ムッとして、成海は声を荒げた。今日は友達が遊びに来ているので、別邸には近づいてほしくなかった。二人だけで楽しい時間を過ごしたかった。


(それなのに――)


 それだけでは――いや、それは本質ではなかった。蒼良がいるのは、正直それでもよかった。

 ただ、魔女がいるのが嫌だったのかもしれない。既にそう呼ばれる者と同じここという空間で、友達と夢を語り合うのが嫌だったのかもしれない。

 だから、不機嫌に声を荒げた――


(――ううん。それよりも)


 気づきもしなかったのだろう。大声に、蒼良は愛らしい少女とその友人をようやく認めた。慌てて本を戻し、脚立の上からふわりと飛び降りる――


 チクリと、成海の胸に針が刺さった。


「申し訳ありません。旦那様から、別邸の掃除を頼まれていました。中は全て終わりましたので、どうぞごゆっくり――」

「蒼良さん、今のって魔法ですか?」

「はい、咲苗様。箒の代わりに、脚立を使った浮遊魔法の応用です」

「飛ぶときの力を使って、ゆっくり降りたんですね! 箒じゃなくてもいいんだぁ」


 チクリ、チクリ――


(咲苗にはそういうことをすぐ教えるんだ……!)


「ごゆっくりなさってください。それでは、お嬢様、蒼良はさがりま――」

「蒼良、何を読んでたの?」


 それは、意味のない質問だった。聞いたところでどうなるものでもない。この別邸は、魔女が興味を示す本で溢れている。蒼良が興味を抱いただけなのだろう。ただ、それだけ――そんなこと、成海には分かり切っていた。


 ただ、悔しかった。


「申し訳ありません。特にこれというものではなかったのですが、整理しているうちに少しばかり中身をめくってしまっていました」

「……そんなこと、いい」


 蒼良は仕事のできる人間だ。優秀なメイドだ。

 成海たちが来たことに、気づかないわけがなかった。

 ――それができないほど、蒼良は、熱中していたのだ。


(あんなに、熱心な顔、見たことないわ)


 どこか憂いさえ感じる、美を放つ横顔。真面目なお姉さんの、本気に結ばれた表情。優雅で、知的。それはまるで――


「お嬢様……?」


 今は違う。さっきの蒼良とはまるで違う。

 さっきの蒼良を作ったのは、この別邸だ。この部屋だ。母の残した本だ。


 チクリ、チクリ、チクリ――


「……早く、行って」

「――はい。失礼いたします」


 普段と変わらぬ足取りで、蒼良は別邸の外へ出た。

 あとには、不機嫌な成海と、困りだした咲苗が残る。


「なるちゃん? どうしたの?」

「どうもしないわ……」


 成海は、カッと目を見開き、一冊の本を棚から抜き出した。ペラリ。めくれば分からぬことばかり。しかし、少しだけ、読めはする。

 先ほどから胸に突き刺さるものを消し去りたかった。

 だから、成海は、本を抱きしめた胸を張った。


「ねぇ、咲苗――」


 怒られるかもしれないとか、怖いとか、消えていた。


「箒に乗って、飛んでみない?」



 * * *



 天満谷蒼良は孤児である。親戚を盥回しにされた挙句、大きな家のメイドとして住み込みで働き始めた。まだ中学二年生だった。そのとき、先輩のメイドが魔法使いだった。魔法は社会的に役に立つこともある。頼み込み、手ほどきを受けた。メイドと、学校と、生活と、魔法――疲れでどうにもならない時期もあった。

 先輩が別の家に移ることになった時、蒼良はそれについていこうとした。まだ中学生だった蒼良にそんなことはさせられないと、塾を紹介された。既に実力を持ち、素質もあった蒼良は「出世払いで」と、先輩から塾で必要な経費を無理矢理受け取らされた。後に気づくことだが、単なる一メイドには到底できっこない芸当であり、その先輩が、非常に高名な魔女であり、メイドは社会勉強の一環としてやっていたと知るのは更に後のことである。


