第303話 櫻井家はほのぼの家族

  恭一郎は車で自宅を目指しながらも、どこか憂鬱だった。休みの延長が短いことがではない。田島みちるが言っていたように櫻井京子が自分から無理なスケジュールをこなしていることが気掛かりでしょうがない。


 田島の研究室は神奈川県の厚木にある。その土地を使って何をしているのかなど知る由もない。田島みちるの実績や櫻井京子の力を考えれば都心に構えることも出来るだろう。それでも彼女たちは遠く離れた場所を選んでいる。


「……何を研究しているのか……」


 学問が違いすぎるが故に理解など出来ぬとは知っている。彼女たちと自分の畑は対極にも近い。彼女が描く数式を見てもそれが何を求めるための道程で、何をするためのものかも分からない。


 櫻井恭一郎は高速を降りて、僅かばかりで路上に車を止める。


 外の空気を吸って飲み込めない自分の気持ちを誤魔化そうとする。


 それでも、彼女を思い出す――


『時間がないの……』


 何かに追われるように苦しそうに上げた声に何もできない。


『アレだけは早く解かなきゃ……いけないの』


 彼女の中で重大な問題が発生していることは間違いない。


 田島は勝ち誇って言った。


『京子自身が休みが欲しいというのなら、私は快諾しよう。彼女の裁量で彼女の判断で決めたことであるならば尊重すると約束しよう』


 彼女がその研究を始めたと思われる時から、自発的に休みを取ろうとしたことなどない。むしろ、一心不乱に熱中していると言ってもいい。何かを書きだしては消してを繰り返して髪を掻きむしるようにして唸ってばかりだ。


「そこまで何が、京子さんを……」


 それは恭一郎には分からない答え。彼は車に戻り僅かばかりに勝ち得た時間に望みを託すように家へと向かう。そして、車を降りた。家に着くともうすでに暗くなり始めていた。彼はガレージに車を止めて我が家の扉を開ける。


「なんだ……」


 家がやけに騒がしい。何か悲鳴にも似た声が上がっている。


「危ない、はーくん!」「お母さん、ちょっと静かにして!」「0.5秒後にヤツの火の玉が来るよ!」「もう来てるよッ!」「あぁあああ!」「アブなッ!」


 騒がしい部屋からは二人の声が聞こえた。恭一郎はちょっとムスッとする。息子にはお母さんは疲れているからと念を押しておいたのに協定は破られている。これは注意しなくてはと扉を開けた。


「ハジメッ!」「わぁー! 勝った!!」「やったね……はーくん!」


 自分の声をかき消す様に二人の歓声が上がったのに面を喰らって立ち尽くす。二人が抱き合って喜んでいる。おまけに部屋には手書きで書かれた謎の用紙が散乱している。


 そして、テレビではファミコンゲームがエンディングを迎えていた。


 そんなものをやっていたのかとあきれ返る。手書きの紙は京子が書いたであろう即席の攻略本。横スクロールのステージに事細かに敵の出現ポイントや消える床のなどのギミックが書き起こされている。


 息子と抱き合ってエンディングを見終えた妻の顔が、帰ってきた旦那に向く。あきれ返る夫に驚いた顔を返す。


「もうそんな時間!?」

「京子さん……」

「お父さん、おかえりなさい! 見て見て!」

「……ずっとゲームやってたのか?」

「うん! 全面クリアしたんだよ!!」


 息子は興奮気味で京子は冷や汗を流している。思いのほか時間が経っていることに驚いてるようだが、いくらアクションゲームとはいえ思考錯誤を重ねて全面をクリアするにはそれなりの時間を有する。


 息子は嬉しそうに自分の袖をグイグイとテレビの方に引っ張っていく。


「僕がクリアしたんだよ!」

「ハジメ……」


 よほどの困難に打ち勝ったのかキラキラと目を輝かせて褒めてもらえると思っている様子。父親はぐったりと疲れた顔を浮かべた。あまりにも無邪気な反応に困る。だが、大事なことはしっかり教えてあげるのが親の役目だと座って子供と目線を合わせた。


「お父さんと約束したことは覚えているか?」

「約束??」


 もうすでに何か忘れている。思い出すことも叶わないのか何かあったっけというような素振りを見せている。だからこそ父親はヒントを与える。


「お父さんが出かける前にハジメにお願いしたことがあるだろ?」


 櫻井はじめの幼児脳みそは過去の出来事を思い出す。


 父と確かに会話をしていた、母の事について。


「出かける前……」


『お母さんは疲れているから静かにしてるんだよ』『うん……』『ハジメはいい子だから、出来るよな?』『うん』


「あっ!?」


 そこで息子は思い出す。母を休ませてあげなさいと言われたことを。困って母の方を見やると母は時計を見て固まっている。休みにあてる時間をはしゃぎ過ぎて、もうすでに出かける時間の間際になっている。


 だから先程までの勢いを失くして涙をためて父に謝罪する。


「ごめんなさい……」


 約束を破ってしまったことに悲しい気持ちが湧き上がる。怒られる、怒られると脅える。不思議と目に涙が溜まる。泣き虫が騒ぐ前兆である。ひっくと肩を上下に揺らしている。


「恭一郎さん、違うの! はーくんと一緒に遊びだしたのは私なの!」

「ふぅー……京子さん」


 急いで止めに入る母に父はため息をついた。そして悲し気な瞳をおくる。


「休んでくれとお願いしたはずだ」

「……ごめんなさい」


 父親に二人して頭を垂れ下げる家族。恭一郎の心配など何も伝わっていないのか呑気なものだった。二人はゲームに白熱して楽し気に休日を自分抜きで満喫していたのだろう。想像するのは容易だ。ファミコンゲームの稀有なエンディングがそれを証明している。


「そんな二人に朗報です」


 恭一郎の挙げた声に二人の頭が上がって、注目する視線が注いだ。


「お母さんの休みが明日の朝まで伸びました」


 やれやれと恭一郎は二人に告げる。自分が頑張って勝ち取ってきた成果を。


「ほんとう!?」


 息子の表情が泣き顔からころりと喜びの表情に変わる。櫻井京子の表情も心なしか期待に膨らんでいる。恭一郎はそんな二人の反応を見て微笑み返す。


「本当だ。お父さんはちゃんと約束を守った」


 ちゃんと約束は守るんものだぞと恭一郎は息子のおでこに軽くデコピンをする。それでも息子は嬉しそうな顔のままだった。額が痛くても泣かずに笑っている。母親と長く傍に居られることが嬉しくて仕方がない様子だった。


「じゃあ、お母さんも疲れていることだし、夕飯にピザでもとるか?」

「「さんーせー!」」


 満場一致で今日の夕食が決定する。三人は笑って休日を過ごす。


 櫻井家は、どこまでもほのぼのとした一家だった。



《つづく》

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