第四章 背信
その日、サクラが作戦会議の場に選んだのはいつもの二階の部屋ではなく、アサナも含めた全員が集まった一階での夕食の席だった。
「コハクが、フィギュアの大規模な集落を発見してくれたわ。これを殲滅し、決戦の誘いにいつまでも乗ってこないハルシュタインを挑発する」
「集落?」
首を傾げるユウナに、コハクが得意げに答える。
「あのね、コハクが見つけたのは敵の穀物栽培プラントなの~」
「ちょっと待ってです!」
立ち上がったのは、普段は作戦会議に呼ばれさえしないアサナだった。
「殲滅って……そもそも、その集落に住んでる人形達は非戦闘員のはずです! それって虐殺じゃないですか!」
「アサナは黙っているんだ」
「ひせんとーいん? ぎゃくさつ?」
ユウナは顔をしかめ、コハクはきょとんとしている。そしてサクラは、冷淡に一蹴した。
「戦時において非戦闘員など存在しないわ、アサナ。ここで栽培された穀物がフィギュア兵の糧食となっているのであれば、なおのことよ」
「しかし……それなら敵にとっても戦略的に重要な拠点だろう。守備隊の戦力はどのくらいだった、コハク?」
既に戦うことに思考を切り替えたユウナが質問する。
「あのね、それがね、守りは手薄ってほどじゃないけど大したことなかったの!」
「中隊規模か……よし」
ユウナは近頃、コハクの幼い表現の翻訳に自信をつけていた。
「明朝叩こう。罠である可能性も考慮して、編成は僕とコハクだ。いいね、サクラ?」
「是非も無いわ」
ユウナ、コハクが頷く。ただ一人、アサナが俯いたまま。
卓上で組んだ手に隠れたサクラの口が、にやりと笑った。
その夜。家中が寝静まったのを確認して、アサナは床を抜け出した。足音を忍ばせて玄関に向かう。途中、ユウナの眠る部屋の前を通り過ぎる時、アサナは足を止めた。
「ユウナ……」
どのくらいそうしていただろうか。意を決して忍び歩きを再開し、そしてアサナは玄関を出た。
庭には、アサナが世話をしてきた温室がある。
戦を嫌い、家を出なかったアサナに、留守の間の寂しさが紛れるようにと花の種そして温室を建てるためのガラス板を集めてきてくれたのは、ユウナだった。どちらも、この世界では滅多に手に入らないはずのものだった。以来、ユウナが出かけている間、アサナは汚染されていない水を与えて花達を可愛がり、ユウナの帰りを待った。だがアサナはその温室にも別れを告げることなく、闇にまぎれて『園芸部』の表札を通り過ぎた。
向かう先は、サクラ達が言っていたフィギュアの集落。正確な位置はわからないが、おおよその方角はサクラ達の会話から掴んでいる。
「知らせなきゃ、です……!」
アサナはほとんど駆け足で廃墟を進む。
今日まで守り養ってくれた皆への、裏切り行為。たった今自分が出てきた家への恩義が、繰り返しアサナをそう責め立てる。
サクラ達は……ユウナは、自分がこれからすることを許さないだろう。
いや、許されなくても構わない。
アサナは気付いていた。戦いに赴けば赴くほど、他の人形達を殺せば殺すほど、サクラの命令で業を重ねるほどに、ユウナの横顔に刻まれた陰影が深く濃くなっていくのが。
大切な双子の妹に、これ以上の苦しみを背負わせはしない。
自分がいなくなったことに気付いたサクラ達が追いかけてこないか後ろばかり気にしていたアサナは、前方への警戒を怠っていた。
カッ!
