しんけんしけん

めきし粉

代指し

第1話

「この町じゃ真剣で通用しない奴がぁプロに逃げるんや」


 将棋を打つことを生業とするプロ棋士の数は全国で160余名しかいない。日本の人口1億2000万人のうちの。人口比で約75万分の1……

 子供の頃から神童と呼ばれるほどに将棋が恐ろしく強く、近郷近在に敵う大人がいないという様な子供達が、将棋プロ養成機関である奨励会入りしても、そのほとんどが途中で挫折していく。将棋に生きるプロ棋士とはまさに、そうした世界でなのである。

 将棋を生業としようする人間にとって「近所で一番将棋が強い」というレベルの将棋の強さは何の意味も持たない。ただ一つの町を除いては……



 兵庫県加古川市。表向きは人口20万人程のごくありふれた地方の小都市であった。しかし、この小さな街は5人もの現役プロ棋士、直近の引退棋士を含めると6名ものプロを輩出している特異な街として知られていた。人口比にして約4万分の1。

 しかしこの街の真の姿は、単に人口比でプロ棋士になった人間が多いというだけの話できなかった。この街で繰り広げられている賭け将棋、『真剣』は熾烈を極め、『裏の将棋』を知る人間の間ではとして恐れられているものであった。




 昭和五十某年某日。加古川河川敷。そこには数多の不良達が集まっていた。「播州虎」を名乗る暴走チームが約200名、対して「三木龍」が約300名。いずれも血走った表情を浮かべ、周囲には一触即発の雰囲気が漂っていた。


「谷川先輩。一体何が始まるんですか?」

 加古川をまたぐ欄干から、不良達の様子を双眼鏡で監視するスーツ姿の二組の男がいた。

「まぁ羽生は、未だ少年係に配属されてから日が浅いから知らないのも無理はないか」

 二人は加古川署の少年係に勤務する刑事であった。

「なんですか。教えて下さいよ」

「真剣勝負さ」 

「真剣ってなんです?」

「賭け将棋さ。この勝負で不良の喧嘩の決着が付く」


 「播州虎」と「三木龍」。対立するこの二つの暴走族は、どちらも県内でも有数の武闘派としられていた。注意深く様子を観察すると、張り詰めた雰囲気の中500名近くの不良達がみな、固唾を呑んで河原に持ち出された畳の上の将棋盤の勝負の行方を見守る形になっていた。


「羽生よ。あいつ等の様子からすると、これは近年まれに見る大勝負らしいぜ」

「でも、あれだけの人数で将棋盤なんてのぞき込めないでしょう?」

「土手の方を見ろよ。奴ら実況用の大判まで用意しているぜ」

 谷川刑事が言ったとおり、土手の角度を利用して群衆からよく見えるように巨大な将棋盤が再現されていた。


 

 ◆◆◆


「アタシの将棋には、子供相手の手加減は無いよ」


 盤上に桂馬を打ち込んだ大柄の少女はそう言い放った。セーラー服に学ランを羽織って、ぼさぼさ頭。谷川タニ子十七歳。自称身長175センチ。人呼んで『マムシのタニ子』。真剣という賭け将棋の世界では少しは知られた名前だった。今日のこの勝負は、タニ子は「播州虎」の「代指し」として雇われ、将棋盤に向かい合っていた。

 この「代指し」とは、依頼されて金主に代わって賭け将棋を指す真剣師の事である。揉め事の解決や覇権を競って、金主同士がお互いに「代指し」を用意して戦う勝負事は古くから行われ、しばしば日本の歴史を大きく動かしてきたことはよく知られたことである。いまさら詳しい説明は不要であろう。


「小さいからって僕の将棋を馬鹿にするな!」


 精一杯の口調でタニ子にそう言い返した少年は、未だ小学生ぐらいであろうか。小柄な体のせいか、ひどく幼く見える。


 こいつが「三木龍」が用意した将棋の代打ちか……。


 この勝負は、二つの暴走族の覇権がかかった争いであった。当時、兵庫県内の暴走族が関連する抗争は激化の一途を辿っていた。警察官の負傷者はもとより一般人までもが巻き込まれる事態に至り、県内の武闘派である二大勢力がその抗争の終止符を打つために将棋の真剣で決着をつける事になったのである。負けた方は官憲に解散届を提出して、構成員はそのまま勝った方の傘下に入る。ごく単純な話だ。