 魔女と認められ、力をつけた蒼良は、研究を提出しながらもメイドを続けた。偉大な先輩との繋がりとして続けていたかったということもあるが、様々な人に出会えるのが楽しかった、という面もある。


 この緋田邸には、今までで一番長くいたことになる。

 気がつけば、面倒を見ることになった少女は、とても大きな存在になっていた。手間がかかる子ほどかわいいのかもしれない。表情が変わるたびに、こちらがどれだけ心を揺さぶられることか。

 魔法を教えたくなる衝動を、何度も耐えた。

 その苦労も、もうじき報われる。


 だというのに――


(あんな顔をさせてしまった)


 別邸の外で掃除をしながら、全くもって油断してしまったと自分を責める。

 メイドとして、職務に忠実でいられなかった。

 それは、この別邸の魔力がなせることだった。


 蒼良はメイドであると同時に、魔女である。魔法使いである。そんな彼女にとって、緋田の別邸は宝の山どころの騒ぎではない。

 何より圧倒されるのは、全ての本に手をつけられた跡があるという事だ。緋田の奥様とは、どのような魔女だったのか。映像や写真だけでは伝わらない。本人に会えないのが残念でもあり、安堵もした。

 才能が違いすぎるということは容易に分かってしまえた。

 おそらく、お嬢様も旦那様も知らないことで、何度かお目にかかったお婆様だけが知っていることだろう――


 今日も、誘惑に負けてしまった。メイドとして、大失態だった。


(なんとか、取り返さないと)


 お嬢様に軽蔑されるのは、嫌だった。

 結局のところ、自分も魔法を披露して気を惹きたかったのだろうか――?



「なるちゃん危ないよ!」



 切羽詰まった声。上からだった。

 見上げれば、箒を持った成海が窓から身を乗り出していた。


「平気よ。外を飛ぶわけじゃないもの。箒を外気に触れさせていた方が、飛びやすいのよ。本に書いてあるわ」

「そんなに身を乗り出さないで!」

「仕方ないわよ。箒が長くて、先っちょに手が届かないんだもの。なるべく全体を外気に当てて、手を――」



 ――フッと、箒は空中へ進んだ。



(えっ――?)