複数のサーチライトが、アサナの立つ場所を昼よりも明るく照らし出す。
「そこの人形、止まりなさい!」
鋭い声とともに、小銃を手にしたフィギュアの兵士達がわらわらと駆けてきて、たちまちアサナを包囲した。
突然の展開にアサナは戸惑う。まだフィギュアの集落までは遠いはずだ。何故ここにフィギュアの軍隊が? とにかく、集落が攻撃されることを知らせて、逃げてもらわないと。
「あの、アサナは、伝えたいことがあって……」
「小隊長殿、こいつ瞳の色が左右非対称です!」
アサナが必死で話しかけるのを遮って、兵士の一人が叫んだ。
「本当だわ、師団長から通達のあった通りの、青と紫の瞳……ということは、こいつがシザーマン? ハルシュタイン十字勲章ものの大物が、私達の前に現れるだなんて!」
「……でも、なんか聞いてたほど強くなさそうですね」
「いいから捕えろ! 抵抗する場合は射殺して構わないわ!」
「ちょっと、ま、待って欲しいです!」
狼狽するアサナに、兵士達が一斉に銃を向けた時だった。
「……地面が、揺れてる?」
兵士の一人が呟いた。間をおかず遠くから、地鳴りのような音。次第に大きくなっていく。
「9時の方向、イノシシ型モンスター群! 数、数えきれません!」
激しい揺れに、廃墟が崩れていく。まるで山が動いているようだ。横一列にもうもうと上がる土煙の向こうに、赤く光る無数の瞳。あれは、標的をターゲットしたモンスターの目だ。
「馬鹿な、ここはモンスターの湧かないフィールドのはずよ! どうして!」
小隊長フィギュアが喚く。アサナは首を振る。以前、ユウナが話していた。トレインと呼ばれるMDK……モンスターを使って他の人形を殺す方法を。まず自分がモンスターの群れに見つかり、後を追わせてヘイト値を稼いだ後、他の人形に擦り付ける。
しかしイノシシ型は、直進に限ってはかなりのスピードを出すモンスターだ。人形の足では走ってもすぐに追いつかれ、攻撃されてしまうはず。それをここまで連れてくることが可能なのだろうか?
巨大なイノシシ達が濁流のような地響きを上げ、突進してくる。その鼻先に、アサナは飛翔する物体を捉えた。
モンスターではない。人形だ。人形が翼を広げ、モンスターを引き連れて空を飛んでいる。
「退避、退避―っ!」
フィギュアの兵士達がアサナを放置して、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。怒りの咆哮を上げながら、イノシシの一頭がアサナの眼前に迫った。踏み潰されることを覚悟して固く目を瞑ったアサナの身体が、ふわりと浮き上がる。
「あれ……アサナ、飛んでるです?」
風が頬を叩き、身体が加速していく。恐る恐る目を開けると、アサナを掴んで飛ぶ人形がぎろりと睨んだ。
「その瞳。その瓜二つのボディ。貴女、シザーマンを知っているわね」
だがその問いかけは、アサナの頭には入らなかった。こうやって翼で空を飛べるDOLLを、アサナは知っている。
「ホタルじゃないですか! 生きてたですか、久しぶりです!」
「……初めて会うのに、何故私の名を」
ホタルは、怪訝そうな表情を浮かべる。イノシシが、斜め横から跳躍してくる。
「まあいいわ、質問に答えなさい。貴女はシザーマンを……ユウナを知っているわね?」
ホタルは大きくはばたいて、一気に高度を上げた。イノシシの牙が際どいところでガチンと鳴らされ、遠ざかる。風の抵抗が強くなり、アサナはホタルにしがみついた。
「知ってるも何も、ユウナは双子の妹です、忘れたですか? それから『貴女』じゃなくてアサナです、全く、失礼なのは相変わらずです」