 傘下に入ると言う事は不良としての社会的な立場を失うと言う事はもちろん、暴走族が販売するパーティー券やステッカーを一般学生に売りつけて得られる販売益、改造学生服の販売斡旋などで生まれる利益などがそのまま勝った方に取り込まれることになる。五〇〇人の不良のプライドと権力、そして金がこの将棋には掛かっていた。


 タニ子は盤上の駒の方に顔を向けながらもちらりと幼い少年の方を見た。「三木龍」がわざわざ用意した「代指し」だ。見た目に惑わさそうになるが、将棋の腕は並ではないはずだ。タニ子は、あぐらを組み直し盤面に向き合う。


「あ、あのう……お姉さん……」

「何だ?」

「……パンツ……見えそうです……」


 男の子が伏し目がち言う。いつもの改造制服のロングスカートのつもりであぐらを組んでしまったタニ子は、慌てて正座をしなおす。

 

「あのう。いつも、そんなのなんですか?」


 少年が恥ずかしそうな顔でおずおずと聞く。


「ば馬鹿野郎。今日はたまたま短いスカートを履いてきたからこうなったたげで……」

 

 真っ赤になりながら慌ててタニ子は言い訳をした。男の子にそんな顔されたら、こっちが照れてしまうじゃないか。いや、もしかするとコレも奴の心理戦なのか……いや、むしろ、こちらが色仕掛けをしたと思われてたりするのか……


 真剣師の勝負では、こうした駆け引きを始め盤外戦も重要な要素であった。相手を怒らせて冷静な判断を失わせたり、一見気弱な態度を見せつつも虎視眈々と必殺の一手を伺っていたりするのである。表の将棋のプロ棋士から見れば、時には見苦しいと言われるような手練手管も、勝たねばならぬ勝負の時には躊躇無く使う。それが真剣師であった。この加古川で真剣師の看板を掲げているタニ子も、それは十分に判っている事であった。


 自分で両頬を叩いて気合いを入れ直したタニ子は、深呼吸して冷静さをとり戻し、盤面に集中する。


 中盤にさしかかろうとしている勝負は、一見素人目にはタニ子がやや優勢の様に見えた。しかし巧妙に隠された罠が幾つも仕掛けられており、こちらを誘い込む形になっているのにタニコは気がついていた。「この子は強い」少年に対峙したタニ子は背筋に冷たいモノを感じていた。


 どうする。誘いに乗ったふりをして逆に仕掛けてやるか、それとも……。タニ子は今が勝負どころだと悟った。


「ふっ少年。あたしを誘い込もうなんて10年早ぇよ!喰らえ『ホーリー・シャイニング・ランス』っっ!」


 そう叫んでタニ子が放った駒は『香車』であった。もちろん普通の将棋では駒を打つ時に、わざわざ叫ぶ必要は無い。しかし真剣の勝負の場合、ここぞという一手を打ち込む際に大きな声をあげる事は珍しくはなかった。この声を利用して相手を威圧したり、逆に何でもない一手に「何かある」と思わせたりする心理戦が展開されるのである。こういう事は、棋力の弱い人間がやると単なるハッタリに過ぎないが、本当に実力のある真剣師が虚実を取り混ぜて巧妙に行う事で、真剣の勝負の上では恐ろしい罠として機能する。


 冷静に盤面を分析すると、タニ子が打ち込んだ『香車』は、少年が構築していた防御陣地を正面から強引に突破しようとする一手であった。おいしそうな餌を無視して、敢えて一気に一番固い防御壁に食らいつく。「マムシのタニ子」の将棋であった。確かに『香車』は「ランス」とも訳されるのだが、どこに「ホーリー」で「シャイニング」の要素があるのか?そんなことを一瞬でも考え込んでしまうと、それはもうタニ子のという事なのである。



「盤面では何か大きな動きがあった見たいですね」

 羽生刑事は、土手に設置された実況用の巨大な将棋盤を双眼鏡で覗きながら言った。

「おい。あんまり将棋の方に夢中になるなよ。俺たち警察の仕事は、あくまで不良達の動向監視なんだからな」

「はいはい」

 先輩である谷川刑事にたしなめられたものの、羽生刑事は将棋の勝負も気になっている様だ。

「おいっ。行くぞ!」

「え、もうこれで詰みですか?」

「馬鹿、勝負の結果に納得がいかない連中が馬鹿な騒ぎを起こす前に制止しに行くんだよ!」

 そう言って谷川刑事は走り出した。


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