 引っ張られて、成海も一瞬だけ浮かぶ。

 しかし、足場はもうなく、箒は落下していった。


 飛んだ、と思う暇もない。なぜ飛べたのかすら分からない。

 分かるのは、これから、落ちるということ――


「!」



 声にならない叫びがあがる。

 そして――




 つむじ風と共に、彼女は飛び立っていた。




 成海は、箒に腰かけた蒼良の腕に落ち、そのまま抱かれた。二人を乗せた箒は、空中に停止している。


 お嬢様とメイドは、顔を見合わせた。

 蒼良は泣いていた。初めて見せる顔だった。


「蒼良……」


 なぜ泣いているのかなど聞けない。泣かせたのは自分なのだから。

 他にも、かけるべき言葉は、全て消えていった。


「お嬢様、お嬢様、お嬢様――」


 ただ、抱きかかえるだけ。メイドとして、それ以上は、違うと思えた。


 初めて空を飛んだ感動など、どこにもなかった。ただただ、つらかった。

 成海は、大声で泣いた。ゆっくりと地上へ戻る箒の上で、ただただ、泣いた。



 * * *



「怪我がなくてよかった。しかし、分かっているね?」


 こうして父に叱られるのは、成海にとって久々の出来事であった。やんわりと、しかし要点を押さえて叱られる。


「ごめんなさい……危ないことをして、迷惑をかけて、怖くて――!」


 目を逸らさないように、必死に心を奮い立てて謝る。身を危険にさらしたこと、咲苗に心配かけたこと、蒼良を泣かせたこと――

 これで、入塾は無理かもしれないと思った。


「……成海、魔女になると、怖いことも沢山あると思う。どうだ? まだやりたいか?」

「……やりたい」


 それだけは、間違いなく、残っていた。どんなに苛まれても、消えてはいなかった。

 なぜなら――


「謝るし、反省もするけど、やっぱり魔法は習いたい」

「そうか――魔法は、怖くなっていないのか?」

「怖い思いをしたけど、それでも……やりたい」


 涙をこらえて、必死に懇願した。


 自分を助けた魔女の姿が、支えになっていた。

 重力から自由になり、軽い箒で颯爽と上昇し、少女の身体をあっさりと受け止めてしまう。緩いウェーブのかかった髪が揺れ、メイド服が波立っていた。


 本を読んでいた蒼良は、魔女としての母の理想像に少し重なって見えた。箒で飛ぶ姿は、今までで一番かっこよかった。

 そうだ、あれこそ、自分がなりたいもの――


「かっこいい魔女になりたいの。やっと、分かったわ。蒼良みたいに、かっこよくなりたい」


 これまでで最も強い一言を送り出した成海は、どのような結果になろうと受け入れるつもりでいた。受け入れた上で、それでも押し通そうと。

 息苦しさが渦巻く沈黙の末に、息を吐いたのは父親だった。


「しっかり、反省しなさい。まずはそれからだ」



 * * *



 それから一週間――


 蒼良とは、これまでと変わらない関係でいられて、成海は拍子抜けだった。泣かせてしまったし、魔法を使おうと危ないことをしてしまったのだ。軽蔑されてもおかしくなかった。蒼良がプロだからそういったものを隠せている、というわけでもなさそうだった。

 笑えば、微笑み返してもらえる。宿題を嫌がれば、あっさり持ち上げられて、机へ連行。抱きつけば、視線の高さを合わせて、「何かご用でしょうか?」と聞いてくれる。何をやっても、いつもと同じ。

 後悔と反省と不安を塗り替えていく嬉しさに、成海は素直になろうと思えた。


 ――蒼良、怒ってない?


 その一言から、初めてみようか。

 それとも、


 ――あの時はごめんなさい。


(これよ。これがいいわ。もう少し様子を見て、蒼良にしっかり謝ろう)


 今すぐには、成海にはまだ無理だった。蒼良がいつもどおりだったのもあるし、何より、泣いた蒼良のことが何度も何度も思い起こされて、躊躇させた。

 もっと安心させてあげたいと決意していた。タイミングが大事だ。



 そのタイミングが来る前に、その日は訪れた。

 怒られた日以来の、父からの神妙な呼び出し。

 少し沈みがちに父の書斎に入った蒼良は、数分後には喜色満面で飛び出ていた。そのあとを、焦った顔で父親が追う。



「蒼良! 大変よ! お父様が保護者欄の細工をやめなさいって! 自分が書くって! 私、入塾できるのよ!」


 喜びに緋田邸を駆け回る成海は、世話役であるメイドを探し続けた。


「当然なんかじゃない、蒼良みたいになりたいからって! その言葉が欲しかったって! 私も、今までと違う自分だと思えたわ! 蒼良、蒼良のおかげなのよ!」


 声を上げ続ける。蒼良はいつもそばににいてくれる。声は必ず届く。これまでも、ずっとそうだった。


「これからもっと頑張るわ! 蒼良は幸せよ。どんどん凄くなる私を近くで見ていられるんですもの! 見ていなさい、今に蒼良みたいな魔女になるから! 楽しみでしょう、蒼良!」


 しかし――


「……蒼良? ねぇ、どこにいるの?」


 宿題をと口うるさく言われた自分の部屋にも、厨房にも、庭にも、どこにもいない。


(まだ寝ているのかしら? 蒼良ったら、こんな日に、そんな――)