言い過ぎたかと少し反省する。ホタルはたった今、フィギュアの軍隊から自分の命を救ってくれたのだ。
「ま、まあ助けてくれたことには感謝しなくもないですが……」
「やはり、瞳を分けた姉妹というわけね」
アサナを掴む手に痛いほどの力を込めて、ホタルは初めて笑みを浮かべた。
「貴女は、シザーマンをおびき寄せる生き餌よ」
ぞっとするほど、暗く冷たい笑みを。
翌朝。サクラが二階の寝室でコハクに運ばせたアーリーモーニングティーを楽しんでいると、階段から廊下を走る音が近付いてきて、扉が乱暴に開け放たれた。
「おはようユウナ。レディの部屋にノックもなしで入るのは感心しないわね」
「アサナがいなくなった!」
「あらあら」
ティーカップを傾けながら、サクラは密やかに嗤う。
普段は岩のように動じず、巨大な鋏とともに武名を轟かせ他の人形達から恐怖の代名詞となっている『シザーマン』が、らしくもなく動揺を隠せないでいる。それほどまでに大切なものらしい、あの愚かで優しい双子の姉が。
「足跡を追ったんだけど、途中で消えている。イノシシ型のモンスターが大量に通り過ぎた跡があって……やられたわけではないようだけど」
「まあ落ち着いて。貴女は予定通り、フィギュア集落の攻略に向かいなさい。アサナの捜索はコハクと、それから私が手分けして行うわ」
飲み終わったティーカップをコハクが持つトレーに戻し立ち上がると、ユウナがやや驚いた表情をする。
「サクラが……? 探してくれるのかい?」
「失礼ね。私だって外に出ないわけじゃないわ。普段は貴女達を信頼して任せているだけよ。貴女の大切なお姉さんだもの、必ず探し出してみせるわ。アサナのことは私とコハクに任せて、安心してお征きなさい」
「サクラ……」
サクラが優しい微笑みを浮かべながらそう言うと、ユウナは感じ入ったようにサクラの顔を見つめて、深く一礼した。
「君を誤解していた。感謝する」
ユウナが退出してから、サクラは肩をすくめた。
「どうやら愚かなのは、妹も同じみたいね」
「これで、何もかもサクラの思惑通りなの?」
横に控えるコハクが呟いた。
「アサナは、これまではユウナを従わせるための枷として役に立つから生かしておいたけど、いい加減邪魔になってきたところだし。最後の役目として、私が考えた最高の舞台の幕を開けてもらうわ」
「舞台?」
「そうよ。左右非対称の瞳を持ったあの子が、ユウナの取り逃がした有翼の亡霊に見つかったら、どうなるか楽しみね。……さあコハク、私達も出るわよ」
外出用のステッキを持ち、扉に向かいかけたサクラは、コハクの問いかけに振り返る。
「サクラ、何を始めるつもりなの?」
「グランドクエストよ」
片頬を笑みの形に歪ませて、サクラはそう答えた。
「グランドクエスト?」
「そうよ。この世界から『ログアウト』して理想郷とやらに行くためのゲームなのだと、貴女の妹はそう言っていたわ。まさか知らないの?」
イノシシの群れをやり過ごし、廃墟の片隅に二人は降り立っていた。壁だけになった建物を背にして、砂塵を避ける。
アサナは首を傾げた。確かにそんな言葉を、サクラやユウナが口にしていたような気がするが。
「ふん。貴女が知ろうと知るまいとどうでもいいわ」
ホタルはアサナの目の前で、両刃の剣を一振りした。
鋭い風が巻き起こり、アサナの前髪が何本か切れてぱらぱらと落ちる。
「そんな狂ったゲームに巻き込まれて、私の仲間は首を落とされた! ……ずっと独りで生きてきたその子が、馬鹿な私の言葉に惑わされて、他の人形を信じようと希望をもった矢先にね」
突き付けられた剣に悲鳴を上げかけたアサナは、ホタルの表情に息をのんだ。歯をきつく食い縛り、眉間には深い谷が刻まれている。震える声で、ホタルは続ける。
