スナッフマンの犠牲者

枕木きのこ

1話

「昔話を聞いて欲しい。それは、世界で私だけが感じる孤独だった」


 ▼


 目が覚めると、見知らぬ部屋にいた。

 畳敷きの部屋の四隅には、蝋燭の明かりが頼りなく燃えており、部屋の全容を窺うにはそれだけでは物足りなかった。手足を縛られていることはなかったが、ダンボールが貼り付けられた窓からは、不安感をもたげさせるに十分な隙間風が闖入している。何をどう思ったところでこれは、拉致されたと考えていいだろう。


 ビュウビュウと吹き付ける外界の風が、それ以外の何の音も届けてくれないことから、どうもこの辺りは車や人が行き交う場所ではなさそうだった。山奥の廃屋といったような趣が、部屋のそこかしこからも散見される。人が離れて久しいと思わせるほど、生活感がない。きっと私を捕らえた犯人からすれば、これ以上ないほど好都合の舞台だったのだろう。


 足元から、ギギィギギィと音が聞こえてくる。それでようやくここが二階であることに頭が行った。下で、誰かが蠢いている。息を殺してじっと身を固めるが、その足音が近付いてくるような気配はない。恐らくまだ私が昏倒していると踏んでいるのだろう。いっそそのまま何も気付かず見過ごしてくれたらいい。


 押入れが在ったが、開けることは躊躇われた。何か武器になるようなものでも見つかればよかったが、階下の狂人に察知されるリスクを侵してまでそこに賭けるべきか、判断しかねる。手付かずで、とりあえずといったていで私を放り込んだのならまだしも、十全に準備を行ったうえでここに監禁したとなれば、押入れの中にそれらしい何かが隠されていることは期待しないほうがいいだろう。少なからず蝋燭を設置する程度には出入りしていると思えば、悔しいが、手詰まりと思えた。


 畳は至るところに染みが出来ていた。黒々としていて、ぽっかりと空いた穴のように私を見ている。恐らく、血だろう。それがずっと以前からあったものなのか、それとも最近に付いたものなのか、判別するには知識が足りなかった。


 そう考えてようやく、私は明確に死を意識した。


 これまでの二十五年に、何をも為しえないまま、そっと、死ぬのだろうか。

 もちろん、二十五年も生きていれば、死のう、と考えたことがないでもない。しかし外的要因によって、突発的な事故のように消えてなくなるのは、本望ではない。誰かにとって、私の存在が強烈に印象に残るような死が、何者でもない私には相応しい死なのだと、せめて死だけは特別であって欲しいと願って、これまでを生きてきたのだ。仮にここで殺されたとして、それは劇的であるのかもしれないが、もし、気付かれないまま、行方不明で片付いてしまえば、私は俗社会から逃げ出した哀れな人間の烙印を押されるだけで、涙も、嗚咽もないまま、煙にすらならずに朽ちて行ってしまう。それは、私の美学に反した。


 ここでは死ねない。

 階下の狂人がいかなる目的を持って私を拉致したのかは定かではないが、少なからず、むざむざ殺されるほど私は生易しくない。


 ギギィギギィ。


 響いてくる音に返事をしてしまわぬよう、緩慢に、身を動かす。

 行く先は押入れではない。蝋燭のほうだった。


 階下の狂人がまさしく階段を上がりこの部屋の扉を開け放った瞬間、この熱い蝋燭をぶつけてやれば、きっと相手は翻り隙が生まれる。幸い手足は自由だ。そこに追い討ちの蹴りでも入れてやれば、階段を駆け下りる程度の猶予は作れるはずだ。

 勝算で言えば五分だろう。何せ相手はこの舞台を整えた人間である。そういった危険があることを承知で蝋燭を設置しているとすれば、その対策も当然万端であると思われる。


 それでも、やることに意味がある。

 と、今は思うしかなかった。


 ソロリソロリと立ち上がる。一旦、下の様子に耳を向ける。狂人は何をしているのか、どうも行ったり来たりを繰り返しているように、ギギィギギィ、音が左右に振れている。或いは彼も、まだ心に躊躇いがあるのかもしれない。ここまで連れて来られた以上同情の余地はないが、もし良心があるのであれば、今から帰してくれるのでも構わない。

 そうだ、私は帰りたかった。


 目が覚める前、私は仕事終わりの帰路を歩いていた。大学を中退して以降、勤めていたバイト先で社員になるでもなく、それでいて勤続年数ばかりを延ばしては、貼り付けた笑顔で、同じ日をただ咀嚼するように日々を生きていた。

 新しく入ってきた大学一年生のまばゆいばかりの男の子を研修し、駅で別れてからは老いた身体を引き摺るようにしてトボトボと歩いていた。三日前から明滅している街灯。定位置で低く鳴く黒猫。全てが昨日の焼き増しのようで、次第に意識が泥濘していく。


 そのときに、背後からの視線に気付く。

 春を迎えようと言う時節に相応しからぬ、じっとりと湿った視線。このごろ、ずっと後を付けてくるいやらしい視線だった。恋人にも両親にも相談したが、気をつけなさいで片付けられていたこの事実が、急に私の意識を冴え冴えとさせたのをよく覚えている。


 今日も、また、そこにいるのか。

 相も変わらず、私を見ているのか。


 視線はいつも、一定の距離を保ったまま私の後を付いてくる。立ち止まると足音も止む。私の足音に重ねるゲームでもしているかのように、ぴったりと纏わり付いて来る。

 迎えを頼めばよかった、と思う一方、ここでこのストーカーに殺されれば私の死は世間でも取りざたされるかもしれないと考えている節もあった。自殺願望があるわけではなかったが、生きているとどうも常に意味を欲する。それに終止符を打つための、絶対的な意味を、背後のストーカーが齎してくれるなら、それもそれでいいかもしれないと、考えていたことも、事実ではあった。生きていても気付かれないような人生ならば、いっそ、というところだ。


 しかしストーカーは、決して近付いてくる気配はなかった。もちろん、まばらでこそあれ人の往来もあり、ここで一気に距離をつめたところで相手に利点があるとも思えなかったが、どっちつかずの追いかけっこをこれから先も続けられるなら、ここで全てに句点を付けてくれていい。


 そのような馬鹿らしい考えが届いてしまったのかどうか、人波は絶え、それに気付いたときには足音はリズムを速め、後頭部に激しい痛みを感じたのも一瞬のこと、私はうまれて初めて意識を失ったのだ。


 きっと今、家では恋人が私の帰りを待っている。待ちきれず警察へ駆け込んでいるかもしれない。私がここにいることを示す痕跡は、どこかに残っているだろうか。それまで、時間を稼ぐことが出来るだろうか。


 ようやく、蝋燭の近くにたどり着いたとき、そこに在った異質なものに、私の視線は奪われた。

 ジィーという音は、微かではあったがはっきりと聞こえた。無機質に蝋燭の揺らぎを反射させるレンズが、私の顔を、うっすらと飲み込んでいる。


 それを見つけて私はようやく、この階下の狂人にひとつの心当たりを得た。

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