 悪い予感があった。嘘であってもらいたいことがあった。

 全てを拭うように、その部屋の戸を開ける。


「蒼良、今日はお寝坊さんかしら?」


 ――魔女のメイドに割り当てられた部屋には、何もなかった。きれいさっぱり、片付けられていた。


「蒼良? どこなの? 蒼良、蒼良……」

「成海!」

「お父様! 蒼良がいないの! 蒼良が――」

「成海、よく聞くんだ。蒼良のたっての頼みで、お前には黙っていたが……」

「いや! 言わないで!」



「蒼良は昨日で契約を切り、ここを出た。今朝の事だ。お前に……」

「蒼良はどこ!? 蒼良はどこにいったの!? 私、蒼良に伝えなきゃならないことがあるの! 嫌よお父様! こんなの嫌! 蒼良に会わせて! 蒼良は……どこなの?」



 * * *



 手にはバッグと愛用の草箒。

 もうじき電車が来る。何度も繰り返した、町との別れ。今回は、一層気持ちがこもる。


 せめて、この前のことにちゃんとした決着をつけておきたかった。その気持ちもある。

 しかし、こうして喪失を持てば、それは成海の財産になる。今後、必要になるであろうものだ。その役目をメイドができるなら、これ以上の働きはない。

 天満谷蒼良は、無理矢理にでも納得させた。


(いけないな、感情を傾けすぎた)


 所詮は雇われ人。こうして離れることはいずれ必ず来ることだった。繰り返されるなかで、分かり切っていたことだというのに、今回はあまりにも自分が出すぎたと蒼良は未熟を悟る。まだまだだ。


 あの日、成海の前でみっともなく泣いてしまった。

 腕の中の、小さな女の子が、あまりにも愛おしく、繊細で、割れてしまいそうで、命を直接抱いているようだった。彼女との全ての思い出と、関係と、今後を、たった二本の腕に抱えるのは、若い蒼良には重すぎた。混乱のあまり、いつ箒から落ちてもおかしくなかった。

 それでも、助けることができた。


 これまでで最もつらく、自分を責めた。

 あんなことをするほどに、成海を追い詰めてしまっていた。他でもない、自分が。

 彼女にとっては母と繋がれる思い出の別邸に夢中になっていたこと。

 咲苗にはいいだろうと、魔法について教えたこと。

 普段から、必要以上に魔法を見せびらかしていたこと。


 どれだろうか。どれもだろうか。


(お嬢様――)


 これ以上は、仕方がない。納得しなければ。離れる時は来たのだ。

 最初から、この約束だった。あくまで、入塾できない成海のための自分だったのだ。しかし、旦那様はとうとう、入塾の許可を出した。去るは当然である。


 これまでよく耐えたものだと思う。何度も何度も抱きしめたくなった。メイドでなければ、どう思われようととうにやっている。

 こっそり魔法を教えようと思ったこと、露の輝きを放つとけるような髪に指を通そうとしたこと、無邪気な寝顔につられ額に手を当てようとしたこと――

 そんな衝動との戦いも、終わる。愛しいお嬢様との日々は、終わった。


 魔法を志した少女。自分とは違う、理由の純粋さ、ひたむきな願い。

 まぶしく、尊く――


(今後、魔法を使えるようになって、お嬢様はどうなるのだろう。名を馳せたりするのかな?)


 せめて、願いたい。

 この日の痛みを、少しでも糧に。

 これからの魔女の未来に、願いを――




「蒼良!」



 

 何度も何度も、響いた声。自分を求めて伸びる呼びかけ。そのものが魔法なのだと思える、心を掴む力。


 振り向けば、送迎車を向こうに、駆けてくる少女がいた。


「――お嬢様、見送りに来てくださったのですね」


 仮面を被るのは得意だった。もう違うが――メイドとして、いつものように視線を合わせる。


「蒼良、どういうこと? どうしていなくなるの? 私、魔法塾に通えるのよ? 蒼良のおかげなのよ? それなのに、これからなのに、どうしてなの?」

「お嬢様……蒼良は、最初からこうなる予定だったのです。魔法を習えない、まだ習わせるには早かったお嬢様の慰みとして、蒼良は緋田に来たのです。その役目は、もう終わりました。これからは、お嬢様はご自身で魔法と向き合うのです。あの別邸だって、いつか征服できるでしょう。魔女になるのですから」