「彼女の無念を知るのは私だけよ。あの子がこの世界に存在したことを、私だけは忘れるわけにはいかないのに、思い出すのは変わり果てた亡骸ばかり……その記憶も、やがては消えてしまう。それが、たまらなく怖い」
ホタルは、それまで背中に縛り付けていた物を下ろした。一挺のヴァイオリンだった。
「だから、それまでに何としても、あのシザーマンに復讐する。必ずこの手で殺し、骸が朽ち果てるまで見届ける。それが終われば、双子の片割れである貴女も殺して、この世界にあの子の存在を刻むの」
傷だらけの手で、ヴァイオリンを撫でる。失われた何かを、悼むように。
有翼のドールの瞳は、深い絶望の色に染まっていた。
「……そのヴァイオリンは、どうしたんです?」
ホタルに対して他に言いたいこと、言わなければならないことは沢山あった。しかしアサナには、そう訊ねずにはいられなかった。
「貴女には関係ないわ」
「見たところ、弦が切れて弾けなくなってるです?」
構わずにヴァイオリンの弦を指差す。ホタルはしばし無言になった。そのヴァイオリンの持ち主のことを、そのヴァイオリンが壊れた時のことを、思い出しているようだった。
やがて、ぽつりぽつりと呟いた。
「これは、あの子が生きた証。私とあの子が心を通わせた証。けれど、壊れてもう弾けない。もう響かない。あの子から教えてもらった大切な音も弾けないまま、きっとそれも、私はいつか忘れて……」
それ以上は聞いていられなくて、アサナはヴァイオリンをひょいっとかすめ取った。
「……っ! 返しなさい!」
一瞬の自失の後、必死にとり返そうとするホタルを押しとどめて、アサナは小物入れから巻かれて輪になった糸状の物を取り出した。
「盗ったりしないです。待ってるです、いま直してあげますから」
「……何よ、それ」
ホタルが手元を覗き込んでくる。
「ナイロンっていう、化学繊維の糸です。前に、ユウナがお土産に弦楽器をくれたんですが、弦が切れてて。いつか修理して弾いてみようと思って、持ってたです」
「修理……貴女、壊れた物を直せるの?」
ホタルの目に、僅かだが光が戻っていく。
そのことが嬉しくて、アサナは無邪気に微笑んだ。
「……そういえば、さっきは何故あんなところを一人でうろついてたの?」
座ってヴァイオリンの弦を張り直しているアサナを壁にもたれて立ったまま眺めながら、ホタルは訊ねた。アサナに向けていた剣は、いつの間にか下ろしていた。
「ええとですね、アサナは確か、ユウナ達がフィギュアの人達の住んでる集落を襲うって言ってたから、襲われる前に避難してもらおうとして……ああっ、しまったです、知らせに行かないと!」
慌てて立ち上がろうとするアサナに、今まで忘れていたのかと呆れながらホタルは教えてやった。
「それなら心配要らないわ。トレインして飛んでくる途中、フィギュアの大部隊が展開しているのが見えたから。貴女を捕まえようとしていた兵隊は、ほんの一部よ」
「え……」
「集落を襲うって情報がフィギュア側に漏れたのか、あるいは最初から罠だったのか。貴女の妹は嵌められたのよ。まあ、あのシザーマンに限ってやられることはないでしょうけど。なんにせよ、貴女が心配しているフィギュアの非戦闘員は、とっくに避難を完了しているはずよ」
アサナが複雑そうな顔をしている。無理も無い。
「それより貴女、まさか仲間でもない人形達を助けたくて、実の妹や同族を裏切ったの?」
ホタルが訊ねると、意外なことにアサナは首を横に振った。
