第142話 桃缶求めて三千里
櫻井が美咲の看病を行っている間に兄は走った。
ただ、走っていた。
どこかのメロスさんの様に妹の為にひたすらに移動をしている。
どこまでも桃缶ひとつを求めて西へ西へと——
自転車を追い越し、
自動車の横を駆け抜け、
新幹線に飛び乗り休憩を取りひたすら西へ西へ、西へ。
ただ無賃乗車である。
車両ではなく上に飛び乗っている。
「ふぅー……」
だが、それも一瞬の休憩。
新幹線に乗るより走ったほうが早い。
「西へ、西へ……」
東へ向かう新幹線と西へ向かう新幹線の間に飛び降り、
「西へ、西へ……!」
線路と線路の間を駆け抜けていく。彼の行く先は決まっている。
桃と言ったら、桃太郎さん。
桃太郎さんと言えば、西。
強が目指すは先は――
「岡山、待ってろよッ!!」
もはや兄の暴走を止めるものはこの世に何もない。幼馴染が眠りこけ妹が倒れたいま、彼の行動を制御するもの、止めるものは誰もいない。
しかし、存外的外れというわけでもなかった。
岡山にも桃缶の閉鎖されている工場がいくつかあるから。
閉鎖されている理由は、
主にごく一部の狭い範囲の人たちを恐怖させている事件。
『桃缶遺物混入事件』
犯人はいまだに捕まっていない。
全国の桃缶に次々と裁縫の針や毛虫など嫌がらせが続いた。
どうして、そんなことをするかは誰も知る由もない。
それが尻にまつわるくだらない理由だとは想像もしていないだろう。
だがそれでもごく狭い一部の人にとっては死活問題。
「工場長……今日も暇ですね」
「なんでだ……なんで、よりもよって桃なんだ?」
ごく狭い人からすれば当然の理由である。
尻に似ているからというだけで死に瀕しているのだから。
「本当ですよ……ピンポイントすぎますよねー」
「ミカンもパインもあるのに!」
閉ざされた工場の隅で頭を抱える工場長と、
「なんで、桃だけ狙い撃ちなんだぁああ!!」
タバコをふかす従業員は桃の段ボールの上に座って、
「ホントっす、ね…………」
愚痴をこぼしていた。
工場の前には営業停止の看板が貼られて、
閑古鳥が鳴くように二人以外誰もいない。
工場は国の検査が終わるまで稼働が出来ない為に何一つ業務は動かない。
それでも工場の機器整備などは欠かせず、
おまけに異物を混入させられるとあれば、
警備の目的で誰かがいなければならない。
営業停止から一か月近くそんな状況が続いている。もちろん売り上げはゼロである。むしろ、従業員への給料及び設備のメンテナンス費用や光熱費などの諸経費諸々が経営を圧迫している状況。
「いつ潰れてもおかしくないっすね、うち……」
「桃缶ひとすじ……35年。わしが何をしたというんだ……ッ」
工場長は高卒での入社を経て今の地位に至る。桃缶を作る仕事に自分の半生を捧げ辛い時も苦しい時も桃缶と共に歩んだ人生。
どうでもいい情報である。
全くもってどうでもいい情報。
この話が終わったら、ぜひ忘れて頂きたいぐらいの情報である。
だが、可哀そうというこだけは覚えておいて欲しい。
彼の人生を狂わせる事件『桃缶遺物混入事件』。
何をしたわけでもなく被害者なのである。理不尽な不条理。もう転職できる年でもない。定年まであと少しといったそんな矢先に起こる倒産危機。
年金が出るまでどうしようとか、
退職金は出るのだろうかと、
色々な不安に押しつぶされている。
お先、真っ暗である。
「…………ん?」
そんな彼の頭上に凶星が輝く。
そんな彼のところへ着実に大きくなって近づいている。
「なんだッ!?」
そんな彼のもとに不吉な影が頭上から落ちてくる。
ズドーンと響く轟音。
「なんだぁあああああああ!!」
「工場長ォオオオオオオオオオ!!」
爆風が起こり視界を砂塵が塞ぐ。
未来だけでなく、今、現在もお先が真っ暗。
数ある桃缶工場の中でなぜそこが選ばれたのかは偶然としかいいようがない。
視界が戻ると見えてくるその姿は黒き髪を持つ獣。
事態が一向に飲み込めず怯える工場長を前に、
どこからともなく現れた獣は声を絞り出す。
「桃缶を……」
もう一人は工場の足に泣きながら縋りついている。
「なにものだ……お前は?」
工場長の中で突如沸き起こる感情。
——コイツが…………まさかッ!!