 柔らかい喋りだった。震えてもいない。

 これまで培ったメイドとしての経験を、鍛えられた精神力を、全て注ぎ込んでいた。

 泣きはすまい。寂しさも見せまい。

 メイドとして、最後まで成海のために働けるこの瞬間が、蒼良にとっては既に奇跡だった。


「お嬢様、蒼良は行きます。出会えば別れるものなのです。お嬢様が今後、何度も味わうことです。現に、これまでにもありましたでしょう――?」

「知っているわ。お母様もそうだったし、クラスメイトだって別れたことがあるわ。だけど、蒼良がそうなることはないじゃない。これからも一緒にいましょう。一緒に住んで、勉強して……これからは、互いに魔法だって!」


 必死の成海に、返ってくるのはあくまで柔らかな笑みだ。

 随分と大人びてしまっている――いつもは可愛いお姉さんといったていの蒼良が、今はそう見えた。


「お嬢様、蒼良は単なるメイドです。緋田には他にも優秀な方々がいます」

「だけど蒼良がいないわ! 蒼良がいなきゃ嫌なの……蒼良が、必要なの。いてほしいの。そうだわ、私が雇うわ。ねぇ、蒼良、私個人が雇ってあげるから。そうすればまた、今度こそ私のメイドよ? それでいいでしょう?」

「――申し訳ありません。既に、旦那様から紹介された職場があります。それに、今のお嬢様では、蒼良を雇い続けることなどできないでしょう。ここでお別れです、お嬢様」


 再び、蒼良は掌に意識を集中し、心の中で呪文を唱えようとする――それは、ギュッと握りしめられた掌の感触で、止められた。


「やめて。そんなことしないで。本当に会えなくなっちゃいそうよ。蒼良……お願い、一緒にいて」


 震える声にはとうとう涙が混じる。


 電車が到着し、蒼良は決断を迫られた。

 振り切らなければならない。互いに、ここで。


「――でしたら、お嬢様がこちらに来ますか?」

「えっ?」

「緋田の家も、お母様の別邸も、お友達も、魔法塾も、何もかもを捨てて、私と共に行きますか?」

「そんなの……」

「嫌ですよね? お嬢様のこれからに、蒼良の行く道は重なっていないということがお分かりいただけたでしょうか?」

「ひ、卑怯よ! こんなの卑怯だわ! 蒼良の卑怯者!」

「はい。蒼良は卑怯です。お嬢様のためなら、そうなります」

「そんなの……嫌よ……私だって嫌よ。蒼良をそんな風にさせたくないわ」

「でしたら、どうか――」


 この手をはなしてください――


 最後の一言は、喉まで出かかり、飲み込まれた。

 それを決めるのは、メイドではない。


 震え続けた成海は、嗚咽をもらしながら、蒼良を解放した。

 少しの間、互いに見つめ合う。


「蒼良……あの時はごめんなさい。危ないことをして、蒼良を泣かせたわ。怖かったでしょう。傷ついたでしょう。ごめんなさい、蒼良、ごめんなさい……。蒼良が、いつもと違う顔をしていて、私には見せてくれない顔や、教えてくれないことがあって、それが悔しくて……蒼良を、独り占めできないのが、嫌だったの。それで、むきになって、イライラしちゃって……ごめんなさい、蒼良」


 それだけで、メイドは救われた。

 余りある褒美だった。


「今後は、気をつけてくださいね。お嬢様なら、きっと大丈夫です」


 電車は間もなく出る。

 蒼良は、とうとう立ち上がって視線を外した。


「それでは、お嬢様――」

「待って、蒼良! まだ行っちゃだめ!」

「しかし、もう電車が」

「蒼良、好きよ! 大好き! 蒼良のことが大好きなの! 蒼良はどうなの? 私のことを大切に思ってくれていたのは知っているわ。だけど、蒼良の口からそれを聞いていないの! 蒼良は私をどう思っているの? それだけ教えて!」