「裏切りに見えるかもしれないです。けどアサナは、フィギュアに味方したつもりじゃないんです。ユウナ……サクラとコハクだって、昔は今とは全然違ったです。でも世界がこんな風になってから、長い戦いの中で少しずつ、顔や目つき、言うことまで変わっていったです……アサナはもう、大切な仲間達に変わって欲しくないんです」
「そんなの、ただの貴女の我儘じゃない。フィギュアとDOLLが互いに武器を向け合っている現状では、無益どころか有害な思想だわ。貴女って馬鹿ね」
アサナは頬を膨らませた。
「……ホタルからは、昔も馬鹿だって言われたです。馬鹿って言う人が馬鹿なんだっていくら言っても、聞いてくれなかったです」
「だから人違いよ、貴女と会うのは今日が初めてだわ」
アサナは困ったように微笑むだけで何も答えず、化学繊維の糸を張る作業に集中する。
自分の記憶が不確かなのはわかっていた。このDOLLと、過去に親しい間柄だった可能性はある。それなのに否定するのは、戸惑いの裏返しだったのかもしれない。
少なくとも今は見ず知らずのDOLL、それも憎い仇の身内なのに、少し会話しただけで気がつけば剣を下ろしている自分がいる。決して憎んでいたわけではないセシリア達ですら、躊躇いなく斬ってここまで来たというのに。
不思議だ。このアサナというDOLLと一緒にいると、調子が狂わされる。
レンゲを亡くしてから独りで過ごしてきた反動か。弱い心が、想いを胸に閉じ込めておくことに耐えきれなくなったのか。
だとしたら、それはレンゲへの裏切りだ。
ホタルは、剣を握る手に力を込める。
彼女はシザーマンを呼ぶ餌だ、人質に使うわけではない。ならば何も生かしておく必要は無いのだ。おかしな情がわく前に、いっそ……!
「これで良し、と。直ったですよ、ヴァイオリン」
アサナの明るい声に、ホタルはびくりとした。
艶やかな新しい弦が張られ、往時の姿を取り戻したヴァイオリンが差し出される。
礼を言わず受け取ると、無意識のうちに指を当てていた。
軽く弾く。指が弦を振動させ、木製の共鳴胴が増幅させ、音が零れる。途端――
――ホタルにも弾いてみて欲しいんですの。
気付いたら腕の中にヴァイオリンがあった。触れる木の表面は、不思議と温かかった。
――レンゲが教えてあげますの。
レンゲの手が、ホタルの手に重なる。
――ふんふふふ~ん♪ ふんわり黄色い卵焼き~♪ お砂糖いっぱい入れたいけれど~お砂糖無いから蜂蜜どばどば~♪
口いっぱいの、甘ったるい卵焼きの味。二人で過ごした家の温かな雰囲気。
そして。
――ありがとう、ホタル。レンゲに希望をくれて。
覚えてる。思い出せる。次から次へと、レンゲと過ごした時間が、交わした言葉が瑞々しく甦ってくる。
視界が滲んだ。自分の目に涙が溢れ、滴っていることに、ホタルはすぐには気付かなかった。
「信じられない……一体どんな魔法を使ったのよ、アサナ」
壊れ、塵になっていくばかりのこの世界で、何かを直せるというのは、それだけで奇跡のようで。
「壊すだけが、DOLLじゃないです」
それがアサナの答えだった。
そして、その短い言葉だけで、ホタルはアサナというDOLLがどんな存在であるかを理解できた。
自分達が、DOLLもフィギュアも、あらゆる人形が、日々の糧となるモンスターを狩るため、他の人形が邪魔になればそれを滅ぼすために血道をあげて殺しの技術を磨いている間、アサナのように何かをつくり、育み、明日へ繋げる生き方をしてきた者もいたのだ。
この手で殺めた、セシリア・リープクネヒトやディータ・イル・マヌークの顔が浮かぶ。もし……もし、人形達が協力し合っていたら、人間の文明が滅びたこの世界で新しく、殺し合いとは別の何かを築けたのではないか。シザーマンの言っていた