それは憤怒。
このタイミングでいきなり堕ちてきた
「そうか……貴様がわしの……っ」
工場長は足に着いてる部下を引きづり近くにあったスパナを手に取った。
「人生設計を……」
そうなったなら、もう振り下ろすしかない。
「粉々に…………ッ」
人生をかけた工場長の一撃。スパナによる強振り攻撃。
「全部、お前の仕業かぁあああああ!」
強の頭を襲ったスパナ。
「なにッ!?」
しかし、鈍い音を立てているが何一つ効いているようすがない。
工場長の人生の重みが足りなかったせいだろう。
もっと重要キャラであれば戦闘にも発展したかもしれないが、
所詮町工場のしがない工場長。
「くそ……ここまでなのか。わしは………」
名も無きモブの一撃など、主人公に効くわけもない。
「桃缶を……」
「――っ!」
獣が膝を地につく様子に工場長は度肝を抜かれた。
スパナで殴った容疑者が両膝を地に付けて頭を垂れている。
これは贖罪なのかと思う。
よく見れば高校生ぐらいの若い男の風貌である。
そんな若さに自分の人生が狂わされたと思うとやり切れない。ひとり息子も成人式を迎え大学卒業まであと二年。安月給でもここまで立派に家族の大黒柱として過ごしてきた工場長の誇りが熱を帯びていく。
「この後に及んで…………ッ」
もう一度のスパナを天に振り上げた。
無意味な攻撃だとしても。
「貴様ァアアアアアアア――」
35年の重みをもった審判の一撃をわが手でと。
「俺に桃缶を一つくれぇええええええええええ!!」
獣の咆哮に工場長の動きが止まった。
「…………?」
獣が土下座して懇願している。
「妹が病気なんだ……その妹がどうしても桃缶を食べたいって……!」
「……………」
涙をにじませる空から降ってきた獣の願い。
絞り出す声がどこか震えているのもポイントが高い。
それに工場長はスパナを力なく下に落とした。
「頼む……どうか……妹に桃缶を! 頼むよ!!」
単なる風邪をひいてるだけなのだが、
強の愛が深い故か熱がこもったお願いである。
「一つでいいんだ……頼むよ……!」
何か勘違いしてしまいそうなくらいである。
「美咲ちゃんに桃缶を!!」
閉鎖された工場に響く兄の切実な想い。
僅かに一滴だけ涙が地に落ちた。
「——入れろ…………」
その姿に工場の二人は言葉を多くは語らなかった。
「工場長……?」
「
「工場長!?」
勘違いから流れる場違いな感動的空気。
完全に勘違いをしている。
突然現れた目の前の兄に死にかけの妹が、
最後のお願いをしたという壮大なストーリを、
でっち上げる高卒の知能。
「工場を動かすって言ってんだ、早くしろォオッ!」
「ハイ!」
桃缶ひとすじ35年。ここで引くことはできない。
職人としての意地である。
桃缶をここまでして求めるものに悪いものはいないという勝手な思い込み。部下も工場長が出す職人のオーラに感化されてやる気満々である。
「でも、工場長、そんなことしたら国に目を付けられちまいますよ!」
嬉しそうにとんでもないことを語る部下。
「そんなもんはなー、適当な理由でっち上げて、ごまかす!」
これが汚い大人のやり方の見本である。
「さすが、工場長!!」
都合の悪いことはなかったことにするのが得策。
「坊主……少し待ってな。すぐに作ってやるよ」
「工場のおっちゃん!」
だが、優しい大人である。
「妹さんに……最高の桃缶を持ってってやんな」
その高卒の優しさに獣は涙を流した。
「ありがどう゛!」
愛する妹の為にバカな高校二年生が岡山で桃缶をめぐり涙する。
≪つづく≫
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