 ――最後に、無理矢理にでも振り切ることはできた。

 しかし、それは蒼良自身が抑え続けたものであった。


 メイドである蒼良は、雇い主や仕える相手への評価を伝えられない。それはメイドの領分から踏み出すことになるからだ。

 どんなに想っていても、伝えられないのだ――だからこそ、メイドでいられる。互いの関係を維持し続けられる。一緒にいられる。


 最後にぶつけられたものは、これまでで最大で、最強だった。


「……お嬢様、蒼良は、メイドです。仕える貴女への想いは当然のものがありましょう」

「当然じゃダメよ。お父様からも言われたわ。当然だけで決めてはいけないと。蒼良自身の言葉で、感情で教えて。それに、もうメイドじゃないでしょう? 契約は切れたのでしょう? 言っていいはずよ。伝えて。ただの天満谷蒼良の言葉で」


 契約が切れれば、もう関係はない。それでこそ、メイドをやっていける。それが蒼良の考えだった。

 だから、今は、かつてそうであったメイドとお嬢様として話していたのだ……。


 ただ、それでも――もし、許されるなら。

 真っ直ぐな、誠実な、いっぱいの言葉に応えられるのなら。


 既に、限界だった。



 ガタンと音を立て、電車は去っていく。

 過ぎていく影の中を、屈んだ女性は、可能な限り力強く、可能な限り優しく、可憐な少女を抱きしめていた。


「成海、大好きです。本当なら、もっと一緒にいたい……!」


 ずっとメイドだった。魔女になってからは、賢くなり、仮面のつけ方もうまくなった。

 それらをはずしてしまえば、まだまだ少女だったらしい。

 蒼良は、また泣いていた。


「成海、成海――」


 何度も名前を呼ばれながら、成海は喜びに包まれる。

 自分が想うように、相手も自分を想ってくれている。

 大切な、大切な、メイドで、魔女で、お姉さんで――


「蒼良、嬉しいわ、蒼良、蒼良――」


 互いに涙。

 だけど、笑顔。



 どれだけ抱擁が続いただろう。泣きはらした互いの涙を拭いあい、別れの時が来る。


「電車は行ってしまいましたから、最後も魔女らしくしましょうか」


 スッと浮かびながら、箒に腰かける。


「成海も、早く箒に乗れるようになってくださいね。これは楽しいですから」

「勿論よ、蒼良……。そうだ、これを渡しておきたかった!」


 成海はポケットから、花を取り出した。青い折り紙で作られた花である。蒼良が初めて会ったときに作ったものとは、別物だった。


「私はまだ、魔法では折れないから、手でやったわ。これをあげる。持っていて――」


 言い終わる前に、折り紙の花は成海の手から勝手に離れ、蒼良の手へと飛んだ。


「あっ! もう……勝手ね! こういうのは手渡しするからいいのよ!」

「フフ、ありがとうございます、成海。大切にします。本当に、大切に」


 これが、成海と思って――


「……蒼良、昔の魔女はとっても勝手で気ままだったのよ。だから、今のはいいわ。ただし!」不敵な笑みで、成海は続けた。「私も魔女になるわ! 凄い魔女になるから! とっても勝手で、気ままだから! お金も今より持って、いつか必ず蒼良を雇うわ! 待っていなさい、蒼良。私は本気よ!」


 だから――


「――その時は、絶対に私のところに来てね。いつまでも待っているわ、蒼良」

「……楽しみにしています。気ままに、勝手に、魔女らしく」


 言い残して、魔女は箒をぐんぐん上昇させていく。花を抱いたまま、空へ。


 まだ、届かない。

 だけど、魔法を学んで、同じように飛んでみよう。

 憧れの魔女のように。

 同じ空を。


「蒼良みたいな、かっこいい魔女になるからねー! 絶対よー! 蒼良ー!」


 今日まで一緒だったメイドは、一人の魔女となり、遠くへ去っていった。

 その姿に、成海はいつまでも、手を振り続けた。


 見えなくなっても、まだ、まだ。

 いつか駆ける、空に向かって。

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緋田成海と天満谷蒼良 伊達隼雄 @hayao_ito

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