「それより嬉しいです。ホタルさっき、アサナって名前で呼んでくれたです」
アサナが、朗らかに笑っている。その笑顔が、記憶の中のレンゲに重なった。
レンゲは、許してくれるだろうか。このまま復讐を忘れ、アサナと一緒に……。
ホタルは、気付くのが遅れた。
高速で飛来する、紅い針に。
「かはっ」
アサナが笑顔のまま、ぱたりと倒れた。
「……!」
ホタルは反射的に飛び退き、壁の残骸に身を隠し周囲を警戒する。
地面にうつ伏せになって動かなくなったアサナの首筋に、針のような細く薄紅色をした何かが刺さっている。その一刺しで、アサナのライフはゼロになった。苦しまなかったのが、せめてもの救いだ。
アサナ……大切なものを取り戻してくれた。
レンゲを亡くしてから初めてできた、心をふるわせてくれる存在だった。
仲間になれたかもしれなかった。
でも、全てはまた過去形になった。束の間の希望は、この廃墟と砂塵の中で叶わぬ夢となり、そして。
「アサナッ!」
紅い針が飛んできたのとは反対の方角から、叫び声とともに駆けてくる者がいる。
ああ、この声。
ホタルの心中を満たしていた悲しみが、一瞬で吹き飛ぶ。とって替わるのは、より深く根を下ろした憎悪、凝固した殺意、宿敵に再会できる喜び。
「シザーマン!」
ホタルは、歓喜の咆哮を上げ、剣を抜き放った。
空気に混ざる微かな異臭を嗅ぎ取った時には、既に包囲されていた。軽油の臭い、エンジン音、大地を削る履帯の振動。
大気を震わせる砲声。ユウナの周囲に次々と着弾し、廃墟を砕き、大地を穿つ。
廃墟に紛れ巧妙に掩蔽されて息を潜めていた鋼鉄の猛獣達が、一斉に牙をむいた。
戦車。ドルフィー・フィギュア連合が切り札とする、エンシェントウエポンだ。
だが、その数は限られており、運用には高度な技術が要求されるため扱える兵も限られている。最も新しいコハクの偵察情報では、戦車隊は都市廃墟の瓦礫に阻まれ、北の平野で足止めを食っているはずだった。それが、短期間で都市廃墟のこんな奥深くまで?
しかも、偶然の遭遇ではない。戦車隊は明らかに待ち伏せていた。
まるでユウナがフィギュアの集落を襲うことを、予め知っていたかのように――
至近距離に砲弾が落ち、細かい金属の破片がユウナの手足に突き刺さる。
「……っ!」
直撃は避けられても、飛散する破片や爆風はユウナのライフを削り続ける。確実に命中させる必要のない、ロングレンジでの面制圧攻撃。ユウナとは致命的に相性が悪い。
敵の懐に入り込み近接戦闘に持ち込めば、ユウナにも勝機はある。しかし、先に向こうに発見されあちらの射程で一方的に砲撃されている現状は、あまりに歩が悪い。
ユウナは、久方ぶりの撤退を余儀なくされた。
執拗な砲撃によるダメージを蓄積させつつ、大昔に倒壊した高層建築物が複雑に折り重なったエリアに逃げ込みどうにか追手を振り切って、角を曲がり、そこでユウナの足は凍りついたように止まった。
道の先、見知ったエプロンドレスが地面に広がっている。そこから覗く、DOLLの肢体にも見覚えがあった。世界で唯一無二の、同型のボディに瞳を分けた双子の姉。
「アサナッ!」
ユウナは大声で叫んでいた。低く重い声は、気付けば高く上擦っていた。叫んで駆け出す。
アサナ、どうして。
昨日の夕食後の作戦会議。フィギュアの非戦闘員が暮らす集落を攻略することに反対するアサナを、ユウナは頭ごなしに黙らせただけだった。自分は戦いのことで頭がいっぱいで、アサナの様子がおかしいことに気付けなかった。予兆はあったはずなのだ。あれが、最後の会話になってしまうなんて。
運が悪かった。普段サクラは、アサナのいる前で作戦会議をしない。どうしてあの時に限って……いや、サクラは悪くない。僕のせいだ。僕が気を利かして、アサナを別の部屋に連れて行っていれば。あるいはアサナが家を抜け出す時に、気付きさえすれば。
わかっている。地面に倒れたあのボディは、既にライフを全損させた残骸だ。これまで見てきた、沢山の残骸と同じ。
彼女は死んだのだ、感傷に浸るのは止めろ……心の中で普段の自分が、冷静にそう告げている。ユウナに、膨大なキルスコアを積み上げ強さを証明し続ける冷徹な殺戮マシンに戻れと。
それでもユウナは、目の前の死にまるで実感がわかなかった。だってアサナは、希望なのだ。この世界で自分にとっては唯一の。アサナがいなければ、意味がない。そうだ、きっと今にも起き上がって、明るく手を振って――
「シザーマン!」
物言わぬ亡骸の後ろに、人影が躍り出て、ユウナの渾名を呼んだ。
両刃の長剣を構える、金属の翼を生やしたDOLL。漆黒の長髪を振り乱し、口は裂けるような笑みを浮かべ、血走った目は殺意を剥き出しにしている。
「久しぶりねぇ、シザーマン……本当の名前はユウナだっけ? まあ、どっちでもいいわ。で。なぁにぃ、これがお前の大切なものだったのぉ?」
有翼のDOLLは、靴の爪先でアサナの亡骸を指した。
「……君が、アサナを殺したのか」
低く呟く。ユウナのその言葉を聞くや、有翼のDOLLは何がおかしいのか、くふふっと身をよじらせる。
「だとしたら、どうするのぉ?」
「君を、殺す」
頭の芯が熱くなっていく。考えるより先に、身体が動く。構えた鋏を両手で身体の後ろいっぱいに引き絞り、跳躍する。空気を割き、唸りを上げて。アサナを殺した仇を両断するために。
「……君が、アサナを殺したのか」
問うというよりは確認するように、シザーマンはホタルにそう言った。
「ふふふ、あははははは!」
いつかどこかで見た光景だ。それがたまらなく滑稽で、どうしようもなく愉快で、ホタルは笑いを堪えられなかった。アサナを殺したのは自分ではないと正直に話す選択肢など、思いつきすらしなかった。
シザーマンが全身の重さを乗せ、大剣ならぬ巨大な鋏を打ち下ろしてくる。引き戻した剣で受け止めると眩いほどの火花を散らし、重い衝撃に両腕が痺れる。さすがの重さだ。だが、この重さも双子の姉を亡くしたこいつの狂おしい怒りと憎しみの衝動なのだと思うと、むしろ快感に思える。
それに、剣の重みなら、もう負けない。
あの日から、この瓦礫の街で、モンスターの死骸で己の墓標を築くかの如く剣を振るってきた。ディータ・イル・マヌークという異能のモンスター使い、そしてセシリア・リープクネヒト……尊敬すべき力と技を持った彼女達と文字通りの死闘を繰り広げ、彼女達に鍛えられた剣なのだ。
ホタルの顎をめがけ、シザーマンの鋏が跳ね上がる。ホタルは鋏の先端に意識を集中し、寸前で身体を捻り、鋏をかわした。一瞬の硬直を生じさせたシザーマンに、斜めから鋭い斬撃を叩きこむ。シザーマンは完全には見切れなかったようで、切っ先が肩をかすりダメージを与えた。
攻守が逆転する。ホタルの雷閃のごとき連続攻撃を、シザーマンが鋏で食い止める。速さだけではなく重さを伴った剣に、あのシザーマンが次第に押されていく。
「どうしたのぉシザーマン、この前より動きが鈍いじゃない。鋏さばきにもキレがないわぁ」
嘲りながら観察すると、シザーマンの全身に細かい金属片が突き刺さっている。手負い? そういえばこいつは、フィギュアの軍隊の包囲を抜けてきたのか。できれば本調子の状態のこいつを仕留めたかったが、贅沢は言うまい。単純な作業、こいつの首を落とすだけだ。こいつがレンゲにしたのと同じように。
「……君と戦うには、このくらいのハンディが丁度いい」
左右非対称の瞳には、ホタルへの明確な殺意が宿っている。
「いいわぁその目、そうこなくっちゃあ」
ホタルは口許を獰猛に歪ませて笑った。きっとあの日の自分も、こうだったのだろう。制御し切れていない殺意のおかげで、こいつの鋏の軌道が読める。ああ、楽しい。今この瞬間が本当に楽しい。
「どう、大切なものをなくした気分は?」
瞳を血走らせ、限界まで加速された感覚にブーストされて、ホタルは通常時をはるかに上回る速度で剣を振る。自分の目にすら、操る剣が残像になって見える。
「心に穴が開いた気分は? 希望も未来もなくなって、もう二度と幸せな昨日に戻れなくなった感想は?」
「……黙れ」
シザーマンが横薙ぎで、ホタルの胴を狙う。
「自分の言っていた御託を覚えてる、シザーマン? 怨恨で戦う者は醜いと言ったわね。今日を生きる者のために戦う自分を、私は倒せないと言ったわね。どう、醜くなった気分は?」
「黙れ」
翼を広げ、地面を蹴る。ぎりぎりのところで鋏をかわし、直後に降下してシザーマンが両手で握る鋏の柄に蹴りを入れる。あの日、シザーマンがホタルの足を払い、とどめをさそうとしたように。
シザーマンは鋏を落とし、姿勢を崩した。
ホタルの顔から、嘲りの笑みがすっと消える。
「お前と私は、同じものよ」
鋏を失った。咄嗟にサブウエポンの帽子を投げようと頭に手をかけて、ユウナは帽子が既に無いことを思い出した。
あのレンゲというDOLLを倒した時に、壊されていたのだった。
こんなところで、一矢報いられようとは。
翼のDOLLが、空中で剣を振りかざす。彼女の復讐を果たすために。
この人形の変わりようも、誤算だった。
翼を生やし空を飛べるようになったことは、驚くべきことではあるが変容の表層に過ぎない。
深い皺が刻まれた険しい目。あの未熟で頼りない少女のような面影は、もうどこにもない。
そして剣。ユウナと初めて斬り合った時から今日までの短い間に、それなりに密度の濃い経験を積んだようだが、それだけでは到底説明のつかない剣技の上達、というより変質。本来、昨日今日剣を振り始めたばかりの者に、何百万時間も戦い続けてきたユウナが敗れるはずがないのだ。
まるで、背中を裂いて翼が生えたあの時を境に、何かが憑依したかのような……あるいは、本来の力を、取り戻したかのような。
ユウナは最後に、地面に横たわるアサナへ想いを込めた視線を送る。
自分の命に、執着は無かった。ただ、アサナに生きて欲しかった。
家に保管された写真というもので、理想郷の光景をサクラに見せられたことがある。空は青く澄んで、雲は白く高く、大地は地平線まで緑に覆われ、清らかな水が流れ、そして花が咲き乱れる世界。アサナは草花が大好きなのに、この世界で自分に用意できたのはあんな狭い温室だけだった。あの理想郷でアサナが幸せに暮らせる未来のために、サクラに従い、今日まで自分は――
しかし。今わの際に、ユウナは気付いてしまった。
アサナの亡骸に突き刺さる、針のように細く巻かれた、薄紅色をした桜の花弁を。
「ブリザーブドチェリーブロッサム……?」
風切り。翼のドールの剣が、ユウナの首へ向けて振るわれる。
「何故だ……何故だサクラ! 僕達姉妹は膝を折り、君に服従してきたじゃないかっ!」
ユウナの表情が、驚愕そして憤りへ変わる。翼のドールは微かに眉をひそめるが、剣を止めようとはしなかった。
頼む、仇を。
そう唇を動かしかけて、ユウナの頭は斬り飛ばされた。
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